2.『病気、ペン、倫理』
「倫理、ってなんだと思う?」
空も赤らんできた放課後、ふたりきりの教室で京華が指を立てた。
一切の感情を取り払ったその表情は、真顔という表現がしっくりくる。
「倫理……なんかこう、常識みたいな?」
「うん、とても姫芽らしい答えだね」
「何を聞きたいのか、いまいち分からないんだけど」
私の文句に無言で返す京華。
彼女の意図を汲み取れなかった私は、顎に手を当て、改めてその問いかけを咀嚼してみる。
倫理。それはつまり秩序とか、規律とか、そういうものを守るために必要なモラルのようなもの、で合っているだろうか。
人がいつしか身につけているもので、ないと困るもので、あるからこそこうして学校にも通えていて、それで――。
「あ、わかった。京華は、自分の倫理観のなさを嘆いているのね」
「ははは! たしかに私はよく変わった子と言われたよ! それから、困った子とか、手のつけようがない子とか、将来が心配とか、もっと真面目に生きなさい、とか! ――でもね、私が今憂いているのは、そんな浅薄なことではないんだ」
机をバシバシ叩きながら盛大に笑ったあと、京華は姿勢をただして眉を上げた。
大袈裟に、まるで風を浴びるように両手を広げ、声のトーンを落として言った。
「世の中って、少しばかり薄情じゃないかな?」
「――――」
吸い込まれるような夜の色をした瞳が、じんわりと私を捉える。
居心地の悪さこそないが、意図的に変えられた空気に、私は息を吐いた。
いつだって、この瞳には弱いのだ、私は。
だけど、ここでマトモに取り合うことは、京華すらも望んでいない。
だから私はいつも通りに答える。
「世の中が薄情って、私たちまだ世の中を語れるほど生きてないでしょ。ピチピチの17歳よ」
「その通りだね。だからこそ、輝かしい未来が待っているからこそ、私たちは待ち受ける人生に希望を持たなければならない。それが危ぶまれているなら、思考が必要だと、そう思わない?」
「思わないわ、別に」
「ああっ! 取り付く島もない……! さすが姫芽、私の扱い方を心得ているね――もっとも」
やたら小難しく言い回す京華をあしらいつつ、その一挙手一投足に意識を張り巡らせる。
忙しなく動かされる白くて細い指、ふわっと揺れる黒髪に、控えめに結ばれる唇。
そのどれもが、私の目を移らせる悩みの種だ。
そんなことを知ってか知らずか、京華は私の目の前に指を立て、囁くように言葉を続けた。
「――もっとも、私も姫芽の扱い方は心得てるつもりだけどね?」
「――。うるさいわよ」
その不意打ちは上手く炸裂させられたと思ったのか、京華は満足気に胸を張り、白い歯を見せて豪快に笑った。
京華との付き合いも長くなってきたもので、この放課後の議論ごっこも子慣れてきた頃合だが、慣れというのは全ての事象に等しく訪れる経過ではないらしい。
さて、改めて京華に問う。
「で、倫理がなんですって?」
「――あぁ、そう。その話だよ。最近、SNSってのを始めてさ」
「……私、聞いてないんだけど」
初耳の情報に、抗議の念を込めた視線を送る。
それを浴びた京華は、「ごめんごめん」と笑ってから、話を続けた。
「最初はさ、楽しくやってたんだよ。仲のいい友達も何人かできて――ああっ、姫芽っ、そんな目で見ないで!」
なおも向けられる、じとっとした視線に改めて気づいた京華は、慌てた様子で目の前まで駆け寄ってくる。
ぽんぽん、とその柔らかい手で二回ほど撫でられ、私の矛は一旦納まった。
「でもさ。その仲良くなった子がさ、特定の誰かに向けた中傷に当たる投稿をしてたのを見かけたんだ。普通の子だよ? 愛想もいいし、こんな私の話にも付き合ってくれて……ああっ、姫芽! 最後まで聞いてくれると嬉しいな!」
なんとなく改めてムッとしたので、彼女の脇腹をつつきながらも、話を遮ることはしない。
律儀に話を止める京華に目で合図すると、彼女は困ったように笑った。
「結局さ、人間なら誰しも表と裏があると思うんだよ。これはいつの時代もそうなんだろうけどね。だけど、ネットの発達によってそれが表面化しやすくなったというか……まぁ、ネットを『裏を出す場』だと捉えてる人が多いんだろうね」
「いつの時代を生きてるのよ。私たちが生まれる前からネットはあるのに。……でも、そうね。たしかに最近は、誹謗中傷とか、そういうのも社会問題になってるみたいだけど、私は……」
「ま、そんな話はどうでもよくてさ」
「一回叩いていい?」
なんて冗談はさておき、じゃあ一体京華は何が言いたかったのかというと、
「たとえば、ここにペンがあるでしょう? 姫芽はさ、これで人を殺すなら、どういう殺し方をする?」
自分の鞄から筆箱を取り出し、さらにその中から一本の細いシャーペンを取り出した京華は、それを見せびらかすように摘んでみせた。
刺さったら痛いけど、刺すにはかなりの力がいるだろう。
でも場所が悪ければ、たしかに最悪の事態を引き起こしかねない凶器だ。
だから、そう、その命題への答えは――。
「殺さない、かな。捕まりたくないし」
「ははは! そりゃそうだね! 姫芽らしいなあ!」
悪ふざけか、あるいは屁理屈の類であるその返答にひとしきり笑ったあと、京華は表情を変えた。
「たとえば、刺す。うん、合理的だ。でも、それじゃ目の前の相手しか殺せない。このペン一本で、なるべく多くの、さらに遠くの人まで殺せるとしたら、どんな手段があるかな?」
「……ペンは剣よりも強し、ってこと?」
「その通りだよ。言葉ってのは便利な発明だけど、時に人を殺せてしまうんだ。その一端を私はSNSで見たよ。恐ろしい」
「そんな大袈裟な……」
と、切って捨てられないのが昨今の情勢ではあるけど。
私も小さい頃からネットに触れてきた世代だし、それなりに使い慣れてはいる。
京華はそんな様子はないし、小さい頃は本ばかり読んで育ったらしいから、ひょっとしたらネットの世界に足を踏み入れたのは最近のことなのかもしれない。
だから、その恐ろしさを肌で感じた、とか。
ともかく――、
「ネットには倫理観がなさすぎる、ってことに悩んでるの? そんなの京華が悩んでも仕方ないと思うけど」
「ああ、それもそうなんだけど。私が言いたいのは、言葉って凄いよね、ってことさ。言葉ひとつで人をも殺せてしまうし、病気を治してしまうことだってある」
もう完全に日も暮れ、窓から夜が差す教室は、いつの間にか京華が付けていた蛍光灯に照らされている。
光の当たり具合か、あるいは本当にその表情に影が差しているのか、その表情はどこか仄暗いものだった。
京華は窺う私の視線に気付くと、その頬をふっと緩め、知らない誰かの席に座る。
そのしなやかな指で頬をついてから、十分に溜めてから話を続けた。
「結局さ、言葉の使い方ってのは、その人次第だと思うんだよ。皆が人を思いやって使ってくれれば、もっとマシな世の中になるのにさ」
「らしくないことを言ってるわね」
「ええっ!? 私、姫芽からはそんな薄情者に見えてたの!?」
「別にそういうわけじゃないけどね」
びっくり仰天、といった形相で目を見開く京華に、雑なフォローを入れる。
どうやらそれで満足したらしく、彼女は嘘みたいに真顔に戻った。
やがて、ふと思い立ったように、彼女は口角を持ち上げて――、
「だからさ、姫芽。私と一緒に、倫理学が学べる学校に行かない?」
「――。それ、私と一緒の大学に行きたいだけでしょ。京華が私の進路希望調査票をこっそり盗み見たのも知ってるし、京華の進路希望調査票が白紙なのも知ってるわよ」
「――バレた?」
張り付かせた笑顔の裏、そこに込められた悪巧みを看破してあげると、京華は舌を出してとぼけた。
――いつだって、回りくどくてめんどくさい子だ、京華は。
私はそんな彼女の頭を二回ほど叩いたのち、鞄を持つ。
噛み締めるように叩かれた頭を撫でる京華と並んで、私は昇降口をあとにした。
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