第130話.吉野ノ決心「札幌視点」
流入する者、抜け出す者。様々な人間が様々な思いを持って、流動する街。札幌は未だかつてない変革を迎えていた。内地への疎開組、雑居地各地方からの避難組。一日でも同じ日はなく、人や物がせわしなく動き続けている。
吉野吾郎はその街にいた。かつて浅間中将を襲撃した陸軍の不穏分子の一味として捕らえられ、拘留取り調べを受けたあの彼である。
中将を襲撃した派閥の主要な人物は、内地の陸軍刑務所に送られたのだが、彼のような右も左もわからぬ青年将校らは、ある程度の制裁は受けたものの解放されていた。
慌ただしい街の一角。
駅の近くのレンガ造りの建物、彼が学生の時分より贔屓にしている一件の店がある。その洒落たミルクホールに、吉野は飛び込んだ。
珈琲と牛乳(ミルク)の香りが満たされた柔らかな空気を切り裂いて、カウンター越しに彼は言った。
「マスター!まだ逃げてへんのか?札幌の民間人は内地への引き上げ船が出てるんやぞ。はよ逃げな、船もいつまで出れるかわからへん」
「吉野か、いらっしゃい」
明而では珍しい洋服を着て、ヒゲを整えた初老の男は吉野の剣幕に一つも動揺することなく応えた。
「いらっしゃいちゃうわ!わからへんのか、逃げなあかんて」
「良い豆が入ったんだ。珈琲で良いか?」
店は当初はミルクと甘い洋食を提供するのみであったが、今では珈琲や紅茶といった物にまで広く手を出している。異国の人間が多いこの街では、新たな味に警戒されることなくそれらは良く売れていた。
「わかってるよ、でもな。俺は、ここで珈琲(コーヒー)や牛乳(ミルク)を淹れるくらいしか出来んからな」
そんな事を言いながら、店主(マスター)は珈琲を淹れ始める。他に客がいない事を確認して、吉野はカウンターに乗り出すようにして言った。
「マスター、よう聞いてくれ。今やったら乗れる。アー子とマスターの分、俺と一緒に二人なら内地行きの船に乗れるんや」
無言で珈琲を淹れ続けるマスターに対し、外に漏れないような声色で、吉野はボソボソと続ける。
「将校も嫁子供から逃がしたがるんや、軍隊様様や。だから大きい声では言えへんけど、二人なら手配できる。今日出発したら間に合うから……」
「どこへ逃げたって行くところがある訳じゃない。俺は店に残るよ」
「そんなん、まず生きてな意味ないやろ!」
声を荒げてしまった事を反省したのか、そう言った後に彼は少し小さくなった。
「それはそうだな。でも、ほかの人達を押しのけてまで内地に逃げて、それが人間が生きるって事かな」
マスターは静かに、何ともわからぬ声色でそう言いながら陶器のカップを差し出す。白い、小さなカップには暗い色の珈琲が入れられている。
「綺麗事じゃない、戦争なんや。命があったら、店かてやり直せる!俺が親父に頼んで支援したっても良い!頼むからアー子と一緒に避難してくれや、マスター」
そう言って、吉野は足元に目をやった。真っ直ぐに目を見る店主の、その視線から逃れるように。
そこに、赤毛の女給が奥から出てきて言った。
「私も逃げんよ、この店に残る。勝手に人のやる事決めんでくれる?」
「アー子!」
「私は逃げん」
「何でや!俺はお前のこと思(おも)て、言うてるねん」
赤毛の女はアナスタシア。吉野とはこの場所で出会ってから、恋仲になっていた。
「なんて顔してるんよ」
「顔て。関係あるか。良いから逃げよ!お前ら逃すためやったら俺はなんでもする。だから準備せえって」
「本当にヨシノはそれで良いと思ってる?私とマスターを札幌から逃がして、それでヨシノも逃げて、それで全部良いって」
「あほか。俺は……アー子とマスターが心配で。ああ。だから良いも、悪いもないやろ。戦争が始まって」
アナスタシアは一瞬、窓の外を見た。釣られて吉野も同じように外を眺めた。相変わらずの喧騒で、駅前は荷車から人間から長蛇の列だ。
「ヨシノは、まだ何かできると思ってる。違う?」
「俺にできるんは、マスターやアー子が札幌から無事に逃げられるように……」
「逃げたって意味ない。内地に逃げたって、私らに何が残ってると思う。それならここでやれる事をやる。私も、マスターも」
彼女がマスターの方へ視線を向けるが、当の本人は何も言わずに次の珈琲を淹れる準備をしていた。
「みんなが帰って来たときに、安心できるようにここを守る。逃げられなかった人らの拠り所になるように、ここを守る」
「アホな事言うな」
「アホじゃない。私は自分で決めた。自分の心に従って決めた。ヨシノも私達のためなんて言って、大切なことを他所に預けないで」
彼女は真っ直ぐに彼の目を見る。
「自分で決めるの。ヨシノはその力を持ってるでしょ」
「力って……」
「だって私が好きな男なんだから。ヨシノはやれるよ、なんだって。自分で決めて、やるべき事を果たして」
「俺が、やるべき事」
「そう、どうなったって良い。帰る場所は私が守るから。ヨシノはやるべき事を見つけて、それを果たして。……そして、私を守って」
「アー子……」
吉野は、「ウン」と一人で口の中で唱えると珈琲に口をつけた。
「もう、なりふり構ってられへんな。やるか、俺にできる事」
「なりふり構ってたの?今まで」
「ええやろ!……とりあえず用事、思い出したから俺はもう行くわ」
吉野は真っ直ぐにアナスタシアを見る。彼女も視線でそれに応えた。
「うん、いってらっしゃい」
飛び出して行った吉野のカップの下には、お札が一枚挟まれていた。まだ暖かいカップを下げながらマスターは言った。
「不器用だけど、良いヤツじゃないか」
「そうね、ほんとそう」
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