22


 季節は巡る。

 人生はあっという間だなんて言うけれど、私がどれだけ望んだところで時の流れは変わらない。

 ツンと肌を刺す冷ややかな風と、吐く息の白さがまたひとつ季節が移ったことを嫌でも知らせようとしていた。


「寒いなぁ……」


 そうは言ってもここのところ、季節のメリハリというものが薄まってきているような気がする。

 思えば今年も秋と呼べるようなタイミングはなく、茹だるような暑い日々をやっと抜け出したかと思えば、十二月を前にしてすでに寒風が澄んだ空気を撫でていた。


 衣替えなんて頭になかったから、今朝の気温には焦ったものだ。

 日本海側ではもう雪がぱらついているようで、そういう意味では私の生活圏が生暖かいビルの群れに囲まれた街でよかったとは思うけど、それでも急激に気温が下がったことには変わりがない。


 クローゼットの奥深くに眠るコートを無理矢理ひっぱりだして、私はなんとか寒空の下を歩いていた。


「もうすぐ冬かぁ……」


 季節は巡る。

 冬は一番好きな季節だった。虫も出ないし、汗もかかないし、手はかじかむけれど、暖房の効いたお店に入った時が何よりも幸せだし。あったかいカプチーノも染みるし、ラーメンも美味しいし、一人用のこたつにくるまって食べるアイスは至福だ。


 冬には悲しい思い出もある。

 私にとって冬は、別れの季節だ。

 誰より大切な人と別れたのは、ちょうど今日みたいな栗色の朝だった。


 それでも私は、冬が好きだった。

 私にとって冬は、出会いの季節でもある。

 誰より大切な人に出会えたのも、ちょうど今日みたいなセピア色の夜だった。


 季節は巡る。

 やがて冬がきて、春がきて、夏がくる。

 そして今日は昨日になり、一昨日になり、過去になり、思い出になる。

 あれだけ目も眩むような鮮烈な毎日が、いつかは色褪せて記憶になる。

 私は、それを望んでいる。


「あ……」


 葉がひとつ落ちた。

 なんとなく歩が止まって、地面を滑る葉の群れに視線が落ちる。


「頑張ったね」


 いつしか私はしゃがみこんで、その一枚を拾い上げ、役割を終えたそれに向かって労いの言葉をかけていた。

 本当は、私が欲しかった言葉なのかもしれないなって、そう思った。


「でさ、セーターひっぱり出したけど埃かぶってて――」

「わかるわかる。準備なんてしてないもんね――」


「――――」


 しゃがみこむ私の背中を、ふたつの声が通り過ぎる。

 キラキラで、楽しそうで、幸せそうな声。

 私も――私たちもそうだったんだろうなって、いちいち結びつけてしまうのは女々しいだろうか。


 季節は巡る。

 日常だったものが思い出になり、それすらもいつかは取りこぼして、思い出さなくなってしまう日がくるだろうか。

 そうなればいいなって、思う。


 季節は巡る。

 大切な人がいなくなってから、もうすぐ季節は一巡する。

 それでもこれっぽっちも割り切れない私は、いつになったら冷たい風に痛みを感じずに済むようになるのだろうか。


 季節は巡る。

 私の知らないあなたが増えていく。私を知らないあなたが増えていく。

 いつかは思い出にされてしまう。もうされているのかもしれない。嫌だ。いつまでも私に縛られていてほしい。あなたが私に、そうするように。

 いつまでも、あの冬に閉じ込められていてほしい。


 ――それでも、季節は巡る。

 時の流れは変わらない。

 私の心はいつまでもあの日に置き去りになっているのに、季節だけが馬鹿みたいに巡っていく。

 ちょっとくらい待ってくれてもいいのに、遠ざかってほしくないのに、慈悲なんてないくらいに巡っていく。


「もうすぐ、冬かぁ……」


 意識すればするほどに、あなたが色濃くなっていく。

 消えない日々が、思い出とも呼べないくらいに凝り固まっていく。

 忙しなく、忙しなく、季節は巡っていく。

 もうとっくに錆びた安物のネックレスが、いつまでも前を向けない私の首を絞めている。


「――もう、しんどいよぉ……」


 私だって頑張った。

 忘れようともしたし、バイトに集中して考える暇をなくそうともした。

 環境だって変えたし、部屋は模様替えをした。

 でも一番大切な記憶というのは、その程度で剥がれるほど素直じゃない。

 失った痛みは、もう二度と癒えることがないのだ。


「寒いよ……あっためてよ……」


 ふたりで歩いた道を、ひとりで歩く。

 ふたりで食べたケーキを、ひとりで食べる。

 ふたりで観た映画を、ひとりで観る。

 ふたりで作った思い出を、ひとりで思い出す。

 ――ふたりで買ったネックレスを、ひとりになっても手放せない。


 冷静になれば女々しくてバカバカしいって、そんなのわかってる。

 どうしようもなく独りよがりで情けないって、理解してる。

 じゃあ、だから、だったら、私はどうすればいい。

 どうすれば、あなたと出会ったことをなかったことにできる。

 どうすれば、過去よりも未来のことを見つめられる。

 そんなの、出会ってしまって、知ってしまって、愛し合ってしまったから、もうどうしようも――。


「……あの。大丈夫ですか?」

「――――」


 ぐちゃぐちゃの思考が、頭上から降ったぬいぐるみみたいに柔らかい声によって中断される。

 そして瞬間、サーっと血の気が引いていった。

 

 私、なにやってるんだろう。

 いい歳した大人が、何もない道でしゃがみこんで、頭を抱えて。もしかしたら涙とか出ちゃってたかもしれないし。

 そりゃ、心配されて声くらいかけられる。


 知らない誰かの優しさを無下にするような真似だけはたとえ今の私であろうと避けなくてはと、そう思ったから無理やり頭を回して声を捻り出す。


「だいじょうぶです、ごめんなさい。気にしないでください。だいじょうぶですから」

「本当ですか? でも……」

「本当に、だいじょうぶなので……!」


 顔を上げることはできなかった。

 たぶん、酷い顔をしているから。これはちんけなプライドだけど、そんな顔を人に見せたくはなかった。

 

 きっとこの人が心配してるのは、怪我とか病気とか、そういう緊急性のある状態でないかどうかだろう。

 その点でいえば、たしかに私のこれは病気みたいなものではあるのだけど、少なくとも緊急性はない。

 むしろ遅効性の毒みたいにじわじわと、死ぬまで私を蝕みつづけるものだ。


 だから大丈夫ではないんだけど、大丈夫だ。

 その優しさを向けるべき相手は、私じゃないのだから。


「そんなところにずっと座ってたら、風邪ひいちゃいますよ?」

「……ほんとうのほんとうに、大丈夫なので……!」

「……そうですか。よいしょ」


 世の中ってのは捨てたもんじゃないもので、こうやって見ず知らずの誰かに優しさを向けられる人もいる。

 性格の悪い言い方をすればそれはきっと、余裕がある人なのだろう。

 だって私は、とてもじゃないけど人に優しくできる余裕なんてないから。

 自分のことで精一杯、あるいは自分のことすらままならない人は、誰かを見てあげることすらできない。

 ひょっとして、だから私はあなたを――。


「……? ちょ、え、なにしてるんですか!?」

「座ってるだけですよ。お姉さんの隣に」


 ふと隣に人の気配を感じて、顔を上げる。

 その顔に見覚えはなかったけど、その声は間違いなく私に声をかけ続けてくれていた人のものだった。

 制服姿の、かわいらしい女の子。鼻と口はちょこんって感じで、髪の毛はふわふわ。だけど目つきはちょっとキツくて。

 ――なんとなく、あなたに似ていて。


「――っ」

「え、どうしたんですか? 大丈夫ですか? ……私の顔、不快でしたか?」

「そんな、わけじゃ……」

「そうですか。安心しました」


 ほっと息を吐く姿は、本当に胸をなでおろしているようで。

 なんとなく不思議に思ったけど、口には出さなかった。

 それより、私に寄り添うように座ったこの子が何を考えているのか、そっちの方が気になって仕方がなかった。


「寒いですね」

「……そ、そうですね」

「でも週末にはまた暑くなるみたいですよ」

「……そ、そうなんですか」

「はい」

「へぇ……」


 それっきり、会話は途切れた。

 たぶん私の返答が下手くそすぎたのだ。

 こういうところもまた、私が私を嫌になる原因のひとつだ。


 その子はずっと空を眺めていた。

 気まずいとか、そんなことは考えていなさそうな顔だ。

 気にしているのは私だけかと思い至れば、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


「……あの」

「はい?」

「学校……遅れちゃうんじゃないですか?」

「遅れちゃいますね」

「え、その……」


 人のことはいえない。私もこのままじゃ遅刻だ。

 それでも私は自己責任、自業自得だけれど、この子は違う。

 遅刻してまで私の隣に座る意味なんてないはずだ。


「学校、行きませんか? 私のことはいいですから……」

「じゃあお姉さんも仕事行きますか?」

「私、大学生なので……」

「へぇ。そうだったんですね」


 違う。そんな話じゃない。

 私が社会人だろうが大学生だろうが、そんなのはどうでもいいことだ。

 どうしていつもこうなんだろうか。本質を見れず、自分のことばかり話してしまう。

 私がこの子に伝えるべきは、そんなことじゃないのに。


「あの、学校――」

「あれ。そのネックレス……」

「――――」


 ドキリと胸が跳ねる。

 何の変哲もないただのネックレスだ。駅ビルで買った、三千円くらいの安物。

 ひっかかるところなんてないはずのアクセサリーに、なぜこの子は興味を示したのか。


「錆びてますよ。ちょっと失礼します」

「――!? え、ちょ!」


 答えは単純。人が身につけるには、そのネックレスは役割を終えすぎていた。

 だから目に止まるし、好奇に移る。

 だけどそれよりも好奇だったのはその子の言動で、彼女は私のコートからボタンを外し、胸元をはだけさせてくる。寒いのに。


「ちょ、ちょっと、そういうのはお互いが好き同士じゃないと……!」

「違いますって。なに勘違いしてるんですか。あーあ、ほら」

「え……?」

「錆が身体に移ってますよ。毒なんですから、そういうのは気をつけないと」

「あ……」


 視線を落とすと、たしかに私の胸元には、ちょうどチェーンの形に錆色がこびりついていた。


「ずっと付けてたんですね。元彼との思い出、みたいなことですか?」

「……まぁ。元彼じゃなくて元カノ、ですけど」

「ふぅん。思い出は大切なものですよね。わかります。でも――」

「――――」

「たまには磨いてあげないと、思い出も可哀想ですよ」


 そう言いながら、その子は私のネックレスをあっさりと外した。

 ずっと外せなかった呪いを、切ないほどにあっさりと。


「これは私が預かっておきます」

「え、なんで……!」

「なんで? うーん、なんでだろ……そうですね。まぁ答えになってないですけど、お姉さんの身体に移った錆が取れるまでは、毒だからですかね」


 あまりにも強引だ。

 初対面でここまでグイグイいけるのはむしろ羨ましいくらいだが、私の有無を言わせないスタイルはちょっと怖い。

 だけどそれでも――私にとってきっと好都合だと考えてしまう狡い私がいることも、自分には隠せなかった。

 そして私はそれを受け入れてしまうのだろうということも。

 ただひとつ、どうしても聞きたいことがあった。


「――もしかしてあなたも、私と同じですか?」

「……似たようなものです。だからお姉さんはこれを預かっておいてください」


 そう言って手渡されたのは、小さな花のブローチ。

 誰かの手作りだろうなってことは、すぐにわかった。

 私はそれを受けとり、前を向く。


 心が少しだけ、晴れた感覚がある。

 単純だ。単純だろう。

 それでも今の私にとって、季節に置き去りにされたような感覚にあった私にとって、その存在は世界が色づくほどに求めていたものだった。


「わかりました。預かっておきます」

「ありがとうございます。じゃあ、そろそろ学校に行きますよ。またいつか会いましょう」

「――いつかって、いつ?」


 ――答えは、私もわかっていた。


「――いつか、思い出の錆がとれたとき」

「――うん。応援してる」

「お姉さんもね」


 季節は巡る。

 人生はあっという間だなんて言うけれど、私がどれだけ望んだところで時の流れは変わらない。

 変わらない時の流れの中で、私は痛み、苦しみながら、出会いと別れを繰り返しながら、生きていく――とまではまだ割り切れないけど、とりあえず今日を越えてみよう。そう思った。

 

 

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