16
「紗弥、準備できた?」
「うん。緊張やばいけど」
「あはは、私も! でも大丈夫、なんとかなるよ! 私がとちったら紗弥が助けてくれるしね、あの時みたいに」
「今回は期待しないでほしいけどね……」
今更だ。
私にとって、きっとこんなのは今更、なにも変えられないくらい取るに足らないものだ。
それでも、縋ってしまう。
それでも、希ってしまう。
――願わくば、ここが私の居場所でありますように。
そんな陳腐な想いだけを乗せて、私は髪を結んだ。
■
高校を卒業してからは早かった。
進学か就職か、その二択でその後の人生は決まる。
私が選んだのは後者で、とはいっても特別でも奇抜でもない選択がもたらしたのは、唐突にオトナの世界にぶん投げられる孤独感と、必死に毎日を浪費する徒労感だけ。
気づけば私は、二十代も後半に差し掛かっていた。
高校を卒業してから最初の数年間で私を苛んだのは、華々しい青春の延長を送る元同級生とのリアルの乖離――その劣等感だった。
いつしかそんな彼らも大学を卒業して、ようやく妙な敗北感から逃れることができると思ったら、次に悩まされるのは高卒と大卒の間にある、東京タワーよりも高い手取りの壁だ。
いくら嘆いても変わることのない現実――ひいては過去の自分の選択をどうにか受け入れ、一生付き合っていく覚悟を決めた矢先、追い討ちよろしく私の心の均衡を崩すのは、なだれ込む結婚と出産の報告。
この頃になると、私だって察していた。
きっと私の選択は間違っていて、そのせいで死ぬまで消えない劣等感に悩まされるのだと。
「久しぶり〜……え、やつれすぎじゃない?」
「――――」
だから、かなり渋った。
こうして、高校の同級生と顔を合わせるのは。
これが中高と絆を深め合った真緒じゃなければ、私の首が縦に振れることはなかっただろう。
彼女の近況は知らない。彼女も、私のことなんてつい最近まで忘れていただろう。
むしろ、だからこうして呼び出しがかかったのだろうし。
十年近く顔を合わせていなかった真緒は、やっぱりあの頃とは変わっていた。
素朴な顔立ちと控えめな笑い方は、厚く塗られたファンデーションに全て飲み込まれているほどで。
身に纏う空気も些かオトナすぎるし、いつまでもあの頃の自分を越えられないのは私くらいのものだろうな、と諦念にも似た溜息を漏らす。
「仕事、大変? 紗弥って今なにしてるんだっけ」
「病院で……」
「え、看護師?」
「……事務員だよ。私、高卒」
「あ、そうだったね〜」
あはは、と声を出して笑う真緒。
そんな笑い方をする子じゃなかったのに、なんて思うのはきっと八つ当たりだろう。
目線をわざと逸しながら、気まずさにまかせてストローを啜る。
ヒット曲をピアノアレンジした店内BGMが私を無理やり落ち着かせようとしているみたいで、むしろ居心地が悪かった。
「それにしても……紗弥、ちょっと雰囲気変わったね」
「そうかな……」
「うん、なんか……オトナっぽくなった? ってかんじ?」
「うぐっ……」
変なところにアイスコーヒーが入る。
オトナっぽくなった……じゃなくて、きっとあれだ。
オトナっぽく見せるのが上手くなったか、あるいは知らぬ間に若さを捨ててしまったかのどっちかだと思う。
本当は、コーヒーだって苦いのだ。
「昔の紗弥はもっとイケイケで、アグレッシブで……なんか、若さ全開って感じだったもんね〜。あはは、この歳にもなればそりゃ落ち着くよね」
「そ、そうだね……」
当てつけだろうか。それとも、煽られてたりするのだろうか。
どうにも、私の心へ的確にダメージを与えようとしているようにしか思えない口ぶりだ。
とはいえ、私の内心なんて知りようがないから、偶然だろうけど。
なおさら私が居心地を悪くしていると、やがて真緒が言いづらそうに口を開いた。
言いづらそうというか、言いたくなさそう、というか。
「……私、紗弥みたいにオトナになれなくてさ」
「――。いやいやいや……」
影を落とすその表情は、どこかで見たようなものだった。
正体不明の既視感はひとまず置いておいて、そりゃないだろ、と思う。
少なくともこんな私より、よっぽどオトナなのだから。
「夢をさ、諦められなくて」
「夢……?」
「うん。私たち、軽音部だったでしょ?」
「――――」
そこまで聞いて、理解してしまう。
この子は、本気であの頃の延長線上を生きているのだと。
そして、理解してしまう。
彼女の不安そうに結ばれた唇は、遠慮がちに伏せられた目は、きっと――。
「――ダメもとで、お願いしにきたの。紗弥、もう一度歌ってくれない?」
――きっと私と同じ、オトナになりきれなかった人の顔なのだと。
■
結局、私は断った。
仕事だってあるし、前に進まなきゃいけない。
いつまでもあの頃に縋り続けることなんて出来ないのだ。
たぶん、真緒と一緒に音楽をやったら楽しいのだと思う。
高校生みたいにはしゃいで、現実から目を逸らして。
でも私はもう――二十代後半はもう、それが許される歳じゃない。
そもそも、どうしてか私は悲観的になっているけど、そんなに悪い人生じゃないし。
人間関係だって、可もなく不可もなくだけど、少なくとも不可がないだけ万々歳。
一人で暮らせるだけの収入もあるし、そのうち恋人だってできる。
周りと比べなければ、十分よくやってるはず。
そろそろ、大人に成った私を認めるべきなのだ。
「――紗弥。お願い、一度だけでいいの。私のキーボードで歌ってみてくれないかな」
――認める、べきなのだ。
夢に、過去に、ありもしない未来に、おいそれとうつつを抜かしてる場合じゃないと。
――認めるべきでは、ないのだ。
本当はもう一度だけ、あの頃に帰りたいと。
「――紗弥しかいないんだよ。私が夢を託せるの」
ダメだ。ダメなんだ。
一度それを許すと、きっと私はどこまでも未練がましく、過去に縋ってしまうから。
一度夢を見ると、きっとそれを希ってしまうから。
だから、私は――。
「――あの頃の紗弥はさ」
懲りもせず、いつしか1Kの我が家にまで上がり込んで――何度も頭を下げる真緒が、ぽつりと呟いた。
「……キラキラしてた。同じ高校生で、同じ制服とポニーテールなのに、きっと私なんかじゃ敵わないんだろうなって、こういうのをカリスマ性って言うんだろうなって。私がキーボードを始めたのは――ボーカルを諦めたのは、紗弥がいたからだったんだよ」
「――――」
「文化祭。覚えてる? 私、初めて人前で演奏して、頭真っ白になっちゃって。完全に飛んじゃってさ。その時も、紗弥が助けてくれた。改めて思ったの。紗弥みたいな人のことを、カリスマって言うんだって」
きっと、本心じゃない。
頷かせるために、ちょっとばかり私を持ち上げてるんだ。
それでもそのエピソードは事実で、私の記憶にも血よりも濃く、あの文化祭の色は残ってる。
懐かしい。それと――また、この手に入れたい。
年甲斐もなく、責任感もなく、そう思ってしまっている。
狙っているのなら、真緒は営業マンとかにも向いてると思う。
「――ねぇ、紗弥。もう一度、始めてみない? まだ、夢を見るには遅くない。……たぶん。そう信じてる」
「でも……」
「もう一度見せてよ。ステージで、紗弥の背中。あの頃みたいに、ポニテと制服でさ」
「それは……さすがに痛くない?」
「あはは、かもね。――でも」
――オトナになれなくて、いいのだろうか。
縋ってしまって、いいのだろうか。
考えても考えても、答えはわからなくて。
それでも、自分の気持ちに素直になっていいのなら。
やりたいことをやりたいと言っていいのなら。
「――夢を見るなら、痛いくらいでちょうどいい。でしょ?」
「……夢は見ないよ、私は」
「ええっ……」
――夢で語る真緒には申し訳ないけど、私は私でこの機会を使わせてもらいたい。
少しだけ、ほんの少しだけでも何かが変わる可能性があるのなら、きっと鬱屈とした毎日を送るだけの今よりはマシだから。
だから――、
「まずは――歌、練習しなきゃだね」
「――。うん!」
たまには前に進んでみるのも、いいかな。
そう思った。
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