25.『腹立つ、探偵、クライマックス』


「うん……?」


 戸棚を整理していると、見覚えのないファイルが目に入った。

 それはなんの変哲もないファイルで、おそらくその辺の雑貨店で数百円くらいのもの。

 なのにどうしてこんなに目を引いたのかっていうと、この事務所に私の見覚えのないものがあること自体、疑わしいものだったから。


「これは……あの人の私物でしょうか。まったく、いつの間に紛れ込んだやら」


 同時に浮かぶのは、あの人の顔。

 掃除も整理も苦手な人だったから、私はいつからか自然と家政婦みたいになっていた。

 

 そういう意味で、あの人のいないこの数ヶ月は実に気が楽だ。

 仕事に関係のない家事も、モーニングコールも、小さな背中に毛布をかけることさえ、今の私にはする必要がないのだから。


「……」


 気になる。ただの半透明のファイルの中身が、無性に気になる。

 墓を暴きたいわけではない。腹の底を探りたいわけでもない。

 ただ、気になる。

 自分が確かに存在していた痕跡なんてまるで遺さなかったあの人が、唯一忘れていった生きた証。

 そう考えてしまえば、気になるのも必然ではあった。


「……。やめましょう。もう必要のないものです」


 ふっと肺から息を抜く。

 じわじわと私を蝕む感覚が、ただの好奇心からくるものだと気づいて、考え直した。

 そりゃ、知りたいと思う。知れなかったぶんだけ、刻み込みたいって思う。

 でもそれは今さらすぎるから、私は視線を床に移した。


「それにしても……散らかしすぎでしょう、あの人」


 苦笑が漏れる。

 散々一緒にいて理解していたつもりではあったが、いざ事務所に誰もいなくなると、本当に人が住んでいたのか怪しくなるくらいに汚い部屋だ。

 床には書類が散乱していて足の踏み場もない。

 

「その辺のはもう終わった依頼のやつだから気にせず踏んでいいよ!」とか言われるがままに遠慮なく歩くと、「ちょ、その辺のはダメ! 踏まないで! 気をつけて歩いてよ、もう……」とか怒られるから、私としてはぜひ片付けてほしかったものだ。


 あぁ、


「……懐かしいですね」


 私の世界は、三度変わった。

 一度目は、両親が死んだ時。

 二度目は、あの人に拾われた時。

 三度目は、あの人がいなくなった時だ。


 たった数ヶ月。あの人が消えてから、まだ季節も巡ってない。

 たった数ヶ月で、私の世界は変わった。


 人生ってのは思いのほか、頼りないものなのかもしれない。


「……なんてね」


 床にしゃがみこんで、紙切れになった書類のひとつひとつをまとめる。

 そのほとんどが見覚えのあるもので、この積み重ねた書類の束が、私とあの人が共有した時間の証明になっている。

 そしてこれをまとめおわって、ゴミ袋につめて、燃えるゴミの日に出した時、それは失くなる。


 でも形見なんてなくても、私は覚えている。

 鮮烈に、強烈に、あの人との時間は刻まれている。

 まぁ、いい意味だけではないけれど。


「さて、と――きゃあっ」


 立ち上がろうとしたところで、視界がくるりと回った。

 足元にくしゃくしゃになった紙切れを確認すると、私が滑って転んだことを理解する。

 

 ――あぁ、あの人に見られてなくてよかった。危うくニヤニヤされるところだ。

 なんて真っ先に思うから、私はまだダメなんだと思う。


「……と」


 くしゃくしゃのそれを広げてみると、見覚えがないことに気づく。

 私がここにくる前にあの人がこなした依頼か、あるいはこれもまたあの人の私物か。

 そんなことを思いながらしわを伸ばしてみる。


「――え?」


 呆気にとられる。

 そこに記されていたのは、思いがけない――というか、まったく意味のわからない暗号だったからだ。

 暗号……だよね?


「……あの人、なにをしてるのでしょう」


 A4用紙いっぱいに印刷された、それはもうお日様みたいな満面の笑みでダブルピースしているあの人の自撮り。

 相変わらず笑顔が似合う人だ――じゃなくて、


「これは、メッセージ……?」


 あの人はお調子者だけど、馬鹿じゃない。

 アホだけど、意味のないことをする人じゃない。

 あれだけ一緒にいた私ですら知らないそれは、紛うことなき『手がかり』だ。


「まさか……」


 とうに切り捨てた可能性が浮かぶ。

 心臓が五月蝿く鳴った。


「――あっ」


 思い立った私は、大慌てで戸棚に手を伸ばす。

 迂闊だった。毎日この部屋で暮らしていて、私が整理整頓していて、買い物だって二人でいかなかった日はないのに、私の見覚えのないものが存在するはずがない。

 そんな当たり前の事実を見逃すくらい、この数ヶ月で私は気が抜けてしまっていたらしい。


「これは……」


 たったひとつのUSBメモリ。

 それがあのファイルの全てだった。


 ぐちゃぐちゃに散らかったデスクに埋もれたオンボロノートPCを救出して、大慌てでメモリを挿す。挿さらない。逆だ。挿さらない。逆じゃなかった。

 

 読み込んだ先にあったのは、64GBのメモリを存分に無駄遣いして記録されていた、みっつの音声ファイルだった。

 私にはわかる。これは、間違いなくあの人が残したものだ。


 手が震えはじめる。

 どれから聞けばいいのか。

 普通に考えたら、名前が『1.mp3』となっている、一番上のファイルだろうけど。


「……まぁ、あの人のことですし」


 私は迷った末、上から三番目のファイルを開いた。

 ほんのちょっとの煩わしい時間を置いて、読み込まれたファイルが再生を始める。


『ぱんぱかぱーん! 三番目のファイルから開いたキミには、捻くれ者の称号を与えましょう! 大正解です!』

「それ、あなたが捻くれ者なんじゃ……」


 苦笑い。

 もちろんこっちの声なんて届いてないけど、いつもみたいに言葉を投げた。なんとなく、そうした方がいいと思った。


『ちなみに一番上のファイルには、私が連続殺人現場で録音した謎のうめき声が入ってます! 聞きたかったら聞いてね!』

「不謹慎すぎませんか!?」

『……さて。キミがこの声を聞いているということは、私はもうこの世にいないということです』

「――っ」

『ふふっ、どうかな? これ、言ってみたかったんだよね! 私けっこうそういうの向いてるカンジじゃない? ミステリアスなイメージでさあ!』

「…………」


 アホだ。やっぱりこの人はアホだ。

 アホで、お調子者で、ズボラで、お風呂だって三日に一度くらいしか入らないし、ご飯だって私が作らなかったら二日くらい抜いてしまう。


『私さ、けっこう好きだったんだよね。キミとの生活がさ。なんていうか、同棲中のカップルってカンジ?』

「母と子の間違いでは?」

『私のながーい人生の中で、こんなに誰かと一緒にいたことはなかった。だからさ、うん、楽しかった。そんなキミに、今日はお礼を言っておこうと思ってね!』


 お礼。この人に言われたことあったっけ。

 私の記憶が正しければ、なかった。

 それでもよかった。本当に欲しいものは、ちゃんともらっていたから。


 だって、


『――ありがとう。キミは助手だけど、助手じゃなかった。あえていうなら――パートナー、だったかな』

「……私だって、楽しかったですよ。家族ができたみたいで」


 楽しかった。幸せだった。

 本当に、目まぐるしい数年間だった。

 なんだか、あたたかいものが溢れた。


『あーあ、もうちょっとキミと一緒にいたかったなー。一緒に仕事して、一緒にご飯食べて、一緒に寝て。で、一緒に朝起きて、また仕事する。そんな日々がもうちょっと続いてほしかった!』

「…………」

『でもね。私の人生はここで終わり。これは手がかりじゃないよ。別れの挨拶! ――私はもう、どこにもいない』

「……なんで」

『わかってるでしょ? キミは私より賢いからなー。とっくに気づいてる。私が死んだってこと』

「なんで、そんなこと……」

『ま、寂しくならないように私の顔写真くらいは残しておいてあげるか! サービスでピースくらいはしてあげよう! 一緒に撮った写真とかなかったもんねー。……こんな仕事じゃなければ、いくらでも撮れたんだけど』


 わかってた。そりゃ、わかってた。

 だって、あの人を看取ったのは私なんだから。

 もうどこにもいないって、いるわけがないって、そんなのわかってた。


 でも、だからって、こんなことされたら、


「余計に寂しくなるじゃないですか……」

『寂しいかな?』

「寂しいですよ……」

『もしかしたら、数ヶ月くらいは一人でメソメソしてたりね!』

「あなたは……私のことをそこまでわかっておいて……」


 腹が立つ。私を置いていなくなったこと。

 生きるも死ぬも一緒だって言ったのに、ふたりで進んでいくものだと思っていたのに。

 私は今、ひとりだ。


『……でも、ごめんね! 私のわがまま! キミには、生きていてほしかった! 私よりも、ずーっと!』

「そんなの、あなたがいなきゃあ……」

『絶望してる? 愛しの私がいなくなって、生き方に迷ってる? なにをすればいいのか、なにを信じればいいのか、どこに向かえばいいのか、わからずに迷子になってる?』

「なってたら、なってたらどうだって……!」

 

『――それでもいいのだよ、助手くん』

「は……」

『最期に私から、キミのししょーっぽいことを言ってあげよう。耳の穴をかっぽじってよーく聞きなさい!』


 暗闇に沈んでいくような感覚の中で、その言葉だけは鮮烈に届く。いつもみたいに。

 私を変えてくれた人だから、命よりも大切な声だから、届く。


『――みっともなく、泥臭く、汚く、足掻き続けること。苦しんで、悲しんで、その度に心が折れても、いつか必ず立ち上がること。時間がかかってもいい。自信がなくてもいい。――生きること』

「――――」

『――人生のクライマックスは、いつだってドン底の先にあるのだから』


 そんなことを言われても、自信がない。

 ――あぁ、なくていいのか。


 あなたを喪った私は、しばらく立ち直れそうにない。

 ――あぁ、時間がかかってもいいのか。


 心はとうに、折れてしまった。

 折れたって、いいのか。

 何度折れても、苦しんでも、生きればいいのか。

 あなたが悔しくなるくらい生きて、「ちぇー、そんなに生きるなら寿命わけてほしかったよ」なんて言われて。

 それくらい、気楽に生きていいのか。


 いいんだよな、だってただでさえ、生きるのは大変なんだから。

 心持ちくらい、適当でも。

 

 だけど、痛い。

 心は痛いままだ。

 あなたが、いないから。


『――それでもどうしても苦しいとき。耐えられないときは』

「その時は……?」

『二番目の音声ファイルを開きなさい。私が赤ちゃん言葉でキミをあやし続ける音声が入ってるから』

「は、はぁぁあ!?」

『どーしても辛かったら、よりかかってもいいんだぜ〜?』

「っ、はぁ……」


 ニヤつく表情が浮かんだ。

 そうだ、この人はこういう人だった。

 はぁ、なんかもう、苦しむのがバカらしい。


 ――生きてみよう。

 そして、今日辛かったら休もう。

 明日も辛かったら、明日も休んじゃおう。


 受け入れて、歩き続けてみよう。

 ちょっとずつでもいいから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る