27.『女心』『曲がりくねった道』『予想』


 未来を想っていた。

 希望に満ち溢れる、だけどありきたりで月並みな、そういう未来を。


 普通に高校を卒業して、そしたらきっと大学に進学して、可もなく不可もないくらいの会社に就職して、たまに愚痴を吐きながら毎日必死に働いて。

 時々は贅沢してみたり、しっかり計画を立てて旅行に行ってみたり、会いたい人に会いたい時に会うような、そんな人並みの幸せを私は掴むものだと思っていた。


 なんて、それは理想だったかもしれない。

 現実はもっと醜悪で残酷なことも、わかっているつもりだった。


 ひょっとしたら私は大学受験に失敗して、滑り止めで受験した大学に入学、あえなくブラック企業に就職して月80時間の残業とか。

 贅沢したくてもお金も時間も足りず、会いたい人なんてできもしない、なんて最悪の未来もチラつかないわけではなかった。


 でも、それが私の想像し得た最悪の底だ。

 現実というものが私の想像を遥かに越えるくらい残酷だってことを知ったのは、つい最近のことだった。


 父と母が死んだ。

 それだけで、私の世界は丸ごとひっくり返ってしまった。


 特別仲のいい家庭、ってわけでもなかった。

 絶賛反抗期の私は父と口をきかなかったし、母の手料理も手をつけず、毎晩部屋にこもってスマホをいじっていた。

 そのせいで小言が増え、余計に私の鬱憤は溜まり、いつしか親と接することすら煩わしくなっていたように思う。


 いなくなれ、と思ったことはない。

 もしいなかったら気が楽なのかな、と考えたことはある。


 そして思ったより呆気なく、父と母はいなくなった。

 私だけを置いて、いなくなってしまった。

 思えばあの瞬間、この人生は終わっていたのかもしれない。


「死にたい」


 そんな言葉が口癖になっていた。

 本当にそう思っていたのか、あるいは現実から目を背けたかっただけなのか、それはもはや定かじゃない。

 ただ、気づけば私は知らないマンションの屋上にいた。


 吹き抜ける風が、やけに冷たく感じる。


「死にたい」


 かさりと、ざらついた唇が音を立てて裂けた。

 じんわりと広がる鉄の味が今はもどかしい。すぐになくしてしまいたい。

 いなくなってしまいたい。


 ほんの数十センチの勇気を踏み出せば、それは叶う。

 私にとってこの一歩はどこまでも果てしなく、深く、意味のある希望だ。


 だから、踏み出せばいい。

 いつもみたいに、ここまで生きてきたように、この足で。

 踏み出してしまえばいいのだ。そうすれば、今よりは楽になれる。


 そのはず、なのに。


「っ、はぁ……」


 どうして足が竦むんだろう。

 どうして勇気が出ないんだろう。

 私はもう、自分の足で歩くことすらできなくなってしまったのだろうか。


 甘かった、のかもしれない。

 人生はもっと残酷で、醜く、救えないものであると、早いうちに割り切っておくべきだったのだ。

 だからいざ直面したとき、どうしようもなく震えてしまう。


 私は、なんなんだろう。


「……もう、死にたい」


 死ぬ勇気もないくせに。


「……死にたい」


 本当は死にたくないくせに。


「……死にたい」


 ただ、自信がないだけのくせに。

 

「やだ、やだ。もう、死にた――」

「やめたほうがいいと思うなあ」

「――っ!」


 人の声。あってはならない他人の気配に、私の身体は思わず跳ねた。

 幸いにも足を踏み外すようなことはなく、心臓をバクバク鳴らしたまま振り向いてみれば、白いコートに身を包んだ黒髪の女性がそこには立っていた。

 私よりほんの少し歳上に見える、大人な気配を漂わせる女性だ。


「このマンションは4階建てでしょ? まあ運がよければ死ねるかもしれないけど、もし悪かったら死にたくて死にたくてたまらないのに死ねない身体になっちゃうかも……」


 その人は自分の体を大袈裟に抱きしめて、「ひゃー!」とか言っている。

 あれ。大人な気配どっかいった。


「……馬鹿にしてるんですか?」


 口をついて出たのは、そんな恨み節だった。

 本当に恨みたいのが目の前の人じゃないことはわかっていながら、八つ当たりは止められない。


 その女性は、そんな負の感情を正面から浴びてもまったく怯むことなく、ケロッと言ってみせた。


「馬鹿になんてしてないよ。ただ、衝動的に行動しても望む結果を得られるとは限らないって言いたいだけ!」

「衝動的……? 私が、いっときの感情で理性を失って血迷ってるだけだと思うんですか?」

「違うの?」

「そんなの……!」


 違う、とは言えなかった。

 ただ、無性に腹立たしかった。

 それよりもっと、虚しかった。


「遺書は書いたの?」

「……伝えたい相手がいません」

「そっか。キミって学生? 高校生かな? 今日も学校行ったの?」

「……そうですけど」

「へぇ。そのスウェットかわいいね!」

「……なにが言いたいんですか」

「ううん。少なくとも部屋着に着替えたときは、明日を生きるつもりがあったんだなーって」

「――――」


 詭弁だ。

 家に帰ったら制服を脱いで、部屋着に着替える。

 これはたしかに、今日もまた眠りについて明日を迎えるための準備かもしれない。

 だけど、これほどまでに染み付いた習慣というのは、もはや無意識に体が動いた結果でしかないはずだ。


 少なくともあの時の私は、死にたいと思っていた。


「……もう、死にたいです」

「わかる〜! 私もさ、もう毎日仕事が大変で大変で……死にてー! って叫びたくなる時あるよ!」

「……死にたいんです、私は」

「ね! 今日寝たら明日もまた仕事かよーってカンジ!」 

「……私は、死にたいんでしょうか。もう、わかりません」

「――――」


 口癖になっていた。

 頭で考えるよりも先に出てくる四文字に、言葉通りの意味がこもっていたのか、それはもうわからない。わからなくなってしまった。


 ただ残ったのは、言いようのない気だるさとやるせなさだ。

 生きるのはしんどい。生きていても希望がない。

 だったら、死ぬべきなのだろうか。

 私は生きている意味があるのだろうか。


 これから先、生きていく自信はない。


「――当ててあげようか。キミの本当の気持ち」

「――――」

「お姉さんが、迷える乙女の女心を予想してあげよう」


 いつしか固くて冷たいコンクリートにへたりこんでいた私に、その人は手を差し出す。

 そして、やけに焼け付く笑顔を見せて、言った。


「――キミは、明日を夢見てるんだよ」


 ――私は今になってなお、未練がましく明日への希望を捨てられていないということ。

 そんなどうしようもなく浅ましいこの心を、暴かれていく。


「まだ生きていたい。死にたくはない。でも生きるのは大変だから、絶望でいっぱいになっちゃうから、しんどいから、自信がないから、だから目を背けたいんでしょ?」

「……生きることから、ですか」

「ううん。――希望から」

「なにが、ちがうんですか」

「だって、希望を持ってしまったら、生きなきゃいけないから。汚くて、醜くて、なにもかも思い通りになんていかないクソみたいな人生を、それでも愛して生きていかなきゃいけないもんね」

「――――」

「だから、希望から目を背けたいんでしょ? 違うかな?」


 もし私があとみっつ若かったら、あまりのいたたまれなさに泣き喚き、腕を振り回していただろう。

 あの頃の私はまだ子どもっぽかったし、感情的で、わがままだったから。

 

 これでも私は少しだけ大人になった。

 どんなに嫌がっても明日はきたし、それはやがて昨日になって、過去になる。

 髪も伸びるし、お腹は空くし、にきびも増えた。


 ちっとも待ってくれない時の流れは、こんな私すらも等しく連れていくのだ。


「私はおそらくキミより歳上だからさ、キミよりは人生を長く我慢してるつもりだよ。そんな私からありがたーいお言葉を授けよう!」

「……なんですか」

「辛いこともある。苦しいこともある。楽しいことは、今はひょっとしたら考えられないかもしれない」

「――――」

「――でもそれでいいのだよ、乙女くん」


 それでいい。どういう意味だろうか。

 私がこうして苦しんで、泣いて、生きることすら諦めかけたこの状況を、この人は楽観的に受け止めている、ということだろうか。


 そうだとしたら、腹が立つ。

 この人は私の人生にちっとも関係のない、ぽっと出の新キャラなんだけど、それを踏まえた上でも腹が立つ。

 こんな人の言葉、無視すればいいのに、気にする意味なんてないのに、妙に意識から遠ざけられなかった。


「……どういう意味ですか」

「――――」

「……私の考えてることなんてしょうもなくて、ありがちで、面白くもなんともないってことですか」

「――。そうだよ」

「――――」


 絶句、だったと思う。

 そりゃ私がめんどくさかったのはわかる。

 ちょっとどころじゃない、相当にめんどくさい言葉を吐いた自覚はある。


 だから、自業自得といえばそうだ。

 だけどそれでも、私の目には涙が溜まっていた。


「キミが考えてることを、きっと何千万人も考えてる。生きるって大変だし、お金かかるし、嫌なことも辛いことも腹立つこともある。それでも生きてる。生きて、希望を持ってる」

「じゃあ……じゃあ、私は……!」

「ね、つまらない映画とか観たことある?」

「……っ、え?」


 会話の温度が変わる。

 咄嗟についていくことができなかった私は、間抜けな声を漏らしてしまった。


「それか、そうだなあ。嫌いな教科とかある? 授業聞いてると苦痛で、もう寝ちゃおうかなあ! みたいな」

「……別に、ないですけど」

「へえ。キミは優秀なんだね。私はあったよ、苦手な教科。国語がもう苦手で苦手でさ……うわ、ねむ! ってカンジ……」

「……あの、本当になんの話ですか」


 意図が掴めない。

 意味もわからない。

 この人とはほんの数分程度の関わりではあるんだけど、国語が苦手だったというのは意外だった。

 意外だったけど、だからなんなのか。


「私くらいの歳になると、もはや学校って環境がかなりノスタルジーというか……あの頃は私もまだ若かったな……」

「あの、まだ十分お若いように見えますけど……」

「え! やだなあ、おだてても何も出ないよ? あ、チョコ食べる? ずっとポケットに入れてたからデロデロだけど……」

「いりません……」

「そっか……」


 その人の表情に少し影が落ちた。

 少し心が痛んだのち、全くもって痛める必要がないことを思い出し、再び疑問に支配される。

 まるでなんの話なのかわからない。


「それでさ。あの頃は『国語、すっごい退屈だな』って思ってたんだよね。つまらない映画を観たあとも、時間を無駄にしちまった〜! って嘆いたりしてたんだけど」

「……はい」

「でも、あとになって思い返すのは、いつだってそういう退屈な時間だった」

「――――」

「キラキラした思い出も、最高の名作映画も、たしかに自分の中に残るんだよ。でもでも、エピソードとして強く記憶に刻まれて、あとになって笑えるのは、そんなしょーもない時間だった」


 そう告げるその人の表情は嬉しそうで、楽しそうで、でもどこか寂しそうで、儚げで。

 ――これが慈しむ、ってことなのかなと思った。


「――だからさ、笑い飛ばしちゃいなよ」

「――――」

「キミの死にたいって気持ちを、あとになって『あの頃の私は馬鹿だったなー、アホみたいなこと考えてたなー』ってさ」


 眩しかった。

 震えるくらい綺麗で、直視できなかった。

 だから私は、もう一度差し出された手を、また取ることができなかった。


「……無理です」

「――――」

「……私には、無理です。親も頼れる人もいないですし、学校だって……これでも私なりに頑張ってはいたんです。あなたはすごくキラキラしていて、憧れてしまいそうになるけれど……私は少し、迷いすぎてしまったみたいです」

「――――」

「だから、死にたいんです。もう戻れないから、どうしようもないから……逃げたいから、死にたいと思うしかなかったんです」


 とうとう私の雫は決壊していた。

 あふれて止まらない想いが吐き出されていくたび、自分の存在が薄くなっていくのを感じる。


 死にたい、と口にするのは少し、ほんの少しだけ抵抗が生まれた。

 だけど、このまま死んでしまってもいい。それがいい。


「あなたが言うほど、私も、人生も、単純にできてないと思うんです」

「――――」

「もっと、人生っていうのはきっと、一度迷ってしまったら抜け出せないくらい、曲がりくねった道のはずなんです」

「――――」

「だから私は、もう、遅――」

「――そんなことはないよ。人生は単純だ。単純すぎるくらいに一本道なんだ」


 声色が変わった。

 おちゃらけても、飄々ともしていない、初めて聴く声だった。

 ほんの一瞬だけ呆気にとられた私は、どうしてかな、その人の言葉を待っていた。


「――今キミが立ってる道。それだけが正解なんだよ。それ以外はないんだ」

「――。こんな、絶望まみれの道なのに、ですか?」

「そうだよ」

「自分の大切なものが、手のひらから零れ落ちてしまったのに?」

「それでも、それしか道はない。なら、それを正解にするしかないんだ。絶望的でしょ?」

「そりゃあ……」

「でもさ、それってつまり――生きればいいんだよ。ただ目の前の人生を、全力で」

「――――」


 ああ、この人はどこまで眩しいのだろう。

 暗く黒い道を往く私の影を、容赦なく照らして丸裸にしてしまうほどに。


 簡単な話だ。

 生きればいい。生きて、歩めばいい。

 たったそれだけのことで、でも私はそれを諦めようとしていた。


 それはなぜだろう。

 そう、自信がないからだ。

 再び立ち上がり、このクソみたいな人生を歩き出す勇気がないからだ。


 そんなことがわかっていても、一度竦んでしまった足は動かないのだ。

 勇気。勇気がほしい。

 ほんのひとしずくでいい。雫を落としても色が変わらないような、一抹の勇気が今はほしい。


 できるなら。私にできるなら。

 もう一度、生きてみたい。


「……できるでしょうか」

「できるよ」

「……いつか、笑い飛ばせるでしょうか」

「もう大爆笑!」

「――あなたみたいに、なれるでしょうか」

「あ、それは無理! 私天才なので!」

「は?」

「ちょ、顔こわ……冗談、冗談だよ! って、なになにキミ、私みたいになりたいの?」


 少しからかうような視線。

 そんな目をまっすぐ見て、私は頷く。


 するとその人は表情を変えて、顎に手を当てた。


「ほーう。そっかそっか。なるほどねー……」

「なれる、でしょうか。私に」


 投げかけられた同じ問いに、その人は少しだけ考える素振りを見せてから、ニヤッと笑った。


「じゃあキミ、私の助手になってよ!」

「――え?」

「私みたいになりたいなら、私のそばにいるのが一番近道ってね! 合理的でしょ?」

「そう……なのでしょうか。でも、助手って……?」


 そこで私は、目の前の女性に関することを何も知らないことに気づいた。

 名前も、年齢も、職業も、どうして今この場所にいるのかさえ。


 助手を探しているということは、えっと、歯医者さん?

 いやいや、そんなふうには見えないし、そもそもあれには資格が必要だと聞いたことがある。


 私が頭を悩ませていると、それを察したその人が補足を入れる。


「助手っていうのはつまり、何でも屋さんだよ。キミには私専用の何でも屋さんになってもらいます!」

「何でも、屋さん……?」

「そう! 身の回りの世話……掃除とか洗濯とかご飯作ってもらったりとか!」

「それは家政婦と言うのでは?」

「あとあと、寂しいときに一緒にいてもらったりとか、悲しい時に頭撫でてもらったりとか、たまに添い寝したりとか!」

「人の温もりに飢えてるんですか?」


 なんか、なんだろう。

 すごく想像と違った。


 でもまぁ、そんな生活、きっと今より何倍も――。


「……あっ、やべ」

「え?」


 急にその人が後ろを振り向いて、絵に書いたような苦笑いをした。

 何かと思ってその視線の先を窺ってみると、青い制服を着込んだ二人の男性が屋上のドアを開けてやってくるところだった。

 身近ではないけど、よく見覚えのある制服だ。

 ていうか警察だ。


「こんばんは。寒いですね」

「……そ、そうですね」

「今晩はかなり冷えるようですから、お身体には気をつけてくださいね」

「あ、ありがとう、ございます……?」

「ところでおふたりはこんなところで何をされてたんですか?」


 ドキッと心臓が跳ねる。

 まさか死のうとしていたなんて言えない。

 それに、いつしかそんな気持ちは消えてしまっていたのだから。


 なんと答えようか迷っていると、私の横で警察官たちに背を向けたその人が、私の比じゃないくらいに焦った表情を浮かべ、小声で「ごまかして! ごまかして!」と言っている。

 なんだなんだ。このまま言う通りにしたら、なんか首を突っ込んじゃいけない何かに加担してしまう気が。


「あの……」

「はい?」


 私が声を出すと、隣のその人がもうほんとに泣きそうな目で首をぶんぶん振っていた。

 なんなんだ。


「……私たちはこのマンションに住んでて、私が絶賛反抗期なのでお父さんのいるリビングにいたくなくて、それで屋上まで逃げてきたんです」

「そうなんですか。そちらの方は?」

「姉です。ね、お姉ちゃん」

「は、はいっ」


 裏声だった。

 

 きっと私たちは怪しさ満点だったと思うけど、警察官はヒソヒソと何かを話したのち、適当な落とし所を見つけたように頷きあっていた。


「あまりお父さんを心配させないように、早く帰ってあげてくださいね」

「はい。だいぶ反抗期も落ち着いてきたのでそろそろ帰ります」


 隣から「反抗期ってそんな感じだっけ……?」と不安そうな声が聞こえる。頼むから今は喋らないでほしい。


「じゃあ、我々はこの辺で失礼します。明日も学校でしょうから、頑張ってくださいね」

「ありがとうございます。さようなら」


 私はなるべく自然な笑顔を作り、ふたりの警察官を見送った。

 彼らの後ろ姿も見えなくなったとき、決壊したように大きなため息がふたつ漏れる。


「あっぶねぇ……ナイスだったよ、助手くん」

「ねぇ、私は何に加担させられたんですか?」

「……。ナイッスゥ!」

「ねぇ! 完全にヤバい感じだったんですけど! なにやらされたんですか、私!?」

「大丈夫大丈夫。大丈夫だよ。全然……全然大丈夫」

「あぁ、私は道を踏み外してしまった……どんなに辛くても非行にだけは走らなかったのに……」


 結局なにがなんなのか全然わからなかったし。

 下手したら何かしらの犯罪幇助みたいな罪で投獄されるんじゃないだろうか。勘弁すぎる。

 もしそうなったら、その時はせめて捕まる前にこの人を刺し殺そう。そうしよう。


「まぁ、キミは大丈夫だよ。捕まるなら私だけだからさ。キミは私のお世話だけそつなくこなしてくれれば」

「殺します」

「え!?」

「あ、間違えちゃった……心の声が……」

「内心でそんなこと思ってんの!? さっきまで私に憧れてなかったっけ!?」


 今日イチの大声が屋上の夜空に響いた。

 私は納得していない。納得してないし、意味もわからないし、この人の正体については謎が深まった上、あまり深入りしたくもなくなった。


 でもまぁ――、


「――マシでしょ?」

「え?」

「死ぬことを考えるよりさ。どんなクソみたいな道でも、泥臭く歩いていくことを想う方が、何倍も」


 きらーんと、キメ顔をつくるその人。

 たしかに、そう考えてみれば――。

 

「――。いや、あなたが言うと言い訳にしか聞こえないんですけど」

「あれ!? 響いてくれると思ったのに!」


 なんて、実は私もそう思っていた。

 どうせ堕ちるところまで堕ちた人生だ。これより底辺があるとすれば、それは死んだ時なのだから。

 生きて、前に歩けるのなら、それがどんな道であっても今よりはマシだ。


 それにしても不慮の事故的に巻き込まれた感は否めないけど……ま、いいか。

 この人がいなければ、私の道は今日ここで終わっていた。


 だから――。


「……あの」

「こ、殺さないで!」

「殺さないです。あの、よろしくお願いします」

「――――」

「これから助手としてお世話になります。お願いします」

「――。ふふっ、お世話するのはキミのほうだぜ〜? こちらこそよろしく、助手くん!」


 ――先の見えない道を、もう少し歩いてみようと思う。

 この単純で絶望まみれのクソみたいな道を、それでもほんの少しだけ愛しながら。

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