20
私は夏が嫌いだった。
暑いし、宿題は多いし、学校には行けないし、嫌いだった。
私は秋が好きだった。
樹葉がまるで頬を染めるみたいに真っ赤になって、しずかに散る時を待ちわびる姿が、ただ腐るのを待つだけの自分と重なって好きだった。
だから、嫌いな夏も大好きな秋のお隣さんだと考えれば、ほんの少しだけ気持ちが楽になった。
「あつい……」
この日もまた、茹だるような夏だった。
封を切ったそばから液状に溶けていくアイスを口に放り込んで、じっとりと張り付く汗の感触から逃避していると、不意にインターホンが鳴った。
「なんだろ……」
正直に言って、かなり億劫だ。
この部屋の唯一の冷房器具が、今にも壊れそうにガタガタと音を立てるオンボロ扇風機だったとしても、この夏を乗り越えるためには大事な生命線である。
この場を離れるとはすなわち、この身一つで地球温暖化の進む現代日本に立ち向かうことを意味する。
無理。暑いもん。
「宅急便かな……なんかの勧誘だったら文句言ってやる」
といっても今は平日の真昼間、来客に対応できるのは夏休みの暇を持て余した高校生くらいのものなわけで、私はしぶしぶと立ち上がる。
頬や背中に、ひんやりと汗が伝う感触がした。
二階の角部屋から、勾配の激しい階段を下って数歩。
玄関まで辿り着いた私は、覗き穴から来訪者の正体を探る。
「げ」
あの人だ。
会いたくない人ランキング首位独走中(私調べ)の、ママの知り合いの人。
ほんとは見なかったことにしてこっそり回れ右をしたかったんだけど、追い打ちをかけるように再びインターホンが鳴ったところで私は観念して、恐る恐るドアを開けた。
「あら、こんにちは〜! 紗弥ちゃん、ママいる〜?」
「いえ……出かけてます」
「そうなの、じゃあ待たせてもらってもいい?」
「え、あ……その」
「お邪魔するわね〜!」
私の城にずけずけと入り込んでくるその人。
あいかわらず香水はキツいし、恰幅がいいから家は狭くなるし、暑いし、こっちの気持ちなんて全く考えずに話を進めるもんだから、うんざりだ。
「夏休み?」
「あ、はい……そうですけど」
「いいわね〜! 私が紗弥ちゃんくらいの歳の頃はね、夏になると――」
興味ない。
というか、流されてついリビングに通してしまったけど、私の仕事はここまでのはずだ。
あとはそのうち帰ってくるママに任せて、私は部屋に戻りたいのに。暑いし。
「それで、夜になると蛍が――」
「はは……」
こんなおばさんの話し相手なんて、お金を貰ってもごめんだってのに。
うんざりだ。暑い。めんどくさい。暑い。だるい。だるい。だるい。
早くママ帰ってきて。
ああでも、ママが帰ってきたらまた叩かれる。
おばさんの相手をするよりはマシだけど、でもやだ。
しんどいなぁ、もう。
もう、しんどいから――いいんじゃない?
こんな生活、もう、よくないかな?
あれ、ていうか私、なんで耐えてたんだっけ。
なんのために、辛い思いをしてまでこの家にいるんだっけ。
――もう、いいか。
「でね、みんなで海に行って……」
「――あの」
「うん? どうしたの?」
「……ちょっと、用事があるので」
「用事? なんの? どんな? ママが帰ってくるまで、待てないの?」
目付きが変わる。空気も変わる。
途端に蛇に睨まれた蛙みたいに動けなくなって、滴る汗が妙にひんやりと体温を奪っていった。
え、ビビってんの? 私。
私、ビビってるんだ、今。
――なんでビビる必要があるんだろう。こんなおばさんに。
「――待てません。今すぐに行かないと……」
「行かないと?」
「……その、死んじゃうんです!」
「し、死んじゃうって、そんな……ちょっと!」
それっぽい言い訳、用意しておけばよかった。
まぁでも、自分でも驚くくらい無我夢中で駆け出してる私の選択は、間違ってると思いたくはない。
それくらいの心は、持っておきたかった。
■
白崎紗弥、十六歳。
性別は女で、高校生で、それ以外に特筆するべきことはナシ。
あ、ひとつだけ。人生で初めての家出を遂行中という情報を、プロフィールに付け加えておこう。
もう少しだけ深堀するなら、そうだなあ。
結構劣悪な家庭環境で育った、という事実もあったりなかったりする。
そんな環境を耐え忍んで、我慢して、今日の私がいるわけだ。
そう、今日まで我慢してきたのだ。
それは裏を返せば我慢ができる程度の環境ということだから、やっぱり大して酷くもなかったのかもしれない。
少なくとも、ガチでヤバい家庭環境で育ってきた子たちに聞かせたら、甘えんなと一蹴されるだろう。
ま、耐えきれなくて飛び出してきたんだけどさ。
「はぁ……これからどうしよ」
結局、私は今まで親に頼り続けて生きてきた。
癇癪を起こして飛び出しても、ひとりで生きる術なんて持ち合わせているわけもなく。
それでも帰ることだけは嫌だったから、こうして当てもなく歩いているんだけど。
どれくらい歩いただろうか。
気づけばあれだけ憎たらしかった現代日本の気温も落ち着きはじめ、まだ長い陽も少しだけ傾いて、アホっぽいカラスの鳴き声なんかも聞こえてきちゃったりして、おまけに足が棒みたいに重い。
考え事をしてると時が経つのは早くて、多分だけど、もう二時間くらいは歩いてたと思う。
「ここ……どこだかわかんないや。帰れないなぁ。あーあ、絶対お巡りさんのお世話になるやつだ。で、ママに電話がいって、叩かれるんだ。余計なことしなければよかった」
あれだけ確固たる思いで始まった家出も、ほんの二時間くらいで揺らぐ程度の覚悟だった。
つくづく子どもだ。私はまだ、親に頼らないと生きてすらいけない。
そんなことわかってるし、上手いこと客観視できてるつもりだけど、それはそれとして帰りたくはない。
せめて見つかるまで、どこかにいたかった。
「……涼しい音」
気づけば私は、まだ熱い砂の上に腰を下ろしていた。
海なんて、もう何年見ていなかっただろう。
そりゃ、目に入ることはあったけどさ。
こうしてでっかい自然を眺める機会なんて、ずっとなかった。
「ざっぱーん……ざっぱーん……」
寄せては返す波を、私はひたすらに見ていた。
単調で、つまらなくて、でもそれが心地よかった。
西日がギラギラと照らす水面は、なんていうか、眩しかった。
「私も……海になりたかったな」
「それはなかなか難しいね! そりゃ、誰だって他者を羨む気持ちはあるけどさ。海に羨望を抱くなんて、スケールの大きい話だよ!」
「――は、え? いや、誰!?」
「いや、ごめんごめん。ちょっと通りすがったら、めちゃくちゃ思い詰めた顔をした女の子がひたすらに海を眺めてるもんだから、つい声をかけてしまったよ!」
バカみたいな独り言に、不意にめちゃくちゃ真っ当な返答が降りかかり、私は驚きのあまり目を丸くして振り向いていた。
知らないうちに隣に立って私を見下ろしていたのは、ちょうど私と同い年か、ひとつ上くらいの女の子。
艶やかな黒髪を肩まで下げて、吸い込まれそうになるくらい真っ黒な瞳でこちらを見据えていた。
「え、いや……誰!?」
「だから、通りすがりさ!」
「いや、通りすがりって……わざわざ話しかけなくない!?」
「そりゃ私だって、純粋に雄大な海の姿に見惚れているだけの見知らぬ誰かに声をかけたりはしないさ! 心配だったんだよ、君が」
「心配って……」
私はそんなに、ヤバそうに見えたんだろうか。
だとしたら、それは見間違いだ。
たしかにちょっとした悩みを抱えてはいるけど、例えば思い詰めてこのまま海へ身投げをしようなんてことは――。
「――あれ」
そしたら、楽になるのかな。
何も考えなくて、済むのかな。
もうあの家に戻る必要もなくて、おばさんと会うこともなくて、ママに叩かれることもない。
それって、すっごく幸せなことじゃない?
だったら、それが手に入るなら――。
「――やめておいた方がいいよ。死の先には何もない。楽園も、天国も、そんなものは信仰心の中にしか存在しないんだ。なんて、死んだ経験もない私が言っても説得力がないだろうけどもね!」
「――。なに、言って……そんなことするわけ……」
「ないならいいんだ。これが私の勘違いで、君はただ海を眺めているだけの女の子だった。もしそうなら、それがいい。だけどね。もしそうじゃなかったとしたら――」
その鈴みたいな声の主は、しなやかな人差し指をピンと立てると、一歩私に近づいた。
「――思い出してみるといい。今日まで君が生きていた理由を。明日への糧を。あるはずさ。死にたい理由と同じくらい、死ななかった理由が」
「しななかった、理由……」
魔力があった。
その声には、仕草には、全ての違和感を後回しにしてしまう魔法の力が。
初対面の人にグイグイこられて、馬鹿正直に言われた通り考えて、すんなりと飲み込んで、私はなにをやってるんだろう――なんて、全く思わないくらいの話術が。
だから、思い出した。
私が、死なない理由を。
「お父、さん……」
思い出して、涙が出てきた。
お父さん。私が中学校に上がる前に死んじゃった、大好きな家族。
お父さんのために、私は今、こうして生きている。
今日を終え、明日を迎えている。
壊れちゃったママを、支えたいと思っている。
私は、生きている。
こんなにもあっさりと、前を向かされてしまった。
「あなたって……」
「うん?」
「いや、違うか。この場合は私がチョロいんだ」
「チョロいね! ここまでチョロい人は、私の知ってる限りではもうひとりだけだよ! なんて、それでいいと思うけどね。言い換えればそれは素直ってことさ」
「素直……」
素直と、そう自己評価していいのだろうか。
そんなに自分を褒めて、いいのだろうか。
「ねぇ……」
「なにかな!」
「――ううん」
颯爽と現れて、止めてくれて、私の自己肯定感を高めようとしてくれたこの人は、一体なんなのだろうか。
ただの親切心でそこまで自分を突き動かすだけの信念を、持ち合わせているのだろうか。
だとしたらそれはすごいことだなって、そう思う。
そして私はもうひとつ、大事なことを口にする。
「私……」
「――うん」
「……帰り方わからない。ここ、どこ」
「……君は思いのほか、後先を考えないタイプなんだね」
「後先を考える人が狂ったように海を凝視するわけないでしょ」
「――。その通りだね!」
その人があまりにも純粋に笑うもんだから、私も釣られて笑みをこぼす。
さっきまで悩んでたのが嘘みたいに清々しい気分で。
ほら、やっぱり私の悩みなんて、大したことなかったんだ。
そして私は、改めてその人を見た。
綺麗な人だ。温かくて、優しい人。
そして――私をあっさりと助けてくれた人でもある。
見つめていると、まるで小動物みたいに首を傾げて、にっこりと白い歯を見せるその人。
――今、胸の奥が、熱くなるのを感じた。
え、嘘、なんでだろ。わかった、恩人だからだ。
「さ、日も沈むよ、早く帰った方がいい。この辺の道なら大体わかるけど、住所はどこかな?」
「そうだね……あのさ」
なんとなく、終わらせたくなかった。
もっと話したいって、そう思った。
繋ぎ止める言葉を、見つけたかった。
「どうしたのかな?」
「その……そうだ。もうひとりのチョロい人って、友達?」
「友達……うん、端的に関係を表現するのであればそうなってしまうんだけど、一言じゃ形容できない関係かな」
「ええと、複雑な関係なの?」
「複雑……ってわけでもないんだけど」
「へぇ……」
「実を言うと、君に臆せず話しかけられたのも、その人に似た雰囲気を感じたからなんだ。なんて、失礼かもだけどね。その人は……」
その人はほんの一瞬だけ目線を外すと、すぐに持ち前の笑顔に戻って言った。
「――一言で言うなら、大切な人さ」
「あ……」
そして悟る。
私の胸で燃えかけた一抹の感情は、表に出すことはできないと。
その表情がどこまでも私じゃないどこかを見てたから、私はそれを大事に閉じ込めて、ぐっと力を込めてから、笑った。
「――ありがとう。話しかけてくれて」
「――お安い御用さ。気をつけて帰るんだよ」
こうして、私の半日限りの反抗は終わった。
暑くて、しんどくて、ちょっとだけ甘くて、それよりちょっとだけ苦かった旅は、やっぱりあっさりと終わった。
それから、案の定ママには叩かれたけど、頬は痛かったけど、心は昨日より痛くなかった。
私は、思う。
名前すら知らない恩人の行く末が、どこまでも幸せでありますように、と。
少しだけ、秋が近づいた気がした。
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