第137話.銃後会
明治四十一年、六月六日。
度重なるルシヤ軍の突撃により、日本軍内の物資の枯渇と人員の損耗が顕著に表れ始めた。
前線は辛うじて後退させずに防衛しているものの、内情は負傷兵まで戦線の維持に努めている状況である。
さらにいくつもの機関銃が、弾薬不足と整備不良によって放棄されていた。穴だらけになり、崩落し放題の塹壕地帯と共に鉄壁を誇っていた防御陣地の面影は無い。
壕内で身を潜めている兵隊達の表情からは、一片の余裕も感じられず、暗い穴の底で震えて死刑を待つ死刑囚のような面持ちだ。
一方ルシヤ軍にも、もはや余力は残されて居なかった。強硬な攻撃の代償として死傷者は日本軍の四倍に膨れ上がった。
死傷を省みぬ突撃命令はそれを命じられるのを待つ兵隊に希望は無く、もはや死を待つだけの黒い列になっていた。
……
明而陸軍前線司令部。
今日もいつもの人員で、戦況に関する会議が行われていた。
「阿蘇閣下。銃後会の者が来ておりますが」
「ああ彼らか。約束通り来てくれたようだな、ここへ通せ」
会議も行き詰まって閉塞感を覚えて久しい。
銃後会(じゅうごかい)という聞き覚えのない名に、私の心は惹きつけられた。
少しばかり期待を持ってそれを待っていると、予想外の人物がそこに現れた。
「銃後会の代表、吉野吾郎です」
「阿蘇陸軍大将だ。よく来てくれたな」
「光栄です」
姿を見せたのは同期の吉野吾郎だった。
あの関西弁の……どうやら将軍の手前、言葉に気をつけているようだが、間違いなくあの男だ。
「物資を届けてくれたと聞いた」
「はい、食料に医療品。主に米と塩と。前線の兵隊には腹一杯に白い飯を食わせてやって頂きたいですから」
「ふん、そうだな。白米こそ我等の力の源である。士気も上がろう」
白米のみの糧食では、どうしても脚気などの栄養不良からくる疾患にかかりやすくなる。それでも安易に止めろとも言い辛い。本当にそれが、暖かい白米が士気を上げるのだから。
この戦争が終わったら、改革の進言をするべきだろうか。そんな事を考えながら、彼の姿を目で追っていると、ふと目線が合った。
「穂高、穂高進一少尉。久しぶりです」
「今は中尉だよ、吉野少尉……いや今は?」
「はい。今は、軍の所属ではありません」
妙に他人行儀な話し方だ。しかし、そうか軍を辞めたのだな。一人納得していると、咳払いを一つして阿蘇将軍が割って入った。
「ふん。積もる話もあるだろうが、先に用件だけ確認したい。後で語らいたまえよ」
「「はい」」
私と吉野の声が重なった。
いつ以来だろう、上官の前で「は」と「い」を彼と重ねたのは。懐かしい記憶が、ふと思い出されたのだった。
……
会議が終わった後、私と吉野は天幕の外で落ち合っていた。どちらから言い出した訳ではないが、自然に二人の足は同じ場所に向かっていたのだ。
「久しぶりやな穂高(チビ)!随分出世したみたいやないか、将軍閣下と会議なんてよ!」
「ははっ!お陰さんでな。軍を辞めたようだが、お前も元気でいたのか?」
「ああ元気やで。やっぱり俺は、お前の言う通り向いてなかったんやと思うわ」
最後に彼に会ったのは、浅間中将の狙撃事件の時だ。事件に関与したとして拘束されていた吉野に、私は「向いてない」と言い放ったのだった。
「そうか」
「まぁ、おかげさんで。いろんな事に気付かせて貰ったし、やな」
吉野は懐から煙草を一本取り出して、こちらに目配せした。黙って頷く。
「ところで、銃後会というのは?」
「札幌に立ち上げた自治組織や」
「自治組織?」
「ああ。札幌の現状知らんやろ。大変やで、なにせ雑居地中から避難した人間で溢れてるんやからな。外国人の迫害から始まって、同胞でも泥棒や刃傷沙汰はしょっちゅうよ」
吉野は煙草をふかして、続けた。
「警察も、軍も、手一杯。だから自分らで律していこうという流れがあった。そこで俺がたまたま音頭をとったってわけや」
「治安維持の為の組織か」
「そうや、今はちょっとはマシになってる。陸軍の前線では物資の不足で困ってるって聞いたから、組織で取りまとめていくらか応援積んで来たってわけや」
徴兵検査にも合格できないような年寄りや、体格の優れぬ者を集めての組合だそうだ。
戦争という非日常の侵食が、民間人にまで及んでしまっている。札幌に居る妻、明子には不便をかけているだろうな。
「良くやっているな」
「ん?ああ。戦争になった以上、勝ってもらわなあかんからな。それに誰に命令される訳でもないし、今は気楽なもんや」
そう言う吉野の笑顔は、学生時分のようなあどけなさを思い起こさせた。
「向いてるよ」
「そうか?」
ふと、口からそう言葉が出た。吉野は一種、戸惑ったような表情を見せたが、すぐにいつもの調子に戻って言った。
「いや、そうか!まぁ頑張るわ!ぼちぼちな。穂高(チビ)も頑張ってくれや」
「ああ。共に自分にできる事をやろう」
吉野はニッと歯を見せて笑うと、吸い殻を地面に捨てて靴で踏み消した。
「ほなな。また会おうや」
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