7
「――音楽なんて、適当でいいのに」
端的に言って、第一印象は最悪だった。
新学期、まだ着慣れない制服に身を包みながら、私は第三音楽室のドアを叩いた。
『軽音同好会』というのは、この学校で唯一、放課後にギターを触れる場所。
出来たばかりで、実績があるわけでもないし、正直なところあまりオススメしないが――というのは、担任の先生が苦渋の思いでこぼした言葉だ。
それでも、この春ついに中学校を卒業した私は、大人の領域に片足を突っ込んだ証として、『自分のことは自分で決める』という信条を立てていた。
百聞は一見にしかず。
とにかく、この目で見てみないことには、先生のあの渋い顔の意味もわかるまい。
そんなわけで踏み入れた部室――というか活動場所で目に映ったのは、たった一人の女子生徒だった。
妬けるほどに真っ直ぐ落とした黒髪を肩で切り揃えた彼女の、どこまでも遠くを見据えているような切れ目に捉えられ、私は萎縮することになる。
「――うん? 君は……」
「あ、えっと、あの、一年の花村といいます! その、ここって『軽音同好会』で、合ってますか……?」
線の整った華奢な顎に手を当て、窓から射す西日に照らされる彼女の姿といったらもう、まるで何かのジャケ写かアー写かと思うくらい、別次元の麗しさを孕んだものだった。
知らない先輩との初対面と知らない教室の匂いにあてられ、気もそぞろな私に向かって、彼女はその繊細なガラスのような声を鳴らす。
「え、もしかして、入部希望だったりする!?」
「――。あの、その、えっと、はい」
「ほんと!? マジか、ちょっと待ってね、今お茶――はないから、水! はい、水!」
彼女はなにやら焦りながらリュックを漁り始め、かと思えばその中からペットボトルを見つけ出し、小走りで駆け寄って私に差し出した。
私はなすがまま、それを受け取る。
ぬるい。常温だった。一体いつから入っていたのだろう。
「あ、ごめんね! 私、二年の九龍紗弥っていいます! 花村さん、よろしくね!」
天然水を握りしめ、目を丸くする私に向かって、彼女はなおも言葉を浴びせ続けた。
いきなりのことに驚きつつも、白くてしなやかな手のひらを差し出されたことで、私は我に返る。
握手だ。
私は今、初対面の先輩に握手を求められている。
今日日、こんなに格式ばった出会い方を求める人も珍しいよな、なんて思いながら、私はその手を取った。
「わ、嬉しい! 花村さん、なにか楽器やったりするの?」
「は、はい! その、ギターを少々……」
答えながら、私は握った手の感触に気を取られる。
手――というか、指だ。
見た目よりもゴツゴツしていて、特に指先の方が、固くざらついている。
これは――、
「そうなんだ! 私もね、ギターをやってるんだ! もう十五年くらいになるかな。花村さんは、どれくらいやってるの?」
「そ、そうですね……五年くらい、です」
予想に反することなく、やはりギターをやってる人の指だ。
それも、とんでもないくらいに長く。
先生には止められたけど、やっぱりここに来て正解だった。
こんなに優しくて、ギター歴も長く、それでいて綺麗な先輩がいるのなら。
そう、思ったのに――、
「ね、入部してよ! この同好会、実はメンバーが私しかいないんだ! ソロは寂しくってさ!」
「は、はい! ぜひ!」
「わ、ほんと!? 嬉しいなあ! よかった、これで先生に文句言われなくて済むよ」
「文句、ですか?」
「うん。人もいない同好会で遊んでないで、人を増やす努力をするか辞めて勉強しろ〜! ってさ。音楽なんて、適当でいいのに」
その言葉は、びっくりするほど自然に、私の中へ入り込んできた。
――音楽なんて、適当でいい。
ドクンと、心臓が脈打つ。
音楽なんて、適当でいい――はずがない。
本気だからこそ、音楽なのだ。
休息を挟むことは大事だけど、手を抜くことはいけない。
例えば今日、十を身につけたのなら、明日は十五。明後日は二十を身につけるつもりで。
持てる限りの情熱を燃やすからこそ、音楽なのだ。
粗末な熱量からは、粗末な音楽しか生まれない。
この先輩はわかっていない。
これだけ音楽を理解していそうなのに、全く理解していない。しようとしない。
当たり前の話だが、部活動として臨む以上、温度感は大事だ。同じ熱量で出来ないのなら、交わらない方がいい。
でもこの学校じゃ、ここ以外にギターを鳴らせる場所がない。
どうする。やめようか。
――いや。
――だったら、私がこの先輩の考え方を変えればいいんだ。
私は妙な方向に気合いを入れて、『軽音同好会』に入部した。
■
「――あ、ごめんなさい! 今のところ、ブレイクでした」
「いいよいいよ〜。もう一回いこ!」
粗末だったのは自分の腕前だったと言わざるを得ない。
入部から一ヶ月も経つ頃には、それは確信に変わっていた。
結局のところ部員は二名なわけで、これではバンド演奏などできるはずもなく。
基本的には各々が練習し、たまに二人でセッションを重ねるという流れが定着しつつあった。
もちろん、私は個人練習を欠かしたことはない。
なのに、なぜだろう。
セッションのたび、圧倒的な実力差にそれはもう見事に自信を喪失させてくるのだ。
彼女は、いつでも気楽だった。
悪くいうならば、適当だった。
なのに、フレーズが飛んだりすることなんて当然ないし、そればかりかミスタッチのひとつすら聴いたことがない。
だからというわけでもないが、その恐ろしい精度と実力を前にして、私の方が緊張してミスを連発する始末。不甲斐ないものだ。
ある日私は、彼女に尋ねた。
「なんで先輩ってそんな感じなのに、本気で音楽をやらないんですか?」
「え〜? 別に手を抜いてるわけじゃないよ? 適当なだけ」
「同じでしょう……」
あはは、と笑う表情に、しかし私は何も言う気になれなかった。
というより、何を言っても私の僻みにしか聞こえないと思った。
彼女にものを言うには、まずは彼女に追いつくしかない。そう思った。
■
残念ながら彼女が在学してるうちに追いつくことは、叶わなかった。
最初のうちは彼女の言動ひとつにいちいち苛立っていたけど、今となってはそういうものだと思うようになっていた。
もうこの人はどうしようもない。天才だ。勝てん。
「もう卒業ですね」
「そうだよぉ〜! 寂しいね、葉月と離れたくないよ〜!」
「離れてください。暑苦しいです」
マジ泣きしそうな勢いで私に抱きついてくる紗弥先輩を引き剥がしながら、私は窓の外を眺める。
「……来ませんでしたね」
「うん?」
「部員です。二年間、私だけって……紗弥先輩の人望の薄さには驚かされました」
「私わるくないよ! えっと……世の中が悪い!」
その物言いに、苦笑が零れる。
なんというか、いつだって彼女は――、
「適当ですね」
「適当だよお!」
ニカッと白い歯を見せて笑う彼女から、最初に抱いたクール系美女、という印象はとうに剥がれ落ちていた。
黙っていればあんなに画になるのに、喋ると途端にボロが出る。
まぁ、この笑顔は――これはこれで、ジャケ写にしても遜色ないとは思うけど。
「先輩」
「はぁい」
「――一曲、演りませんか?」
「もちろん!」
今日は最後の部活動。
そして、最後の一曲になる。
そう思うと、途端に――、
■
「――あはは! あははは! ねえ、葉月さ、今めっちゃ適当だったでしょ!」
「ええ、適当でした」
「いいんだ? あんなに私に文句言ってたのに、適当で! あはは!」
途端に、肩の力が抜けたのだ。
きっと彼女にとって、私たちにとって、一番しっくりくるのは、この形だから。
あ、そうそう。
その問いの答えだけど――、
「――いいんですよ、適当で」
「ふぅん。で、どうだったのかなあ?」
どうって、そんなの決まってる。
彼女と過ごした二年間を想えば、聞くまでもない。
音楽は最高に楽しいし、たまには本気で汗を流すのも楽しいし、それに――、
「――適当って、楽しいですね」
「――でしょ」
私にとって、音楽と同じくらい大切なものは、そこにあった。
それを見透かしたような半開きの眼がちょっとムカついたけど、なんだか負けた気がするけど、それでも私は満足だった。
けど、その額に一発、デコピンだけお見舞いしてやった。
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