5
世界が赤く染まって、弾ける光の粒が物憂げに水面を照らす。
ゆらゆら、ゆらゆらと、まるで私の心みたいに、落ち着きなく揺蕩っている。
それに合わせるように、きみは手を振った。
小麦色の指を伸ばして、シワのひとつもない手のひらを見せつけて、ひらひら、ひらひらと。
それに応えるように右手を持ち上げたけど、どうにも上手く動かせなくて、中途半端に伸ばした手は、そのまま宙ぶらりんになった。
「また来年。待ってるよ」
地球まるごとを鏡にして、最後のひと仕事と海に映る太陽よりも、きみの笑顔の方が眩しいから、真っ直ぐきみを見ることが出来なかった。
誤魔化すように、寄せては返す波の音に耳を澄ます。
交差していた二人の視線は、示し合わせたように彼方の水平線を捉える。
「ずっとずっと向こうに、君はいるんだね」
きみが呟いた。
「この海を越えて、この島を出て、ずっとずっと向こうに、君の住む街はあるんだ」
潮風に乗って、ささやかな憧れを孕んだその声は運ばれる。
その感情が、今はどうにも痛いのだ。
「すごいね。遠いけど、確かにあるんだ。私の知らない世界は」
ずっと黙りこくっていた私の気持ちを見透かして、きみは私に近づく。
その一歩が踏みしめられるたびに、私の心臓はうるさくなっていった。
やがて、きみは手を伸ばせば届く距離にいた。
こんなにも近くて、こんなにも感じられるのに、それがひどく残酷なことに思えた。
「お別れじゃないよ。また来年、待ってる」
そう言ってきみは、私の頭を撫でた。
もう随分、この島に馴染んでしまった髪だ。
毎日のように海水に浸かっていたから、何年も頑張って手入れしてきた私のキューティクルは、今や風前の灯。
それでも、私は気に入っている。
「友達はさ、大人になったらこの島を出るっていうんだ。でも私には、ここ以外の世界が想像もできなくて。君が来てくれたから、ほんのちょっとは知れたかな」
「――だったら」
一緒に。
そう言えたらよかった。
でも、きみの海みたいに深い瞳を見たら、そんな言葉は言えなかった。
きみはふっと頬を緩めて、なおさら私の髪を撫でた。
ちょっと繊細さには欠けるけれど、そんなきみの手つきが、手つきが――私は、好きだ。
「私はこの島を出ないよ。この島には、手放したくないものが多すぎるんだ。だからさ」
集まった熱を冷ますように、ひんやりと冷たい手のひらが私の頬を包んだ。
「また夏休みになったら、ここへおいでよ。私はいつでもここにいるからさ。待ってる」
「……遠いよ」
「遠いさ。遠いけど、きてくれた。出会えた。だから、また来てほしい」
そうじゃなくて――距離よりも、もっと遠いものがある。
だけど、それを言葉にはできなかった。
「ほら、見てごらん。そろそろ日が沈むよ。君がいる場所にはなんでもあるかもしれないけど、この景色だけは見つからないでしょ?」
得意げにきみは笑う。
促されて視線を海に戻すと、さっきよりも深く、強く、水平線を焦がす陽光が、せっせと今日を終わらせようとしていた。
確かに、綺麗だ。
こんな景色、私の住む街にはない。
だけど今だけは、最後の日を暮れさせるこの景色だけが、私を苦しめるものだった。
そもそも、この瞬間が惨いほどに綺麗な理由なんて、ひとつしか思い当たらない。
「……ダメだよ。そんな目で見つめられたら、私だって揺らいじゃうから」
「――揺、ら」
――揺らいでくれるなら、いくらでも見つめるのに。
だけど、知っている。
きみは、こんなとき、優しい嘘をつく。
私の求めている言葉を、そっと添えてくれる。
でも、ダメだ。
一番深いところで、きみは絶対に曲がらないから。
だから、残酷だ。
「終わっていくね」
「――――」
「夏休み」
こうやって、わざと現実を思い出させるのも、きみの優しさだ。
明日からは、普段通りの毎日に戻らないといけない。
それは、変えられない。
いくら嘆いたって、いくら求めたって、私たちにも日常があるから、変えられない。
今いるこの場所、時間こそが、非日常だ。
「……船」
陽の残り火もまばらになった頃、きみが言った。
釣られて、私もそれを探す。
ドクンと心臓が跳ねたのをどうにか無視して、薄暗い海を見つめた。
それは漁船で、私をこの島から現実に連れ去るものではなかった。
でも、夢の中にいたみたいな意識は、引き剥がされてしまった。
「――帰りたく、ないよ」
どうしようもなく感情が溢れて、いつしか視界は滲んでいた。
「大丈夫、また会えるから。嘘じゃない」
きみは少し驚いてから、私の肩を引き寄せた。
手のひらは冷たかったのに、ふたり分の体温はちょっと暑苦しくて、未だ胸に灯る夏の残滓を大切に握りしめる。
「また、会える?」
「会える、会える。君が来てくれる限り、何度でも」
「また、会いたい」
「会えるさ。絶対に」
気づけば嘘みたいに夜が広がり、潮風も冷たくなってきて。
本当の本当に、長かった夏の終わりが迫っていることを肌で感じる。
私のひと夏の熱も、きっとじんわりと引いていくのだろう。
だから、ずっと避けていたその言葉を、私は言ってしまいたくなっていた。
「……ねぇ」
「うん?」
「……なんでもない」
言えなかった。
言ってしまったら、何かが変わってしまう気がして。
待っていてくれなくなってしまう気がして。
ずっとこの瞬間が続いてほしくて、でももうすぐ終わりを迎えて。
変えたくなくて、変わってほしくなくて、でも終わってしまうから。
だから私は、ひとつだけ、言葉を紡いだ。
「――楽しかった?」
息すら届きそうな距離で投げかけられた問を受け止め、きみは一切の躊躇もなく、笑って答えた。
「楽しかった。君と出会ってからの一ヶ月は、私の人生で一番の宝物さ」
「――――」
――きみは、私の求めている言葉を、そっと添えてくれる。
それは優しい嘘だったり、気遣いの心だったりする。
でも、この言葉だけは――、
「そっか。大好きだよ」
「――。実はね、私もなんだ」
――この言葉だけは、求めていた言葉よりもずっと心を震わされたから。
「また、来年」
「うん、また来年」
だから私たちは、笑って背を向けた。
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