6


 宇宙みたいな六畳半を、漂う煙が白に染め抜いた。

 ふわふわ、ふわふわと。


 時間さえも緩やかに包んで、明日に見つからないように、ふわふわ、ふわふわと。



 時計の音が、やけにうるさく木霊する。

 急かすように、焦らすように、それはまるで私を嗤っているようで。


 そういえばこの時計って、これまでも毎分毎秒、ちゃんと時を刻んでいたんだね。

 当たり前だけど――そんな当たり前のことを今になって気づかせるなんて、残酷だ。

 昨日までの私は、ずっと遠い夢の中にいるみたいなのに。


 現実が終わるのなんて一瞬で、現実が始まることもまた、非情なまでに一瞬だ。

 昨日までの日常は、明日に持っていくことなんてできない。


 ――私は、自由になった。

 重く煩わしい暮らしを脱ぎ去り、真新しい生活を手にするため、きっと最善の選択をした。


 だから、もし今の私がこう問われたら。


『今、幸せですか?』


 こう答えるしかない。はい、と。


『後悔はしていませんか?』


 はい、と。


『昨日より、素晴らしい一日になりましたか?』


 ――はい、と。

 そう答えなければ、私にとっても、あなたにとっても、間違った選択ということになってしまうのだから。



「大丈夫? あんまり頑張りすぎなくてもいいんだよ」


 そんな言葉をもらった時、私はどう答えたっけ。

 たしか、こうだ。


「全然、大丈夫」


 あれはきっと、愛情だった。思いやりだった。気遣いだった。

 過不足ない暮らしの中で、私に施されたささやかな幸せだった。


 なのに私はどうして変に強がって、苛立って、溜め込んでしまったのだろう。

 不満があったのかもしれない。

 言いたいことを言いもせずに、一方的に募らせていたのかもしれない。


 間違い、だったのだろうか。

 ――間違い、だったとしても。


 それを認めてしまっては、私は立ち上がれなくなる。

 この狭かったはずの部屋に、ずぶずぶと飲み込まれてしまう。


 だから、これでよかったのだ。

 代償を払うべきは、どこまでも私なのだ。



「あ……落ちちゃった」


 ジリジリと思い出を焦がす火が、灰となったそれを部屋にばらまいた。

 ふと我に返って時計を見やると、その針は闇に照らされて読み取れない。


 いつのまにか、夜がやってきた。

 たったひとりの夜、ちょうど今夜から冷え込むらしい。


 皮肉としてはまぁ、安直すぎるかな。

 そんな自虐を一発、頭の中に飛ばしてから、山のように積み上げられた灰の群れに、火のついた煙草を突き刺す。


 煙の残滓を纏わせながら、私は机に手を伸ばす。

 請うように、縋るように、未練がましくその箱を手に取った。


「――あ」


 箱の中身は、あと一本。

 いつまでもこの部屋にはいられないと、諭されているようだった。



 結局のところ、こんなことはよくある話なのだ。

 ネットにはいくらでも同じようなネタが転がっているし、所詮ニュースにもならないような、平凡な日々でしかない。


 あの人だって、この人だって、平気な顔をして生きている誰もが、きっと乗り越えてきた常なのだ。


 だから私の選択も、いつか間違っていなかったと笑い飛ばせるような、そんな些細なもので。

 そう、あれだ。断捨離と同じだ。

 要らないと判断したものを、その時の感情のままに、手放しただけのこと。


 そりゃ、しばらくは思うこともあるだろう。

 ――やっぱり、捨てなければよかったと。


 でも、しばらくの話だ。ずっとじゃない。

 いつか、笑い話になる。

 絶対に、そうなる。


 そうなる、なら――、


「……なんでこんなに、辛いのよ」


 取ってつけたような理屈を飛び越えて、私の内側から想いが溢れ出し、雫となって零れていく。

 わかっているのに、そのつもりなのに、だったらなんで、こんなにも自分を救えないのか。


 ――私は、ひとりになった。

 ――私は、ひとりにしてしまった。


 冗談だよって、そう言えたら楽なのに。

 早く帰っておいでよって、そんなことを臆面もなく吐き出せたら、私はこの部屋から出られるのに。


 それか、あなたが言ってよ。

 冗談だよ、本気にした? って言って、今すぐ合鍵でドアを開けて。

 いつもみたいにコートをかけて、几帳面に靴を揃えて、この場所に座ってよ。


「大事だった、はずなのに……」


 どうして、あんなことを言ったのだろう。

 どうして、手放してしまったのだろう。


 もう、我慢する。

 ちょっとのことで文句も言わない。

 イライラもしないし、もししてもあなたには当たらない。

 髪だって切るし、派手なネイルも辞める。

 他人に優しくするし、あなたにはもっと優しくする。


 ――だから、戻ってきてよ。


 なんて、私に言う資格がないことくらい、わかっている。

 口走ってしまったのは私で、悲しい顔をさせたのも私。

 全部、私だ。


 だから、私が向き合うしかなかった。

 逃げられるわけも、なかった。


 最後の火を、つけた。



「たった一日だよ」


 誰もいないのに、そこにいる誰かに話しかけるように、私は声を出した。


「たった一日しか経ってないのに、私、もうこんなにズタボロになってる」


 笑いが込み上げる。

 馬鹿みたいだ。いや、馬鹿なのだろう。

 少なくとも、昨日の私が見たら、本気で眉を顰めるくらいには。


「ねえ、私、煙草吸ってる。美味しくないし、頭もクラクラするし、気持ち悪くなってきちゃった。こんなの一日に何本も吸うなんて、すごいね」


 チリチリと、終わりは近付いていた。

 指先がほんのりと熱を持つ。


「止めないの? 煙草だけは辞めとけって、あれだけ言ってたのに」


 お金もかかるし、身体にも悪いし、風当たりも強いし。

 ろくなもんじゃないって笑いながら、ふわふわと煙を漂わせていたね。


「……まぁ、本当はね。内緒にしてたけど、昔、ちょっとだけ吸ってた時期があるの」


 吸ってた時期、なんて言い方は大袈裟だ。

 友達からもらって、一本だけふかした、それだけ。

 肺にも入れられずに、すぐ火を消してしまった。

 

 でも、そう言った方があなたは驚くと思ったから。


「本当のことを言ったら、どうなったかな。怒ったかな。笑ったかな。それとも、だろうと思った、なんて言ったかな」


 最後にそれを咥えて、大きく息を吸った。


「――けほっ、けほっ。やっぱり、ろくなもんじゃないね」


 身体が危険信号を発するように、目眩と吐き気が主張する。

 それを抱きしめてから、だいぶ短くなってしまったそれを吸殻の山に押し付けた。


 灰皿を両手で抱え、吸殻の一欠片さえも落とさないように、歩いて数歩のキッチンまで運ぶ。

 まだ昨日が残るゴミ箱を開け、灰皿をひっくり返す。


「……背負うしか、ないんだよね」


 この辛さからは、逃げることなんてできない。してはいけない。


 でも昨日はいつか一昨日になり、過去になる。

 そうなる日まで、背負い続けるしかない。

 

 私は翻し、時計を見つめた。

 日付は、変わっていた。

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