19.『宙に舞う』『社会人』『美容外科』


 窓から射し込む陽が、部屋につもった埃を静かに踊らせた。

 もう何年も人の出入りがないこの場所だ。

 あの日々と違うのはむせるほどの埃だけで、時間はまるで止まったようだった。


「もう十年、だもんね」


 私は放置された椅子を叩き、手が真っ白になったのを確認すると、積み重ねた時間の重さをそのまま乗せてどっかりと腰をかける。

 払いきれなかった埃が宙を舞い、思わず私は息をとめた。


 十年。あっという間のようで、長すぎる時間だ。

 振り返ってみれば色々あったし、たくさんの出会いと別れを繰り返した。

 いいことも、悪いことも、嬉しいことも、悲しいことも、十年前には経験し得なかった山ほどが今の私を形成している。


 高校を卒業して、大学に進学して、卒業して、就職して。

 ちょっとずつ給料も上がってきて、立派に税金も納めて。

 欲しいものを買えるようになったし、寝る時間を自分で決められるようにもなった。

 ぜんぶ、あの頃じゃ信じられないことだ。

 

 いつしか成長した私は、大人になっていた。

 あの頃とは比べ物にならないくらい、大人になっていた。

 あの頃焦がれたような未来の自分に、私はなれているだろうか。

 なれていたらいいなって、そう思う。


 それでも――、


「この場所――あの時間は、今でも昨日のことみたいに輝いているんだよ」


 広くて四角くて寂しい部屋に、ひとりぶんの音が反響する。

 いつもこの場所にあった、もうひとつの声が返ってくることは、もうない。

 私は、大人になりすぎてしまった。


「色々、あったなぁ……」


 十年。十年だ。

 真新しい記憶を思い出にするには十分すぎるだけの時間。

 そして、埃被った思い出を、新たな思い出で上塗りするには容易すぎる時間。


 私にとってこの場所は、すでに綺麗な思い出になってしまっている。

 触られたくない、触りたくない、胸の奥に大事に大事にしまってある宝物に、ずいぶん前からなってしまっている。


 それはきっと、もう二度とあの時間を取り戻せない証明で。


「さみ、しいなぁ……」


 大人になるということは、前を向くということ。

 大切な過去を思い出に閉じ込めて、未来を想うということ。


 忘れながら、生きていくということ。


「忘れたく、ないなぁ……」


 人の記憶は、声から忘れていくらしい。

 その声を、私は覚えているだろうか。

 頭の中で何百回も何千回も何万回も空想したその記憶は、あの日の声と同じものだろうか。


 瞳の色は、覚えているだろうか。

 困った時の癖を、覚えているだろうか。

 指の温度は、覚えているだろうか。

 甘やかな花の匂いを、覚えているだろうか。


 私は、あの息も止まるほど目まぐるしい日々の思い出を、大切にできているだろうか。


「……大人に、なれたのかな」


 あの日よりも、強くなれただろうか。

 あの日よりも、大きくなれただろうか。

 あの日よりも、しっかりやれているだろうか。


 あの日の自分に――その声に、失望されないだろうか。


「――――」


 どれくらいこうしていただろう。

 思い出を優しく照らしていた西日も傾いて、いつしか空も赤らんでいる。

 ちらと時計を見やれば、てんで出鱈目な時間を示していた。


 夜が近づくにつれて、私の焦燥感も膨れ上がってくる。

 大丈夫、上手くやれてる。

 日々に不満もなければ、誰に恥じる生活もしていない。

 怠け者の私にしては上手くやってるってもんだ。


 なのに、収まらない。

 巨大に膨張する漠然とした不安が、どうしようもなく小さい私を苛んでいる。

 

 ――いや、漠然と、ではない。

 明確だ。明確なのだ。

 私を苦しめるモノ、私が満たされないワケ、そんなのたったひとつの理由しかない。


 足りないのだ。

 たったひとつ、その声だけが、足りないのだ。

 ただそれだけで、私は永遠に満たされない。

 一抹の寂しさが、私の胸にぽっかり空いた穴なのだ。


 思い出の場所に足を運んでも、あの日々を空想しても、蓋をしていた思い出をこじ開けても、ただ今隣にいない――それだけで、私は明日を歩けない。


 私の足は、ここで止まってしまった。


「私がここに座って、で、いつもその隣……この辺かな。ここから声が聞こえてきて」


 この場所は、あの日々だ。

 忘れがたい、忘れたくない、そんな日常の一ページだ。

 その足取りを追いかけるように、私はあの日々をなぞった。


「――それで結局、あの日は中途半端なところで話が終わっちゃったんだよね。もう少し話していたかったな」


 ゆっくりとじんわりと回想すれば、まるで心があの日に戻ったように軽くなる。


「大人になったら私たち、なにしてるのかなって話して。そんなの想像もつかなかったから、適当に答えたっけ」


 想像もつかなかった、というのも嘘ではないけど。

 でもそれより、きっとあの日の私は、見たくなかったんだ。

 未来――つまり、あの日常が終わる『いつか』を。


「それで私、教室なのに眠くなっちゃって、気づいたら寝ちゃってて。目が覚めたらふたり分の上着を羽織ってて……目が合って」


 忘れていない。忘れてないよ。

 今だって、いつだって、私は忘れない。

 だってこんなにも愛おしくて、切なくて、鮮明なのだから。


 顔も、仕草も、声も、匂いだって。


「――さみ、しいよぉ……」


 忘れるわけない。忘れたくても、忘れられるわけがない。

 あの二年半は、私の胸の中で何よりも強く瞬いている。

 寂しい。会いたい。苦しい。会いたい。会いたい。

 過去に戻れるなら戻りたい。そりゃ、戻りたい。


 だけど、できることなら――。


「――私は今! こんなに頑張ってるよって、頑張ったよって、伝えたい! もう一度、会いたいよ……」


 輝きすぎる過去の影に隠れた現在は、あの日々が生んでくれた未来だ。

 どれだけ過去に焦がれて、手を伸ばそうとも、現在だって大切な日々だ。

 私は、この思い出を溶かしたい。

 止まってしまった時間を、動かしたい。


 でも、だって、そのためには、そのためには――、


「――私ひとりじゃ、私は私じゃないのよ……!」


 私が私を形成するには、どうしたって足りないものがある。

 必要な人がいる。捨てられない想いがある。


 このままじゃ、私は未来を生きられない。

 だから、この場所で、もう一度――!

 


「人の記憶は、『声』から忘れていくって聞いたことあるけどさ」

「――――」

 


 その声は、不意にひとりだったこの部屋を切り裂いた。

 あの日と変わらないままの声で、私だけの声で、まるで昨日も会ったみたいにすんなりと入り込んでくる。


 身体が固まる。振り向けない。


「やっぱり、あれは嘘だったね」

「――。うそ、って、なんで……」


 あの日みたいな強がりで、必死に平静さを保とうとした声で、私は喉を鳴らす。

 コツコツと、ひとり分の足音が近づいてくるにつれて、私の鼓動がけたたましく主張を始めた。


 やがてその花の香りが私を通り過ぎ、あの日と同じ椅子に座り、あの日と同じ笑顔を見せると――、


「――私は欠片だって、忘れたことがなかったからさ」

「きょうかぁ……」

「なんて顔をしてるのかな、姫芽。愛しの私に会えて、そんなに嬉しかった?」

「ばか、ばかばかぁ……!」

「ここだと思ったし、今日だと思ったよ。懐かしいね、この教室も。私も、取り壊される前に来ておきたかったんだ」


 狂おしいほど空想したその気配――京華の指が、空想よりもあたたかく私の頬を撫でた。

 

 会える気がした。今日こそは、また名前を呼んでもらえる予感があった。

 何千回も同じように思って、やっとまた、巡り会えた。

 京華という、私のすべてに。


「あい、たかったよぉ……きょうかぁ……!」

「私だって会いたかったさ。なにせ、姫芽に会ったら何を渡そう、って考え続けてこの十年を過ごしたんだからね! あぁ! 今日こそは姫芽に会えると張り切ってキメた私のおしゃれカーディガンに鼻水が! ……まぁ、それはそれでアリだけどもね!」

「なにがアリなのよぉ……! ばか、へんたい!」

「へんっ、たい……!?」


 わけもわからず、京華の胸を叩く。

 京華はやっぱり困ったように、優しく私を包み込んだ。


「姫芽は変わってないね。あ、見た目の話ではないんだよ! そりゃ、見た目だって十年前と同じくらい……いや、大人っぽくなって十年前よりかわいくなったね!」

「京華だって、何も変わってないわよ……」

「変わったさ! なにしろこの十年、アメリカにいたんだからね! いやあ、向こうの外科技術はすごいよ! なんたって、日本の整形外科より……」

「そうよ! 京華、なんで日本に帰ってきたの!?」


 あれだけ一緒にいた京華と離れ離れになったのは、京華の渡米が理由だ。

 美容外科医を志した京華は、思いつきでひょろっと日本から離れ、私の前からいなくなってしまった。


 もう、会えないと思っていたのに。


「いや……それなんだけどさ。まぁ平たく言えばお金を貯めるために日本を離れたわけなんだけど……」

「お金って……京華、そんなにお金大好きだったっけ」

「なんか語弊があるね! お金が嫌いな人もいないだろうけどさ! ……その、ちょっと言いづらいんだけど、姫芽にプレゼントがあるんだ」

「ぷれ、ぜんと……?」


 ぽん、と私の肩に京華の手が置かれる。

 そのままぐいっと引き剥がされて、ちょっと名残惜しかったけど、京華が真っ直ぐ私の目を見るものだから、私はされるがままにその夜色の瞳を見据えた。


 そのまま京華の手が机に置かれた鞄に伸び、金属がじゃらりと音を立てて目の前に置かれる。


「これは……」

「鍵だね!」

「いや、それは見ればわかるけど……」


 妙な回りくどさに恐る恐るその顔を覗くと、そこには苦笑いで頬をかく、見慣れた京華の姿。

 これは、つまり――。


「その……つまりだよ。えっと、今日から一緒に帰る、ってのはどうかな。十年前みたいに……あ、といっても、あの時とは違って、帰る場所は一緒っていうか……」

「――一緒に住もう、ってこと?」

「――。平たく言うと、そうだね」


 瞬間、色んなことが頭を駆け巡る。

 京華と過ごした日々のこと。京華がいなくなった日のこと。

 家を出たあの春のこと。新しい出会いと別れのこと。

 それから、今住んでる家どうしようとか、京華は仕事どうするのとか、私のキャパを大幅にオーバーするあれこれがぐるぐると回って、だけどそれでも――。


「――仕方ないから、一緒に住んであげる」

「――よかった。フラれたら一生引きずるとこだったよ」

「そんなわけ……うん」


 余計な言葉はいらない。

 今伝えたいのは、ひとつだけだ。


 ずっと想いつづけた京華に、贈りたいのはこの気持ちだけだ。


「これからも一緒にいてあげるから、これからも一緒にいて」

「――。もちろん」

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