『七夕に願いを』
とろけそうだ。
じんわりと額で汗がにじんで、ぺたぺたと気持ち悪いなぁと思っていたら、それが頬を伝って顎まで落ちてくる。
汗がほんのちょっとだけ体温よりもぬるいから、なんとなくひんやりとクールダウンされた気がした。
暑い。暑すぎる。
私たちと同じようにとろけていく太陽はもう少しですっぽりと姿を隠してしまいそうなのに、放課後の教室は保温性が高すぎる。
窓の桟は手で触れていられないくらいに熱い。
「おーい、今この場には私と姫芽しかいないからって、ちょっと気を抜きすぎじゃないかな?」
左耳に、そんな声が転がりこんできた。
私は右耳を二の腕で押し潰したまま、持てる限りの力で言葉を返す。
「ん……」
「そうだね。日本の夏は暑すぎるからね……とは言っても、私は日本以外の夏なんて知らないのだけれどもね!」
一瞬だけ苦笑いの気配を感じてから、すぐに京華持ち前のトーンに戻った。
このクソ暑いのによくまぁそんな元気でいられるものだ。京華は冷却スーツでも着込んでいるのだろうか。
そんなわけはないと思いつつ、京華が今どんな顔をして喋っているのかが気になったから、私は無理やり顔の向きを変えた。
「私の顔が気になるのかな?」
「……どんな面してくっちゃべってるのか気になったから」
「語気が強いんじゃないかな!?」
大げさに目を丸くして、京華は口を開けた。
なるほど。こんな顔で喋ってたわけね。
なんて、いつも通りの京華でしかなかったのだけど。
いや、この灼熱地獄で『いつも通り』を保てている事実が普通ではないような気もする。
「暑すぎるわよ。風のひとつもないし、信じられないくらい気温も高いし……」
「そうだね。今の気温は……」
「待って。当ててみるから」
先回りで答え合わせしようとした京華を視線で制止して、私は考える。
茹だる頭じゃ考え事なんてまともにできやしないけど、別に頭で考えなければいいのだ。
既に17回もの夏を越えた私なら、18回目の夏の気温くらい肌で感じられる。
今の気温は……昨日の同じ時間よりも暑い。と思う。
去年の今頃は……もっと暑かったかな? 同じくらいかも。
じゃあ、今の気温は、たぶん――。
「――37度」
「――。すごいじゃないか! 大正解だよ! 姫芽は絶対的な温度感覚を持ってるんだね!」
「別にいらない……」
京華に褒められたらそりゃ悪い気はしないけど、もっと日常の役に立つ能力がほしかった。
気温が肌でわかったところで、それを下げられるわけじゃないし。
せいぜいエアコンのスイッチを入れる判断が早くなるくらいだけど、放課後の教室じゃそれも自分の判断ではどうしようもないし。
「もう17時よ? 太陽だってもう沈みかけてるのに……どうかしてる」
「早く家に帰ればエアコンの効いた涼しい部屋でぐーたらできるのに……って思ってる?」
「……」
京華の表情をうかがう。
にやけていた。
あれは冗談を言ってる時と、私をからかってる時の顔だ。
「……思ってないし、京華もそんなこと思ってないでしょ」
「もちろん」
そう言うと、京華は目を細めて笑った。
これは誰にも言ったことがないけど、私は京華のそういう顔を見ると、なんというか、口元が固くなる。
怒ってるとか不機嫌になったとか、そういう意味じゃない。
ただ、胸が少しだけ締め付けられるのだ。
私はあと何度、その顔を見られるのだろう、って。
「――姫芽」
私がそんなセンチメンタルな感情になっているのを知ってか知らずか、京華は少しだけ表情を変えた。
それにしても、なんだ。
京華は汗とかかかないのだろうか。
前髪が額に張り付いている様子もないし、ブラウスに汗が滲んでいることもない。
意味がわからない。同じ室温の部屋にいるんだよね?
「今日は7月7日。七夕だね」
「あぁ……そうね」
「あれ、姫芽はあんまり興味がないのかな?」
「興味がないんじゃなくて、気がつくタイミングがなかっただけ」
毎日が繰り返すだけの流れ作業になると、大概そういったイベントは気づかないまま過ぎてしまうのだ。
クリスマスとかハロウィンみたいな、毎年決まって周りの誰かが騒ぎ立てる行事は嫌でも思い出すけど。
私が自分の意思で忘れないようにしているのは、夏休みが始まる日と、京華の誕生日くらいのものだ。
「姫芽は願い事とかしないのかな?」
「願い事ね……」
願い事。
自分ではなく、ほかの誰かを頼って解決しようとすることだ。
私をそれを無責任で他力本願に思うから、あまり好きな言葉ではない。
「いや、そうでもないさ。願い事っていうのは、自分の心の整理でもあるんだ」
「当たり前のように私の心を読むのやめてくれない? ……で、なに? 整理?」
「そう。『自分はこれだけ強く願ってます』ってね。口にすることで改めて自覚するんだ。そうすれば行動にも移しやすいからさ。『言霊』って言い方もあるし」
「ん……」
わざわざそんな手順を踏まなくても、自分の考えていることくらい自分が一番わかってると思うけど。
行動と心の中が正反対になっちゃうことなんて、そうそうないだろうし。
――いや、そんなこともないか。
なにもそんな大げさな話だけじゃないんだ。
たとえばテストの結果を見るのが怖いから、「今回はあんまり勉強しなかったからなー」と予防線を張る。本当は必死に勉強したのに。
あるある。現実を見て自分の心が傷つかないように、あえて自分を低く見積るのだ。
そんな後ろ向きで女々しい自分から脱却するために、『願い事』というかたちで強く心に刻み込む。
そう考えれば、たしかに合理的ではある。
「なるほどね。自分から『言い訳』って退路を封じて、何がなんでもやり遂げるしかないって状況に追い込むのね」
「あれ!? どうしてそんな男らしい結論に至ったのかな!?」
京華はオーバーにのけぞって、驚きながら笑う。
私がしばらくそれを眺めていると、京華は観念したように息を吐いた。
「姫芽の結論がそれなら、きっとそれが正解だよ」
「そう。ありがと。それで?」
「それで……? えっと、姫芽はいつでも正しくてえら――」
「違うわよ。ほら、なんかあるんでしょ。京華のことだから、たとえば短冊を持ってきたから願い事を書いて勝手に教室中に穴開けて吊るそう! とか」
「これでも今まで私は先生に怒られるようなことはしてこなかったつもりなんだけど!」
心外とばかりに目をつぶる京華。
通じてるか通じていないかはわからないけど、冗談だ。
「……まぁ、短冊に願い事を書きたかったのはそうなんだけどね」
「用意してないの?」
「ないね! なぜなら今日が七夕だと思い出したのは今朝だから! 用意する暇がなかったのさ! ――用意できれば、よかったんだけど」
今度は私が肩を落とす。
相変わらず行き当たりばったりというか、思いつきで動いているというか、京華らしい。
でも、そうか。
ないのか。短冊。
いや別に期待していたわけじゃないけど。
私も今日が七夕だって京華に言われて気づいたし。
でもせっかくだから、そういうイベントはこなしておきたいと思った。
言われなきゃ気づかないし、言われても京華じゃなければ興味も持てないけど、京華とならどんなイベントも無駄にしたくないと。
そう思った。
「ちょっ、なにをしてるのかな、姫芽。いきなりノートを破り始めたりして……もしかして繰り返す鬱屈な日々へのストレスが限界を迎えたとか」
「違うわよ。はい」
「うん?」
「別に、これでいいでしょ。短冊」
そういって罫線の入ったノートの切れ端を京華に渡すと、京華は一瞬ぽかんとした後、吹き出すように笑った。
「これ? これが私たちの短冊かぁ!」
「なによ。文句ある?」
「――いや、ないさ。一松の不満も文句も、あるわけない」
今までも、なんだかんだイベントごとの形式を大事にしてた京華だ。
そんな京華からしたら、きっとこんなのお粗末で不完全で、本当に用意したかったものとは程遠いだろう。
でも私はわるくない。
用意を忘れたの京華だし。
ということで、私たちはペンを握った。
消しゴムひとつで消えてしまう、シャーペンの文字だけど、それもまた準備不足の弊害だ。
「姫芽は何を願うの?」
「え……教えないけど」
「なるほど、まだ考えてない、と……」
「ちょっと! なんでそうなるのよ!」
その通りなんだけども。
そりゃあ、『願い事』という言葉すら若干敵視していた私だ。
書くと決めたからって、パッとそれが浮かぶわけもない。
願い事、願い事ね。
他力本願じゃなくて、自分が実行するための覚悟。
そうなっていたい未来、そうなりたくない未来。
あってほしいもの、なくなってほしくないもの。
いてほしい人。いなくなってほしくない人。
……なんか、結論ありきというか。
やっぱりどうやったって、私の願い事はひとつしか見つからなかった。
書くか。
書くのか。
なんか、こう、いざ書くとなると、妙な恥ずかしさがあるというか、ストッパーがかかるというか。
そうだ。京華が書き終わったら書こう。そうしよう。
こっそり背中を押してもらうため、私はちらっと目線を移した。
盗み見るわけじゃないけど、怪しさは満天だったかもしれない。
そーっと、そーっと。
「よし、書き終わった!」
「ねぇ、早い!」
「そりゃあ、早い方がいいんじゃないかなと思って!」
「私の計画が丸つぶれなんだけど! どうしてくれるのよ!」
「え!? 私は何を企まれていたのかな!?」
京華に背中を押してもらう予定が、とんだ誤算だ。
こっちの都合も考えてほしい。まったく京華は。
どうしよう。
書くしかないよね?
書くしかないんだけど。
「……京華」
「なにかな!」
「ちょっと見せてくれない?」
「えっ? やだよ、恥ずかしい!」
「いいでしょ、ちょっとだけ」
「姫芽にグイグイ押されたらちょっとぐらついてしまいそうだけど、私にも羞恥心ってものがあるのさ!」
「えっ、そんなもの京華にはないと思ってた」
「姫芽は私のことをなんだと思ってるのかな!」
「っていうか、私が言うようなことでもないんだけど、短冊の願い事ってそんなに隠すようなものでもないと思うのよね……」
だって、書いたあとは大っぴらに飾られるものだし。
今この場で1対1になって願い事を書いてる構図の方が、どちらかといえば特殊だし。
……あれっ。
そういえば、短冊って飾るものだよね。
竹とか、竹っぽいプラスチックとか、それもなければ釣竿に吊るして2階の窓からぶら下げてる人もいたけど、今この場にはそんなものはない。
「ねぇ、京華」
「何回言われても、たとえ姫芽の頼みであっても、譲れないものが……!」
「そうじゃなくて、短冊ってどこに飾るの?」
「……あっ」
「……」
「……」
考えてなかったらしい。
そうだよね。そりゃそうだよ。
今日思いついたんだもん。飾る場所なんて用意してるわけもない。
えっ。もしかして、頓挫した?
ほっとしたような、がっかりしたような。
「……いや、要するにお星様に届けばいいんだよ」
「……つまり?」
「お星様ってさ、すごい遠くにあるわけだからさ。25光年も先のお星様が、地球の短冊を目視で読んでいるとは思えない。そうじゃないかな?」
「ほう」
「きっと私たちの常識の範疇では想像もつかないような、スーパー織姫&彦星パワーで願い事を受信してるに違いない! ……だから、外に飾ってあっても家の中にしまってあっても関係ないと思うんだよ」
「そうかな……」
「そうさ。だから――持ち帰ろう。明日まで教室に貼り出すわけにもいかないし」
お粗末ではあったものの、ここまではなんとか形式と体裁を保っていたのに、最後の最後におじゃんになった。なんてやつだ。
……まぁ、いいけど。
京華の願い事を見られないのはちょっと残念だけど、そもそもの目的は盗み見じゃない。
私が、私自身を奮い立たせるための言霊だ。
なにがなんでも現実にしたい未来を、手に入れるための覚悟だ。
私は心の中で頷いてから、短冊にシャーペンを走らせた。
「はい、書いたわ」
「あっという間だったね! まだ悩んでいるのかと思ったよ!」
「別に、悩んではなかったわよ。願い事を書くって決めてからは」
京華に返事をしながら、今しがた書いた短冊を鞄にしまう。
盗み見されないように、書いた面を手のひらで隠しながら。
「ああっ! 姫芽ったら、ガードが固い……」
「お互い様でしょ。さ、帰るわよ」
「なんというか、趣がないね!」
「そんなものを重んじるタイプでもないでしょ、私も京華も」
「まぁね!」
そう言って、私たちは立ち上がる。
あーだこーだと理由はつけたけど、結局のところ私たちはそれほど行事に興味がないのだ。
ただ、言い訳を求めてるだけ。
2人でこの放課後を過ごすための、体の良い言い訳を。
そしてそれをより盛り上げるための、都合のいいイベントを。
自分に言い訳をしないために短冊を書いといてなんだけど、いいのだ。
これは、自分のためじゃない。
半分この言い訳なのだ。
「で、結局京華はなんて書いたのよ」
「詮索禁止! 姫芽は?」
「京華、最近普通に自分のことを棚に上げるようになったわよね……」
「あ、七夕だけに?」
「字が違う。32点」
「手厳しいなぁ!」
今日も放課後は暮れていく。
七夕の今日も、なんでもない明日も、同じように流れていく。
特別感があったのかなかったのかもわからない行事だったけど、いいのだ。
そんな理由がなくたって、明日も集まれるのだから。
この場所が、私の特別なのだから。
言わないけど。
『姫芽が生涯幸せでありますように』
『死ぬまで京華が幸せでありますように』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます