第13話


「お、じゃあOKもらえたのか」


「ああ、ばっちりだ」


 勇介は右手で昼食のパンを食べながら左手で英語の単語帳をめくっていた。


「あとは全国1位をとるだけだ。俺はやるぞ!」


「そうだな。にしても、受験勉強もろくにしてなかったお前がそんな熱心に勉強するなんて驚きだよ」


「受験に受かっても何もないからな。でも今回はでかい報酬がある。俺は何としてもバラ色の高校生活を手に入れるんだ」


 勇介は喋りながらも一度も単語帳から目を離さない。


「彼女はそのこと知ってるのか?」


 相変わらず友人に囲まれている冷泉の方をちらりと見る。


「ああ、言ってないけど多分知ってると思う。家でのことなんて全部筒抜けだからな」


「最近感覚麻痺してるけど、やっぱやばいよその状況……」


「まあ、今が辛いほど勉強のモチベーションも上がるってもんよ。とっとと1位とってこの生活ともおさらばだ」




「もちろん知っていますよ」


 帰り道、人気がなくなると冷泉はおもむろにそう言った。何を、とは聞くまでもない。もう分かっていたし驚きもしなかった。単語帳をパラパラとめくりながら帰路を辿る。


「知ってるなら話が早いな。お前にとってもチャンスだからな。応援してくれよ」


「そうですね。まあ1位がとれたらですけど」


「とれるさ」


「……期待しないで待っています」


 冷泉はそう言った後ため息をついた。

 単語帳から冷泉に視線を移した時には冷泉は既にいつもの無表情で、そのため息の理由は窺い知れなかった。




 勇介はその後も猛烈な勢いで勉強を続けた。これまで眠っていた授業もしっかりと受け、テストにない科目の時間は机の下で参考書を解いた。

 かつてないほどの勢いで勇介の脳内に大量の情報が濁流のように流れ込む。その負荷に耐え切れず、勇介の脳の防波堤は決壊してしまった。


「おい!勇介!おい!」


 体育の時間だった。智也の声が次第に遠のいていく。身体に力が入らず、腹に張り付く体育館の床がひんやりとして気持ちよかった。




 目を覚ますと仄かな薬品の香りが鼻腔をついた。白いカーテンに囲まれたベッドの上。遠くから聞こえる部活動の掛け声。来たことはなかったが雰囲気でそこが保健室だと分かった。

 ゆっくりと身体を起こす。時計の短針は5と6の間を指していた。体育の授業は昼前だったから、6時間ほど眠っていたことになる。


「目が覚めた?」


「はい」


 黒い影が近づいてきてカーテンを開けた。保健の若い女の先生だった。


「最近ろくに寝ていなかったでしょう。だめよ、いくら勉強熱心でも休みはちゃんととらないと」


「……すみません」


「まあ、テストは明日だし今更でしょうけどね。もう身体はだるくない?」


「ええ、多分」


 首や肩をぐるぐると回す。やや重い気もするが倒れる前よりはだいぶ楽になっている気がする。


「それなら良かった。それじゃ、私は職員会議に行くからここで休むなり帰って休むなりしなさい」


 何だか雑だなあと思いつつ、去っていくサイズの合っていない白衣の陰にお礼を言った。ドアが音を立てて閉まる。

 再びベッドに寝転んだ。


 まさか自分が勉強のし過ぎで倒れるなんて、と自嘲気味に笑った。

 これまではなまじできるが故、そして向上心のなさ故にこんなに勉強に全力で取り組んだことはなかった。いや、勉強以外にも。唯一全力で取り組んでいたのが恋愛で、その『全力で取り組めること』を取り戻すために俺は今勉強で全力を尽くしている。考えてみるとよく分からない状況だ。先生はああ言っていたが、ここまで来て休むつもりは毛頭ない。

 眠ってしまってだいぶ遅れた。帰ってからは寝ずに最後の詰めをしなければ、と勢いよくベッドを降りた瞬間だった。フラフラと足が揺れて、視界も歪む。体のバランスが崩れた。


「大丈夫ですか」


 ベッドと反対方向に倒れそうになったのをいつの間にか現れた冷泉の腕に支えられた。ドアの開く音はしなかったし、いつからいたんだこいつは。


「ああ、ごめん。少し立ち眩みしただけだ。ていうかいつからいたんだ」


「ずっといましたよ。たまたま死角に立っていたから気づかなかっただけです」


「そうなのか。何か怖いがありがとう。助かったよ」


 冷泉は外に向かおうとする勇介を軽々と持ち上げてそのままベッドに下ろした。いや、落とした。


「いてー」


 勇介は腰を抑える。何をするんだ、と言おうと冷泉の方を見ると、目の前にビニール袋が突き出された。


「食べてください。最近食事もろくに摂っていないでしょう。食事係から報告が来ています。食べて、今日はしっかり休んでください」


 冷泉は相変わらず淡々とした口調で言う。しかし与えられたのは確かな優しさだ。こいつもこんなことができるんだなと少し驚いた。


「ありがとう」


 ガサガサと袋の中を見ると、おにぎり2個とお茶が入っていた。冷泉はガラガラとうるさい丸椅子を持ってきてベッドの傍に座った。


「お、鮭と明太子だ」


「坊ちゃまはいつもそれ食べてますから」


「さすが、四六時中監視してるだけあるな」


「まあ、嫌でもそういうのは詳しくなりますよ」


「ありがとう。でも、これで勉強の計画は台無しだ。悪いな、監視はまだ続けてもらうことになりそうだ」


 勇介は家や教室でやりかけになっている参考書たちを思い出す。もはや取り返しはつくまい。大人しく諦めよう。黙々とおにぎりをかじっていると、冷泉は急にスッと立ち上がって保健室から出て行った。

 何だろう、いくら冷泉でもさすがに何も言わずに帰ることはないだろうけど、と考えていると、冷泉は俺の鞄を持って戻ってきた。

 中から参考書を取り出す。


「直方体OABC―DEFGは……」


 冷泉は俺が解いている最中だった問題を読み上げる。休めと言いながら俺の勉強にこいつなりに協力してくれているのだろうか。驚いて思わず呆けてしまう。


「分かりませんか」


 相変わらずの無表情。だが、俺は何だか泣きそうになってしまった。


「……いや、驚いただけだ。ていうか、読み上げるのに図形問題かよ」


 予想外の優しさに何だかくすぐったくなって、思わず悪態をつく。


「文句言うなら辞めますよ」


「ああ、ごめん!もう一回読んでくれ」


 冷泉は問題を読み上げる。俺が問題を解くと正解です、と抑揚なく言って、分からないとこんなのも分からないんですかと罵倒してきた。しかしその後に分かりやすく解説を加えてくれる。こいつなりの優しさに俺は甘えることにして、冷泉の罵倒に耐えながら問題を解いていった。


 しかしやはり遅れを取り戻すことは叶わず、仕方ないと割り切ってその日は食事を摂って早めに眠った。




 翌日のテスト当日、俺は休息のおかげかこれまでにないほど頭の調子が良かった。思考がクリアで、洗練された感じだった。これならいける。朝もしっかりと最後の復習をしてテストに臨む。数問分からなかった問題もあるが、それでも今までにない手応えを感じていた。




「うそだろ……」


 2週間後、返ってきたテストの結果を見て俺は驚いた。平均点97点。ケアレスミスがいくつかと、SNSで炎上するほどの超絶難易度の問題が解けなかっただけだ。普通なら1位でもおかしくないはずだ。なのに。


「なんでこの点数で3位なんだよ……」


 結果の用紙を持つ手がプルプルと震える。


「いやあ、先生は鼻が高いよ。このクラスに全国1位と3位がいるんだから」


 担任はニコニコしながら言う。


 1位がこのクラスに? 


 きょろきょろと見回すとクラスの窓際最後尾、冷泉の席に人だかりができていた。すごいすごいという声が惜しげなく浴びせられている。そんなことないよと謙遜しているのは冷泉だった。

 ……全国1位は確実にあいつだ。


「全教科満点?あの問題も解けたの?」


 そんな言葉が聞こえてきて、とうとう力も入らなくなってしまった。


「それに二ツ橋君が全国3位でしょ?すごいよ。天才カップルだ」


 勇介はそんなクラスメイトの言葉に渇いた笑いで返した。


「まさか一番の強敵が冷泉さんだったなんてな。同情するぜ」


 智也が勇介の肩を叩いて慰めた。




 帰り道に冷泉を問い詰める。


「お前、監視やめたいんじゃなかったのかよ」


「やめたいですよ。でも、だからといって手を抜くのは違うと思いまして」


「まあそうかもしれないけどさあ。お前がもう少しミスしてくれれば、もしかしたら俺が1位だった

かもしれないだろ」


「いえ、どのみち無理でした」


「? なんでだよ」


「だって私、同率1位ですから」


「は? てことはもう一人全教科で満点のやつがいるのかよ」


 冷泉はこくりと頷いた。


「まあ、満点をとるためにまずケアレスミスをなくすことですね。坊ちゃまも普段からコツコツ勉強しておけばそういうミスが少なくなりますよ」


「普段からコツコツね……」


「そうすれば倒れる心配もありませんし」


 冷泉はつんとした態度でそう言った。全国1位、恋愛解禁の夢は潰えた。今度は敵がいないと思ったら、またしても立ちふさがったのはこの憎い監視係だった。

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