フィリピン編②バロットと取引現場とカツアゲと

店を出た僕たちを待ち構えていたのは、フィリピンの名物料理だった。思い返せば、この名物料理がこの旅で一番しんどかったことかもしれない。


そう、バロットだ。


バロットは、簡単に言えばゆで卵だ。タガログ語ではbalutと書くらしい。ただのゆで卵に何をそんなに苦戦したのか、と思う人もいるかもしれない。


しかし、バロットは孵化直前のアヒルの卵を茹でた料理だ。当然、食べれば雛がいる。


僕らが行った通りにはバロットの屋台が出ており、フィリピンに来たからには食べなければならぬだろうと、要らぬ使命感を持ったカメラマンに無理やり食わされてしまった。僕はこれまでも、カブトムシやコオロギ、蛇やカエル、セミやワニなどゲテモノと呼ばれるものはかなり食べてきた。


しかし、バロットだけはどうしても忌避感が強かった。それでも、仕事とあらば食べなければならないのがフリーライターの辛いところ。手に取った瞬間に何か嫌なものを感じ取るこの卵を目の前に、狂気の海に身を投じる思いでエイッと口を開く。


味は、意外と悪くなかった。ニオイはしんどいが、味自体は少し親子丼に似てる。卵と鶏肉の中間のような食感と味をイメージしてもらえれば、わかりやすいかもしれない。独特なニオイが邪魔をしているが、ポン酢があれば、十分に美味と言えるレベルだった。


ふと、食べ口を見てみると、雛がこんにちは。今にも「コンニチハ」と声が聞こえてきそうだった。僕が食べたのは比較的遅めの卵であり、なおかつ状態がキレイだったため、はっきりとこれがどういう生き物だったかがわかる。


「え、しんど……」

「これはしんどい」

「見たらダメなやつだ」


ガイド以外の全員が、口々に「しんどい」と声をあげる。僕は「お前ら食べとらんやろ」と言いたくなるのを堪えながら、心のなかで深く命に感謝しつつ、思い切ってかぶりついた。なんか、口の中に毛のようなものが入り込む。さっきは浅く食べたからえぐいゾーンに突入していなかったのかもしれない。印象が変わった。


とにかく、食感が悪い。命を食ってる感覚がダイレクトに伝わるとでも言えばいいのだろうか。


フィリピンでは精の付く食べ物として庶民の間で食されており、夜の街で遊ぶ前に食べる人も多いのだという話を店主がしてくれる。ほかにも「うちのカミさんが」「うちの娘がね」とか色々な話をしてくれた気がするが、何一つとして頭に入ってこなかった。


臆せば死ぬ。誰かの言葉を思い出し、狂気に身を任せ、目の前の命の塊を貪り食った。


「引くわあ」


完食した僕に斎藤ちゃんが投げかけたのは、そんな言葉だった。お前らが食え言うたんやろがい、と思わず声に出てしまう。


僕は二人分のバロットを自腹で注文し、二人にも食わせることにした。ガイドさんは終始、にこやかな表情で僕らを見ている。


「おら食え!お前らも食うんだよ!食わなきゃ実感わかんでしょうが!」


全員知人とはいえ、クライアントにここまで暴言を吐いたのは後にも先にもこのときだけだ。記事にするためだと二人を説得し、食べさせる。味の感想はふたりとも「悪くない」だった。


だが、感想を口にするために立ち止まったのがよくなかった。僕と同じ轍を踏み、二人とも顔をしかめて硬直してしまう。それから少しして、貪るように食った。僕は、二人の鬼のような形相を見て、斎藤ちゃんがなぜ「引くわ」と言ったのかを理解した。


これは、漫画で見る食人鬼のような顔だ。


二人共なんとかしてバロットを平らげたが、斎藤ちゃんがグロッキーになってしまったため、休憩することに。僕は二人の苦しむ姿が見られて満足し、元気を取り戻していたため「じゃあ僕は一人で街ブラしてるよ」と告げ、一旦解散した。ガイドさんが二人についていれば、安心だろう。


僕はガイドさんから事前に言われていて、気になっていたことがあったのを思い出した。


「ここから先は危ないから出たらダメ」


通りの節目でもなんでもないようなところを指して、ガイドさんがそう言ったのだ。そこが治安の明確な分かれ目らしく、観光客が一人で立ち入るとスリにあったりするらしい。僕は「こういうところをレポしてこそディープスポット巡りだろう」と思い、ワクワクしながら危険地帯への一歩を踏み出した。


危険地帯に足を踏み入れると、異質な空気が漂っていることに気づく。明らかに、これまで歩いてきた通りとは違っていた。暗くジメジメとした雰囲気とでも言えばいいのか。とにかく、地続きの同じ道とは思えなかった。


ふと路地の暗がりに目をやると、なにかの取引現場のような場面が目に入る。金を渡している男と、小袋を渡している男。なるほど、これは薬物の取引現場だ。実際の取引現場は、想像とかなり違っていた。


想像では、こんな感じだと思っていた。


「へへっ……これで」

「たしかに。ほらよ」

「ハァハァ……これでまた……」

「またよろしくな」


実際は、会話はよくわからなかったが、なんか和気あいあいとしていた。談笑しつつさりげなく金と小袋を交換し、また談笑して離れていく。なるほど、このほうが怪しまれにくい。仮に誰かが見ても「談笑している二人」に見える。裏路地で談笑するというシチュエーションは謎だが。


ふと、男の一人と目があった。これは流石にまずいだろう。退散しよう。


しかし、ここまで踏み込んでおいて危険地帯から早々に脱するなど、僕のチンケなプライドが許さなかった。僕はそのまま危険地帯を我が物顔で突き進み、行けるところまで行ってやろうと思った。


無意味に裏路地に入っては物乞いにたかられそうになったり、お取り込み中の現場に遭遇したりしつつ、「意外と危なくないな」と考える。振り返ってみると十分過ぎるほどに危ないし、後にガイドさんが言うには「今日は特にやばい日だったみたいだね」とのことだ。年がら年中取引があったり、お取り込み中だったりはしないらしい。


物乞いは年中いる。


甘い考えを持ちながら危険地帯を探索していると、急に肩を掴まれる。数人の男が何かを喚いているが、早口過ぎて聞き取れない。英語であることだけはわかるのだが、それ以外のことはわからなかった。


僕はここは陽気に行くべきだろうと考え、ひたすら「イエア!」「オー!ナイスナイス!はははー!」と手を叩く。その調子で不思議な言葉のドッジボールを続けていると、男たちの顔がだんだん険しくなってきた。何か間違えたらしい。


よく聞けば、「Money」とか「Crazy」とか「F○ck」とか言ってる。Crazyは今しがたの僕の振る舞いのことを指しているのだろうが、Moneyとはなんだろうか。「お金落としましたよ」ではないだろう。


少し考えて、気づいた。カツアゲだ。フィリピン・カツアゲだ。日本で生きてきて一度もカツアゲに遭遇したことのなかった僕は、変にテンションが上ってしまう。日本語で「おお!カツアゲ!すげー!本物だー!」と口走っていた。スリが横行していると聞いていたから、カツアゲなどという直接的な手段は使ってこないだろうと油断していた。


だから、なおのこと面白くてたまらなくなってしまう。


男たちははしゃぐ僕を見てイライラを募らせたのか、突然殴ってきた。痛みのおかげで少し冷静になり、「No Money! No Money!」と叫ぶ。


相手の返答は想像になるが、「日本人だろ?金持ってるよなぁ!」と言っていたような気がする。


「ビジネス! アザーピーポーズマネー!(仕事だよ!人の金なんだ!)」

「クライアントズKeihi! Do you know? Keihi!」


経費は日本語だ。しかも「Do you know?」は煽りにしか聞こえない。ジャパニーズ拙い英語でもそれは伝わったのだろう。僕は、数発殴られた。


懐を探られ本当に金が無いことを確認した彼らは立ち去っていったが、かなり痛い。比較的安全な通りにまで戻り、スマホで確認してみると左目の瞼の皮がボロボロになっていた。血も出ている。


ただ、思ったよりは怪我をしていなかった。


ガイドさんと連絡を取ってみんなと合流すると、「何があった!?」と聞かれる。ガイドさんだけは「だから危ないって言った!」と、何があったのか察した様子だった。僕は斎藤ちゃんと田中さんに説明する。


「危険地帯に行ったらカツアゲされたんよ! びっくりしたわー」

「まじかよ、よくやるわ」

「最初何言うてるかわからんくて、「イエア!」とか「ナイスナイス!」とか言って手を叩いて笑うジェスチャーしてた」

「殴られてもしかたないね」

「自分でもそう思う」


先程の店でとりあえずの手当をしてもらい、これからどうするかガイドさんに聞かれた。僕は二つ返事で「取材続行!」と答えた。


もちろん、プロ魂……と言いたいところだが、そこまで大層なものは持ち合わせていない。単に恐怖心が面白さに変わったことと、怪我をした状態で女の子の店に行くと、励まされたり慰められたりして気分がいいからだ。


正直、冷静になれば泣いてしまうので誰かに慰められたかったのかもしれないが。

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