第4話 9年前

 トイレから出て、床で掃除しているロボットを蹴飛ばさないように避けた。

 廊下を歩く長谷川理子の後ろ姿を見る。同じクラスの彼女はほんの少しだけ、浮いていた。

 次の授業は美術で、係の私は彫刻刀やらを授業後にしまうように先生から頼まれていた。

 授業が終わった後、並んだ箱の前に立つ。1人で出来る量だが多いなと思った。一箱目を持ち上げて隣にある準備室に向かう。

 廊下を歩きながら、窓の外の各々移動している制服達を眺める。今日は心地よい風が吹いていた。窓から見える昼下がりの空も、年季が入った準備室も、綺麗に撮られた写真のようで全部がうそみたいだと思った。

 ずっと、流れていく景色を見ているようだった。

 藍色の制服に着いた木屑をはらう。

 どうもがいても遠く過ぎ去っていく今が好きだった。

 箱を置いて美術室にもどる。

「私、手伝うよ」

 特に仲が良かったわけでもないのに寄ってきたのが理子だった。

「ありがとう」

 美術室にはもう彼女しかいなかった。

 理子は絵に描いたような優しさを持っている人間だった。

 全部運び終えると手がぱさぱさして、部屋の流しで手を洗った。

「あれ、蜘蛛いなくなってるね」

 さっきの授業中、少し騒ぎになっていた。流しの中に5センチくらいの蜘蛛がいて、見つけた男子が潰そうとした。動く蜘蛛にあまりにわーきゃーうるさいので先生が怒り、蜘蛛はそのままになっていた。

「さっき逃したんだ」

 隣で手を洗いながら理子が言った。

 チリトリとほうきで窓から出したのよ、とそのまま笑う。

「虫得意なの?」

「全く、見るのもぎりぎりくらい」

「苦手なのに頑張ったんだね」

 蜘蛛の姿を思い出すと、ぎりぎりの人がするにはハードルがだいぶ高いと思った。

「虫って脆いでしょう? 脚が沢山なのも気持ち悪いと感じるけど死なれることの方がだいぶ嫌なんだ」

 そう言ってぶるっと体を震わせた。

「思い出すだけでもほら、鳥肌」

「わ、ほんとだ」

 理子の腕を見て笑った。

「どうして気持ち悪く感じるんだろう。 自分と違うものに嫌悪するようにできてるのかな」

 ハンカチで手を拭きながら理子が言う。確かにあの嫌悪感は特別だ。

「危ないから本能で近づかないようにしてるのかもね」

 理子は両腕をさすりながら、私、理性では虫に友好的なんだけどな、と笑った。

 理子には彼女しか持っていない空気があった。私はなぜかこの日から理子に懐かれていた。彼女の話は面白かった。

 一緒に帰るようになった頃。放課後の教室で、目に入った理子のノートは異様に書き込みがあった。

「理子のノートこんな丁寧だっけ」

 理子は最後に真っ直ぐ線を引いてからマーカーを筆箱にしまった。

「みこちゃん早退したからさ、ノートいるかなと思って」

 みこちゃんとは理子も私もよく話すクラスメイトだった。2限の授業中に保健室に行った。血の気がない顔を見てみんな心配を口にしていた。

「優しいね」

 理子が人が少ない教室に目を上げた。ノートを閉じて帰り支度をする。

「優しくないんだ、それが」

 誰も私達の会話を聞いてる人はいなかった。渡り廊下を通って下駄箱に行く。うちの高校は横に長い校舎が2列に並び、西と東にそれぞれ渡り廊下があった。西を使うことが多かった。

「私あの子のこと心配してないの、だからその代わりにノートを書いてるのよ」

 理子は生きるのが下手だった。

 渡り廊下の少しじゃりっとした地面を歩く。一階部分はそのまま中庭に出られた。

「私は優しくないからその代わりに優しいことをしてるの。 分からないからそうするって決めたんだ」

 偽善者の自覚ありよ、と言ってふふっと笑う。

「アウトプットが全てでしょ、過程なんて見えない」

 私の言葉に理子がそうだねとこちらを見た。彼女はいつも優しくあろうとしていた。

「わ、ヒナに餌やってる」

 理子が扉の上を見上げて言う。毎年ツバメが巣を作っているようだった。西側だけでも泥が固まったような巣が4つついている。

「下踏むよ」

 すーっと飛び立つ親ツバメを見て歩く理子の袖をひく。巣の下には段ボールが敷いてありふんが重なっていた。

 理子は通るたびに通るたびにツバメを見守っていた。

 理子は優しかった。


「どこに飾ってあるんだっけ」

 夕方の、人がまばらの廊下で理子の横顔に聞く。

「視聴覚室の前だよ」

 部活で理子が描いた油絵は少し暗い突き当たりにあった。額に入った、細かく描き込まれた絵が目に入る。

「ほめて」

 理子が私の顔を見て嬉しそうに言った。

「すごいよ、1番いい」

 彼女の描くものには全部に意味があって、根底で全部が繋がっていた。

 入り組んだことばかり考える彼女の中身が綺麗な色になって出力される。彼女が生きた一瞬が保存されていた。

 理子はこだわったところや時間がかかったところを指を差しながら話した。私は彼女の話を聞くのが好きだった。

 その日の帰りは視聴覚室から近い、いつも通らない方の渡り廊下を通った。ここにも空になった巣があった。この頃には中庭には若いツバメが飛び交っていた。

 地面についたふんを踏まないように跨ぐ。

「みんな巣立ったんだね」

 そう言った私に中庭を見ていた理子が口を開いた。

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