4.『星、切断、空想』
満天の夜空に、朧に浮かぶ横顔を見た。
それはひどく綺麗で、この感嘆を白く染め抜く。
胸の高鳴りを誤魔化すように、私は大きく息を吸い込んだ。
「きっとさ、忘れちゃうんだよ」
ただ真っ直ぐに、その声は鳴る。
この広い世界にはそれを遮るものなんてなくて、まるで雪解け水のように、じんわりと私の心に染み込んだ。
「きっとさ、忘れちゃうんだよ」
二度、紡がれた言葉は空に溶けていく。
一度目のそれよりもほんの少し、ほんの少しだけの陰りをみせた声は、たぶん私を待っていたのだと思う。
だから、私も紡いだ。
「忘れないよ。今日の夜空だけは、ぜったい」
確かな自信をありったけ込めた私の想いを聞き届け、彼女は安心したように頷いた。
■
「人はどうして、忘れちゃうんだろうね」
それが、彼女の口癖だった。
憂いを孕んだそれが届けられるたび、どうしようもなく胸が痛むのだ。
――人は忘れる生き物である。
誰が言ったか、そんな言葉を耳にしたことがある。
それはきっと真理で、事実、私は日々忘れ続けて生きている。
今日覚えていることも、明日になったら忘れちゃうかもしれない。
去年までは決して失うなんて考えもしなかった思い出が、いつの間にか綺麗さっぱり消えているかもしれない。
そんなの、どうしようもないことだ。
結局、人は忘れる生き物で、楽しいことも、辛いことも、幸せを分けてもらったことも、誰かを苦しめたことも、都合よく忘れて何の気なしに毎日を送っている。
それが、当たり前なのだ。
「――私は、忘れたくないよ」
いくら嘆いたって、止めることはできない。
前に進むためには、覚え続けていることはできない。
彼女は、それが許せなかった。
「私は、忘れたくない。――忘れられたく、ない」
そんな彼女を、私は黙って見つめていることしか、できなかった。
「17歳。生まれてから17年。6205日で、148,920時間で、8,935,200分。そのうち、覚えてるのは何日、何時間分かな」
ある日、彼女は珍しく、理屈っぽいことを言った。
その疑問に、私は答えを出すことが出来なかった。
私の中に大事にしまってある思い出はきっと何年分にもなるし、あるいは数えたら数日分にしかならないのかもしれない。
それでもひとつだけ言えることは、
「思い出を、時間で量ることはできないよ」
「――――」
その時だった。
初めて、視線が彼女と交差したのは。
底の知れない瞳だった。
ずっと見つめていたら吸い込まれてしまいそうな、そしてそのまま戻ってこれないような、そんな魔力がある瞳。
目を合わせていたのは、どれくらいだっただろうか。
1分にも、10分にも、あるいは永遠にも感じられる刹那だった。
ほら、時間なんてもの、あてにならない。
「……私にはさ、思い出なんてないんだ。ずっとこの狭い世界に閉じこもって、本当の思い出より、空想の思い出の方が多い」
彼女が自分を語るのは、初めてのことだった。
私はそれに驚きつつも、どうにか平静を装って、それに答える。
「空想だって、きっと思い出だよ」
「――。君って、けっこう面白い人だったんだね」
会話が増えた。
人生の、貴重な毎日を、ただ浪費するように言葉を重ねた。
私にとってはそれもかけがえのない思い出だったし、だからこそ彼女は顔を歪めた。
「君も、きっと忘れちゃうんだよ」
「忘れないよ」
「いや、忘れるさ。例えば、三日前のこの時間。私と君は、何を話してたっけ?」
「……うーん。昨日食べた晩御飯、とか?」
「……。ま、いつも同じ話してるからね」
着実に共通の記憶は増えていって、それがある程度溜まった頃、決まってこんな会話をした。
本当のことを言うと、私にとってはそれさえも毎日を彩る大切な思い出だったんだけど、それを言ってしまえば彼女は悲しい顔をするだろう。
「君は、こんなことをしていていいのかな?」
「――――」
ある日、白いシーツを赤く染めた彼女は、私にそう呟いた。
その薄くて骨ばった背中をさすりながら、私は瞳を揺らす。
「私の背中は君にとって、さするものじゃなくて、刺すものなんじゃないの?」
「――いいの、これで」
「……ま、変わり者だからね、君は」
「人のこと言えないでしょ」
とはいえ、それを言われてしまえば弱かった。
しかしどれだけ世界が彼女を憎もうと、彼女が不運の星のもとに生まれようと――私の本来の仕事が彼女を始末することだろうと、このちょっと変わり者なだけの少女の前では些細なことだ。
予感はしていた。
見抜かれているのだろうと。泳がされているのだろうと。
きっと彼女は理解した上で私を傍に置いているのだろうと、それは分かっていた。
その疑念が確信に変わったところで、既に私たちの間で育まれたもの――思い出は、揺るぎない価値のあるものになっていたのだ。
「そろそろ、私は死ぬよ」
「そう」
「喜べば?」
「そうね」
その時が近いのは、私も感じていた。
だから、驚きというよりも、なんていうか、心にモヤがかかったようだった。
――厄災を運ぶ魔物。胡散臭い口上だ。
それが真実かどうかなんて今さらどうでもいいけれど、少なくとも私の目には、彼女がそうであるようには映らなかった。
むしろ、誰よりも記憶を恐れる、儚いだけの少女。
そうであるとしか、思えなかった。
「最期にさ、見たいものがあるんだ」
「珍しい。そういうの、ないのかと思ってた」
「君は私をなんだと思っているのかな? これでも人間だよ、一応。死ぬのだって怖いし」
「――。そう。で、なにが見たいって?」
無造作に床まで垂れる純白の髪をかきわけ、ただ真っ直ぐに私を見据えて、告げた。
「――星空さ」
■
「寒いね」
「冬だからね」
生涯――かどうかは分からないけど、少なくとも私の知る限りでは、ずっと狭い部屋に閉じこもっていた彼女を、乾いた風が撫でる。
あれだけ伸ばしていた髪も、邪魔だからとバッサリ切り落とした。
「そんなに私の顔が気になる?」
「――まぁ。初めてだから。ちゃんと顔を見るの」
「はは。あれだけ一緒にいたのにね。うん、あれだけ……えっと、私たちはどれくらい一緒にいたのかな?」
「もうすぐ3年になるよ」
「へぇ、長いね」
「長いよ」
寒風を浴びながら、「3年も一緒にいて、私の顔のひとつも知らないの?」なんて笑うその表情も、私にとっては新鮮だ。
新鮮で、意外で――ちょっと嫉妬してしまうくらいには、綺麗だ。
「なんでそんなに悲しそうな顔をしてるの?」
「……何かが違えば、その笑顔をもっと見れたのかなって」
「それはどうかな。何か、の部分によるけど。私が私じゃなければ、そういうこともあったかもしれないね」
そう言葉を紡ぐ声色は、やはりどこか楽しそうで。
それがあまりにもイメージとかけ離れているものだから、自然と口をついて疑問が溢れる。
「なんで?」
「うん?」
「なんで、星空なの?」
その一言に、少しだけ影を落とし、俯く彼女の姿もまた、綺麗だと思ってしまう。
やがて顔を上げると、さっきまでの無邪気な笑顔を一転、泣き笑いのようなくしゃっとした表情を作り、言った。
「――思い出だよ。私の、唯一の」
「思い、出……」
「そう。思い出。忘れたくないもの。これ以上失いたくないもの。大事にしまっておいたんだけど――」
「――――」
視線を逸らした彼女の、整った横顔が映る。
「最期の思い出は、君にしてあげてもいいかな、ってね。せっかくだから、思い出の全部を切り裂いてさ」
「――――」
「でも、きっと――」
「――きっとさ、忘れちゃうんだよ」
俯く彼女は、きっと私の言葉を待っていた。
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