6
宇宙みたいな六畳半を、漂う煙が白に染め抜いた。
ふわふわ、ふわふわと。
時間さえも緩やかに包んで、明日に見つからないように、ふわふわ、ふわふわと。
■
時計の音が、やけにうるさく木霊する。
急かすように、焦らすように、それはまるで私を嗤っているようで。
そういえばこの時計って、これまでも毎分毎秒、ちゃんと時を刻んでいたんだね。
当たり前だけど――そんな当たり前のことを今になって気づかせるなんて、残酷だ。
昨日までの私は、ずっと遠い夢の中にいるみたいなのに。
現実が終わるのなんて一瞬で、現実が始まることもまた、非情なまでに一瞬だ。
昨日までの日常は、明日に持っていくことなんてできない。
――私は、自由になった。
重く煩わしい暮らしを脱ぎ去り、真新しい生活を手にするため、きっと最善の選択をした。
だから、もし今の私がこう問われたら。
『今、幸せですか?』
こう答えるしかない。はい、と。
『後悔はしていませんか?』
はい、と。
『昨日より、素晴らしい一日になりましたか?』
――はい、と。
そう答えなければ、私にとっても、あなたにとっても、間違った選択ということになってしまうのだから。
■
「大丈夫? あんまり頑張りすぎなくてもいいんだよ」
そんな言葉をもらった時、私はどう答えたっけ。
たしか、こうだ。
「全然、大丈夫」
あれはきっと、愛情だった。思いやりだった。気遣いだった。
過不足ない暮らしの中で、私に施されたささやかな幸せだった。
なのに私はどうして変に強がって、苛立って、溜め込んでしまったのだろう。
不満があったのかもしれない。
言いたいことを言いもせずに、一方的に募らせていたのかもしれない。
間違い、だったのだろうか。
――間違い、だったとしても。
それを認めてしまっては、私は立ち上がれなくなる。
この狭かったはずの部屋に、ずぶずぶと飲み込まれてしまう。
だから、これでよかったのだ。
代償を払うべきは、どこまでも私なのだ。
■
「あ……落ちちゃった」
ジリジリと思い出を焦がす火が、灰となったそれを部屋にばらまいた。
ふと我に返って時計を見やると、その針は闇に照らされて読み取れない。
いつのまにか、夜がやってきた。
たったひとりの夜、ちょうど今夜から冷え込むらしい。
皮肉としてはまぁ、安直すぎるかな。
そんな自虐を一発、頭の中に飛ばしてから、山のように積み上げられた灰の群れに、火のついた煙草を突き刺す。
煙の残滓を纏わせながら、私は机に手を伸ばす。
請うように、縋るように、未練がましくその箱を手に取った。
「――あ」
箱の中身は、あと一本。
いつまでもこの部屋にはいられないと、諭されているようだった。
■
結局のところ、こんなことはよくある話なのだ。
ネットにはいくらでも同じようなネタが転がっているし、所詮ニュースにもならないような、平凡な日々でしかない。
あの人だって、この人だって、平気な顔をして生きている誰もが、きっと乗り越えてきた常なのだ。
だから私の選択も、いつか間違っていなかったと笑い飛ばせるような、そんな些細なもので。
そう、あれだ。断捨離と同じだ。
要らないと判断したものを、その時の感情のままに、手放しただけのこと。
そりゃ、しばらくは思うこともあるだろう。
――やっぱり、捨てなければよかったと。
でも、しばらくの話だ。ずっとじゃない。
いつか、笑い話になる。
絶対に、そうなる。
そうなる、なら――、
「……なんでこんなに、辛いのよ」
取ってつけたような理屈を飛び越えて、私の内側から想いが溢れ出し、雫となって零れていく。
わかっているのに、そのつもりなのに、だったらなんで、こんなにも自分を救えないのか。
――私は、ひとりになった。
――私は、ひとりにしてしまった。
冗談だよって、そう言えたら楽なのに。
早く帰っておいでよって、そんなことを臆面もなく吐き出せたら、私はこの部屋から出られるのに。
それか、あなたが言ってよ。
冗談だよ、本気にした? って言って、今すぐ合鍵でドアを開けて。
いつもみたいにコートをかけて、几帳面に靴を揃えて、この場所に座ってよ。
「大事だった、はずなのに……」
どうして、あんなことを言ったのだろう。
どうして、手放してしまったのだろう。
もう、我慢する。
ちょっとのことで文句も言わない。
イライラもしないし、もししてもあなたには当たらない。
髪だって切るし、派手なネイルも辞める。
他人に優しくするし、あなたにはもっと優しくする。
――だから、戻ってきてよ。
なんて、私に言う資格がないことくらい、わかっている。
口走ってしまったのは私で、悲しい顔をさせたのも私。
全部、私だ。
だから、私が向き合うしかなかった。
逃げられるわけも、なかった。
最後の火を、つけた。
■
「たった一日だよ」
誰もいないのに、そこにいる誰かに話しかけるように、私は声を出した。
「たった一日しか経ってないのに、私、もうこんなにズタボロになってる」
笑いが込み上げる。
馬鹿みたいだ。いや、馬鹿なのだろう。
少なくとも、昨日の私が見たら、本気で眉を顰めるくらいには。
「ねえ、私、煙草吸ってる。美味しくないし、頭もクラクラするし、気持ち悪くなってきちゃった。こんなの一日に何本も吸うなんて、すごいね」
チリチリと、終わりは近付いていた。
指先がほんのりと熱を持つ。
「止めないの? 煙草だけは辞めとけって、あれだけ言ってたのに」
お金もかかるし、身体にも悪いし、風当たりも強いし。
ろくなもんじゃないって笑いながら、ふわふわと煙を漂わせていたね。
「……まぁ、本当はね。内緒にしてたけど、昔、ちょっとだけ吸ってた時期があるの」
吸ってた時期、なんて言い方は大袈裟だ。
友達からもらって、一本だけふかした、それだけ。
肺にも入れられずに、すぐ火を消してしまった。
でも、そう言った方があなたは驚くと思ったから。
「本当のことを言ったら、どうなったかな。怒ったかな。笑ったかな。それとも、だろうと思った、なんて言ったかな」
最後にそれを咥えて、大きく息を吸った。
「――けほっ、けほっ。やっぱり、ろくなもんじゃないね」
身体が危険信号を発するように、目眩と吐き気が主張する。
それを抱きしめてから、だいぶ短くなってしまったそれを吸殻の山に押し付けた。
灰皿を両手で抱え、吸殻の一欠片さえも落とさないように、歩いて数歩のキッチンまで運ぶ。
まだ昨日が残るゴミ箱を開け、灰皿をひっくり返す。
「……背負うしか、ないんだよね」
この辛さからは、逃げることなんてできない。してはいけない。
でも昨日はいつか一昨日になり、過去になる。
そうなる日まで、背負い続けるしかない。
私は翻し、時計を見つめた。
日付は、変わっていた。
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