第2話 戦後編

「安寿恋しや、ほうやれほ。

厨子王恋しや、ほうやれほ。

鳥も生(しょう)あるものなれば、

疾(とう)疾う逃げよ、逐(お)わずとも。」

───森鴎外『山椒太夫』


竹二郎は、満州でのことを忘れたいかのように、文鳥やカナリヤなどの小鳥を飼い、育てるようになっていた。

そんな竹二郎は、ある日、のちに妻となる淑子と当時の第5陸軍技術研究所の上官の勧めで見合いした。


上官の学生時代の恩師の娘だった淑子は1920年、高田馬場で生まれた。

女学校時代の1936年の2月26日、雪の降る中、学校帰りに軍人たちの列を見かける。

「淑子ちゃん、すぐ家の中へ入ってください」

お手伝いさんにそう急かされ、列を眺めながら、何かが起きるのだろう、と思った。

大東亜戦争が始まり、自宅は空襲の危険が迫り、淑子たちは東京を離れて北海道へと疎開した。

その後半年ほど経って東京、武蔵野へと疎開地を変え、東京へと戻った。


「指は不自由だけど、他は健康で気丈な人だし、鳥が好きで優しい人だ。もう戦地へは行かないから、会ってみないか」


そう言われて、淑子は竹二郎と見合いをする。


お嬢様育ちでおおらかな、あまり戦争のことを知らずにいた淑子に竹二郎は安堵を覚え、結婚することになった。


結婚生活をし始めて、すぐに、淑子は竹二郎の苦労を推測った。

毎晩、寝汗をかきながら竹二郎は夢でうなされていた。


家の中では一切、戦争の話はしない。

淑子はそう固く決めた。


小平市で生活し始めたふたりの間に、息子たちと娘が誕生する。


幼い子どもたちと食べるものがない時代。

淑子は嫁いだときに持参した着物を何枚か竹二郎に持たせて、田舎で米と交換してくるように頼んだ。

竹二郎は国分寺から中央線に乗り、上野を過ぎて、田舎へと向かった。

無事に米と交換してもらい、帰りの電車で安堵と疲労から少し眠った。

三鷹で目を覚ます。

米を包んだ風呂敷包みがなくなっていた。


終戦後、第5陸軍技術研究所は郵政省電波研究所と名称が変更された。

竹二郎は戦後も職場は変わることなく、変わったのは仕事の内容が情報通信の研究に変わっていったこと、そして社会風潮と価値観だった。


米は相変わらず高いか手に入りづらかった。

淑子は知り合いからクェーカーのオートミール缶を安く譲ってもらい、それに小豆や牛乳をかけるのが子どもたちのご馳走だった。

朝鮮戦争に向けて、自衛隊員たちがみゆき通りを行進する。

子どもたちは彼らを待ち構えていた。

カンパンを分けて貰えるからだ。


戦時中はあれほど尊敬された軍人も、戦後、価値観や社会風潮は大きく急転換し、傷痍兵たちは石を投げつけられたり、差別されたりもした。


陸軍幼年学校から終戦までの長い期間、竹二郎は軍国主義が当たり前である中で育ち、教育を受け、お国のためと軍人として働いた。生粋の職業軍人だった。竹二郎は変わりゆく日本の社会の良い面と悪い面を目の当たりにしながら、どうにか馴染もうとした。時には自身の過去を否定しなければならないのか、と葛藤もした。戦時中の記憶による苦悩はその後、50年、60年以上続くことになる。


子どもたちには眠る前、森鴎外の山椒太夫を読んで聞かせた。

それに飽きた子どもたちは、「お父さんは兵隊だったから指がないの?」「兵隊でどんなことしたの?」とたまに聞いてくるようになっていた。

長男の武文は、父親がよくうなされているのも知っていた。


「満州で戦わなきゃいけなかったんだよ。

突撃の合図をしたり、馬に乗ったり」


「へー、馬に乗れるの?」


「馬はとても賢くてね。相手が馬鹿だと見抜くと蹴るんだよ。お父さんの乗った馬はとても賢くて良い馬だったんだけど、撃たれて死んでしまった」


「敵倒したりしたの?」


「どうだったか、、、もう寝なさい。武文は長男だからね。誤った道を選ばぬよう、自分で道を拓けるように、よく勉強しておきなさい。とにかく、お母さんと兄弟を大事にするんだよ」


竹二郎は子どもたちに聞かれても満州でのことは馬のことくらいしか当時話すことができなかった。時折、休みの日には、自転車で子どもたちと府中にある東京競馬場へと向かった。レースを見るためではなかった。パドックの馬を見たかった。かつて、満州で乗った馬に想いを馳せた。


5人家族では手狭となり、竹二郎は通勤時間がかかっても、もう少し広い湘南の実家へ戻った方が良いと判断した。兄弟たちは、妹以外、戦死し、誰も実家を継ぐ者がいなかった。子どもたちの教育には竹二郎も淑子もあまり口を出さなかった。それよりも伸び伸びと自然環境の中で平和に穏やかに育って欲しい。そう考えていた。


やがて、子どもたちは成長し、子どもの頃から比較的物事に対する飲み込みの早かった長男の武文は国立大学医学部へと進学した。

高校、大学と武文は器械体操部にも所属した。

大学附属病院では循環器内科を専門とし、自律神経と心臓の関係などを研究対象と定め、研究に没頭し始めてもいた。


そんな順風満帆なように見えた1968年のある日、武文は医局を訴える看護師らとデモ活動に参加し始めた。それは、東大医学部紛争、通称、東大紛争と呼ばれ大学紛争の始まりとなる。家ではマルクスやサルトルの著書を読み漁るようになった。

竹二郎は武文に対して、「本分を弁えていない、他人に迷惑をかけるな」、と真っ向から対立するようになった。


何人かの研修医や学生らは大学当局から処分が言い渡された。直属の上司であるS教授は「我関せず」、と傍観的であった。それらに反駁を覚えた武文は大学病院を離れて、学会発表を理由にヨーロッパへと向かった。向かった先はドイツ、ハイデルベルクとスウェーデン、ストックホルム。

しばらくして、武文は実家に妊娠中のスペイン人女性を連れて帰ってきた。


「この人と結婚したから。内科医は辞める。伝統的な建築を残す会社を起こしたい」


ヨーロッパでの伝統的な街並みや建造物、文化を大事にする風習が武文には忘れられなかった。


竹二郎は、当然、猛反対したかった。しかし、妊婦を邪険に扱うことなど出来ず、また、武文の稀に見る情熱的な説得や、竹二郎本来の多くを語ることのできない性分から、武文の結婚や大きな決断を認めざるをえなかった。武文に一度賭けることにした。


こうして、武文は小さな工務店を開いた。

武文にとっては、全く未知の業界であった。高度経済成長の当時、今では信じられないほどに建設業はノリに乗っていた。


竹二郎は、足元をすくわれなければよいのだが、と案じつつも、息子たちの独立と戦後の復興の驚くほどの速さに、しばし、複雑な想いを抱きながら見守った。


武文は昔ながらの古い考え方──しかも軍人気質──をする父親の竹二郎に反発しながらも、結局は同じように、子どもたちに、森鴎外の山椒太夫を読み聞かせた。そして、竹二郎と同じように毎回、

「お母さんと兄弟を大事にするんだよ」

と、言った。


武文の子どもたち、竹二郎の孫たちを通して、それまで対立することの多かった竹二郎と武文は和解し始めてもいた。


孫たちもやがて成人していった。

彼らも自分たちの子どもたちに森鴎外の山椒太夫を読み聞かせた。そして竹二郎や武文と同じように毎回、

「お母さんと兄弟を大事にするんだよ」

と、言った。


1985年前後、竹二郎は70歳を超えて、終戦から40年以上が経ち、共産圏の崩壊の音が聞こえ始めてもいた。

1991年には米ソ冷戦終結。

その間、少年凶悪犯罪や過労による自殺などのニュースが飛び交うこともあった。


武文の子どもの長男、竹二郎の最初のひ孫は小学校高学年に差し掛かろうとしていた。


竹二郎は、子どもたちに聞かれても、ほとんど話さなかった戦争の記憶をどうしてか、伝えておかなければならない、と思い始めてもいた。


85歳、2000年、新しい世紀の始まり。終戦から55年が経とうとしていた。


竹二郎は正月にこれまで誰にも話したことのない、自身のことを語り始めた。


「おじいちゃんは、陸軍の幼年学校に行って、兵隊でお国のために働こうと思ってた。初年兵とかはもうその頃は往復ビンタで当たり前、みんな全体で連帯責任とかね。馬に乗ってたり機関銃撃ち合ったりね」


毎年、孫、ひ孫を集めて少しずつ過去のことを語る。上官の命令と捕虜たちのことや、幼年学校からの同期が亡くなったことを話すとき、胸を詰まらせ、泣いていた。


子どもたちや孫たちが戦地へ行くようなことはさせたくない。

戦争は勝っても負けても、戦争経験者にしかわからない、悲惨なことしかない。

平和であること、あらゆることに自由であること。生きる力。

そのことをどうしても伝えておく義務がある、と竹二郎は悟っていた。


「弱いひとを助けてあげて仲良くしないといけない。原爆であろうと、銃であろうとなんであろうと他人を傷つけて死に追いやることは、そうした側も必ず最後、悩まされることになる。絶対してはいけない。そんな中でも、おじいちゃんは生きて生き抜いてきたから、何があっても、乗り越えられないことがあっても、生き抜きなさいね」


毎回、こんな感じの長い締めくくりで竹二郎は話を終わらせる。


晩年、憲法改正の声も与党から出始めていた。

時々、ひ孫たちの社会や国語の教科書を眺めて、ため息をついていたりもした。


2014年にもうすぐ99歳になろうとしていたある午後、淑子や武文、孫やひ孫らに見守られながら老衰で眠るようにして永眠した。


しばらくして、竹二郎を追うように、淑子も永眠した。


淑子は竹二郎の気持ちを察してもいたようだ。

女学校時代からつけ続けていた日記がそれを物語っていた。


***


小さなどこかの家族の歴史は循環するかのように、それぞれの生命の終わりとともに次のものへと引き継がれ、少し新しい小さな家族の歴史の始まりとなる。


そうした小さな家族の歴史は権力者たちによって都合良く修正されたりはしない。


山あり谷ありを超えて家族と歴史を紡ぐ、船を漕ぐように。


「そうですとも。今まで越して来たような山をたくさん越して、河や海をお船でたびたび渡らなくては往かれないのだよ。毎日精出しておとなしく歩かなくては」

───森鴎外『山椒太夫』


竹二郎の物語、誰かにとっては古臭くつまらないフィクションであり、ある者たちにとってはノンフィクション。

小さな家族の戦争の記憶と山椒太夫を語り継ぐ物語。


──完

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竹二郎の物語 Hiro Suzuki @hirotre

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