一章 平凡な日々に束の間の終幕を
それでは、物語に開幕を①
昨日、蝉が鳴き始めた。梅雨は明けたのだろうか。ニュースを余り見ないから詳しくは分からないけれど、日差しと、吹いても嬉しくない熱風は明らかに夏の到来を告げていた。夏は何か始まる予感だけを告げて、その実暑いだけだから嫌いだ。それに臭い。この体育館に集められた全校生徒は、汗臭いやつか制汗剤臭い奴しかいない。誰もこの長ったらしいSNS犯罪防止講習会に興味は無く、学生代表として選ばれた女生徒が読み上げる[お礼の挨拶]の終わりを皆、今か今かと待っていた。
「伊乃上さんのお話を聞いて〜」
この講習会の講師である伊乃上さんとやらは、長身の体をブンブンと振って相槌を打っている。インターネットで調べたようにテンプレートな台本を読み上げている生徒は緊張している様子だった。声は上擦り、手紙を持つ手はガチガチ。頬は燃えるように赤く、前髪は汗で張り付いている。落ち着きはなく、綺麗に束ねたポニーテールが小刻みに揺れている。このサウナのような体育館の中の熱気の大半は、彼女から出ているのではないかと思うほどだ。
「なぁ下高、このあと絶対2年生は残されるぜ。」
後ろから鈴木が声をかけてくる。
「なんで。」
「いやな、隣のクラスの松下がさ昼休憩に学校にピザ宅配したらしいんだよ。で、それがバレたって訳。さらに最悪なのがバレたのが、」
「そこ。静かにしろ。」
声のトーンを抑えて口早に鈴木は続ける。
「この鬼教師谷本ときたもんだ。他の学年を教室に返して2年は全体でお説教タイムってわけよ。」
「なるほどな。」
学年1の情報通であり、初対面で「下高って高いのか低いのか分からないな、中田とかならわかりやすいのに。」と言い放ってきたやつの言葉だ。信用できる。
「何話してるんだ。」
鬼教師と評される谷本が近づいてくる。
「いやぁ下高が熱中症っぽくて。ゲロ吐きそうなんだよな。な。」
「え、いや。」
「なに、大丈夫か下高。」
周りの視線が集まる。
「ゲロ、吐きそうです。」
鈴木が保健室に連れて行きますと言い、2人で体育館を抜け出した。
外に出ると風が頬を撫でた。依然として熱風であるが、今はそれでも有難い風だった。呑気に伸びをしていたら、水道で顔を洗い終わった鈴木が制服のシャツで拭きながら話しかけてくる。
「よし、行くか保健室。」
「行かないよ。ゲロ吐きそうじゃないんだから。教室帰って課題しとく。」
「数学?」
「英語。」
「お前まだやってなかったのかよ。明日提出だぞ。」
「まだ3ページ分しかやってない。」
「澄ました顔して案外バカだよな。下高って。じゃあ俺は保健室行くわ。」
鈴木は今年度から配属された保健室の先生に御乱心なのだ。学年1の情報通なのにも関わらず、その先生が既婚者であることを鈴木はまだ知らない。可愛い奴である。友の恋路は応援するものである。僕は両親にそう教えられているから、何も言っていない。決して面白がっている訳ではない。友情、思いやりの清き精神である。
そうして鈴木とこの僕、下高秋人はそれぞれ別方向へ歩き出した。この後、鈴木は数学教師である山田と保健室の先生の不倫現場を見てしまい、海派山派論争において海派狂信者及び、数式アレルギーを発症することになる。本来であれば、鈴木が今日一番の不幸者になるはずであった。しかし、そうはならなかった。ピザ宅配がバレた松下でも、一生物のトラウマを負った鈴木でもなく、今日一番の不幸者は僕であった。なぜなら、サウナのような体育館で長い説教を終えたクラスメイト達は見つけるのだ。教室で泡を吹き失禁し倒れている僕の姿を。
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