第5話 マフラーと黒髪の美人
あたし達2人は、貸し付けられたジャージに一旦着替えた。多分この実習場に常備されているものだろう。やや焦げ臭い匂い(多分タバコ)がしたけれど、贅沢は言えない。
泥だらけの作業着を管理棟横の水道で洗い流している私達を見て、いくつかの学生が心配そうに声をかけてくれた。同学科の子と初めて話す機会が、まさかこんなことだとは思いもしなかった。複雑な思いを掻き消すように、作業着を擦り続ける。
「美玲って呼んでよ。千尋ちゃん」
自身の作業着に目をやりながら、彼女はそう呼び掛けた。名前で呼びあうことは決して仲良しの証明ではない。けれど美玲の言葉には、あたしと関係を深めたい思いがある……気がした。
「うん。美玲、よろしくね」
澄ました顔をして、スマートに返事をした。別に隠すことなんかないのに。泥を落とすその手は、自然と捗らなくなっていた。
高島が笑いながらくれたビニール袋に作業着を押し込み、あたし達は更衣室で帰り支度を始めた。自分のロッカーに手を掛けたとき、あたしは違和感を感じた。……マフラーが扉の隙間から飛び出ている。開けると当然、マフラーの無秩序な姿がそこにあった。……おかしい。確かにリュックに入れたはずなのに。誰かに開けられた?急いで貴重品を確認するが、特に変わった様子はない。
「千尋ちゃーん。急がないとバス行っちゃうよー」
美玲の声は聞こえていたが、頭の中は疑問と疑念で埋め尽くされていた。ただ帰れなくなってしまうのは避けたい。軽く返事をし、急いで服を着替える。マフラーを再び畳んでリュックに入れようとしたとき、フリンジの先が泥で汚れていることに気づいた。
「え! うそ? なんで?」
作業着はビニール袋に入れている。つまり今付いた汚れではない。やっぱり誰かが持ってった?なんのために? 最悪だ。これはとっても大切なものなのに……やっぱり持ってくるんじゃなかった。幸い目立つ汚れではないし、洗えば大丈夫だとは思う。それでも、楽しかった今日が頭から掻き消えるくらいに、暗い影が心を覆う。
「……まさか、いや、そんなことあたしに限って」
あたしは嫌な予感を覚えた。甲斐さんの顔と言葉が頭をよぎる。でも、あたしは無くしたりなんかしていない。ロッカーに置いといただけなんだ。
なんだかリュックに入れるのも不安になってしまったあたしは、マフラーをそっと抱きかかえ、バスへ急いだ。
時計が既に16時をすぎたころ、キャンパスに帰ってきたあたし達は即時解散となり、皆各々の予定へと急いだ。あたしと美玲はもう今日は講義は無い。美玲の提案で、汚れた作業着をコインランドリーで洗おうと決めた。
「ごめん、ちょっと酔っちゃったからさ、ラーニングエリアで休憩しよ」
「先にちょっと、お手洗い行ってくるね」
ラーニングエリアとは、農学部1号館の出入口すぐ横に構えられた、学生達の共有スペースである。10台ほどのパソコンが用意されている他、カラフルな椅子とテーブルが4卓ほど並べられている。まあ、ここでレポートしたり、学生同士で談話したり、騒がなければ何でもしていいですよっていう空間だろう。農学部1号館は、キャンパス北正門から、南北に伸びるメインストリート沿いにある。正門から入ってすぐ目に入る建物なので、ラーニングエリアもすぐに見つかる。
あたしは空いていたテーブルに荷物を置き、ひとまず椅子に腰掛ける。あたしは手に持っていたマフラーを、しっかり自分が見える位置に置いた。
しばらくすると美玲が戻ってきた。ん? さっきと違う香水の匂い……。いい匂いだけど、それを直接伝える勇気は出なかった。
美玲はやはり気分が悪いようで、すぐにテーブルに突っ伏してしまった。
「はあ、せっかく少し暖かくなったのに、今度は酔っちゃうなんて、今日のあたしの体はうまくいかないもんだね」
美玲は少しおばさんめいた口調で、呆れるように呟いた。
「そういえば千尋ちゃん、今日薄着だよねー。寒かったでしょ?」
「え、う、うん。まあね。でも、行きのバスではこのマフラーしてたし、大丈夫だったよ」
心配してくれた美玲に、手元のマフラーを指さしながらそう返答する。でも美玲は、何だかピンときてないような表情を見せた。
「あれー? マフラーなんかしてたっけ?」
美玲が首を傾げたとき、ガラガラと扉を開ける音が、ラーニングエリアに響き渡った。いや、今までも誰かが出入りしてたけど、あたしは何故か、今入ってきた人間に意識が自然と向いた。そして案の定というべきか、あたし達二人のところへ近づいてきた。
「あの、ごめんなさい。少しお聞きしたいことがあるのですが」
その人は女の人だった。指通りがまったく引っ掛からなそうな、艶のある黒髪をなびかせたその人は、あたし達に丁寧な口調で話しかけてきた。
「そちらのマフラーは、どなたのものですか」
なんでそんなこと聞くんだろうと思った。ただでさえさっきの不可解なことがあって、あたしは警戒するようにその人を見つめた。
「あたしのですけど……どうかしましたか?」
さり気なく、マフラーを隠すように自分の体の方へ寄せる。2秒ほどだったろう、ほぼ睨み合うあたし達を尻目に、美玲が口を開いた。
「あの……なんのことですか? マフラーって、あの首に巻くやつですよね。……どこにあるっていうんですか、からかってるんですか」
やや強目の語気で美玲は問いただした。あたしは、その言葉を理解することができなかった。
「え? 美玲、どうしたの?マフラーならあたしが持ってるよ、ほら」
「千尋ちゃんもどうしたの? こんな変なノリに付き合うことないよ」
あれ? なんでだろう。会話が噛み合わない気がする。確かに急に話しかけてきて不思議は人なのかもとは思ったけれど、そこまで拒絶する程のことだろうか。自分の感覚に不安になって、何気なくマフラーに目をやると、何だかフワフワと浮き上がるように見えた。何だろう、隙間風かな?なんて思ってると、それは勢いを増した。
「あ、あれ? なんか……うわ!」
信じられないことだった。マフラーは、さながら蛇のように、スルスルっとあたしの手を振りほどき、蝿のように部屋中を飛び回る。壁やら天井やらに勢いよくぶつかりながら、その勢いは弱まることはない。とても目で追える速さでは無かった。
「嘘? え! まっ、待って!!」
「千尋ちゃん? どうしたの?」
あたしはもう、美玲の態度に疑問を持つことは無かった。間違いない。見えてないんだ。それはここにいる他の学生も同じだった。よりによってなんで……。これが……つくもがみなの……?
飛び回るマフラーは、出入口が開いたと同時に、ラーニングエリア外へ飛び出していった。あたしが立ち上がるよりも先に、その女の人は駆け出していた。
「ちょっと? 千尋ちゃんどこ行くの?」
「ごめん! あたし大事な用を思い出した! ごめん!」
初めて出来そうな友達を、わけわからぬまま置いていってしまうことに辛さを感じたが、それよりも、あたしの宝物がどこかへ行ってしまうことにひどく焦りを覚えていた。
胸のあたりがキュウと締め付けられる。お兄ちゃん……あたしどうすればいいの……。
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