24
高校二年生も三分の一が過ぎれば、いよいよ将来設計という頭痛のタネから目を背けられなくなる。
たった一枚のペラペラの紙切れを前に、私はいつまでもペンを握れずにいた。
「はぁ……」
提出期限が今日までだからって、何も居残りさせなくなっていいと思うんだけどな。
人生は長いって言うし。若い頃の過ちなんて取り返しつくって言うし。学生のうちに遊べるだけ遊べって言うし。
……だからもうちょっとだけ、考える猶予がほしいし。
なんて言っても居残りは居残りだし、下校ダッシュに乗り遅れちゃったせいでもう最寄りのカラオケは満室だろうし。最悪だ。
っていうか、居残りって。古臭いんだよなあ、やることが。
放課後の教室にひとりきりって、意外と寂しいんだよ。
そりゃ校庭から聞こえる運動部の掛け声でイラッとしちゃうくらい、心も狭くなるってものでしょ。
ほんと、もう。
「はぁ……」
「はぁ……え?」
二度目のため息は、ふたつだった。
てっきりひとりきりだと思っていたから、思わぬ人の気配に背中が跳ねる。
もうホームルームから三十分は経っているから、さすがに誰もいないと思ってた。
なんか変な独り言とか言ってなかったよね? とか不安になりながら慌てて振り向くと、三列ほど離れたところに座るひとりの女の子と目が合う。
「……なんだ、詩乃か」
「……なんだってなに? てか、やっぱり気づいてなかったんだ」
そのため息の主が私のよく知る人だったことを確認して、安堵のため息をつく。ため息ばっかりだ、今日は。
改めて詩乃に向き直ると、その机の上に広げられたペラペラの紙切れが目に入る。
「え、詩乃も進路希望調査書けてない感じ?」
「……そんな感じ」
「へー、詩乃がねぇ……決まってるのかと思ってた」
「……そういう風歌だって」
目が合う。なんて不安そうな目だ。
あからさまに「私は悩んでますよー」って書いてあるような、そんな頼りない色だ。
人って、進路にここまで悩まされるんだなぁ。
もしかして私も今、そういう目をしてたりするのだろうか。
「でもどうせ詩乃は音大でしょ。わかってるわかってる。詩乃の才能はすごいもんな〜、私にもちょっと分けてくれないかな〜。そしたら私もプロのミュージシャンになれるかもよ?」
「――――」
「……ツッコミ待ちなんだが?」
いつものノリで軽口を叩いてみたけど、どうも詩乃の様子がおかしい。
普段なら「私の才能を分けてあげても風歌は精々ヘタウマが限界」くらいの切れ味で軽口が返ってくるのに、今日は口を噤んでしまっている。
ぼーっとしていて、でもその瞳は正確に私を捉えているような、そんな居心地の悪い視線。
思わず頬をひきつらせていると、意外にもその沈黙を破ったのは詩乃のほうだった。
「……そういう風歌はさ、どこに進学するの? 県内だと風歌のレベルに合った大学もないし、出るとか? 羨ましい。本当の天才だもんね、風歌は」
「――――」
「……なに?」
ぐさり。私に心に三十のダメージが与えられた。
詩乃は簡単にそう言ってくれるけど、そこで悩んでるから居残りしてるんだっての。
――あ、それは詩乃も同じか。
結局、簡単じゃないのだ。
進路を決めるということは、未来を決めるということ。
自分の生き方を決めて、限界を定めるということ。
そんなの、簡単にできることじゃない。
詩乃も私も、だから悩んでいるのだ。
「ねぇ――」
「おい、いつまで残ってるんだよお前らは……もういい、明日まで待ってやるから、今日は帰れ」
詩乃を呼びかけたところで、意識の全てをかっさらう声が入り込んできた。
蛍光灯の半分を消してからせっせと窓の鍵を閉める先生に追い出されるように、私たちは教室を後にする。
その日はなぜだか寝つきが悪かった。
■
詩乃は天才だ。
私にないものを持っている。
私が欲しくて欲しくてたまらないものを、焦がれるように手を伸ばし続けても手に入らないものを、生まれながらにして持っている。
ごく当たり前のことみたいに、自然に、なんの苦労もなく、その手にしている。
ずるいって思ったこともある。
私は幼い頃から歌うことが好きで、家族の前でももっぱら大声で歌い散らかしていたらしい。
流行りの曲から、子供向け番組の曲。ママの車でよく流れていた曲とか、幼稚園で教わった曲。
そりゃもう暇さえあれば歌を歌っていたものだ。
それは小学生になっても続いたし、ママと一緒にカラオケに行ったりもした。
「風歌は将来、歌手かしら?」なんて言葉が、誰のどんなものより嬉しかった。
中学生の時。初めて詩乃とカラオケに行った時のことだ。
震えた。ここまで差があるものかと、こんなに遠いものかと。
しかも、詩乃は別に歌を練習したことなんてただの一度もないらしい。
ただ音楽一家に生まれて、絶対音感を持ち、ピアノを毎日引き続けている、それだけ。
それだけの人に、私の歌は負けた。完膚なきまでに。
まだおむつも取れないうちから毎日のように歌い続けていた私なんて、本物の才能を前にしたら絞りカスにもなれないって、その時に知った。
嫉妬した。首を絞めてやりたいと思った。
私がどうしても欲しかったものを持ちながら、「……私は別に上手くないよ。普通でしょ」とか涼しい顔で言ってのけるこの女が、本当に憎たらしかった。
でも、すぐに考え直した。
これが才能ってやつだ。才能には、どう足掻いても太刀打ちできないのだから、憎んでもしかたない。
そう思えば嫉妬は消え、羨ましさだけが残った。
気づけば詩乃は、私にとって一番仲のいい友達になっていた。
この頃にはもう、ママからの一番嬉しい言葉は聞けなくなっていた。
そうして少しずつ大人になっていって、ちゃんと将来について考えなくちゃいけなくなった時。
――『私は歌手になりたい』なんて、言えなくなってしまっていた。
■
風歌は天才だ。
私にないものを持っている。
誰よりも頭がよくて、テストの成績もよくて、私じゃ考えもつかないようなことを当たり前みたいに思いつく。
ずるいって思ったこともある。
私は音楽一家に生まれた。
父は編曲家で、母はピアニスト。
祖父は歌手をやっていて、祖母もピアニスト。
流れを汲めば私もピアニストになるな、なんて思っているのは私だけではなかったらしく、私は幼い頃から祖母と母にピアノを教わっていた。
音楽に関することなら、私は一通りの才能があるらしい。
ピアノはもちろん、弦楽器も打楽器も一応触れる。
母も私の出来には満足しているようで、「期待しているわ」なんて甘い言葉をかけられたこともあった。
その度に私は思う。
――重い、と。
私はできれば、期待して欲しくない。
母の理想の娘になれるとも思っていない。
音楽。音を楽しむと書いて、音楽だ。
私は、音楽を楽しんだことがあっただろうか。
私にとってそれは、生まれた時からもっとも身近にあったものであり、親よりも過ごした時間の長い日常だ。
別に嫌いじゃなかった。
好きでもなかったけど、そもそも好き嫌いで測れるような距離感に、私にとっての音楽というものはなかった。
中学生にもなれば、母の言葉が現実味を帯び始めてくる。
やれこの音大に入れとか、やれプロのピアニストになれとか、そういう言葉はきっと期待からかけられていたものだったと思う。
でも、それが私にとっての音楽を『義務』にした。
自然とそこにあったものから、絶対にそこになくてはならないものに変えた。
中学生のある日のことだ。
初めて風歌とカラオケに行った時、私は自分の世界を変えることになる。
ヘッタクソな歌だった。ピッチなんてズレズレで聴いていて気持ち悪いし、テクニックのテの字もないようなお粗末な歌。
でも彼女は、間違いなく音楽を楽しんでいた。
負けた。私はこの元気だけが取り柄です! みたいなヘンテコな歌に、完膚なきまでに負けたのだ。
その日から、私の音楽への執着は消えた。
もともとあってなかったようなものだったけど、母の期待に応えたいという一抹の思いすらも、ぱらぱらと崩れていった。
――私にとって、生涯音楽と添い遂げる覚悟というものは重すぎたのだ。
■
チャイムが鳴った。
はいはい、どうせまた居残りですよー、と。
人もまばらに散っていく放課後の教室を見やりながら、どうしても倒せないラスボス(ペラペラの紙切れ)と対峙する私は、なんかもう嫌になっていた。
「はぁ……」
ため息は尽きない。
そりゃ、昨日今日で始まったことじゃないけどさ、将来の悩みなんてものは。
それにしたって、急に決められるものでもないからさ。
悩ましい、ああ悩ましい。
私の将来って、いったいどうなっているんだろう。
「……まぁ、それがわかれば苦労しないか」
それがわからないから悩むわけだし、わざわざ進路希望調査なんて形だけの紙切れを提出するのだ。
そんな形だけの紙切れに縛られちゃってるのが私って事実を加味すると、どうしたって自虐にしかならないんだけど。
「はぁ……」
「はぁ……え?」
振り向く。またお前か。
連日居残りなんてさせられて、懲りないやつだな、まったく。
「詩乃もまだ書けてないんだね」
「……うん、まぁ」
気のせいか、昨日よりどんよりしているようだ。
そりゃそうか、今日書けなかったらさすがの先生もガチギレだもん。
つまり、どうしたってタイムリミットは今日だ。
進路、進路ねぇ……まずは進学か就職か、だよね。
これは進学。間違いない。
で、その先。どこに進学するかだけど……あれ?
そういえば、詩乃は何に悩んでるんだろう。
「ね、詩乃ってさ、普通に音大だよね? 何にそんな悩んでるの?」
「――。そういう風歌だって。一番頭のいい大学の名前書いて終わりじゃないの? そんな単純なことでどうして悩んでるの?」
「――――」
ぷっちーん。なんかムカついた。
そんな単純なこと? 私の気持ちを知らないからそんなことが言えるわけだ、こいつは。
単純じゃない。未来を想定する作業が、単純なわけあるもんか。
「なるほどねー。詩乃には単純に思えるんだ、進路決めることが。私にとってはそうじゃないけど、もしかして詩乃って後先とか考えずに突っ込んじゃうタイプ?」
「……は? 考えてるけど。なにそんなカリカリしてるの? カルシウム足りてる? あ、足りてないから単純なことで悩んじゃってるの?」
「っ、考えが足りてないのはそっちの方だと思うけど? 結局ここで決めた進路に進むってのが、一番可能性の高い未来なんだよ。単純なんて、普通に考えたら言えないと思うけど? もしかしてバカ?」
「――っ、だったら!」
突然の衝撃に肩が跳ねる。
無理やり沈黙を作り出したのは、詩乃の手のひらで思い切り叩かれた机の悲鳴だ。
数拍遅れて理解が追いついた時には、詩乃はその目に涙を溜めて立ち上がっていた。
「……だったら言わないでよ。『普通に』なんて、ひどいこと」
「……え?」
「……私、音楽辞めたい」
「……え、え?」
状況にやっと追いついた理解が、今度は感情に追いつかなくなる。
何を言っているんだろう、この子。
音楽辞めたいって、詩乃が一番言っちゃダメなやつじゃん。
だって、そう、ほら。
ビビるくらいの才能を持ってて、将来だって約束されてる。ぶっちゃけ、その道に進みさえすれば親のコネもあるだろうから。
「じょ、冗談だよね? 詩乃が音楽辞めるなんて、そんなの、だって――」
それから、あと、ほら。
――私から、歌手の夢を奪ったのは詩乃なんだから。
「……冗談なんかじゃない。私、辞めたい。辛い」
「じゃあ、音楽やめたら、詩乃はどうするの……?」
「……それがわからないから! 今こんなに悩んでるの!」
「――――」
溢れていた。零れていた。
同時に、私の奥の方からふつふつと湧き上がるものを感じていた。
「……勝手だよ」
「……は?」
「勝手すぎる。詩乃が音楽をやめるなんて、そんなのダメ」
「ふう、か……?」
「詩乃は音楽を続けるの。そんで日本で一番の音大に行って、プロのピアニストになって、音楽家として大成功するの」
「なに、いって……」
だって、そうじゃん。
そうじゃないと、ダメじゃん。
だって、だって私は――。
「――そうでしょ? 詩乃にはそれができる才能があるじゃん。才能があるのに、なんで辞めるなんて言うの?」
「お母さんと同じこと、言わないでよ……」
「だって、じゃなかったら、私は……私、歌手になれないのに」
「……風歌、歌手になりたかったの……?」
「――――」
呟いたつもりだった。聞かせるつもりなんてなかった。
でも私の大きすぎるくらいに大きい本当の想いは、うっかり飛び出してしまうくらいには制御不可のものだったらしい。
伝わってしまった。誰よりも知られなくなかった、詩乃に。
その表情を窺う。目を丸くしているものかと思えば、動じていないようにも思えた。
「……そうだったんだ。風歌が、歌手に」
「……なに、悪い?」
不貞腐れたように言葉を投げた。
それでもきっと詩乃は、笑うことだけはしないと思った。
誰よりも音楽を知る詩乃だから、その夢を笑うことだけは。
「……あの音痴で? それは無理でしょ」
「――え」
「……風歌こそ、もうちょっと現実を見なよ」
嗤われた。そりゃそうだ。
詩乃に比べたら私なんて、何も持たないやつだ。
だからって、それはないだろう。
夢くらい、見てもいいじゃん。
視界は、いつの間にか滲んでいた。
「……風歌は、誰よりも頭がいい。だからそれを活かさないなんてありえない」
「ありえないのはそっちの言い草なんですけど! 人にありえないって言う方がありえないんですけど!」
「――風歌は! 普通の中で最高の選択ができるんだよ!? ……私には許されない。ピアノを引かないと、家に居場所すらない! こんな思いしなくて済むのに、贅沢なこと言わないでよ!」
「そんなの! 感情的になってるだけでしょ!? 親に才能を認められて、期待されて、贅沢なのはどっちだよ! 才能があって、その舞台も親が整えてくれるっていうなら、大人しく従って音大にでも行けばいいじゃん!」
ふたりから溢れる想いは止まらない。
喉が痛くなるくらいに叫んで、みっともなく泣いて、それでも止まらない。
「風歌だって! 頭にその才能があって、なんでこれっぽっちも才能がない音楽の道なんかに進もうとするの!? 天才のくせに! クソ音痴のくせに! 頭のいい大学にいけば、それこそ安定した将来が約束されてるのに!」
「――っ、もう、詩乃なんてしらない!」
「風歌だって、もう知らない!」
ダメだ。これ以上は、ダメだ。
もうわかんない。意味わかんない。知らない。
私はペラペラの紙切れに黒い染みを作りながら、『進学 音楽学科希望』と殴り書いた。
後ろからも同じように、すごい筆圧で文字を掘る音が聞こえた。
「……私、歌手になるから」
「好きにしたらいい。私は普通の大学に行く」
「あっそ。じゃあね」
涙も乾かぬうちに、私たちは背を向けた。
ちょっとでも近寄らないように、わざわざ別々のドアから教室を出て。
頭もずっと冷めないまま、夕暮れの道を歩いて、気づいた。
なんで私はあんなにムカついたのだろう。
なんで私はあんなに、詩乃に音楽を続けてほしかったのだろう。
夢を否定されたから? 違う。
私の気持ちをわかってくれなかったから? 違う。
だったら、なんで私は――。
「――あぁ、そういうこと」
私は嫉妬をしていたんじゃない。
あの時詩乃に抱いた思いはきっと、恋だ。
詩乃にじゃない。詩乃の才能に、私は惚れていたのかもしれないなって、そう思った。
「詩乃……」
そう思えば、さっきの詩乃の言葉の意味もわかる。
きっと彼女もまた、私に自分の思いを預けていたのだ。
それを理解してしまえば、考えてしまう。
詩乃のために、周りのために、自分以外のために、求められている道を歩もうって。
それぞれの前へ用意された道に逆らって生きることを、諦めようって。
だから、詩乃――。
「――どうか、私の気持ちに気づかないで」
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