『ワンライ』置き場

あきの

1


「拓人、ここにご飯置いておくわね」


 19時を知らせる母の声が、ドア越しに薄暗い部屋に届いた。

 最初のうちは、2回ばかしのノックを響かせたのち、部屋の中にまで入り込んで、俺を連れ出そうとしていたのに。

 今となっては、俺にとっても母にとっても、この会話のない合図が日課だ。


「あーあ、3兆円降ってこないかなぁ……」


 声の出し方を忘れないように、自尊心を見失わないように、意味のない言葉を口にする。

 願望ですらない。希望もない。明日があることも、受け入れたくない。


 このまま目を閉じて、じんわりとまどろみに落ちていって、そのままいっそ目が覚めなければいいのにって、何度思ったことか。


「お、最新話配信されてんじゃん」


 明かりのない部屋と――俺の人生にただひとつ、光を与えてくれるもの。

 大学に入学した時、親に買ってもらったノートパソコンだけが、俺と外の世界を繋げてくれる。


 デスクトップ画面には、いくつかのアイコンが並んでいる。

 そのうちのひとつ、ネット局をクリックすると、最近ハマっているアニメの最新話が公開されていた。

 つまるところ今日は金曜日で、世の『普通の人』からすれば、ようやく一週間のお勤めを終えて開放感に溢れてることだろう。

 

 ま、俺には関係ない。

 自ら外の世界から隔絶するように、俺は最新話の再生ボタンを押した。



 最新話を見終えたら、名残惜しむようにネットサーフィンに移る。

 気づけば大分時間が過ぎていたようで、ノートパソコンの充電残量は10パーセントを示していた。


「あぶねっ」


 ベッドを軋ませ、散らかった床に降りる。

 目的地は徒歩3歩の距離に位置する机で、これは小学生の頃から使っている勉強机だ。

 そこに備え付けられた充電コードを手に取り、ノートパソコンの側面に挿入すると、俺は息を吐いた。


「死活問題だぜ、マジで」


 もし充電が切れでもしたら、俺には惨めな現実が待っている。

 ネットの中にいれば誰かを身近に感じられるけど、ひとたびその世界から離れれば、誰もいない6畳の子供部屋にひとり取り残されたニートがいるだけなのだ。


 それが嫌だから、現実を見たくないから、俺はもう数年、ノートパソコンの充電を切らさないようにしている。


「お」


 ふと、気になるニュースが目に入る。


 とある女優と、若手の男性アイドルの熱愛が発覚したそうだ。

 記事のコメント欄では、互いのファン同士で熾烈な争いが繰り広げられていた。


 俺はすかさずそれに参戦する。

 どっちの味方でもない。あるいは、両方の敵ではあるかもしれないが。

 言い争いで劣勢になっている方へ加担し、状況が傾いたらまた逆側に立つ。

 それを繰り返して、とにかく醜い争いを演出するのだ。


「ふぅ、こんなもんでいいだろ」


 小一時間はそんなことをやっていただろうか。

 いつしか俺なんか必要ないくらいに大勢のファンが押し寄せ、空虚な論争は留まることを知らない。

 

 段々興味も失せてきて、どうでもよくなった。

 そもそも、俺は当の女優たちをよく知らないわけで。


 俺の中にある情報と言えば、名前と顔、それから記事に書いてある二人の年齢くらいのもので――。


「――いつの間にか、ニュースに書いてある年齢も歳下ばっかりになってきちゃったな」


 女優は25歳で、男性アイドルの方は21歳。

 俺は今年で27歳になるから、女優の方はひとつかふたつ下ということになる。


 どうしても、思うことがある。

 ――俺はいつまで、こうしているんだろう。

 ――なんのために、生きているんだろう。


 わかってる。自覚はある。

 俺は社会の癌だし、もっと身近なところでいえば、両親にとってはこの上ない悩みの種だろう。

 あるいは、もう諦められてるかもしれない。

 死んでくれた方が助かると、そう思われているかもしれない。


 そんな願望混じりの諦念は、毎日廊下から聞こえる母の声によってかき消されるのだ。


 ふと、横目で時計を見やる。

 20年以上前から時を刻み続けている、戦隊ヒーローの時計だ。

 あの頃の、まだ希望に満ち溢れていた頃の俺を知る、年季の入った品だ。


 あぁ、そういえば。

 俺って、小さい頃はヒーローになりたかったっけ。

 本気でなれるって、無垢に信じていたのは何歳までだったか。

 ――諦めたのは、いつだったか。


「……はぁ、やめやめ」


 変に胸を締め付けてしまった。

 馬鹿らしい。ネットサーフィンの続きをしよう。


 そう思って向き直ったのに、なんとなく集中できなくて、ボーッとして、昔のことが頭をよぎって、苦しくなって、そんな果てに、時間だけが過ぎていった。



 この時間は好きだ。

 誰も彼も眠っていて、世界が丸ごと俺のものになった気さえするから。


 台所に降りて、食べ終わった食器を流しに置いて、トイレに行って、適当なスナック菓子を手にして。

 さて、部屋に戻ろう――と思ったとき。


「うすしおなんて珍しいわね。バーベキュー味なら戸棚の上にあるわよ」

「――っ!」


 背後から声をかけられ、咄嗟に肩が跳ねる。


「何を飛び跳ねてんの。泥棒じゃあるまいし」

「こ、こんな時間になにやってんだよ……」

「それはあんたもでしょ」


 会話らしい会話なんて、もう何年もしていない。

 だけど、その気だるげな話し方は、ちょっと嗄れた声は、いつだって鮮明に思い出せる記憶とまるで違わないものだった。


「早く寝なさいよ」

「あ、ああ……って、そんな歳でもないだろ」

「早く寝ることに歳は関係ないでしょ」


 そう言って背を向け、歩き始める母。

 トイレにでも行っていたのだろうか。

 この時間に遭遇することなんて、この数年で一度たりともなかったのに、珍しいことだ。


「あ、そうそう。そこのコンビニにね、新しいバイトの人が入ったのよ。なんだっけ、あの、ほら……拓人が好きだったテレビの、脇役をやってた俳優さん。仕事がなくて、辞めちゃったんですって。やっぱり、芸能人ってのは厳しい世界なのねぇ」

「へ、へぇ……」

「じゃ、おやすみ」

「あ、うん……おやすみ」


 20年以上前に俺が好きだったテレビ。

 心当たりがあるとすれば、それこそあの戦隊ヒーローくらいのものだが。

 確かに、あの番組に出演していた俳優たちは、極一部を覗いてテレビから姿を消している。

 

 でも、そんなもんだろう。

 人気商売だし、旬ってのもあるし、それでいて実力勝負でもあるわけだし。

 そんな世界で20年以上も戦えただけで上々といったところだ。

 最終的に夢破れたとしても、きっとその人にとってこの20年で得たものは――。


「……俺が言えたことかよ、それ」


 大学を中退して、引きこもって、歳だけ食って。

 部屋から出るのはトイレくらいのもので。


 夢に体当たりで挑戦して、爪痕を残した立派な誰かのことを、偉そうに批評する資格なんてあるだろうか。

 はたから見た俺は、どんなクソ野郎に映ることか。


「部屋に、戻るか……」


 二階の俺の部屋に向かって、歩き出す。

 でも、なんとなく。

 いつも通る最短ルートじゃなくて、逆回りから階段に向かった。


 ここを通るのは好きじゃない。

 玄関があって、ドアがあって、靴があって。

 俺を、外に――現実に連れ出そうとしているみたいで、好きじゃない。


 好きじゃない、はずなのに。

 俺は気づけば、分厚いドアの前にいた。


「こんなに、低かったかな……玄関のドアって」


 記憶よりもずっと、我が家の玄関は狭かった。

 ドアは低いし、いつだって古くさいけど、置かれた小物はあの頃の記憶と同じものだった。


 それにしても、なんの気の迷いだろうか。

 ここに立つなんて、さっきまでの俺には想像もできなかった。

 

 じっと、真っ暗な玄関を見つめる。

 この向こう側には、希望しかないと思っていた頃もあったっけ。

 今はもう、そんな気持ちは消えてしまったけど。


 だけど、そうだな。

 さっきの母親の言葉も気になることだし。

 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ勇気を出して。


 ――コンビニにでも、行ってみるか。


 俺は分厚いドアを開け、冷え込む真夜中のアスファルトを歩き出した。

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