28.『二足歩行』『迷宮』『中指』

「生きるって、難しいと思いませんか」

 

 それはいっぱい使い込まれた言葉で、ひょっとしたら陳腐で、青臭いから誰も表立っては言わないようなことだ。

 だから私の口から飛び出たのはうっかりだった。

 誰だって一度は思えど、振り切ってそれでも生きているのだから。


「え〜? そうかなぁ?」


 ――誰だって一度は、生きることの難しさに嘆いている。

 そう思っていたから、その反応は私にとって衝撃だった。


 到底強がりには思えないような気の抜けた声色。

 それに驚いて振り向く私の目に映ったのは、艶やかな黒髪を揺らし、ピーナッツをぼりぼりと貪りながら書類に目を通している彼女の姿だ。


 私の心の弱いところから漏れ出た本心は、彼女にとって取るに足らない雑談に聞こえたらしい。

 まぁ、その方が気楽でいいけどさ。


「助手くん、キミは生きることが難しいと思ってるの?」


 私が吐いた言葉を、そのまま疑問形にして返してくるその人。

 聞いていなかったわけじゃあるまいし、私はその問いに肯定するしかない。


「だって、そうじゃないですか。生きてる限り傷つかなきゃいけないし。苦しまなきゃいけないし」

「卑屈だなぁ」


 愛想笑いのひとつすら見せずに、それどころか書類から目を離すことすらせずに、その人は私の本心を一言で切って捨てた。

 なんとなく向き合ってくれていないみたいで、無性に心が苛立ってしまう。


 思えば私の失言――言わなくていい言葉を吐いてしまったことが発端だから、弁えて身を引くべきだったんだけど。


 それでも私は、ふつふつと湧き上がる焦燥感と劣等感に耐えることができなかった。


「あなたはどうしてそんなに気楽なんですか。どうして悩まないんですか。外に目を向ければ、悩んでいる人なんていくらでもいるのに」

「……ふむ」


 言った瞬間、これこそが失言だと悟った。

 本当に向き合っていなかったのは、私の方だと気づいた。

 これではまるで、彼女を責めているみたいではないか。

 ただ、私が弱いってだけの話なのに。

 彼女が、私より遥かに強いってだけの話なのに。


 そこで初めて、彼女は表情を変えた。

 眉をひとつ上げて、書類を散らかったデスクの上に放り投げ、使い古されたオフィスチェアに座ったまま、少し離れたソファに座る私と目を合わせる。


 その目は、深く澄んだ黒をしていた。


「わかってるよ。みんなが悩んで、苦しんで、それでも生きてること。ひとりで背負うには、『生きる』っていうのがあまりに大きく、重すぎること。私だってわかってる」

「あの、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」

「いいのいいの。不安なんだよね、キミは。まったく、心配性なんだから!」


 目の前には、いつもの彼女がいた。

 私を見ていてくれている時の、頼もしい彼女が。

 そう認識したと同時に、またひとつ、自分の醜さに気づく。


 ――ああ、嫉妬していたんだ、私は。

 誰にでもない。私から彼女を奪う、仕事の存在に。

 私と彼女を繋ぐものがそれである以上、滑稽で宙ぶらりんな独占欲でしかないのに。


「ねぇ、助手くん。私はどうして、それでも生きることが難しくないって言うんだと思う?」

「え……悩みとかが何もないからじゃあ……」

「天然に失礼だね、キミは!」


 大げさに目を見開いて苦笑いするその人。

 その反応は、冗談を交わし合う時の温度だ。

 もちろん私だって半分は軽口のつもりだった。失礼ではあるかもだけど、天然じゃない。


 でももう半分は、本気だった。

 彼女は強い。私はこの人がいなかったら生きていけないけど、彼女はきっと、たったひとりでも自分の足でしっかりと立って、歩いていける人間だ。


「……私は、ひとりじゃ歩けません。それどころか、立ち上がることもできなかった」

「あはは、まぁね! もうすんごいヘナヘナだったもんね、ほら、山を越えて隣の街まで行ったあの時とかさぁ!」

「いや、物理的な話じゃなくて……」


 そう、あれはもう1年も前になるだろうか。

 突如として登山に目覚めた彼女は、張り切って徒歩で山を越え、隣の街まで向かったのだ。まったくなんてやつだ。

 嘘だ。あれはたしか、土砂崩れで車が通行止めになっていて、復旧の目処が立たず、それでも3日以内に隣の街まで行かなければならなかったから、覚悟を決めて徒歩で山を越えたのだ。


 そんな芸当、私だったら思いついてもやらない。諦めてしまう。それがどれだけ大事な用事でも、天が私を見放したのだと家で泣きわめくことしかできない。

 というか徒歩で片道2日かけて山を越えるのは普通に正気じゃない。


 そんな正気じゃない彼女だから、私はどうしても、この人に悩みなんて月並みなものがあるとは思えなかったのだ。


「自立って言葉があるじゃないですか。あれはきっと、自分自身の力だけで立って、踏みしめて、二本の足で歩けるような、そんな強い人であれと言っているんです。それが生きることの『普通』なら、私にはできなかった」


 恨み節が盛れた。

 彼女へのじゃない。あえて表すならそう、『世間』とか『世界』とか、そんな曖昧で大それた誰かへの。

 もっと素直に表すなら、非力でちっぽけな『自分』への。


 そんな面倒臭い私の言葉を聞いて、彼女は――、


「バカだなぁ」


 はっ、と息を吐き、笑った。

 ほんと、小馬鹿にするように、肩をすくめて。


「ばっ……! バカはないでしょ! 悩んでるんですよ、私は!」

「だぁから、最後まで私の話を聞けっての」


 錆と経年劣化でギコギコと音を立てるオフィスチェアから立ち上がって、彼女はこっちに歩いてくる。

 ふわりと花の匂いが香って、どうしようもなく泣きそうになった。


 私の目の前で足を止めると、彼女は私の鼻をつまんだ。


「私の話を最後まで聞く。はい約束して」

「ふぁい」

「よろしい」


 私の返事に満足すると、彼女は向かいのソファに腰かける。

 大きく息を吐いて、少し間を置いて、もう一度息を吸い込んで、言った。


「――私にだって悩みくらいあるに決まってるでしょ。生きてるんだから」

「――――」


 ストンと、その言葉が胸に落ちる。

 単純なものだ。さっきまで訝しんでいたことでも、彼女にこうやって正面から言葉をもらえれば、瞬きほどの間に納得してしまうのだから。


 ――生きてる。そう、生きてるのだ。

 彼女も私も、同じ人間として生まれて、この街で生きているのだ。


「ちっさな悩みもあれば、大きな悩みもある。それでも生きてる。生きていられる。それはね――キミがいてくれるからなんだよ、助手くん」

「――ぇ」


 とはいえ、なんでも納得できるかと問われれば、存外そこまで盲信的でもなかったらしい。

 彼女のその言葉は、いくら頑張って咀嚼しようとしても、すんなりと私の中には入ってこなかった。


「誰が決めたのさ、ひとりで生きていかなきゃいけないって。ううん、知ってるよ。キミが勝手にそう決めて、そう思い込んでるんだ」

「そ、そんなことは……」

「はいそこ、私の話を最後まで聞く」

「はっ、はい」


 咄嗟に否定してしまったけれど、正直あまり話が入ってこない。

 その前に言われたことが衝撃的すぎて、頭が追いついていないのだ。


「あ、あの。質問よろしいでしょうか」

「なにかな、助手くん。質問を許す」


 口をふくらませて、大袈裟に尊大な態度を取ってみせる彼女。

 そういう冗談めかしたところも彼女の余裕を表していて、やっぱり『私がいてくれるから』という言葉の真意がわからなかった。


「……人生は迷宮です。迷ったら出られない。やっぱり私はそう思うんです」

「私はそうは思わないけど、続きを聞くよ」

「人生の形は、それぞれある。目の前に用意された道は、人によって違う。だから結局は、ひとりで立ち向かっていかなければならない。……違いますか?」

「――。違うね!」


 おかしなことは言っていない……と、思う。

 だけど彼女は、私のそんな考えを真っ向から否定する。

 恐る恐る瞳を覗き込むと、やっぱり深く澄んだ黒をしていた。


「……いや、違くはないか。違くはないんだけど」

「ど、どっちなんですか!」

「いやいや、あのね。たしかに道は違うかもしれない。キミの前には、キミにしか歩めない道がある。だけど」

「――――」

「――だけど、ひとりきりじゃない。違う道を歩む誰かが、いつだってそばにいる。私にとってその『誰か』は、キミなんだよ、助手くん」


 世界が広がった気がした。

 あるいは、青く澄んだ気がした。

 視界が急に、クリアになった気がした。


 ――私はそこまで、彼女に必要としてもらえているのか。

 私がこれだけ焦がれて、求めて、必要としている彼女に、そこまで想ってもらえているのか。


「……あの」

「なにかな、助手くん」

「私の人生は、まだまだ長いと思います。あなたの人生も、きっと同じくらい長い」

「そうだねぇ、私だってまだピチピチだからな!」

「そんな長い人生の中で、悩むこと、苦しむこと、耐えられないんじゃないかってくらい、酷く傷つくこと。いっぱいあると思います」

「――うん、そうだね」

「――でも、そのたびに、私はあなたのそばにいます。何があっても絶対に離れてあげません。死ぬまで。だから」


 私は大きく息を吸った。

 やっぱり、世界はさっきより、美しく見えた。

 なんて、目に映る景色は小汚い六畳半のオフィスだけど。


「――あなたも絶対、私から離れないでください」

「――。プロポーズですか?」

「みたいなものです」

「っ、ちょ、張り切りすぎでしょ、助手くん! わかったわかった、ずっと一緒にいてあげるから、ね!」

「――はい!」


 これからも私は、悩むと思う。

 同じようなことで苦しんで、またこの人に面倒を見てもらうのだと思う。

 それでもその私は、きっと今までの私とは違うはずだ。


 弱くてめんどくさくて後ろ向きな過去の自分と、くだらない悩みのすべてに中指を立てて、馬鹿みたいにまた笑うことができるだろう。


 だって――、


「――隣にはいつだって、あなたがいてくれるんですよね?」

「はいはい、一生面倒見ますよーっと。それが私の責任で、私の幸せだからね!」


 ――生きるってことは、ひとりきりで歩くってことじゃないのだから。

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『ワンライ』置き場 あきの @junshin

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