青春の壁

山奥一登

第1話

「俺は!恋がしたいんだ!」


 男子トイレに響くその絶叫は欲望に溢れていた。

 彼、二ツ橋勇介は毎日のように叫んでいる。それは自身が置かれている絶望的な状況に心が折れないように自分を励ます意味もあったが、禁断症状のようなものでもあった。


彼は恋愛に依存していた。


「できるといいな」


 勇介の絶叫に用を足しながらドライな返事をするのは橋本智也だ。最初は親友の突然の絶叫に戸惑い、必死に励ましていた智也だったが、何回も聞かされているうちに慣れてしまった。


「あいつさえいなければ、俺は今頃クラスの女子と、他クラスの女子とも、先輩とも、キャッキャウフフなバラ色高校生活を歩んでいたはずなのに」


「また何股もするつもりだったのかよ……」


 トイレの壁にもたれかかってすすり泣く親友の無様な姿にため息が漏れる。


「全部全部あいつのせいだ。俺をいつも監視しているあいつさえどうにかできれば!」


 勇介は恨めしそうに言って拳を握った。




 3か月前にさかのぼる。


 二ツ橋勇介、中学三年の2月末のことだった。

 既に受験を終えて結果を待つのみとなった勇介は恋人の野原美紀と夕方、近所の公園で語らっていた。まだまだ寒波が猛威を振るっており、吐息が白くなるような気温だ。勇介と美紀は暖をとるため、そして愛のために小さなベンチに身を寄せ合って座っていた。


「ゆう君、寒くないの?」


「寒くないよ。だって、みきたんに貰ったこのマフラーがあるからね」


 勇介はところどころほつれた手作りのマフラーを愛しそうに撫でた。


「ふふ、そんなに気にいってくれて嬉しいな。でも、やっぱりマフラーとタンクトップだけじゃ寒いでしょ」


「そんなことないよ。このマフラーに込められたみきたんの愛が、俺を際限なく暖めてくれるから」


「そっかあ。ゆう君が暖かいなら何日もかけて作った甲斐があったよ」


 二人は語尾の全てにハートがつくような甘ったるい声で語らっていた。街灯の明かりだけが二人を照らしていた。


「あ、そろそろ門限だから帰らなきゃ」


 スマホを見て美紀が悲しげに言う。


「もうそんな時間か……。みきたんといるとあっという間に時間が経っちゃって驚くよ」


「私も。幸せな時間はあっという間に過ぎるね」


「またね」


「うん、また」


 二人は抱き合い、名残惜しそうに優しい口づけを交わして何時間も座っていたベンチを後にした。美紀を見送った勇介は、彼女が見えなくなったところで小さくくしゃみをした。鼻をかむと手持ちのポケットティッシュが底を尽きた。素早くマフラーを外し鞄に入れ、綺麗に折りたたんでおいた学ランを羽織って彼女とは反対方向に歩き出した。


『はーい!』


 インターホンを鳴らすとすぐに声が聞こえた。


「来たよ」


 インターホンのカメラに向けてそう答えるとすぐに家の中でドタドタと騒がしい足音が聞こえる。ドアが開くと、彼女は俺の姿を確認して犬のように思い切り飛びついてきた。


「ゆう君!来てくれたの!」


「うん。ちょうど塾の帰りだったから」


「そっかあ。わざわざありがとね」


「いいよ、別に。俺もリカたんに会いたかったし」


 二人はジッと見つめ合い、きょろきょろと辺りを見渡して誰も見ていないことを確認してからキスをした。

 その後1時間ほど、勇介はリカの家の前で他愛もない会話をした。


「じゃあ、そろそろ行くね」


 勇介は頃合いを見てリカと別れた。リカは別れ際寂しいと泣いていたが、またすぐ会いに来るよと言って何とか宥めた。彼女が家に入ったのを見てから、はあと大きなため息をついた。学ランを着たとはいえ下はタンクトップだけ。薄着には変わりない。勇介は寒さで指先が痺れているのを感じながら歩き、やっとの思いで家にたどり着いた。


「ただいまー」


 玄関で呼びかけると、複数の足音が聞こえてくる。


「お帰りなさいませ、坊ちゃま」


「ああ、ただいま」


 勇介を出迎えたのはこの家の侍女達だった。勇介の家には侍女が15人いる。

 勇介の家は世に言う富豪だ。現在世界的大企業となった二ツ橋グループを作ったのが勇介の先祖であり、現在は勇介の父が社長を務めている。一人息子の勇介ももちろんその後継ぎとして育てられており、幼少期から様々な英才教育を受けてきていた。


「お食事とお風呂、どちらもご用意が済んでおりますがどちらから?」


「いや、とりあえずどっちもいい。塾でやったことを早く復習したいんだ。二時間くらいで済ませるから、それまでは部屋には近づかないでくれ」


「かしこまりました」


 侍女たちは一歩下がってお辞儀をする。軍隊のように、キッチリと揃った動きだった。



「ふう」


 勇介は自室に戻るとすぐにポケットからスマホを取り出して耳に当てた。呼び出し音が一回鳴り切る前に相手とつながった。


「もしもし、あかりたん?ごめん、少し遅れた」


『ううん、大丈夫だよ。ゆう君忙しいから仕方ないよ』


「そうなんだ。家が厳しくって、やっと時間がとれた。でも今から2時間はあかりたんだけの俺でいるよ」


『ありがとう、ゆう君』


 勇介はあかりとケーキのような甘ったるい会話をした。聞いていた人が胸やけを起こすような、凶暴な甘さだった。


「うん、じゃあまたね。愛してるよ」


 勇介は電話を切るとスマホをベッドに放り投げて自室を出た。食事と風呂を手早く済ませて再び自室に戻る。


「もうお眠りですか?」


「いや、また勉強してから寝るから、悪いけどまた部屋には近づかないでくれ。おやすみ」


 侍女にそう言って勇介は部屋の鍵を閉めた。

 ベッドの上に放り出されたスマホを手に取ると通知が複数件来ていた。その中から1つを選び、通話ボタンを押して耳に当てた。こちらも息つく間もなく繋がる。


「もしもし、かなたん?」


『もう、ゆう君遅いよ』


「ごめん、ちょっと習い事で遅れちゃって」


『そうなの?それなら仕方ないね』


「うん。でもかなたんと電話するために全部終わらせてきたから朝まで話そうね」


『ほんと?嬉しい。ありがとう』


「当然だよ。だってかなたんは僕の最愛の彼女だからね」


 勇介はベッドに寝転がり、かなと電話をしながら別の彼女たちへメッセージの返信を続けた。

 7人。

 勇介がこの時付き合っていた女の子の人数である。

 学校の同じクラスに1人。近くの学校の同い年が3人。以前部活で一緒だった高校生が2人。他県の後輩が1人。勇介はこの7人にバレることなく同時に付き合い続けていた。勇介の生まれつきの器用さ、冷静な分析による一人一人の性格の理解と恋人のためなら惜しげもなく恥ずかしいことでも何でもするという方向性のずれた誠実さがあってこそなせる業だった。


 勇介は正真正銘のクズ野郎だった。


最初は一人の彼女と誠実に付き合っていたのだが、交際中に別の女子に告白された。断るべきなのは分かっていたが、勇介の中にこの子の気持ちにも応えてあげたいという想いが生まれた。自分なら二股もできる、両方愛せると判断した勇介はその告白も承諾する。そして二股の、ばれたら終わるというある種のスリルに病みつきになり、その後何股できるかというのを試したくなった。そこでそれ以降の全ての告白をOKしたところ、7股になったのだ。




「坊ちゃま、社長がお呼びでございます」


「父さんが?分かった。ありがとう」


 翌日、最後の登校日を終えて彼女3人と会ってから帰宅すると珍しく父に呼ばれた。

 だだっ広い玄関を抜けて長い廊下を歩いた。勇介が父と会うのは数か月ぶりのことだった。

 ずっと海外に出向いていて帰ってきていなかったはずだ。今日帰ってきたのだろうか。いつもなら家にいても一緒に食事をするくらいなのに、わざわざ呼び出すなんて何か大事な用でもあるのだろうか。

 あれこれ考えているうちに父の書斎に着いた。ノックを三回する。


「入れ」


 父の低い声が扉越しに聞こえた。


「失礼します」


 勇介の父の書斎はまるで校長室のようだった。壁には二ツ橋グループ創業以来の社長たちの写真が立派な額に入れられ掛けられており、デスクまではワインレッドのカーペットが敷かれている。広い家の中でも父の書斎だけは異様な緊張感を放っており、勇介にとっても侍女にとってもやや近寄りがたい場所となっている。勇介は足を踏み入れてすぐに、いつもより部屋の空気が張りつめていることに気が付いた。そして恐らく自分は怒られるのだろうと悟った。恐る恐る口を開く。


「お久しぶりです。父さん」


「ああ、久しぶりだな。……今日はなんで呼び出されたか分かるか?」


 父の声色と口ぶりから怒られることを確信した勇介は内心ため息をつく。なんとなく想像はついていたものの、もし父が別のことで起こっているのだとしたら藪蛇だ。分からないと言った方がいいだろうと考えた。


「……いいえ」


「1か月ほど前に、全国模試があったみたいだな」


「はい。ありました」


 やはりそのことか。1か月前に行われた全国模試、勇介は全くと言っていいほど手応えを感じなかった。その結果が郵送でもされたのだろう。


「これが結果だ」


 父はプロジェクターを使ってテストの結果を俺にも見えるように投影した。

 国語78点、数学82点、英語90点、理科・・・。平均83点。全国順位127位。平均以上の点数ではあるし、順位もそこまで悪くはない。しかしかつて全国トップ10常連だった勇介にとってはとてもじゃないがいい出来とは言えなかった。


「お前は小さい頃から優秀だった。勉強も運動もできたし、習い事をさせればすぐに上達した」


 父は昔を懐かしむように虚空を見つめた。ゆっくりと椅子にもたれると、ぎい、と軋む音がした。


「しかし最近はどうだ。中学に上がってから何度目かのテストで、少し成績が落ちたな」


 勇介は頷いた。

 彼女が初めてできた時期だ。勉強よりも彼女といることを優先した結果の低落だった。


「まあ仕方あるまい。勉強の難易度も上がるし、そういうこともあるだろうと思って何も言わなかった。そこから徐々に落ちていって、今回また急激に落ちたな」


 勇介は俯いた。7股になり、受験もあったことでテスト向けの勉強が完全にできなかった故だ。


「さすがにおかしいと思った。あれだけ優秀だった我が子が、こんなに成績を落とすなんて、何か原因があるのではないかと思い調査した」


「……え、調査?」


 勇介は冷や汗をかいて息をのんだ。ここから、勇介の順風満帆7股生活は終わりを告げる。

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