第2話
「え、調査?」
俯いたまま黙っていた勇介は父の発した単語に驚いて顔を上げた。
「そう、調査だ」
コンコンと背後の扉がノックされた。
「入ってくれ」
勇介が後ろを振り向く。扉を開けたのは、眼鏡をかけて黒いスーツを着た、いかにも仕事のできそうな女性だった。髪はショートで、化粧気がないものの美人だった。しかし目が冷ややかで口角が下がっていて、真顔なのだろうが怒っているようにも見える、性格がきつそうな大人の女性、というのが勇介の抱いた印象だった。
「この方は?」
勇介が父に尋ねると、スーツの女性は自ら自己紹介をした。
「二ツ橋グループ、侍女の冷泉麗(れいぜいうらら)です。先月からこの本家でお世話になっております。坊ちゃまの前に顔を出すのは初めてですね。初めまして、よろしくお願いします」
冷泉と名乗る侍女は抑揚のない声で答えて機械的なお辞儀をした。勇介も会釈する。
「彼女はお前と同い年だ。そして既に侍女検定1級を取得している」
「侍女検定?」
同い年ということにもやや驚いたが、その後の聞き慣れない言葉の方が引っ掛かり、勇介は首を捻る。
「侍女検定とは、二ツ橋グループが独自に作った資格試験の一つです。二ツ橋グループは社長の技量もさることながら、創成期から常に優秀な侍女に支えられてその規模を拡大してきました。
そこで次世代を担う優秀な侍女を育てるために開発されたのが侍女検定です。
秘書としての役割をこなす能力はもちろんのこと、家事や育児、果ては密偵から法律スレスレの薬品の調合まで、侍女として必要な能力全てを問われるのが侍女検定です」
「なんだそれ……」
解説を聞いても分かったような、分からないような感じで、勇介の頭は混乱した。父はうんうんと頷いていた。
「彼女は平均取得年齢26歳の1級を、若干12歳、史上初めて小学生で取得した天才侍女だ」
「恐れ入ります」
冷泉は控えめにお辞儀をした。
「そんな優秀な彼女に、この2週間、お前の身辺調査をしてもらった」
「え!?」
勇介は動揺した。
身辺調査というのが具体的にどういうものかは分からないが、ここ最近はずっと彼女達と会っていた。恐らくというか確実に、彼女達とのことはばれているだろう。
まずい。
勇介は父の厳格な性格を知っていた。浮気なんてもってのほかだ。それが7股ときたら、俺はどうなってしまうだろう。想像するだけでも恐ろしかった。
「では、調査結果の報告を頼む」
父が言うと、冷泉は頷いて抱えていたファイルを開いた。
彼女が何を言うか気が気ではなかった。
背中にじわりと嫌な汗が滲んだ。
「はい。今回の調査、坊ちゃまの成績不振の原因の調査という名目でしたのでその原因を突き止め、原因とみられる事項についての詳細な調査分析をして参りました」
勇介は冷泉が話している間、ジッと冷泉を見ていた。睨んでいたと言ってもいい。視線だけで、余計なことは言うなよとサインを送っていた。しかし冷泉は気づいているのかいないのか、手元のファイルから視線をそらさない。
「坊ちゃまの成績不振の原因は、お付き合いしている彼女達との関係性にあると最初の3日で結論付けました」
「彼女、達?」
「おい!彼女は関係ないだろ!」
勇介は父の疑問をかき消す様に大きな声をあげた。
冷泉は勇介を疎ましそうに一瞥したがすぐにファイルに目を戻して報告を再開する。
頼むからこれ以上7股を匂わせるようなことを言わないでくれと願った。
「そこで、坊ちゃまの女性関係について詳しく調査しようと思いました。しかしやはりそういった間柄の方々をのぞき見するのはいかがなものかと思い、一度社長にご連絡させていただきました」
冷泉の至って常識的な思考に、勇介はうんうんと頷いた。そうだ、覗きは倫理的に良くない。と、自分の7股を棚に上げて。
「プライベートな部分なのでいささか気が引ける、と相談したところ『気にしなくていい』とあっさり許可が下りたため坊ちゃまと彼女との交際に関する調査を実行しました」
父の裏切りに勇介は父を睨んだ。父はさすがにばつが悪いようで、目を逸らした。
「調査を始めて4日目から、坊ちゃまの制服、私服につけた盗聴器で会話の内容の記録を開始。同時に追跡も行いました」
「盗聴器?追跡?」
サーッと血の気が引いていく。
完全にばれているじゃないか。
勇介は今も盗聴器がついているのではないかと思い服を調べるが、それらしいものはない。
「その服に取り付けていたものはすでに回収済みです」
冷泉は蚊よりも大きく、ハエより小さいくらいの黒い装置を勇介に見せた。あんなサイズでは気づくわけがない。
……ということは、自分と恋人たちとの会話を全て聴かれていた?
あんなこともこんなことも?
勇介は自分の恥ずかしいセリフの数々を思い出して膝から崩れ落ちた。彼女たちのために、勇介はどんな言葉でも惜しむことなく言ってきた。しかしまさかそれを他人に聴かれていたなんて。
今すぐにでもここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。そしてとうとう冷泉は、勇介が一番知られたくなかった部分について、詳細に語り始めてしまった。
「私が確認したところ、坊ちゃまは少なくとも7人の女性と親しい間柄にあり、生活のほとんどの時間をその彼女達とのコミュニケーションに割いておりました。
外では塾をサボり彼女達と過ごし、家に帰ってからも食事と入浴以外の時間はほとんど全てを彼女達とのメッセージのやり取り、あるいは電話に費やしておりました」
「……今の報告は本当なのか?」
父がデスクから乗り出す様に勇介に尋ねる。
しかし勇介は答えない。
顔を手で覆い隠したまま、もはや黙秘を貫く気だった。父の表情は窺い知れないが、その声色には明確な怒気が滲み出ていた。
「……彼女との会話をしている最中の坊ちゃまは普段より知性が失われているように見られました。他人が聞くに堪えない猫撫で声で、今どきドラマでも言わないような恥ずかしいセリフをいくつも発していられました。
これも坊ちゃまの成績不振の原因と判断しましたので、一部抜粋して挙げさせていただき」
「やめてくれ!!」
勇介は冷泉の行おうとしていた鬼のごとき所業に、黙秘を破って資料を奪い取ろうと飛びかかった。
勢いよく右手をファイルに伸ばすが、冷泉は向かってくる勇介の手をあっさりと掴み、手首を向いてはいけない方向に捻じった。
「痛い!痛い!ギブ!ギブでお願いします!」
勇介が左手で自身の腿を叩いて宣言すると、冷泉はあっさりと手を離した。勇介は真っ赤になった手首にふーふーと息を吹きかける。
どんな怪力だこいつ。
「それでは報告の続きを」
冷泉が資料に目を落としたタイミングで隙を見てもう一度手を伸ばす。しかし再び返り討ちに合い、手首がゴリゴリッと音を立てる。
「ギブギブ!無理!死ぬ!」
今度はギブアップ宣言をしても離してはくれなかった。容易く勇介を組み伏せ、資料を淡々と読み上げた。
「1つ目。1週間前の発言です。りんたんがいないと俺は明日を迎えられない。僕にとっての明日はりんたんだから(原文ママ)」
「やめてくれ……」
勇介の目は潤んでいた。色々な痛みが同時に襲い掛かる。
「この言葉から坊ちゃまの他者依存による主体性の欠如が見られます。このままではやがて勉強以外にも支障をきたす危険性があると考えられます」
冷静な分析が勇介に余計にダメージを与える。
手を拘束され顔を覆うこともできない勇介はひたすら目の前にあるワインレッドのカーペットの一点を見つめていた。
「2つ目。俺のちひたんへの気持ちは、愛しているなんて安い言葉では表せない。僕たち専用に新しい言葉を作る必要があるね(原文ママ)」
「わあ!わああ!わあああ!」
勇介は大声を発して冷泉の言葉をかき消そうとした。しかし抵抗むなしく父には冷泉の言葉が届いていたようで、父は悲しいような虚しいような、複雑な表情を浮かべていた。
もはや怒りを通り越して俺を憐れんでいるのかもしれない。
「この言葉から坊ちゃまの語彙力の欠如が見られます。ちなみにこの言葉を聞いた近藤千尋様もこの坊ちゃまの発言にはやや引いているように見られ、そのことに気づいていなかった様子から坊ちゃまの理性の欠如も窺えます」
「ちひたん……」
彼女からも引かれていたという情報が止めとなり勇介は大粒の涙を流した。なぜ自分がこんな目に、と普段信仰もしていない神を理不尽に憎んだ。
「では3つ目。これは彼女との会話ではなくこの家のメイドとの会話です。ちょうど芸能人の不倫報道が騒がれており、そのテレビを見たときの坊ちゃまの発言です」
「やめてくれ……」
「二股って、何がいけないのかな(原文ママ)」
「あああ!」
勇介は冷泉が言い終えると同時に叫んでカーペットに頭を打ち付けた。このまま死んでやろうと思ったのだ。しかし一発目の頭突きが思った以上に痛く、二回目以降はやや優しめに打ち付けていた。
「この言葉はもはや考えるまでもありません。彼女達との交際で坊ちゃまは倫理観までもが壊れかかっているのです。他にも多数ございますがどうなさいますか?」
「いや、もういい。ありがとう」
父も苦悶に満ちた表情をしていた。まさかここまでの報告が来るとは思っていなかったのだろう。
「……もう一度聞く。今の報告は本当なのか?」
父の心配するような声色の問いかけに勇介は心が苦しくなった。ヘッドバンキングが止まる。
「勇介、答えてくれ」
父に肩を叩かれて、勇介は開き直った。
「ああ!本当だよ!7股していたよ!!」
勇介の怒号にも似た叫びが書斎に響いた。
父はため息をついて頭を抱えた。息子をこんな風にしてしまったのは自身のせいでもあるのだ、と親として責任を感じていた。
「勇介、お前には一週間以内にすべての恋人と別れることを命じる」
父の言葉に、勇介は絶句した。正気を疑うような目でジッと父を見つめる。
「そんな。一週間以内なんて無理だ!」
「無理でもなんでもやれ!一刻も早くそんな関係終わらせろ。必要なら私も出向いて一緒に謝罪する!もし1週間以内に別れられなかった場合は私一人でも各家に出向く!」
「そんな。それは」
親に浮気のことを謝らせるなんてこんなに悲しいことはない。
父は本気だ。
やるしかないのだと勇介はようやく悟った。彼女たちの顔が頭の中に浮かんでは消えて行った。
「冷泉くん」
「はい」
「引き続き息子の監視を頼む」
「かしこまりました。失礼いたします」
冷泉はようやく勇介の拘束を解いて静かに書斎を去って行った。
「勇介。お前のためでもあるんだ」
今なお項垂れている勇介に優しく声をかけた。
しかし勇介の耳には何も届いていなかった。フラフラと立ち上がるとゾンビのように歩いて書斎を後にした。
食事も摂らず風呂も入らずベッドに倒れこんだ。
スマホを見る気力も湧かなかった。
メッセージ受信の通知が鳴り続けている。今日はれんたんと電話する約束だったか。メッセージが届けば届くほど別れる難易度が上がっている気がして、勇介はとうとう電源を切った。
どうすれば別れられるか。あるいは別れずに済むのか。考えながら、気づいたら眠ってしまっていた。
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