17


「――どうする」


 不知火紗結は、人生最大のピンチを迎えていた。

 音もなく頬を伝う汗は、妙にひんやりと身体の熱を奪っていく。

 いつしか顔の延長線上を離れ、ぽたりとカーペットに染み込むそれは、しかし誰に気に止められることもない。

 効きすぎているほど空調の効いたこの場所で、不自然な雫を垂らしているというのに、だ。


「お、おねがい! 助けて! 私にはまだ一歳の子どもが……」

「――黙れ! 喋るんじゃねェ!」

「――ひっ」

「いいか、命が惜しければ大人しくしてろ……てめェらは大事な人質なんだからなァ……」


 それもそのはず、この異常事態だ。

 時は土曜の真昼間、とある銀行での出来事。

 白昼堂々と飛び込んだ悪意の塊――強盗によって、微睡みを伴う昼下がりは支配された。

 

 当然、汗の一滴なんて気にする者はおらず、彼らの目に映るのは真っ当な恐怖と、生への渇望くらいのものだろう。


「……これは本気でやばいな」


 だからその隙にというわけではないが、不知火は思う存分冷や汗を垂らした。

 ここが正念場、一時たりとも気を緩めることはできない。

 繰り返せば、彼女にとって人生最大のピンチなのだから。


 ついにその膝をたたみ、さらには両の手のひらをべったりと床につけ、彼女はそのほうれい線のひとつもない顔を、ぐしゃりと歪めた。

 

 ――まずい。本気でまずい。

 このままでは、不知火の尊厳は踏みにじられることになってしまう。

 だから不知火は、意を決して歯を食いしばり、再び立ち上がった。


「――やめときな、姉ちゃん。あいつぁ慣れてるぜ」

「――――」


 今にも声を出そうと、まるで餌を乞う魚のように口を開けたところに、滑り込んできたのはまるでトロンボーンみたいな音色。

 人の動きを止めさせる、そんな魔力が込められたような声の主は、黒いスーツに身を包み、腕を組んで座り込む壮年の男だ。


 この大事件の渦中で、まるで意に介さないようなその佇まいは、不知火に一考の余地を与えるものだった。

 しかし不知火だっていつまでもは持たない。一旦は男を視界に入れながらも、振り切るように足に力を込める。

 が――、


「――やめな、と言ったはずさ。死にたくねぇのならな」

「――。貴様……何者だ」


 次の瞬間、不知火の膝は折れていた。

 言葉通りの意味ではない。なんの予兆も予備動作もなく、不知火は膝をつかされていたのだ。

 

 この場を強盗犯に支配されてから初めて、不知火の意識は別の場所に移った。

 目の前の男への興味と、敵対心。そして、二つ目の危機、その到来の予感へと。


「おっと……俺ぁ姉ちゃんを助けてやったんだぜ。そんなに睨まれちゃ敵わなねぇな」

「……白々しい」

「こういう場はな、オトナに任せちまえばいいんだよ。ケツの青いガキの出る幕じゃねぇ」

「お前を頼れと言うのか? 正体も目的も知れない、お前を」


 獲物を追う獣のような剣呑な視線を、不知火は男に飛ばした。

 銀行強盗も然ることながら、今不知火が最も危険視している人物は、このスーツの男に上書きされた。

 しかし、明確な敵意を向けられながらもなお、男はいけしゃあしゃあと眉を上げてみせる。


「俺? 俺ぁごめんだね。こんな面倒事、俺の出る幕じゃあねぇ」

「だったら、誰に任せろと言うんだ」

「決まってんだろ。警察さ。あいつが盾籠ってから一時間ってとこか。俺ら人質のせいであぐねてるんだろうが……ま、時間の問題だな」


 当たり前のことを告げたように、男は顎の無精髭をなぞった。

 つまり、男はこう言っているのだ。

 ――時間が解決する。余計なことはせず、ただ待てと。


「――。お断り、だな」

「……ほう。なんでだ、姉ちゃん。見たとこあんたもカタギじゃなさそうだが……急ぎの案件でも?」

「貴様の目は節穴だな。私は一介の女子高生だよ。――急ぎの案件は、ないとは言えないがな」


 不知火は獰猛に嗤う。鋭い犬歯は、まるで研がれた牙のようだ。

 その姿に一瞬、ほんの一瞬だけ動きを止めた男は、人が変わったように大きく息を吐いた。


「――まぁよ、俺もとっととこんな場所おサラバしなきゃいけなかったんだわ。しゃあねぇ、手伝ってやんよ、姉ちゃん」

「私は貴様を信用していないぞ。一人でいい」

「まぁまぁ、んな堅いこと言いなすんなって。強盗野郎共は二人。俺らも二人で丁度いいじゃねぇか」

「――てめェら! なに喋ってやがる! 死にてぇのか!?」

「――――」


 強盗犯の片割れの怒号、それが合図になった。

 強盗犯の武器は拳銃が一丁と、ナイフが二本。

 すなわち、まずは銃を持った男を制圧するのが定石となる。

 その判断は違えることなく、不知火と男が同時に動く。


「――てめッ」


 強盗犯の手によって強制的に止められていた時間は、瞬間、二人の男女によって氷解することとなる。

 もはや静寂にすら包まれていた銀行の中、次に場を包むのはどよめきだ。


 するはずのない二人分の足音、それにほんの寸拍だけ反応の遅れた強盗犯が振り向いた頃には、彼は既に不知火の射程にいる。


「――こっちも時間がないんだ」

「――ふざッ、うご、動くんじゃねェ!!」


 意識の外から掛けられる動の力に為す術もなく、その銃口が不知火に向けられるよりも先に武装解除は終わっている。

 強盗犯が違和感から自分の手元を確信した時にはもう、そこに銃は握られていなかった。


「大人しく沈め」

「うごぁッ――!」


 三秒にも満たない刹那の攻防――というには防の部分に乏しいが、ともかく男は、わけもわからないまま床に転がっていた。


「やるねぇ……姉ちゃん、やっぱりこっち側の人間だろ。手さばきが常人のそれじゃねぇや」

「詮索は無用だ。ただ――」

「ただ?」

「――ブラックタイガーに勝ったことならある」

「ほぉ……」


 まるで威嚇をするみたいに口角を持ち上げる不知火の姿は、堂々たるものだった。

 同時に、そこら中から歓声が沸き上がる。

 不知火の正体がどうあれ、今この場にいるほとんどの人間からすれば、死の恐怖から解き放ってくれた救世主に他ならないのだから。


 そんな沸き立つ感情を浴びて、場違いにも心地よく思っている不知火は、ふと思い出す。

 自分はこんなところでうつつを抜かしている場合ではないと。

 当初の目的を思い出し、一刻も早い離脱が必要と判断した不知火は、翻して走り出す――と、


「――な」


 完全に意識の外にいたもう一人の強盗犯が、今まさにナイフを振りかぶり、不知火の白い身体に凶刃を浴びせようとしている瞬間だった。

 咄嗟にぐるぐると、考えうる可能性が頭を巡る。

 しかし不知火の持てる限りではこの刃を回避出来る手段はなく、それでもせめて致命傷は避けようと腕を構えたところで――、


「――大丈夫だ。そいつぁもう終わってる」


 男の声が鼓膜を揺さぶると同時に、まるで寸刻前の不知火のように、強盗犯の男は膝をついていた。


「これは……」


 目の前で起こった怪異を解き明かそうと、不知火は目を凝らす。

 何か、タネか仕掛けがあるはずだ。人間である以上、魔法なんてものは存在しないのだから。

 そう思考を巡らせてみれば、ひとつの違和感にたどり着く。

 膝をつく男の傍ら、そこに転がる、明らかに場にそぐわぬ違和感に。


「バナナの、皮……?」

「そうさ。俺ぁ、こいつで仕事してんのさ。殺しのな」

「なにを言ってる……?」

「深くは教えねぇぜ。ただ――凶器なんてもんは、使うヤツの技量次第ってことさ」

「――――」


 理解不能。不知火の類稀なる判断力によって、一瞬でそう片付ける。

 それはともかく、不知火にはやるべきことがある。

 今度こそ、ここに留まることはない。


「あ、そういや姉ちゃん。さっきの話なんだがよ、ブラックタイガーって……」


 男が振り向いた時、既にそこに不知火の姿はなかった。



「ふぅ……九死に一生だ」


 膝に肘をつき、頭を抱えながら、不知火は息を吐いた。

 危なかった。今回ばかりは、本気で身の危機を感じたのだ。

 今までいくつもの死線を越えた不知火であっても、こればかりはどうにもならない。


 流れる水の音を聞きながら、心底安心しきったように――まるで普通の女子高生みたいに、不知火は苦笑をこぼした。


「おしっこ漏れたら人間として終わりだからな……」



「おお、久々のお天道様な気がするね……」


 スーツの男は、大きく天を仰いだ。

 結局、強盗犯を警察に引渡したりとか、事情聴取を受けたりとか、一番面倒な役を掴まされたのはこの男だ。

 それでもまぁ、若い才能を目の当たりにできて、刺激にもなった。

 仕方ない、これくらいは必要経費かと割り切り、快晴の下を歩き始める。


 そして一言、あの場で不知火に言いそびれたことを、一人で呟く。

 それにしても――、



「ブラックタイガーって、エビの名前じゃなかったっけか……まぁ、いいか」

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