第32話 仕様制限限定解除

 声に出す必要は無かったのかもしれない。だが結果的に、踏み出すあたしを引き留めようとした甲斐さんに、若干の躊躇を与えだようだ。

 

「千尋……? お前今、解除って……?」 

「甲斐さんがどういう理由でこの場に立っているのか、全部は分からない、けど……」

 

 つくもがみは散らばっていた糸を掃除機で吸い込むように猛スピードで引き寄せる。何束にも撚られたそれは、さながら干支の辰のようだ。

 

「恩返しに、幾つも理由は要らないですから」

 

 3、いや4つか。螺旋状に蠢きながら、糸の集合体はあたしを潰そうと襲ってくる。

 マフ太に変化は見られない。正直、この物量の攻撃をいなすイメージは出来なかった。

 マフ太はあたしが指示を出すまでもなく、1つ、2つと弾き飛ばしていく。3つ目が、マフ太にしめ縄のように巻き付き、ギリギリと締め上げる。

 

「千尋! 駄目だ!!」

 

 覚悟はした。向かって来る4つ目を、決して目を逸らさず見ていた。

 

 

 ……瞬きをしても、それはまだあたしへ到達しない。

 

「動きが……止まった?」

 

 甲斐さんの呟き通り、つくもがみはエンストした車みたいに、満足に動作出来なくなっていた。

 原因は分からない、これが解除された仕様の影響なのかもしれない。それよりも、この千載一遇のチャンスを生かそうと、あたしはマフ太を掴んで、思いっきり攻撃するように指示を出そうとした。でも……

  

「マフ太……!」

 

 動けなくなったのは、マフ太も一緒だった。生地はへなへなになり、ぐったりとボロ雑巾のように転がっていた。首元に巻き付いていた部分は、あたしに必死にしがみついていたことに、今気付いた。 

 風が頬を撫でる。その風圧は、再び動き出したつくもがみから発生された物だった。

 

「ごめん、ごめんね……」

 

 マフ太を信じ切れなかった自分のせいだ。誰に言われなくとも、直感で理解した。もう少し速く、制限解除していれば……。

 

「後悔は終わってからじゃぞ」

 

 萎れた声から、それが年配の方から発せられたものであることは明白だった。

 振り向くより先に、あたしを押し潰そうと落下してきた糸が、まるで雪みたいにパラパラと降り注いできた。

 

「申し訳ない……! 勅使河原君をいて、遅れてしまった」

 

 外山さんが体を支える、白衣を着たその人物に、あたしは見覚えがあった。そして、甲斐さんの表情から、この人が菜花であることは確実だった。

 

「菜花さん……すまねぇ……!」 

「フォフォフォ、あたしのことを考えてくれているのは分かるんじゃが、無茶はいかんぞよ」

 

 バラバラになった糸が、まるで生気を失ったように地面に散らばる様子に、衝撃を隠せない。一体、何したの?

 ストン、と菜花さんの正面に、箒が柄を下にして突き刺さる。前に会ったときも、この箒を持っていたっけ。

 箒を杖代わりに、菜花さんはあたしの横を通り過ぎる。その際、ポンポンと、お尻を叩かれた。

 

「お主の作った1秒が、皆を救ったのじゃ」

 

 労いの言葉は、あたしの出番は終わりであることを意味していた。こんなお婆ちゃんに、本当にあれが倒せるの?

 

「……俺は、菜花さんに戦ってほしくない。でも、矛盾するかもしれないけど、もう安心してる自分がいる……」

 

 甲斐さんは悔しそうだが、同時にバカ傘を手放している。それが、お婆ちゃんの実力を何より証明していた。

 菜花さんは、竹箒の穂先をぶちりと一本毟り取る。驚くことに、躊躇なくそれを口に入れたのだ。 

 

「ゲホ……!」

「え、え!? 大丈夫なんですか?」

「もう年だから……」

 

 あるのか分からない歯を懸命に動かし、ゴクリと飲み込んだ。

 

「よいか、新人ちゃんよ。しっかり見ておくんじゃぞ。つくもがみ同士の戦いは、最初っから全力だぜ」

 

 口調の変化は、目の前の光景に比べれば些細なことだった。曲がっていた菜花さんの腰は、みるみる真っ直ぐピンと伸びていき、にゅるにゅると髪の毛が伸びていく。これは若返り、だよね?

 

「菜花さんのつくもがみは、時を流れを払うんだ」

 

 拡張仕様は、こじつけが過ぎるとは思いませんか?

 ちらちら見える横顔が、めちゃくちゃ美人で、あたしはそれが気になった。

 自らの糸を無力化、おそらく時を戻されてしまったつくもがみは、隙だらけの菜花さんに何もアクションすることが出来ずにいた。

 

「あの竹箒、もう既に、穂先はほとんどハリボテなんだ。時を戻せば戻すほど、穂先は消えていく。有限の力なんだ」

「それに、自分の時を戻す行為が、体に相当負荷が掛かるみたいだし。あの婆さん、まだ65歳だぜ?」

 

 だから甲斐さんは、菜花さんに戦ってほしくなかったのか。確かに今時の65歳は、箒を杖代わりにはしないだろう。

 

「どうした? マリオネットのつくもがみ。来いよ?」

 

 挑発は、圧倒的な実力があって初めて有効である。それを間近で実感する。

 マリオネットのつくもがみは、残った糸をかき集め、鞭のようにしならせ、空気から大地まで切り裂くほどの勢いで、菜花さんへ振り下ろす。

 

「この体じゃねえと、箒が触れねえからな。さっきみたいに箒を飛ばすこともできるが、あれじゃ全然力伝わんねぇんだよ。全く不便だよな? 新人ちゃんもそう思うだろ?」

 

 あたしたちの方を向きながら、軽口を叩く菜花さんだったが、片手で持った箒を、埃を払うようにサッと振った。

 

「……! やば……!」

 

 大地が揺れ、木々が怯えたように震え出す。空気が無くなったみたいに呼吸が浅くなり、ただ立っているだけでも胸が苦しくなる。

 糸の先から本体まで、サラサラと崩れていくつくもがみは、チリの一つも残さず消失していった。

 

「やべぇ、戻しすぎちゃった」

 

 危機が去ったはずなのに、あたしは体の震えを抑えられなかった。圧倒的な力は、恐怖すら感じるのだ。

 竹箒を担ぎながらこちらへ戻ってくる菜花さんは、とても同じ人間とは思えなかった。

 

「あれが、ユヅが来るまでこの大学のつくもがみを相手してた、菜花洋子だ。ごめん、説明すんの忘れてたよな」 

「一応教授やってるんで、よろしくな! ええと、千尋ちゃん! ……だよな?」

 

 コクリと頷くことしかできなかった。結月さんの拡張仕様を見たときを、遥かに上回る衝撃が未だ頭を支配する。

 

「後は外山とかが上手くまとめてくれるだろ。お前らは速く病院行け! そんくらいなら箒使わなくていいだろ?」

 

 今気付いた。あの時、電灯に滴っていた血はあたしのだ。菜花さんが、あたしの頭の怪我を治してくれたんだ。

 腰を擦りながらその場を離れていく菜花さんに、あたしは精一杯の声を届けた。

 

「ありがとう……ございました!」

 

 振り返ることはなかったが、少しだけ箒が揺れたのを、あたしは見逃さなかった。

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