第9話 ここに居た
あっという間だった。
土日は家から極力外出せず、平日は何も変わりなく講義を受け、終われば真っ直ぐ家に帰った。あたしの目の前にそれが現れることは、ついに無かった。
そして今日、期限の1週間が経過する。既に夕方6時になり、徐々にキャンパスから人が居なくなっていく。
「そっか……今日は新歓最終日なんだ」
あたしはあの日と同じように、農学部棟のラーニングエリアにいた。窓際の背もたれのない椅子に座り、床につかない足を前後に揺らしながら、正面のデスクに体を完全に預けていた。徐々に電灯の光が目立つようになってきた外を眺めながら、集団で自転車を走らせる学生達を目で追っていた。
新入生歓迎会期間の最後の日なので、ほとんどのサークルや部活は周辺の居酒屋や飲食店で飲み会等の類を行うのだろう。いいなぁ、楽しそうだなぁ。
金曜日の夜、解放的な彼らを見ていると、自分の現状がより暗く滲んでいく。このまま時間が過ぎれば、マフラーはあたしの元から居なくなってしまうのだ。
「あれ、千尋ちゃん?」
「え? あ、美玲……ど、どうしたのこんな時間に」
背後から声をかけられてびっくりしてしまったのもあるが、我ながら頓珍漢な質問だった。ラーニングエリアに誰もいないとはいえ、時計はまだ6時を過ぎたところだ。美玲とこの場で鉢合わせることは、そこまでおかしいことではない。
「うん、ちょっとね……」
何だか歯切れの悪い返答だった。その上元気が無さそうな印象を受けた。実際、ここ数日の美玲に、あたしは僅かばかりの違和感を感じていた。
講義の度、いつも一緒にいた子と、ここ数日は離れて席に座っていたのだ。それに気づいている、1人離れた後ろの席に座るあたしが気色悪いのは置いといて、美玲と彼女らの間に何かあったのかなと心配していた。
「ちょっと外、出ない?」
あたしにしては珍しく、自発的に提案をした。別に元気のない美玲に、何があったのか聞こうとする気はない。少し暗い雰囲気から、抜け出したくなっただけだ。
外に出たあたしは、特に理由もなく歩き始めた。美玲も特に何も言うことなく、あたしのすぐ後ろを付いてきてくれた。
「今日、新歓の最終日なんだよね。美玲はどこかのサークルに入るの?」
「え、あぁ、うん。まだ、決めてないんだ。ダンスサークルか、大学祭実行委員会がいいなぁって思ったんだけど」
どちらのサークルも、美玲らしいと思う。積極性と主体性が必要な活動なので、あたしみたいな人間には向いていないだろう。
「千尋ちゃんは?」
「え! あ、あたし!?」
自分で聞いといて、聞き返される準備をしていなかった。いや、そもそもどこのサークルの新歓にも顔を出していないので、入るサークルなど決められるはずがないのだ。
「あれは? AOS? ってサークル」
なぜ知っているのだろうか。その英文字の羅列に頭が揺れる。
「な、なんのことだい?」
別に知っていることを隠す必要はないのだが、反射的に白を切ってしまう。
「入学式の日さ、千尋ちゃん、先輩っぽい人と仲良さそうにしてたの、見てたんだ。」
「その人が、AOSって書かれたブルゾン着てね、なんか草むらをゴソゴソしてるの見たんだよね」
目撃されていたとは……、恥ずかし過ぎる……。
あたしの全力疾走までは見ていないことを祈る。
「あの人、何のサークルなの? 草むしりサークル?」
「あはは……なんだろうね。あたしもよく知らないんだ。入学式の日も、別に勧誘受けていたわけじゃないよ」
現在進行系でお世話になっているので、知らないフリをするのは心苦しかった。ごめんなさい、甲斐さんと神代さん。あたし、あなた達の活動を上手く説明する能力がありません!
美玲は軽く相槌を打った直後、あたしに顔をゆっくり近づけて、正面を見ながら小さく囁く。
「え、何かあの人、すごい見てくる……」
謝罪の思いが届いたのだろうか、それとも偶然だったのか、歩くあたし達の目の前に、道を塞ぐように立っている人が居る。
間違いない、あれは神代さんだ。腰まで届きそうな黒髪と、精悍な表情を携えた学生は、そうそう他に見つかるもんじゃない。そして甲斐さんと同じく、紺色のブルゾンを身に纏っていた。
「あ、あなたは……こないだの……」
美玲の顔から、若干の警戒感が滲み出ている。神代さんはあたし達を交互に見つめ、何かを悟ったように、ゆっくりと瞬きをした。
「今、分かりました。ここに居たんですね、ずっと」
「か、神代さん? どうしたんですか?」
神代さんの言葉の意味を追求しようとは思わなかった。それよりも彼女の、鬼気迫る表情への変化に注目がいった。その表情は、神代さんがここに居る理由が、偶然ではないことを示していた。
「相澤さん、すぐその人から離れてください」
夜風に揺れる草木の音が、あたしの耳に届かなくなる。それほどにあたしは、神代さんの言葉を理解しようと、頭の中で何度も反芻した。
何を……言ってるの?結果的に、その感想だけが頭を支配する。
「え? その人って……」
必死に声を絞り出し、あたしは横の美玲を見る。やっぱり神代さんが何を言っているのか、理解ができない。美玲もそれは同じだったようだ。
「何なんですかあなたは。この前も、急に来て意味のわからないことを口走って」
「離れないなら、私がやります」
神代さんは、美玲の言葉に一切反応せず、彼女の背負うリュックに手を伸ばした。ファスナーが引きちぎれるんじゃないかと思うほど、彼女は大雑把に、強引にリュックを掴んだ。そして美玲の体から引き離そうと、思いやりや躊躇など微塵もなく引っ張り上げた。
「わ! 何す、るんですか!!」
「ちょっと、ど、どうしたんですか! 神代さん!」
美玲は必死に体を振り回し、リュックを掴んでいた神代さんの手を無理矢理に解く。神代さんは少しバランスを崩したが、すぐに再びリュックへ手を伸ばす。その表情は、わずかに焦りを浮かび上がらせているように見えた。
「行こう! 千尋ちゃん!」
「え! ま、待って!」
美玲はあたしの手を握り、脇目も振らず走り出した。一連の出来事に頭が追いつかないあたしは、言われるがままに引っ張られるしかできなかった。
「ちょ! 美玲! ま、待って! あの人にも、きっと何か理由が、」
「駄目だよ! 千尋ちゃん! あの人、絶対やばいよ!」
うまく伝えられないのが歯がゆい。なんで? なんで神代さんはこんなことを……。きっと、理由があるはずなのに……。
嫌だな……今のあたし。何にも分からないまま、ただ目の前の光景を眺めていることしかできない。こんなに情けなくて、為されるがままの、自分の無力さに腹が立つ。
日が暮れて、暗い影が大地を包み込む。あたしはそれを感じないように、いつもより余計に、力強く目を瞑った。
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