第4話 少し楽しい学生生活
4月も終わりに差し掛かった今日、朝の私は布団を被ったまま小刻みに震えていた。
「さ、寒すぎる……」
昨日の天気予報で言ってたけど今日は、この時期には例を見ない大寒波が関東地方を覆っているみたいだ。けどこんなに寒いなんて……まじで10度もないんじゃ……。
布団があたしを掴んで離さない。この布団は自らの意志で私にかぶさってきたんだ。そう思えるくらい布団から出れる気がしなかった。
「んなわけあるか……つくもがみじゃあるまいし……」
とりあえず朝ごはんは食べたし、歯も磨いてメイクも終わった。もう外には出れるけど……。
「やばい……コート実家だ……」
こんなに寒くなるとは思ってなかったので、引っ越しの荷物に冬物は入れていなかった。この寒さを乗り切るにはこいつらだけじゃ足りない……。
「うぅ……仕方ないかな……」
クローゼットの奥に仕舞ってあった、無地の赤色マフラーを取り出す。両端にフリンジの付いた、カシミヤのマフラーだ。
「あんまり使いたくないけど……」
このマフラーはあたしの宝物だ。汚れたりしたらやだけど……少しくらいなら大丈夫だよね……。
首に巻いたマフラーは、あたしの震えを幾分か弱らせてくれた。これならなんとかいけそう。行き帰りだけ頑張ればいいんだ。講義中は流石に暖房つけてくれるよね。
「あ、そうだ」
今思い出した。金曜だから、午後実習じゃん。
農学部にとっての実習とは、上下作業着に着替え、長靴に履き替え、どれだけ汚れてもいいように準備して望まなければならない。もちろんマフラーはしていけない。農作業をやるので当然だろう。寒さ対策にインナーをしこたま着ていこうとしたけど、太って見えるからやめた。
「今日めっちゃ寒いね! 休んでる人も多いし!」
実習場ヘは、キャンパスから専用バスで向かう。そして今、あたしの隣に座った女の子は、はつらつと話しかけてくれた。
「う、うん。そうだね」
あーやばい。めっちゃ普通の返事しちゃった。だってこの子、すごいイケイケなんだもん。
鮮やかで上品な茶髪の隙間から、キラリと光るピアスが眩しい。髪が揺れる度に香る香水の匂いは、若干強めかなと思ったけど、あたし的には嫌いじゃない。
まさに根暗の反対、根明だもん、緊張するよ。名前は……長谷部美怜だったと思う。
「相澤さん、このバス狭くない? 寒いよりそっちが気になるよ!」
確かにこのバス、前の座席との間がクソ狭い。ちんちくりんのあたしでもきついんだから、長谷部さんみたいな脚長さんにはなお辛いだろう。
「そ、そうだよね。狭いよね………椅子も固い……よね」
あぶなーい。また返事だけで終わるとこだった。ちょっとだけ話題広げられた。
「ね! 固いよね! 相澤さんみたいに細いと、めっちゃ痛そう!」
細いっておしりのことかな? あなたのほうが細くて小さいおしりだよ。身長はあたしより高いのに、羨ましい……。
20分くらいバスに乗ってたと思う。東京ドーム20個分ほどの広大な敷地を有した、鬱木大学附属農場へたどり着いた。バスの中では、長谷部さんのコミュ力のおかげで、けっこう話すことができた。大学入ってから一番話したかも。
「やべー! 今日田植えじゃん!」
男子がそう叫んでいた。今日はこの、一分の隙もない曇天の中、圧倒的寒さに耐えながら田植えをしなければならない。田植機でもやるだろうけど、おそらく手植えでもやらされるに違いない。寒くなくても憂鬱なイベントである。
「頑張ろうね〜相澤さん。」
あたしの心を見透かしたのか、長谷部さんが激励の言葉をくれる。私達はバスを降り、更衣室で作業着に着替える。マフラーはきれいに畳んで、そっとリュックに入れた。ありがとう、助かったよ。
装備を整えた私達は2つの班に分かれ、それぞれの集合場所へ向かう。その時気づいたけど、長谷部さんといつも一緒に行動してる2人は違う班だった。だからってあたしなんかに話しかけてくるなんて、いまだソロプレイのあたしに……。
「はぁぃ、皆さんおはようございます! ん? 声が小さいですねぇ。寒いからかな! ごははは!」
担当教員の高島はやけに上機嫌だ。きっと震えているあたし達を見て楽しんでいるのだろう。根拠はないけど、その屈託のない笑顔からそう考えざる負えないよ。
「あいつ、絶対性格悪いよね。先週だって、牛の糞に滑った男子のこと、笑ってたもん」
長谷部さんがそう囁いてきた。そんな出来事があったとは知らなかったけど、あたしもウンウンと頷いて同調した。人の悪口でちょっと仲良くなった気がした。
そしてあたし達は促されるままに、次々と水田へ足を踏み入れていった。どろどろの土が長靴を掴むように、あたしの動きを阻害してくる。歩きにくいことこの上ない。
育苗箱で育てられた苗を、土ごと手のひらサイズに分けて配られた。だいたい1箇所に3〜4本の苗をまとめて植える。あ、うまく植えられないわこれ。すごい斜めってる。
「やばいこれー。難しくないー?」
隣の列にいる長谷部さんも大変そうだ。
「あ、見て長谷部さん。高島めっちゃ笑顔」
「うわほんとだ! アハハ! めっちゃ笑ってるし!」
満面の笑みで仁王立ちする高島の姿に、2人してゲラゲラ笑った。歯を見せるタイプの満面の笑みである。ここからでもわかるほど綺麗な純白で、それが余計に面白い。そんなにあたし達が辛そうなのが嬉しいのか、あいつは。笑ってるとバランス崩れそうになるから、必死に足首に力を入れる。それでなくても寒くてガタガタ震えてるんだから、大変だよこりゃ。
(バタバタ、バタバタバタ!)
え!なに? 鳥? 急に翼をはためく音がする。空を見上げたとき、あたしの左手は、綱引きの縄の如く、思いっきり何かに引っ張られた。
「うわ!」
思わず叫んだときには、あたしの体は柔道の受け身のようにしっかりと背中を地につけていた。残念なことは、ここがどろどろの水田であることだった。完璧に転んだ……最悪だ……。
「わーー!相澤さん! だ、だいじょうぶ、あ」
転んだあたしに駆け寄ろうとした長谷部さんは、足がもつれて、顔面から着水した。ギリギリで手を伸ばしたので、顔は無事だった。
「あ、あはは、あたしも転んじゃった……」
「だ、大丈夫? って、あたしが言えたことじゃないけど……」
あたしらはお互いの間抜けな姿を見て、吹き出すように、また笑いだした。お互いがつられ笑いしてるみたいで、なんだか止まらなかった。
「ど、どうして急に転んだの? それも後ろ側に、ふふふ」
「分かんない。なんかぐいって引っ張られた気がするんだけど……」
周りに人はいないし……カラスにでも掴まれたのだろうか。何が起きたのか、さっぱりわからない。泥に足を取られた感覚はなかったんだけどな。あたしは呆れるように、溜息をつきながら空を見上げた。あ、ちょっと晴れてきたかも。
寒いし泥だらけだし、どうしようもない格好で萎えまくりだけど、笑いあったその時間は幸福だった。目に映った、曇った空の隙間から注がれる光を、あたしは妙に愛おしく感じた。
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