26.『男女平等』『アゲハチョウ』『お母さん』


 緑色のアゲハ蝶が指先にとまった。

 それが妙にくすぐったくて、うとうと微睡んでいた意識が薄ぼんやりと浮かびあがってくる。

 置きっぱなしになっていたスマホに触れると、今が14時を過ぎたところだとわかった。


「……だいぶあったかくなってきたなぁ」


 寝ぼけ眼を擦って、ぱちぱちと頬を叩く。

 あっさりと頭が澄み渡ったのは、きっと眠っていたのが20分くらいだったからだろう。


 辺りを見渡してみる。

 あいかわらず人っ子一人いないこの公園のベンチとテーブルは思いのほか綺麗に保たれていて、たしかにお昼寝したら気持ちいいかもしれないなぁなんて思ってはいたけど、実践に移したのは今日が初めてだった。


 所感。

 もうやらない。


「はぁ……」


 あごは痛いし、首は痛いし、腕は痛いし、スマホもうっかり盗まれそうだ。

 少し考えればそんなこと想像がつくはずなのに、今日の私はだいぶ寝不足だったらしい。


「……ま、しかたないか。最近疲れてたし」


 首を回せば、回したぶんだけ音が鳴る。

 長年の運動不足が祟って、私の身体はガッチガチだ。

 決めた。次のボーナスでいいマットレス買おう。


「また季節が変わるなぁ……」


 春は出会いと別れの季節だって、いつだったか聞いたことがある。

 きっとそれは事実で、私だってひとつ冬が過ぎるたびに出会いと別れを繰り返しているのだろう。


 でも正直、私にとっては出会いも別れもそんなものどうでもよくて。

 本当に私を苛んでいるのは、未練とか後悔とかそんな大層なものでもなくて。


 ただ、さみしいのだ。

 またひとつ季節が変わって、またあの日々が遠くなって、いつしか記憶も薄くなって、気づいたら別の幸せを見つけるような、そんな月並みな未来がさみしいのだ。


 私はいつまでも囚われていたい。

 永遠に空想していたい。

 いつか死ぬ瞬間まで、ひょっとしたら死んだあとまで、大切な思い出を抱きしめていたい。


 でも、それは無理だ。

 忘却は記憶の劣化だって説がある。

 つまり、思い出というのは生まれた瞬間からどんどん抜け落ちていくということ。

 季節を重ねれば重ねるほど、セピア色に滲んでいくということ。


 人の記憶は声から忘れていくらしい。

 私の記憶にある声は、あの日の声とは違うかもしれないということ。


 さみしい。


「……京華」


 会いたい。


 思い出は忘れていくものだっていうのなら、「そんなことあったっけ?」なんて笑い飛ばせるくらい、数え切れないほどの新しい思い出で塗り替えたい。


 京華に会いたい。


「……私って、いつまでこうなんだろ」


 あれだけぽかぽかだった木のテーブルが、どうしてか冷たく感じた。

 まるで身体の芯から冷えきってしまったようだ。


 春はどうにも胸騒ぎがする。

 新しい出会いなんていらない。

 別れなんて考えたくもない。

 ただ、私は放課後でありたかった。

 思えばあの頃からずっとそうだ。

 いつまでも、ずっと、放課後が終わらないでほしかった。

 ただゆっくりと流れる日常が、いつまでも続いてほしかった。


 でも、放課後は終わってしまった。

 あの教室ももうない。


 涙が出そうだった。

 だから私は、もう一度目を閉じた。


「――――」


 さっきまでとはうってかわり、まるで眠気なんてやってこなくて。というかそもそも、意識を沈めるつもりなんて最初からなくて。

 苛立たしいほどに澄んだ私の頭で闇を見つめていると、しばらくしてまた小さな感触が指先をくすぐった。


 それでも目を開ける気になれなかったけど、その感触があまりにしつこいものだから、私は少し苛立ちながらも涙の溜まった目を開ける。


 緑色のアゲハ蝶だった。

 二匹のアゲハ蝶が私の指先にとまっていた。


「……なに堂々と他人様の上でイチャついてるのよ。その辺にしておかないと、あなたたち、まとめて駆除するからね。言っとくけど私、男女同権主義だから」


 言い切って、ため息が漏れる。

 本当に私は何を言っているんだろう。昆虫相手に。

 もはや頭を抱えたい。


「……気が済んだら飛んでいってよ」


 なんとなくいたたまれなくなったので、しかたなく彼らが満足するまで待つことにした。しかたなく。


 木のテーブルに投げ出した私の腕は、いい感じにポジションを探って枕にしていたんだけど、実はそろそろ痺れそうだ。

 できることなら早急にどこか飛び去ってしまってほしい。


「――わっ」


 抗議の念を存分に込めた私の視線を浴び続けたアゲハ蝶の一匹が、やがてついに居心地が悪くなったのか、突然上空に大きく羽ばたいた。

 もう一匹のアゲハ蝶が慌てるようについていく。

 置いていかれないように、きっと見失わないように。


「……別に、気になるわけじゃないからね」


 嘘だ。

 本当は、気になってしまった。

 この一対のアゲハ蝶の行く末が。

 バカみたいに自分と重ねて、私の知らないその先を確かめてしまいたくなってしまった。


 だから私は、アゲハ蝶を追いかけた。

 公園を出て、路地を曲がって、草を分けて、迷い込むように行く末を探した。


 でも、アゲハ蝶に迷いはなかった。

 まるでそこに帰りたがっているように、ひらひらと道の先へ吸い込まれていった。


 そうしてさらにいくつかの路地を曲がったとき、私の息は熱く、弾んでいた。

 幾度も空想した花の香りが通り抜け、あたたかな温度が心臓を脈打った。


 そして、見つけた。

 肩で揃えた艶やかな黒髪と、何度も袖を通した制服に身を包む背中に、大きく声をかけた。


「――京華!」


 私の声に少し驚いて、その背中はゆっくりと振り向いた。

 目が合う。合っているはずなのに、滲んでよく見えない。


「どうしたのかな、姫芽。そんなに大きな声を出して……って、わあ! なになに、本当にどうしたのかな!?」


 泣きたくなる匂いがした。

 涙が止められないほど、胸を焦がす気配に包まれた私は、もうぜんぶがぐちゃぐちゃになっている。


「京華、京華ぁ……!」

「はいはい、私はここにいるよ! んもう! そんなに姫芽に求められるだなんて、私は罪な女だね! はい、鼻ちーんして! 制服が汚れちゃうからね!」


 気づけば京華に包まれていて、言われるがままに鼻をかむ。

 差し出されたハンカチは、京華の匂いがした。

 何度も何度も何度も何度も何度も空想したあの匂いは、やっぱり京華の匂いのままだった。


 それがわかると、なおさら涙が溢れてくる。

 京華は優しいから、そうやって泣きじゃくる私を受け止め、抱きしめてくれた。

 しばらくそれに甘えた私は、やがて気持ちも落ち着いて、ちゃんと息もできるようになった。


「落ち着いた?」

「……うん」


 私よりもほんの少しだけ背の高い京華を見上げると、目が合う。

 あいかわらず、吸い込まれちゃいそうになるくらい、深い夜の色をした瞳だ。


「それで、どうしたのか聞いてもいいのかな?」

「……別に、なんでもないわよ」

「そう? ならいいんだけど」


 そう言って、京華は困ったように頬をかいた。


「ただ……」

「ただ?」

「――ただちょっと、長い間休んじゃってたような気がしただけ」

「――ああ」


 京華は合点がいったように頷いてから、私の手を握った。

 あたたかい。京華の体温だ。

 ずいぶん長い間、この体温を感じていなかった気がする。


 ふわりと、京華の匂いが舞った。


「――じゃあ、また始めればいいさ」

「――――」

「また始めよう。私たちの放課後を」


 いたずらに笑うその姿は、やっぱりどこまでもあの日と同じもので。

 キラキラしてて、眩しくて、あたたかくて、ちょっぴりどこか切なくて――。


 

「――芽。姫芽ってば。そろそろ下校時刻だよ」

 

 ぼんやりと、頭にかかったモヤが滲んでいく。

 重たいまぶたをゆっくりと持ち上げると、見慣れた瞳が目と鼻の先にあった。

 

「ぁ、きょうか……おはよぉ……」

「うん、おはよう、姫芽。驚いたよ、私とお喋りしてる途中だったのに、すやすやとかわいい寝息を立て始めるんだから! 下校時刻過ぎちゃったらどうするのさ!」

「……どうせ京華が起こしてくれるからいいじゃない」

「私は姫芽のお母さんじゃないよ!」

 

 いつの間にか、寝ちゃってたらしい。

 外はすっかり暗く、私たちを包む明かりはぼんやりと教室を照らす蛍光灯だけになっていた。

 まだ冬は長いらしい。

 

「それにしても、本当にぐっすりだったね。私としては姫芽の寝顔を存分に堪能できたからお得だったんだけど、疲れてるんだったら早めに帰って寝るのが得策だよ」

 

 ぽんぽん、と私の頭を二回撫でてから、京華は机に頬杖をつく。

 その優しい笑顔に私の心はじんわりと温められ、少しずつ眠気が遠ざかっていった。

 しかし疲れているのかそうじゃないかで言えば、疲れているんだと思う。

 だって、

 

「来年には受験だもん。家に帰っても、やることは爆睡じゃなくて勉強よ」

「そうだね。もうすぐ私たちも三年生になる。青春なんていうのはあっという間さ」

「気が早い。私はまだ青春真っ只中だわ」

 

 とはいっても、高校に入ってから早二年弱。

 京華と出会ってからも一年以上が経ったわけで、彼女の言うとおり、青春というのは思いのほか一瞬なのかもしれない。

 

「――あ、そういえば」

「うん?」

「なんか変な夢を見た気がするわ」

「変な夢?」

「うん。でもどんな夢か忘れちゃった」

「ええっ!? ちょっと興味あったのに!」


 うーん。目が覚めた瞬間、すごく色んな感情が渦巻いていた気がしたんだけど、忘れちゃったな。

 まぁいいか。忘れたってことは、そんなに大した夢でもなかったんだろう。


「……あ」

「うん? 何か思い出した?」

「ううん、内容はやっぱり思い出せないんだけど……緑色のアゲハ蝶って、どんな意味があるのかわかる?」

「意味? 夢占いとか、そういう類の話? うーん、私、スピリチュアル的な知識には疎いんだよ……」


 でもなんか聞いたことあるような気がするんだよな、なんだっけな、と唸る京華を横目に、私は窓の外を眺めた。

 教室から見える景色はいつもと変わらなくて、街灯のひとつもない夜道は、私たちの下校を億劫にさせる。


 でもなんだか、今はそんなありきたりな日常がやけに尊く思えた。

 我ながら、どんな心境の変化だろう。不思議だ。


「あ、思い出した!」

「え? ほんとに? あんまり期待してなかったのに、やるわね京華って」

「これは素直に褒め言葉として受け取っていいのかな! ――緑色のアゲハ蝶が持つ意味は、『再生』だよ」

「――――」

「って、これじゃまるで私たちの関係が一度崩壊するみたいじゃないか! なんでそんな不吉な夢を見てるのかな、姫芽は!」


 ――夢に京華が出てきただなんて、一言もいってないのにな。

 あーあ、私ってそこまでわかりやすいのかな。

 でもまぁ、それはつまり、京華も同じなんだろうな。


 京華の夢にもよく私が出てくるから、『姫芽の夢にも私が出てくるはず』って、自然とそう思ってくれたんだろう。

 なら、うん、悪くないか。


「えい」

「ええっ!? なんで私はチョップされたのかな!?」

「別に。なんとなく」

「姫芽が暴力を覚えてしまったよ……」

「さ、帰るわよ。下校時刻ギリギリなんだから、もたもたしてないで」

「それは私のせいじゃないと思うんだけど!」


 どんな夢だったか、それはほとんど忘れてしまった。

 それでもこの胸に小さく灯っている熱は、きっと悪いものじゃない。

 だから私はそれを大事にしていこうと思う。

 今日も、明日も、いつか終わる放課後を抱きしめていこうと思う。


 それはともかくとして、京華には一発、蹴りをお見舞いしてやった。

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