21.『両思い、シーソー、大逆転』


 結局のところ、別に両思いだからって幸せとは限らないのだ。

 

 私がその人と出会ったのは、寒風が吹きすさぶ真冬のとある日のことだった。

 大してあったかくもないマフラーを靡かせ、必死こいてペダルを蹴り飛ばす、いつも通りの朝。


 住宅街を縫うように走り抜けて、いくつ目かの角を曲がった頃、私は両手に力を込めた。

 昨日調整してもらったばっかりの自転車は思ったよりブレーキの効きがよくて、少しだけ前のめりになりながら、私は地に足をつく。


「……行きたく、ないな」


 初めてのことだった。

 ズル休みをしたことはあるし、仮病で早退したこともあるけど、通学路で足を止めた経験は今のところなかった。


 なんでかな、なんて考えれば、そりゃ答えはひとつなわけで。早い話、私の限界はここだったのだ。

 私ってば、十七歳にして、これ以上の人間生活を放棄したくなるくらい、いっぱいいっぱいだったのだ。


「……でも、帰れないよね」


 ついさっき、お母さんが早起きして作ってくれたお弁当を持って、笑顔で見送られたばかりだというのに。

 家を出て十分足らずで早退してきましたなんて、まさかそんな嘘もつけないし。


 とはいっても、私の心は折れてしまった。

 少なくとも今日ばかりは、学校という私の負担の根源に寄り付きたくない。


「……時間、つぶそうかな」


 迷った末、私は近くの公園まで自転車を押して歩いていた。

 滑り台とブランコ、それから砂場があるだけの、小さい公園。

 私が小学生にも満たないくらい小さかった頃は、ここでよく遊んでいたらしい。

 そんな私の記憶にない思い出の公園で足を止め、自転車を停めると、ひんやりと冷たいベンチに腰をかける。


「はぁ……」


 不安はある。心配事も尽きない。

 将来のこととか、現在のこととか、友達付き合い、勉強、部活とかとかとか。

 でもそんなことを律儀に考えて心を重くするより、私はただ流れる雲を見つめていた。


 一時間か、二時間か。

 くすんだ空の色も見飽きた頃に、ふと私以外の誰かの気配を感じた。

 ザッザッザッと、まるで聞かせるためにわざと鳴らしてるんじゃないかってくらい、嘘っぽい足音だ。


「ちょっと、先客とか聞いてないんだけど。そこ私のベンチ。かわって?」


 せっかく心も浄化されてきたというのに、その苦労を無に帰すような不躾な声に、私の視線が動く。

 数歩先で私をふてぶてしく睨んでいたその女子高生は、私と同じ制服を着ていた。


「……ごめん、他当たって。今このベンチ使ってるの。空眺めなきゃいけないんだから」

「は? そんなのどこでもできるっしょ」

「そうだけど……動きたくない気分なの、今は」


 見る見るうちに不満げに染められていく表情に、私は内心ビビってたと思う。

 よく見ればめちゃくちゃ不良だ。しつこいくらいにギラギラ飾られた耳のピアスは軟骨まで貫通していて、髪の色は生え際の黒が目立つ金色。

 眉毛細いし、メイク濃いし、目つきも悪い。

 胸ポケットに分厚めの四角い膨らみが見える。絶対タバコじゃん、あれ。


 第一、平日のこの時間から制服でその辺をふらついてる高校生なんて、優等生の対義語みたいなもんだし――。


「……ふふっ」

「何笑ってんの。バカにした?」

「してない。あー……うん、してない」

「歯切れ悪くね? バカにしたっしょ」

「してないって」


 さっきの言葉がまるっきり自分を指していることに気づいて、可笑しくなってしまう。

 そっか、私、優等生じゃないよね。不良でもないけど。ピアス開いてないし。黒髪だし。


 でも目の前の少女は、若干イラつきながらも、私と対等に喋っている。

 この子は知らないだろうけど、もし学校の中で出会ったら口を効く機会もないくらい、差がある。

 それはカーストだったり、自信だったり、立場だったりするけど、とにかく今この場所ではそんなものはない。


 それに気づけば、なおさら気が楽になる。

 学校という箱庭に囚われる必要はないんだな、世界は広いんだなって、再認識できる。

 私とこの子が、対等であるように。


「……あんた、割といい度胸してんだね」

「ん、喧嘩でもするの?」

「しない。そういう意味じゃない。なんか、見た目とイメージが合わないわ。不登校で学校行けずにサボってるタイプかと思ったけど、私と同じか」

「ん……」


 そのタイプだと思うから、この子の見立ては大正解なんだけど、どうやら違う解釈をしたようだ。

 まさか、この子の中では私はゴリゴリの不良ってことになってる? いやいや、それはないよね。

 もちろん、同じタイプでもないと思う。


「……しゃーないか。ベンチ、半分だけ貸して」

「うんー……? いいよ」

「ん……ねぇ、詰めてくれないと座れないんだけど」

「ああ、そっか。はい」


 一人がけというには広くて、二人がけというにはちょっとばかし狭いベンチだ。

 ギュッと詰めてみたけど、残念ながらスペースに余裕があるとはいえない。

 それでもその気まずい距離を無視して、その子はどっかりと腰をかけてきた。

 ふんわりと、干したての布団みたいな香りが漂う。


「香水とか使ってる?」

「使ってない。鼻がバカになりそうだから。美味しいもの食べて、美味しいって思いたいじゃん」

「別にバカになるほどつけなきゃいいじゃん……」


 つまりこれは干したてのブラウスの匂いか、あるいは柔軟剤の匂いか、とにかく安心感のあるものということだ。

 お日様もさっきより高くなって、このまま昼寝したら気持ちよさそう。


「そういえば」

「なに?」

「さっきの『私と同じ』って、どういう意味?」

「別に……あんた、同じ学校でしょ。あんなくだらない場所、私のいるべき場所じゃない」

「あ……」


 単純かな。私と同じかもしれないって、そう思った。

 程度とか系統は違うにしろ、この子も私みたいに、学校に居づらさを感じてるんだ。

 まぁ……そりゃそうか。こんなゴリゴリの不良、馴染めるわけないもん。進学校だし。


「うちの学校、ねちっこいじゃん。あれしろこれしろ、あれはするな。破ったら罰則、停学、反省文。うるせぇって思わない? 髪の長さとか関係ないでしょ」

「いや、まぁ……それが学校じゃない?」

「古いね。あー、古い古い。私たちは令和を生きてんだよ。私が教師なら絶対そんなくだらない縛りは作らないし、他の奴もそう思ってんでしょ。二十年後が見ものだね」


 心底気だるそうに顔をしかめて、その子はため息をついた。

 とはいえ、秩序のために規律が必要なのはわかるし、私は度が過ぎているとも思ってない。

 ねちっこいってのは……あるかもしれないけど。


「あんたさ、よくサボってんの? 学校じゃ見たことない顔だけど」

「いや……そんなに。今日はたまたま。あと、見かけない顔ってのはこっちだって同じだよ。よくサボってるんでしょ?」

「まぁ。行ったら行ったで文句言われるし」

「そりゃその身なりじゃね」

「そういうあんたは地味だね。特徴がない。学校じゃ埋もれて見つけられないかも」

「う……」


 埋もれられるならいいんだけど。

 どっちかっていうと浮いちゃってるから行きづらいんだよなぁ。

 結局、人間は見た目なんかじゃなくて、人で見られるのだ。

 それまでの行いとか、喋り方とか、雰囲気とか、そういう漠然としたイメージで計られるから、私は学校が向いてない。


「好きなやつとかいんの?」

「なに、急に」

「いいから」

「いたけど……」

「今は?」

「嫌われちゃったから」


 私のやらかしと、学校でのゴタゴタで、両思いだった彼との縁は完全に切れた。

 今では廊下ですれ違っても目すら合わせないし、それが彼の望むことだから、余計にしんどい。


「一度好きになってさ。両思いでさ、付き合ったりとかしちゃってさ。その幸せを知っちゃうとさ、失った時に反動で余計に不幸にならない?」

「なるでしょ。当たり前。安い焼肉しか食ったことのない奴が、肉をマズいとは言わないじゃん。でも一回最高級の肉を味わったら、スーパーの肉がゴムみたいに感じるようになる」

「あなた、食べるの好きそうだね……」

「そりゃね」


 だから、両思いだからって、その時が幸せだからって、いつまでも幸せとは限らない。

 むしろ一度幸せを知ったぶん、あとでそのツケの請求がくるのだ。


「あんたが学校にいかないのってそれが理由?」

「もあるけど……それだけじゃないかな」

「だろうね。んなくだらない理由でサボる人間には見えないわ」

「くだらないって言われるのは心外だけど……褒めてくれたの?」

「調子乗るなって」


 ただ、ひとつだけ言えることは、人間の悩みのうち、九割くらいは人間関係によるものだろうということだ。

 人は人と関わらなければ生きていけないのに、人と関わるから傷つく。嫌になる。

 私なんてまだまだ子どもで、きっとここが人生のドン底じゃない。

 ここからまた、落ちていくのだ。


「人生ってめんどくさくない?」

「生きるのはダルいけど、そんなもんでしょ。今あんた、堕ちてると思ってる?」

「おちてる? なにが?」

「メンタルとか、運とか、そんな感じのもん」

「それは……落ちてるかな」

「なら次は上がるよ。あんたが落ちてると思ってるなら、次は上がる」


 一瞬、なにを言われてるのかわからなくなった。

 あれ、なんか慰められてる?

 驚いて視線を向けると、その子は私なんて目もくれず、じっと空を見つめていた。

 私もそれを黙って見つめていると、やがて再び口を開く。


「人生なんて、シーソーゲームみたいなもんでしょ」

「恋なんて、とかじゃなくて?」

「は?」

「なんでもない」

「……ま、とにかく。上がったり下がったりなわけ。今が堕ちてるなら後は上がるだけ」

「励ましてくれてありがとう」

「あんた意外と癪に障るね」


 やっと目が合う。

 忌々しげにこちらを捉える視線と絡み合う。

 私がじっと瞳を見つめていると、やがて根負けしたようにその子は視線を外した。


「……あんた、苦手なタイプだわ。何考えてるかわかんない」

「そう? 私は結構あなたのこと好きよ」

「いきなり気持ち悪い」


 きっと学校じゃ、関わることもなかったタイプ。

 それは間違いなくて、この子にとって私は居心地の悪い人間かもしれない。

 それでもそんな私との雑談に付き合ってくれて、あまつさえ励ましてくれるくらい優しいから、私はこの子のことが好きだ。


「……学校、今からでも行こうかな」

「は? 今から行ってもしかたないでしょ。……ま、行きたいなら止めないけど」

「ありがと」

「別にあんたのためじゃない。私のベンチ空けてくれるなら大歓迎」

「ベンチはみんなのものでしょ」

「……そういうとこムカつく」


 人生がシーソーゲームなら、相手が必要だ。

 ひとりじゃシーソーは動かない。沈んだまま、上がることもできない。

 それはきっと友であり、親であり、先生であり、仲間であり、いずれ出会う誰かだ。


 私は私のために、もう少しだけ頑張ってみようと思う。


「じゃ、またね」

「次は別の公園に行ってよ。私がこのベンチ使うから。……あぁ、ちょっと待って」

「――?」


 最後まで私にささやかな敵意を向けるその子は、私を呼び止めて、膨らんだ胸ポケットからそれを取り出した。

 パカッと開けて、私に向けると、そこには私がいた。


「その顔じゃいじめられるわ。なんでそんな不安そうなの。もっと堂々としなよ」

「あ……」


 小さな鏡の中に、眉をひそめ、唇を結び、何かに耐えようとしている私がいた。

 ああ、たしかに、これじゃダメだ。


「この鏡はさ。私が中学生の時に、ちょっと奮発して買ったいい鏡なのよ。自分を見失いそうになった時、これを開いて自分を見つめてたの。あんたにあげる」

「え、そんな大事なもの……」

「いいから。私にはもう必要ないものだから。あんた、見てると不安になるわ」


 思いの籠った鏡、どうしても受け取るつもりになれなかったけど、されるがままに無理やりポケットに押し込まれる。


「じゃ、早くいきなよ」

「――うん。ありがと、またね」

「だからそういうのいいって。ほら、しっしっ」


 不器用で言葉遣いはちょっと悪いけど――やっぱり優しい子だ。

 私はその思いを受け取ると、その子に背を向け、自転車に跨った。


 走り始めて数分、学校に辿り着き、ポケットからそれを取り出すと、太いマジックペンで強く刻み込まれた文字――中学生だった頃のその子の思いを、改めて受け取る。


『ここから人生大逆転!』


 私はそれを握りしめ、廊下を歩き始めた。

 

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