第2話 再会


 赤にするか青にするか、それが問題だ。

 マティアスはようやく二足まで絞った最終候補を棚に並べて、もう一時間悩んでいた。


 赤い靴は、水牛の革に透かし彫りを施した精巧な逸品だ。革の厚みと光沢、ハリといった硬い印象に対して、細かく緻密な曲線の紋様が、幻想的な雰囲気を生んでいる。伝統の綿レースも、革に合わせて鮮やかな夕陽色に染めた。「この茜は一級品ですよ」と、染職人が嬉しそうに笑っていたのをよく覚えている。これを履けば、あたかも夕暮れの空の淵を足元に纏うことになるだろう。

 やはり赤か。


 対して青い靴も、これまた繊細である。この靴の表面には絹のレースを貼り込んだ。絹の染めはもちろん高級パステル。埃っぽい屋外を歩くには向かないが、マティアスに今必要なのは、屋敷の玄関での出迎え用の靴だ。青色は我が国を象徴する高貴な色。国の騎士となった人物を迎えるのに相応しい。

 青の方が良いか。


 そうやってうんうん唸っていると、従僕が呼びに来てしまった。


「マティアス様、まだこちらに? 間もなくですよ。もうとっくに、オディロン様たちは街に入っておられます」

「あ、ああ、分かってるよ」


 時間がない。

 マティアスはもう一度迷って、赤い方を手に取った。しかし、棚に残ったままの青い靴も気に入っているので、また悩んでしまう。

 従僕が呆れた声を出す。


「マティアス様」

「オッドはどっちがいいと言うだろう? やっぱり、青の方がいいかな。オッドはシュアーディの騎士になったのだから。でも、この赤も素敵だろう? 派手過ぎないし、悪くないと思うんだ」


 どっちでもいいから早くしてくれ、と従僕の顔に書いてあるのは分かっていたが、とにかく決めかねている。

 彼がこっちと言えば、それにしよう。そう決意して、マティアスは両手に一足ずつ持って、従僕の前に差し出した。


「赤です。赤がよろしいと思います」

「どうして? 騎士を迎える仕来りに、青いものを身につけるとか、そういう謂れはなかったかな……ああ、だとすると、白の方がいいのかも。オッドはまだ白の階級だし。もう一度、白い靴も探して」

「赤にしましょう! 今日のお召し物にも、赤が合いますよ」


 往生際の悪いマティアスに、従僕はそう断言してくれた。

 今日のマティアスは黄色に近い薄橙の軽やかなチュニックに、上着のサーコートは金刺繍で縁取りをした褐色。若いうちはあえて落ち着いた色味が良いと、この従僕が今朝用意してくれたものだ。

 マティアス自身は己の容姿に無頓着だが、象牙の肌に琥珀の瞳、人目を惹く紅い髪。少年の面影を濃く残すほっそりとしたしなやかな体形は、たびたび賛辞の対象となっていた。


「分かった。赤にする」

「では、早く靴を履いてください。きっともう門までいらしてますよ」


 マティアスは履いていた靴の紐を解いて脱ぎ、絹のショースの皴を伸ばして、大急ぎで赤い靴を両足に着せてやる。


 どうしても靴だけは妥協ができない。

 もっと他の勉強や、家の仕事の手伝いに精を出すべきだと分かっているが、マティアスの頭の中にはいつも靴が居座っている。


 なんとかドアが開くより早く玄関ホールに駆け込み、家族の列の端にたどり着くと、すかさず義姉シャルロットの呆れた声が飛んでくる。


「マチュー、遅い」

「ごめんなさい……」


 ホールにはゼブラノール家の面々が勢揃いしていた。普段は別邸で暮らす親戚も、乳飲み子も、正式に家に連なる者なら愛人たちも呼ばれている。


「朝履いてた靴で充分だったじゃない。なんでわざわざ履き替えるの?」


 義姉の向こうから、義母ミレーヌがまあまあと嗜める。


「恋人に久しぶりに会うのに、服選びを悩まない方がおかしいわ」

「この子、服じゃなくて靴だから。服は言われたままに着て、靴だけ二時間も選んでたの」

「二時間もかかっては……一時間少々で」

「同じこと」


 シャルロットはつんと視線を逸らし、大きなお腹をさすった。

 次期当主である義姉は、現在三人目の子を妊娠中だ。一人目は五歳の女の子、二人目はまだ二歳の男の子で、乳母と共にホールの端にいる。


 一同の前で子供のように叱られ、マティアスは肩をすぼめて体を小さくした。


「いいじゃない、その靴。綺麗な緋の色ね」


 ホホと笑う義母はお洒落好きで、マティアスの靴好きの数少ない理解者である。

 マティアスは、両親の実の子ではない。同門のジュスタイン家の愛人の子だったが、故あってゼブラノール家に引き取られた養子である。

 朗らかな両親はシャルロット、オディロンの姉弟と分け隔てなく、むしろ末子となるマティアスを特に可愛がって育ててくれた。


 マティアスは何かに呼ばれたように顔を上げた。

 まだ開いていないドアから、明るい空気が吹き込んでくる。分かるのだ。オディロンが近くに来たことは。マティアスは息を飲んで背筋を伸ばし、サーコートの肩を直してまっすぐに立つ。


 かくして、扉は開かれた。

 門の前まで迎えに行った家令が、恭しく両開きの重い扉を押し開ける。ホールに集まった誰もが笑みをこぼした。


「オディロンおめでとう!」

「おかえり、ラウル」

「騎士叙任おめでとうございます、オディロン様」


 自然と拍手が沸き起こった。


 オディロンは正式な騎士甲冑姿だった。兜を脇に抱え、叔父のラウルと並んでいる。

 叔父も騎士であり、すでに二十年近く献身的に国に仕えてきた。その跡を引き継いで、いずれはガーランド一門を代表するような騎士になるのがオディロンの目標なのだ。


 何度も夢で会った、濃い褐色の髪、日に焼けたオリーブの肌、すらりと高い背。逞しい体躯に反して、いつも柔和な表情を浮かべている。

 一回り大きくなったように見える想い人の姿に、感極まって涙がこみあげてくる。それをなんとか飲み込んで、唇を噛み、精一杯手を叩いた。


 拍手と歓声の中、オディロンが大理石の床を一歩踏み出す。騎士甲冑の金属の脛当てをつけたままの脚が、カツリと音を立てた。

 途端、マティアスの首筋を、怖気が這いあがった。寒気に似た、不快で、恐ろしい、逃げ出したくなるような何か。


「マチュー」


 オディロンが呼んでいる。笑顔で手を伸ばしている。灰色がかった濃いグリーンの瞳が、優しくこちらを見つめている。

 だがマティアスは、一歩後ろに下がった。擦れ合ってカシカシと音を立てる、騎士甲冑の金属の装具から目が離せない。近づいてほしくない。

 何故だろう、相手はオディロンなのに。今日ここに帰って来るのを、指折り数えて待っていた、義兄であり恋人である、唯一無二の存在なのに。盾を贈りたいと書かれた手紙を、何度も読み返しては便箋にキスをした、オディロンなのに。

 恐ろしくて冷たいものが、首筋から後頭部に這い寄り、ついにマティアスの頭の中に侵入を果たす。視界が白く染まって、オディロンの姿が見えなくなった。


「マチュー⁉」

「きゃっ、どうしたの」


 異変に気付いたオディロンが叫び、シャルロットも小さな悲鳴を上げる。

 耳は聞こえている。手のひらに、冷たくて硬い感触。膝がくずおれて手を付いたのだと理解した時には、両肩を大きな手で支えられた。


「どうした、マチュー。具合が悪かったのか?」


 オディロンの声だ。手紙を読み返すたびに記憶を手繰った、オディロンの声。思い出より少し低いのは、マティアスの身を案じてくれているから。


「あ、だいじょう……」


 視界が戻ってきた。大理石の床と、膝をついてマティアスを抱きかかえるオディロンの足元が見える。鈍色の爪先。

 悲鳴を上げそうになった。みっともなく、子供が化け物を怖がって泣き叫ぶように。

 マティアスはその衝動をなんとか耐えて、固く目をつむり、オディロンの肩に縋り付いた。

 どうしても見たくなかった。金属の具足に包まれた足元を。


「情熱的な再会になったな。やはり帰還とは、こうでなくては」

「叔父上、そんな呑気な話ではありません」


 ラウルのからかいに、オディロンは噛みつくように言い返す。

 そんな言い方はダメだ。上官への態度をよく注意されると、自分で手紙に書いていた癖に。オディロンはこうだと思うと、すぐ口に出てしまうのだ。

 そのままオディロンはマティアスを抱き上げ、寝室に連れて行くと言い、歓迎の輪から抜け出す。

 マティアスは必死にその肩にしがみ付いていた。

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