第17話 関連(2)


 ジュスタイン家の記録がようやく届く。

 三日前の講義でレイモンからそう告げられ、マティアスは今日の開講を楽しみにしていた。


「覚悟は決まっているようだね」


 講義のあと、いつものようにレイモンと連れ立って神殿奥の研究室へ向かう。

 周囲の学生たちは、マティアスが熱心な学生で、教授の助手のようなことをしているのだろうと軽く噂しあい、それぞれに納得しているようだ。当たらずとも遠からず。

 マティアスは記録医学という学問手法にすっかり傾倒し始めていた。


「そうですね……今朝も、いい夢を見たので」


 思わず口元に笑みが浮かぶ。夕べカードゲームをしたからか、夢の中でも幼いオディロンとカードで遊んでいた。

 失われた記憶は、衝撃的で悲しいことばかりかと思っていたが、決してそんなことはなかった。あたたかい思い出も多くあったのだ。


「連日の夢で失った記憶を思い出していくというのは、初めて聞くよ。なんとも興味深い」


 興奮を表すように、レイモンは抱えた教材を上下にガサガサと揺すった。この人は感情を身振り手振りで表現せずにいられないらしい。


「ええと、夢だけで思い出しているわけではないんです。こう、日々の中に……ふとした瞬間に、何か思い出しかけるんです。カードを見たり、靴を見たり、そんな時に。その時は掴みどころがないんですが、朝の夢で綺麗に繋ぎ合わさる……断片がそれぞれの位置に収まって、綺麗な絵になるような感覚、ですかね」

「ますます面白い!」


 レイモン神官が言葉の勢いのまま研究室のドアを開ける。廊下の北側の窓から光が差し込み、まだ暗い部屋の一部を照らした。

 書類の積み上がった机、壁一面の書籍群。壁際の水甕と、布をかけて置いてある食器。

 見慣れた雑多な部屋に、騎士が立っていた。


「え」


 気の抜けたような声が出た。口が開いて、間抜けな顔をしているだろう。マティアスはそんなバカバカしい思考を頭に浮かべながら、突然目の前に現れた婚約者を呆と見つめた。

 兜こそ被っていないが、胸当てから具足まで全身を鉄の鎧で包んでいる。


「おやおや、お久しぶりですね、オディロン君」


 動揺を微塵も見せないレイモンが、大股で部屋に入って抱えていた荷物を床に置く。


「オッド、何かあったの? 急に……」


 どうしてオディロンがここにいるのか見当もつかない。レイモンが突然の来訪者を咎めないのも不思議で仕方がない。

 細い声で尋ねると、じっとしていたオディロンが一歩マティアスの方へ足を向けた。カショリ、カシャカシャと、全員の金属が連動してこすれ合う音が響き、マティアスは何かを考えるより先にひゅっと息を飲んだ。


「ふっ……うぐ」


 喉の奥から苦いものが上がってきて、マティアスはそれを咄嗟に飲み下す。口の中にどっと唾液が溢れた。

 勝手に早くなる鼓動を抑え込もうと息を吐いた。呼吸が荒くならないよう、オディロンに気づかれないよう、乾いた唇を舐める。


「オディロン君。何か話があるなら、まずはその武具を外してくれないか。そこの引き出しの上にでも置いていいからさ」

「すみません、急いで来たもので」


 オディロンは硬い表情のまま浅く頭を下げ、言われた通りに鉄の鎧を外していく。

 腰の剣は神殿に入る時に預けてきたようで、代わりに一冊の分厚い冊子を持っていた。レイモン神官がそれを指差して首を傾げる。


「どうして君がそれを持って来たのかな?」

「どうして、これを取り寄せたんですか? これはジュスタイン家の記録です」


 マティアスはオディロンの手元を凝視した。これが、待ち望んでいた記録なのだ。

 レイモンは飄々とした態度を崩さない。


「うん。だからきちんと申請を出して、ここに運んでくれるよう頼んだのだけど」

「まさかアルシェヴェシェ神殿が表に出すとは思いませんでした……一体どんな手を?」

「マティアス君本人の希望と、ゼブラノール、ジュスタイン両家の当主の同意を得られたからさ」


 レイモン神官がアルシェヴェシェ神殿に記録の取り寄せを依頼すると、初手は当然のように断られた。マティアスは現在ゼブラノールの人間であり、生家と言えど他家の記録は開示できないという最もな理由で。

 そこでマティアスは、義父シャルルにことの次第を説明した。義父はすべてを理解していたかのように頷き、ジュスタインと交友の深い叔父ラウルを通じてすぐに許可を取り付けてくれたのだ。

 ジュスタイン当主、マティアスの実父フィリップは現在王国西部のアリエージュ伯領に赴任中。早馬を走らせてもひと月はかかる。


 それ故、記録の取り寄せには時間がかかった。


「ごめん、黙ってて。でも義父上と叔父上が、オッドは絶対に反対するから、言わない方がいいって」

「当然だろう!」


 低い声で怒鳴ってから、その行為自体を嫌悪するようにオディロンは自分の頭を乱暴にかき乱した。


「叔父上が急に生没記録の話などするから、おかしいと思ったんだ。お前の前でどうして記録の話などと……慌ててアルシェヴェシェに行ったら、今日にもドミティア神殿に運ぶと言う」

「それで、オッドが代わりに持って来たの?」

「隠すわけにも、勝手に捨てるわけにもいかない。だから、頼みにきた」


 オディロンはそう言って膝をついた。記録書を片手で胸の前に抱え、もう片手は床につく。


「お願いします。これは読まないでください」

「オッド!」


 静止のつもりで名を呼んだが、オディロンはさらに深く頭を下げた。


「これを、マチューには読ませないでください」

「やめて、お願い」


 マティアスも跪き、背中に覆いかぶさるようにしてオディロンの上体を持ち上げようとするが、大きな体はびくともしない。


「でもマティアスくんは、もう思い出し初めているんだよ。これはその答え合わせだ」


 レイモンの淡々とした声に、オディロンは床に手をついたまま顔を上げた。


「知らなくていいことだって、あるはずです」

「彼が完全に忘れていた時なら、私もその意見に賛同したがね。マティアス君はもう思い出している。それを無かったことにするのは、かえって酷だと思わないかね?」


 奥歯を噛みしめる音が聞こえた。オディロンが全身に力を入れて、項垂れるように再び頭を下げる。


「マティアス君はどうしたい? これは君の問題だ。君の意志が最も尊重されるべきだ」

「オッド、お願い、顔を見せて」


 マティアスはオディロンの背に手を当てた。


「一緒に読んでほしい」


 マティアスは手のひらから気持ちが伝わるようにと祈りながら、もう一度声をかける。

 盛り上がっている肩の下の骨に、優しくさするように触れる。そこには鍛えられた筋肉があり、硬い骨がある。

 彼は剣を振るう騎士だが、誰よりも心優しく、声を荒げることすら珍しい。どんなに力が強くても、それを振りかざしたりしない。


「黙ってごめん。きっと、君は知ってると思ってた。それでボクを思って、隠し通そうとしてくれてるんだって分かってた。義父上たちも、そのつもりだったって」


 オディロンの肩から力が抜けたのが分かった。


「ごめん。最初から、こうすればよかったね」


 どうして彼に黙って、勝手に解決しようなどと考えたのだろう。それでは意味がないのに。

 マティアスが記憶を取りもどしたい理由。これから生きるために力が欲しい理由は、目の前にいる人なのに。

 大きな背中がゆっくりと起き上がった。


「ボクが、ボクのことを知る間、隣にいてほしい。手を繋いで、隣にいてほしい」


 オディロンは泣いたりしない。それでも瞳はうすく潤んでいた。部屋に差し込む陽光を反射した瞳は、グッと細められてマティアスを睨むように見つめたあと、長いこと伏せられた。

 小さく頷いてくれたのだと思う。


「うん。じゃあ、まずは水でも飲むかい?」


 レイモン神官が、水甕の横の食器を取り出しながらそう言った。

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