第16話 初挑戦

 

 ゴールデンウィークが駆け足で過ぎていき、すっかり半袖がスタメンに名を連ねる5月中頃、あたしは人生で初めて居酒屋に向かう。

 あたしの歓迎会をしてくれることはとても嬉しいけれど、正直胸の内は緊張が大勢を占めている。それほど居酒屋という空間は、あたしにとって未知の世界なのだ。

 

「居酒屋のメニューとか全然知らないし……何食べていいかわからないよ……」

 

 自転車を漕ぎながら、あたしは周囲に誰もいないことを確認して、独り言を漏らす。……もしかして、お金って先輩達が払ってくれるパターンなのかな。だとしたら余計に何を頼んでいいか分からなくなってきたぞ。

 

「おーい、こっちだぞー」

 

 反対側の歩道から、こちらに手を振る姿を確認する。いけない、後輩なのに一番遅く来てしまった。

 あたしは信号が変わるやいなや、急いで二人のもとへ向かう。

 

「すいません! 遅れちゃって!」

「へ? なんで?」

 

 甲斐さんはあたしがなんで謝っているのか本当に分かっていない様子だ。あんまり上下関係とか意識しない方なのだろう。ならあたしも、そんなに気負わなくていいのかな。

 

「一切遅れていませんよ。19時集合ですが、現在の時刻は18時59分です」

 

 割とギリギリだったことを神代さんに告げられて気づく。本人は悪気はないのだろうが、少しドキッと鼓動が跳ねる。

 

「まあ入ろうぜ」

 

 そう言って甲斐さんが扉を開ける。横にスライドするタイプの、木の扉だ。上には暖簾が掛けられていて、如何にもな雰囲気を醸し出している。

 中に入ってまず感じたのは、そこにはカウンター席と壁の間が一人しか通れないほどの狭さであることだった。カウンターの内側には、おそらくお酒であろう瓶が無数に並べられた棚が目を引く。それがより空間の窮屈さを演出しているような気がする。

 入口側に居た、まるでラグビー選手みたいな店員さんがあたし達に注目する。

 

「おー来たか。どうする? 奥の部屋も開いてるけど」

「いいよいいよ、いつもみたいにここで」

 

 奥の方に階段が少し見える。おそらく2階はテーブル席の部屋が1つや2つあるんだろう。

 あたしは甲斐さんに言われるがまま、カウンター席に腰を下ろす。まじか、さらに緊張してきたぞ。いやあたし、落ち着くんだ。ラーメン屋だってカウンター席がある。

 左に甲斐さん、右に神代さん、真ん中にあたしが座る。まあ小柄なあたしが中央の方が都合がいいだろう。

 

「こいつは俺と同じ学科の佐々見だ。ガタイ良くて如何にも居酒屋の店員、むしろ店長って感じだけど、同い年の19歳だよ」

「甲斐はこないだ二十歳になっただろう」

 

 何故か親しげだったのは友達だったからか。甲斐さんは、既にここの常連で、店員さんとも仲良くなれるコミュニケーション能力が備わっていると勘違いしそうになった。

 そして彼らの会話から、あたしは思い出す。甲斐さんは今月二十歳になり、ついにお酒が飲めるようになったということを。

 

「神代さん、今日はこいつに酒飲ませちゃってもいいよな?」

「私が決めることではありませんが……お酒を飲む甲斐君には興味があります」

 

 この二人は何度か会っているんだろう。つまりあたしだけが初対面だ。なんか同級生より、先輩の方に知り合いが増えていくな。

 

「君ははじめましてだな。よろしく、甲斐の友達の佐々見だ」

「あ、はじめまして、相澤千尋って言います。あの……ここでアルバイトなさってるんですか?」

 

 少し勇気を出して、あたしから質問してみる。何でもいいから話題があると、会話するのが楽になる。

 

「ここ、俺の実家な。あっちにいるの、親父」

 

 カウンターの奥で別のお客さんと会話している、少し小太りのおじさんがいた。なんと、居酒屋が実家とは。

 

「コネでいつも席空けてくれんだよ。いやー持つべきものは居酒屋が実家の友だね」

 

 甲斐さんが嬉しそうに佐々見さんを見る。佐々見さんも笑っているが、いいのかそれで。

 甲斐さんはテーブルに立て掛けられていたメニュー表を広げて、まずは飲み物をどうするか聞いてくれた。あたしはとりあえず様子を見て、神代さんがなんちゃらカクテルを頼んだので、同じ物を頼んだ。もちろんノンアルコールである。

 

「甲斐は生でいってみるか」

 

 佐々見さんが提案する。ナマってなんだ? 何かヌルヌルしてそうな名前だ。

 甲斐さんに届けられたグラスに注がれていたのは、CMでよく見るあれだった。生ビールの生ってことね……。変なこと言わなくてよかった……。

 あたしと神代さんには、甲斐さんのよりも細長いグラスに、青と白のカラフルな色合いが綺麗な飲み物が置かれた。ご丁寧にストローも刺さっている。

 

「じゃあ、相澤さんの歓迎会ということで、乾杯!」

 

 二人ともあたしにグラスを近付けてくる。さすがのあたしも乾杯くらいは分かるので、弱々しくグラス同士を突き合わせる。

 さて飲もうかとしたところに、あたしは突然体のバランスが取れなくなる。

 

「わぁぁ……!」

 

 下に置いていたリュックから出てきたマフラーが、あたしの足に絡まってきた。後で遊んであげるから、今は大人しくして!

 必死に体勢を維持したけれど、ストローだけが床に落ちてしまった。

 

「あぁ! ごめんなさい!」

 

 マフラーを再びリュックに押し込み、ストローを拾い上げたとき、あたしは違和感を抱く。

 ……これ、ストローじゃない! 穴、空いていない!

 ちらりと神代さんを見ると、棒としか言えないそれを使って、くるくるとカクテルを混ぜている。

 

「あ、危なかった……」

 

 ストローだと思って口を付けるところだった。何というトラップ……やはりあたしにはまだ早かったのか……ここは。

 

「ほら、見てください甲斐君。相澤さんはマドラーを咥えませんでした。やっぱり甲斐君だけですよ」

「相澤さん……知っていたのか、それを」

 

 マドラーっていう名前なのかこれ。あたしは平静を装い、勿論ですよと嘘を吐く。

 これからどんなトラップがあるか……あたしは改めて気を引き締め、マドラーをぎこちなく回した。

 

「さて、人生初ビール、頂きますか!」

 

 甲斐さんが高らかな宣言と共に、グラスに口を付けようとしたその時、あたしは背中に何かがぶつかる衝撃を感じる。

 

「わ!」

 

 居酒屋と言う場所は、あたしを落ち着かせるつもりは一切無いらしい。振り向くと見えたその光景は、如何にも平均的なサラリーマンがフラフラと足取りがおぼつかない状態で、狭いスペースをドカドカとあらゆる箇所に激突しながら店の外へ出ようとするとこだった。

 

「これが千鳥足ってやつ?」

「何だかマリオネットみたいですね」

 

 マリオネット、って操り人形のことか。まさに言い得て妙、彼は酒に操られているんだとあたしは一人で関心する。

 

「……あそこまではならねぇよ?」

「いいんですよ甲斐さん? 帰りはバカ傘呼んできますから。家まで引き摺って貰えばいいんですよ」

「酒ならまだしも、あいつにだけは操られたくねぇわ!」

 

 アハハハ…………。

 笑いに包まれる中、少し不安そうな甲斐さんの表情を、神代さんが嬉しそうに眺めているのが印象的だった。

 

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