第18話 関連(3)


 空のカップが三つ、机の隅に追いやられた。


 机の正面に座らせてもらったマティアスは、羊皮紙の表紙を前に数度深く息をする。

 隣の椅子に腰かけたオディロンが、机の上でマティアスの左手を握った。レイモンはマティアスの右隣で、立ったまま手元を覗き込んでいる。


 まず表紙を開けた。

 初めの方は祖父母の年代で、それも気にはなるものの、マティアスは手早くページをめくる。


「ふむ。思ったよりずっと細かく記録を取っているじゃないか。まったくアルシェヴェシェのじいさんたちは腹が分からない」


 レイモンの呟きを横に聞きながら、マティアスはついにその記述を見つけた。


「七九五年、九月三日……」


 左手は大きな手にしっかりと包まれている。右の人差し指で、自分の誕生日をなぞった。

 年月日のあとに事象という、簡潔な書き方でそれは残されていた。




クローヴィス暦七九五年 九月三日 早朝 テオドラがフィリップの子を出産 性別・男 呼吸が強く、すぐに乳を飲む。母子ともに健康。

マティアスと名付けられる。


同年 十二月二十日 マティアス発熱 アルシェヴェシェ神殿から医師を派遣、季節性の風邪と診断、シロヤナギを少量与える。


同月 二十三日 マティアス解熱。

同日 テオドラ発熱。マティアスの風邪が感染したと考えられる。シロヤナギ、カカオ、蜂蜜酒を与える。マティアスは別室で経過を観察。乳母の乳を飲む。フィリップは母屋にて過ごし、感染はしていない。他の家人への感染も確認されていない。


同月 二十五日 テオドラ解熱。他の家人へは感染していない。




 マティアスは順に文字を追いながら、自分の心が穏やかに凪いでいることを感じていた。

 高揚感はない。とても冷静だ。それでいて、安堵している。スカスカの歯抜けだった身の内に、文字から得られる情報が染み込んでいく。通常なら記憶に残りもしない、生まれたその日からがすべて。

 それらはマティアスをしっとりと満たした。




クローヴィス暦八百年 八月二日 マティアス発熱。三日前にできた膝の擦り傷が化膿したため。傷にアルカンナを塗る。




 この時マティアスは五歳、オディロンと出会った頃のはずだ。さすがにオディロンとのことは書かれていない。




クローヴィス暦八百一年 四月一日 テオドラが眩暈と吐き気を訴え、アルシェヴェシェ神殿療養所へ移送。マティアスに諸症状はなし。マティアスには母は外出していると伝える。


同年 十二月十一日 テオドラ死亡。享年二十四。




 これはマティアスの記憶と矛盾する。

 当時父の言った、本当は旅先で亡くなったが病死としたのが正しいのか、その逆でこの記録の通りなのかは確かめる必要がある。




クローヴィス暦八百二年 七月二十一日 アルシェヴェシェ神殿にてマティアスとその乳母を保護。マティアスは右こめかみに裂傷、左のあばら骨を二本骨折、右肩を脱臼、前歯三本が砕かれる。歯は乳歯であったため再生の可能性が高い。意識がなく、高熱。口の中にシロヤナギの粘薬を貼り付ける。乳母に怪我はなし。

乳母の証言 ジュスタイン家離れにて、乳母は自室にいたが、午後八時頃、大きな物音を聞き居間へ行くと、すでにマティアスは血まみれで床に倒れていた。フィリップが部屋を荒らし、マティアスと乳母を怒鳴りつけたため、乳母はマティアスを連れて屋敷を出た。

巡回衛兵の証言 血まみれの子供がいると聞き駆けつける。乳母が神殿に保護を求めた。マティアスは乳母に背負われ、意識なし。衛兵の案内で神殿に入る。


同月 二十二日 マティアス 意識がなく、食事ができないため薄い粥を少量飲ませる。高熱。口の中にシロヤナギの粘薬を貼り付ける。

同日 フィリップは乳母の証言を認める。マティアスの怪我は全てフィリップによるものと断定。マティアスは回復まで療養所預かりとする。


同月 二十三日 マティアスがわずかに意識を取り戻し、水を飲む。高熱。うわごとで痛みを訴える。水に少量のケシを混ぜて与える。




 オディロンはマティアスが肝心の個所を指で辿ると、繋いだ手を一層強く握った。マティアスも握り返す。

 そこからしばらく、連日のマティアスの症状が記されていた。長期間意識が朦朧とし、解熱や痛み止めの薬が繰り返し処方されている。




同月 三十日 マティアスと会話が成る。記憶が混濁し、怪我の原因を覚えていない様子。体調を鑑み、会話は最小限とする。

同日 フィリップ、アルシェヴェシェ神官長、ゼブラノール家次期当主シャルル、弟ラウル四者による会談。


同年 八月二日 マティアスをゼブラノール家シャルルの養子とする決定。


同月 三日 マティアスとゼブラノール家シャルルの息子オディロンの面会 数分の会話が成る。


同月 四日 マティアスは三食の重湯を食べ、食欲回復の兆し。言葉もはっきりとしてくるが、依然記憶は混濁している。


同月 五日 マティアスとオディロンの面会 同月三日より長い会話が成る。


同月 六日 マティアスとオディロンの面会 重湯を五割ほど増やす。蜂蜜を与える。眠りは断続的、快復の兆し強いが、注意が必要な状態。


同月 二十日 マティアス 正式にゼブラノール家の養子となる。


同年 十月九日 マティアス 療養所からゼブラノール本邸に移送。


クローヴィス暦八百三年 一月一日 フィリップ 王国騎士モント隊へ入隊。国王よりアリエージュ伯領への赴任を命じられる。


同月 十日 フィリップ アリエージュ伯領へ発つ。




「知らなかったなあ」

 マティアスはゆっくり大きく息を吸って、細く長く吐き出した。


 記憶と一致するもの、まだ思い出せないもの。そもそもマティアスには隠されていたもの。そして、この記録から推察できるもの。

 瞼の裏に記録書の文字と、それ以外の情報と、マティアス自身の感情とが混ざり合って渦を作る。


 繋いでいた手を、オディロンが殊更強く握った。


「大丈夫か?」

「うん、なんとなく、察しはついていたし」


 マティアスもその手を握り返した。ぎゅっと合わさった手のひらが酷く熱い。

 なぜ自分は養子に出されたのか。どうして理由を知らされていなかったのか。どうして記憶をなくしたのか。どうして家族が、記憶のないマティアスをそのままに接していたのか。

 いくつかの悲劇と、いくつもの配慮があった。


「予測通りだったね。君の体調不良、および騎士甲冑に対する恐怖心の原因は、父君からの暴行だった」


 マティアスが手を放した冊子を、レイモンが持ち上げてパラパラとページをめくる。今読んだ箇所以外の前後にも目を通しているようだ。


「先生、それはいいんです」

「原因が判明したのだから、隠し立てする必要もないだろう。実はねオディロン君、これまで原因不明だったのだが、マティアス君は騎士の甲冑、特に具足の足音が苦手なんだそうだ」


 マティアスは慌てて振り返った。オディロンは訝し気に眉根を寄せている。


「ここには当時の服装までは書かれていないが、おそらくフィリップ氏は甲冑を着たままか、部分的に防具を身に付けた状態で、暴行に及んだのだろう。さらに推察するに、マティアス君と会う時、父君が甲冑姿であることは稀だったのでは? まあ、家の中を鎧でウロウロする人間はそういないがね。そして、暴行はこの一度きりだった。それ以前に君に手を上げることはなかったが、親交も薄かった。時折顔を見せるだけの父親が、突然暴れた」

「おそらく、その通りです」


 マティアスは小さく首肯する。

 かすかな記憶の中でも、父はほとんどマティアスに構わなかった。母が亡くなってからは、決められた日ごとにやって来たことだけは覚えている。

 オディロンは険しい顔のままレイモンを睨んでいた。


「どういうことだ?」

「オッド、間違えないで。君を嫌だと思ったことなんかない。君を怖いと思うことなんか絶対にない」


 繋いだ手に、右手も重ねた。彼にだけは何も誤解されたくない。


「そもそも、ボクが急に記憶を取り戻しはじめたのも、これが最初だったんだ。君の凱旋の日、鉄の足音が怖くて……何かおかしいと気づいて、先生に相談して」

「そうだ、そもそも、どうして急に記憶が戻ったんだ」


 マテイアスはオディロンの顔を見たあと、両手を繋いだままレイモンを振り返った。

 二人がどんなに必死な表情だろうと、レイモンはわずかに口角を上げ、いつも通りのぎょろりとした目で観察することをやめない。


「私の見解だと、記憶に関する病が悪化する、もしくは大きく変質するには、なんらかのきっかけがある。日常でない、大きな変化だ。ねえ、マティアス君?」

「はい……あの時、オディロンが帰ってきました」


 マティアスの呼吸が浅くなる。喉の奥が狭くなり、後頭部がじんと痺れた。繋いだ手が一層強く握りしめられる。痛いほどに。


「でも」

「先生が集めた記録ではね、いいことも悪いことも、同じ衝撃なんだって。大きな変化、衝撃は、記憶や気鬱の病に影響が出やすいのだって」


 マティアスは涙を堪えていた。強い衝動ではない。じんわりとこみ上げてくる、熱いもの。

 背後のレイモンが楽しげに含み笑いをする。隠す気はない癖に、口の中で笑いをかみ殺すフリをするのだ。


「幸福も不幸も、人の記憶を揺さぶるものだよ。それだけオディロン君の帰還が嬉しくて仕方なかったということだねえ」

「だから、ボクはちゃんと向き合おうって思えたんだ。オッドとのことなら、ボクはいつも、妙にね、強気になれるから」


 オディロンはしばらく静かに目を閉じて、細い息を吐きながらマティアスの手をゆっくりと解いて立ち上がった。穏やかとは言えない顔でレイモンを見るので、マティアスはなんと声をかけようと迷う。

 もう一度大きくため息を吐いて、軽く首を振り、そしてオディロンはわずかに表情を緩めた。


「何か大きな袋か、布でもいい。貸してもらえませんか?」

「どんな使用目的かな?」


 オディロンは部屋の隅の、引き出し棚を指差した。その上に置かれた、先ほど自身が脱いだ騎士の鎧を。


「これを、持ち帰るためです。着て帰るわけにはいかないのでしょう」

「なるほど、それがいいね。探してくるよ」


 レイモン神官は言葉と同時に椅子から立ち上がり、そのまま突進するようにドアを開けた。

 体半分だけ廊下に出た状態で振り返り、嬉しそうに笑う。


「手でも繋いで仲良くお帰りよ。中央門から堂々とね。それを見て機嫌を良くした尼僧が、今夜のスープに肉を一切れ多く入れてくれるかもしれないからね!」











































  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る