第3話 違和(1)


 いつものベッドで目が覚めた。

 灰白色の石壁。ガーランド一門の紋章が刺繍されたタピストリー。従僕の指示で、若い召使いが窓を開けている。昼間はもう暖かいが朝晩は冷え込むので、暖炉には赤い炭が残っている。

 いつもと変わらない朝だった。


「おはようございます、マティアス様。お加減はいかがですか?」


 マティアスが起き上がると、それに気づいた従僕が寝台に駆け寄って来る。


「すぐにオディロン様をお呼びしろ」

「はい」


 従僕に促された召使いが部屋を出て行った。


 今、オディロンと言った。

 オディロンがすぐここに来てくれるというなら嬉しいが、それは無理だ。

なにせオディロンは騎士叙任を受けた王都から、こちらへ向かっている最中なのだから。ああ、そうだ、彼が帰宅するのはもうすぐのはず……。


「どこか痛みはありますか?」

「なんで? どこも痛くないよ。ボクはそんなに顔色が悪いかな?」


 少し喉がカサつき、少し体が重いが、寝起きなんてこんなものだ。

 マティアスが首を傾げると、従僕はわずかながら表情を歪めた。驚いているような、訝しんでいるような、その両方だろうか。

 なぜそんな顔をするのか分からない。

 マティアスの方も怪訝に思い眉を寄せたところで、新たに部屋に人が入ってきた。


「マチュー!」


 簡素なシャツに、膝下までのブレーという軽装で現れたのは、オディロンその人だった。

 灰色がかった濃いグリーンの瞳、まだらに日焼けしたオリーブスキン。前髪を下ろしたままで、上げている時よりも少し幼顔に見える。

 昨年の休暇に一時帰宅した時より、さらに骨っぽく、逞しい体躯になったようだ。


「オッド、どうしてここに?」

「おい、マチュー、本当に大丈夫か?」


 寝台の淵に腰掛けたオディロンが、眉尻を目一杯下げてマティアスの顔を覗き込む。


「オディロン様は昨日ご帰還なさいましたよ。マティアス様も、お出迎えにいらしたではありませんか」

「え……」


 従僕の言葉で、マティアスの頭の中を小さな光の粒が走ったように感じた。少し喉が痛くて、少しだるい寝起きの体が、急速に覚醒へと向かっていく。


「ああ、覚えてる。覚えてるよ。君が帰ってきて、玄関ホールでみんなで出迎えて……ごめん、寝ぼけてたみたいだ」

「やっぱりどこか悪いんじゃないか? 医者は疲れが出たとしか言わなかったが、本当は何か悪い病気なんじゃ」


 オディロンがマティアスの肩に腕を回し、一層顔を近づけた。

 心配させているのだと分かっていても、触れられる距離に彼がいる、彼の体温を感じることに、口が自然と笑みを作った。


「昨日は君に会うための靴選びに一時間も悩んで、また義姉上に叱られた。そして、出迎えで履いていたのは赤い靴。ほら、ちゃんと覚えてる」

「なら、いいんだが。どこも痛くないんだな?」

「元気だよ」


 オディロンの大きな手がマティアスの後ろ髪を撫でる。ゆったりとしてその感触に、マティアスは目を細めた。

 本当にオディロンが帰ってきたのだ。

 これからは大規模な招集でもない限り、フォンフロワドの地で一緒に暮らせる。


「御衣装を準備して参りますね」


 従僕が奥の衣装部屋へ消えた。おそらく朝の衣装選びなど済んでいるだろうから、気を遣ってくれたのだろう。

 衣装部屋の扉が閉まると同時に、オディロンに肩を引き寄せられ、唇に覆い被さられる。マティアスもそれを予見したように、両腕を伸ばしてオディロンの頭を抱え込んだ。


「これからは毎日キスができる」

「……うん」


 互いの唇をゆっくりと食む。ぴったりと重なった互いの胸から鼓動が聞き取れる。

 うっとりと身を任せていると、オディロンに抱え込まれたまま寝台に背中がついてしまった。マティアスは力を抜いて寝転がる。優しくのしかかられる、その重みが堪らなく愛おしい。


「オッド、少し痩せた? 体は大きくなったけど、顔は細くなったみたい」

鼻先を触れ合わせながら、マティアスはオディロンの頬から顎を指でたどる。骨格は変わらないはずなのに、以前より顎が尖ったような気がする。

「そうか? 自分じゃ分からない」


 オディロンはマティアスの額、耳の下、肩の先に順にキスを落としてからマティアスを見下ろした。


「マチューはまた髪の色が濃くなった」

「君だけだよ、そんなこと言うの。もうそんなに変わったりしないよ」


 マティアスは寝台とオディロンの隙間でわずかに身じろいだ。

 今は茶に近いマティアスの赤毛だが、子供の頃はもっと色が薄く、日に透けてオレンジ色に見えたそうだ。成長して毛髪が太くなると色も濃くなるのだが、マティアスはすでに十九歳。色が変わったね、と成長を褒められる年代は過ぎている。


「みんなは毎日マチューに会えるから、そんなことが言えるんだ。一年ぶりに会うと本当に変わってるんだぞ」

「うん。ボクも、会いたかった」


 マティアスが腕を伸ばしてオディロンの頭を引き寄せる。


「それに、君が無事でよかった。叙任直前に前線に行くなんて、本当に……」


 オディロンは騎士見習いとして国境の駐屯地で訓練を受けていたが、付近の村を北方の蛮族が襲い一時は激しい戦闘になった。騎士団からの報せを聞いた時は心臓が止まりそうになったが、なんとか死線を潜り抜けて帰還したのだ。


「俺も驚いた。まったく運が悪かった。でも、五体満足で帰ってきたんだから、いいだろう」

「ボクはすっかり敬虔な信徒になったよ」


 激しさのない、しかし長い時間触れ合う口づけ。互いをしっかりと抱きしめて存在を確認する。

 唇の熱を交換し終えると、どちらからともなく寝台の上に起き上がった。キスもしたいが、話したいこともたくさんある。


「昨日渡せなかったが、土産があるんだ。叔父上といろいろ見繕ったんだが、マチューの分はもちろん俺が選んだ」

「君からなら、なんだって嬉しい」

「お前はいつもそう言うから、特別喜んでもらいたくて悩んだんだぞ。タルテッソス産のなめし革を手に入れたんだが」

「タルテッソスの革!」


 つい大きな声が出てしまって、マティアスは慌てて自分の口を塞いだ。オディロンはマティアスの頬に唇をつけて、そのままクスクスをと笑う。

 靴に目がないマティアスは、その素材となる革や布地、染料なども大好きだ。


「大喜びすると思って」

「そりゃあ大喜びだよ。でも、どうやって手に入れたの? 市でタルテッソスなんて謳ってるのは、スペル違いの偽物ばっかりなのに」


 大陸の西の端に位置するタルテッソス王国の皮革は、諸国王侯への献上品にもなるような代物だ。

 マティアスでなくても、ちょっとした洒落者ならば、いつかタルテッソス産の皮革で持ち物を仕立ててみたいと思っている。


「王都の市の仕切りに紹介してもらった貿易商だから、少なくとも偽物じゃないはずだ。仕切りに話を通したのは伯爵様の代理人。安心だろう?」

「そこまでしてくれたの」

「あれでお前のブーツを作るんだ。タルテッソスなら何十年も履ける。最高だろう」

「最高」


 マティアスは力いっぱい、オディロンの胸に飛び込んだ。鍛え上げられた騎士の肉体は、少しもよろけることなくマティアスを受け止める。

 幸福を薔薇色とか、ワイン色と例える詩人の心が、今なら分かる。

 それは濃くて赤い。

 埋もれるような、漬かるような、噎せ返るほどの香りの中で、息をするのも苦しいくらい。


「マティアス様……そろそろお着替えを」


 部屋の隅からくぐもった声が響いた。

二人は顔を見合わせてから、声のした方向へ視線を動かす。そういえば、従僕を衣装部屋に閉じ込めたままだった。


「ごめん。すぐ行くよ」


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