ゼウス戦記1

  序章1 讃美歌三百二十番『主よみもとに』


 200X年1月26日 日曜日 フロリダ州マイアミ 

 美徳に潜む冷酷が、人知れず爪を立てた。冬のマイアミで。小学校の体育館で。親子だけのチャリティーバザーで。

『アフリカの子どもたちに希望を』。どこか曖昧で切ないプラカードが、人垣の中を練り歩く。続き寄付金集めの生徒が、精一杯の笑顔で行進、保護者たちの親心をくすぐる。いずれも選ばれし少年少女たちであり、ジュリア・アントニオーニもその中にいた。しかし誰も気付かなかった。この先ジュリアが、愛らしいドールが、煙のように消えたことは。 


 一報はマイアミ市長からだった。メトロ《マイアミディド郡警察》は署長以下、特捜部、ヤスダ班と電話が渡り、日系古ダヌキが対応した。折り返し渦中の校長が電話してきた。だが市長同様、話はあやふやで、切迫した口調だけが、事の重大さを伝えただけであった。

 即座に部下を集めた。神隠しの話に捜査官たちが失笑、騒ぎのウラ知ると黙り込んだ。そしていくらもせず、緊急車両三台が、時と争うようにドラル《メトロ庁舎の所在地》を後にした。  

 空港道路R948へ入った。再び校長へ繋いだ。 

『ロベルティの孫が、カトリックでなくパブリック《ここでは公立校を差す》 に。何か訳が?』

『ロベルティ?ロベルト・アントニオーニ公をご存知で?』

『二度、ケツを叩かれちゃ』

 遠慮気味の笑い声に安堵感があった。

『言わば教育理念、教育方針とでも』

『ほう!して身の安全は?』

『素顔はわたしと市長が知るのみ、では』

『つまり、いち生徒に過ぎんと。じゃイタリア系の名字は?』

『確かに珍しい。ですが、誰が信じます?』

『信じませんな。性格は?』

『在学四年ですよ』

『ふう〜ん。バザーだが、一般客は?』

『内輪の催し、入場は出来ません』

『参加者の数は?』

『八百人ほど』

『それだけいて誰も知らんとは・・・保安は?』

『正門に警備員三名と、最新の防犯カメラが。勿論会場にも』

 離陸する旅客機の轟音に間を取った。

『もしもし。いいですか校長。市警でなくメトロが出張った。これだけでも参加者は疑います。生徒は普通じゃない、何者だと。よってメトロは知り合いがいたからと、誤摩化して下さい。あくまでも秘密厳守ですから』

『もう、なんと言ってよいやら・・・』

『とにかく、いち生徒です。じゃ』

 他人事でないシングルマザー、ベラ・ギビンズ捜査官が、助手席から小首を傾げ言った。

「少女、バザー、失踪。似てますね、マーティン郡の事件と」

 ドライバーのヤスダ班チーフ、テッド・ブラウンが続いた。

「確か、三年前にもリー郡で同じような事件が」

 メトロの叩き上げが、後部シートから、ポツリこぼした。

「無関係、であって欲しいな」

 小学校へ踏み込んだ。ピカピカの設備が目につく体育館に、大勢の父兄が整然と並び、奥のスピーチ台に校長がいた。無駄な時間は許されず登壇、『知り合い』に配慮し一発かました。

「メトロが飛んで来た。いったいなんで?実は、奥さんを早く帰らせたいから。夕餉の支度、待ってるでしょ?」  

 どっと湧き、大荒れの会場がさざ波に変わった。返す刀でゲート前の出店の角に面した主催者ブースへ急いだ。困惑顔の若いボランティアたちがいた。その中からリーダー格が一歩前に出た。 

「責任者は?」

「実行委員長ですか?外出してます」

「留守?」

「忙しい人ですからね」

「名前、職業は?」

「フレッド・ウイルソン。医者です」

「じゃ君たちに聞く。役目は?」

「パレードの準備及び進行、寄付金の整理、確認です」 

「ジュリアだが、いないと分かったのは?」

「ラスト、四時の招集で」

「写真は?」

「ありませんが、これに載ってます」

 二つ折りの案内状を開き、指差した。可愛い。まるで天使だ。

「こんな子が誰の目にも止まらんとは」

「制服義務の催しに、制服のパレード。おまけにこの人だかり。いくら可愛くても」

 説得力があった。 

「行進が終った時間は?」

「十五時二十五分です」

「すると空白は、十五時二十五分から四時ってことか」

「正確に言えば十五時五十五分です。招集は五分前ですから」

「三十分か・・様子に気になったことは?」

「別にこれと言って」

「君たちはずっとここに?」

「子どもたちの休憩時以外は」

 簡素なブースを見回した。案内書に記された、心の光慈善協会の品性が、コの字に配した観葉植物から感じられた。 

「落ち着くが、ちょっと地味だな」

「目立つのがいやなんでしょ、ウイルソン氏は」

「そのウイルソン氏に報告は?」

「まっ先に。見つかるまで帰っちゃいかん、です」

「気の毒に。じゃこう言いなさい。メトロが見つけると」

 ほっとした面々から、裏ページ、会場見取り図へ目を落した。壁に沿って四方が出品台、中央が飲食、歓談スペースとなっていた。

「子どもたちは?」

「中止、解散。多分親元かと」

「会いたいが、探すのが大変だな」

「大丈夫です。放送しますから」

 しばらくして男子四人、女子三人が、母親に伴われやって来た。そして、校長、担任までも。スタッフが慌てて椅子を出した。しかし校長は無視、不安と焦燥が、担任のヒステリックな声で増幅された。

「ありえません!ジュリアが勝手にどこかへ行くなど」

「まっそんなに興奮なさらずに。ええ〜と、両親は?」

 担任が小さく首を振り、訳知りが場を取り繕った。

「目に浮かびますな。とてもいい子だと」

「それはもう。警部さん、よろしく、よろしくお願いします」

 メトロの叩き上げが頷き、演壇奥の大時計、向かいの防犯カメラと追い、生徒一人一人の目を見て口を開いた。

「二回目のパレードが終わった。休憩。大事なのはこの先。ジュリアはどうしただろう。知らないかな?」

 最年少か。大人びた女の子の表情に変化があった。子ども心を知る者がやんわり尋ねた。

「キミの名前は?」

「ベッキー・ボーマンよ」

「パレードはどうだった?」

「楽しかった」

「じゃさ、後でおじさんに聞かせてよ」

 タヌキが緊張気味の少女から、群衆、校長と視線を移し言った。

「人混みのエアポケット、よくあることです。お開きにしましょう。ただし、出店者には残ってもらいます」

 人波が動き出した。合わせて七人の捜査官が、案内状を手に聞き込みに当たった。そして会場の見通しが良くなると、歓談スペースの名残りの一つに、警部、ボーマン親子がいた。子どもは任せろが、軽い話で硬さを取り、ニッコリ笑って切り出した。

「ベッキーはさ、何年生?」

「四年生。ジュリアと同じね。クラスは違うけど」

「友だち?」

「微妙。だって、今日始めて話して、気が合ったんだから」

「そりゃ微妙だな。はっはっはっ・・・ええっと、何かあった?」

「おじさん、あそこにジュリアといたの」

 なんで今頃だが、そこはタヌキ、顔には出さず、可愛い指先にある対面右角の窪んだスペースを見た。半分は出品台の影であったが、休憩所であることは感じ取った。

「で、テレビの話のとちゅう、ようじを思い出して、もどると・・」

「いなかった。戻るって約束してたの?」

「うん。だからがっかりした。はじめは」

「置いてけぼりだもんね。でも心配になってきた」

「だってそんな子に見えなかったもん」

「やっぱり友だちだ。それじゃさ、戻った時間、覚えてる?」

「おじさん。子どもよ〜。いちいち時間なんて」

「だよね。弱ったなあ。じゃそのとき誰かに声をかけられたとか、何か特別なことがあったとかは?」

 難しい顔つきのベッキー、小首を傾げたままである。 

「そうだ!あそこへ行けば思い出すかも」

 母親を残しその場所へと。出店の角から幅二メートルほどの通路へ入った。奥まで続く段ボール箱、向かいの施錠された用具室と見て、隣接する休憩所の前に立った。紺の壁と両側の観葉植物、これに赤の三列のベンチが似合っており、若干の期待感があった。

「どうかな〜?」

「まんなかのベンチにすわって、おしゃべりして、ちょっとまっててと言って、もどった。あれ〜いない。時間は・・・やっぱりわかんない」

「じゃあ、他には?」

 子どもなりに真剣だ。休憩所内を歩いた。通路にはみ出た葉っぱに触った。  

「これって・・・こんなに前にあったかなあ〜」

 反対のは角の内側に収まっている。古ダヌキの両眼が光った。

「それと〜、あっ、きふ金だ。おじさん、わたしが一番だったのよ」

「そいつはすごい!ベッキー、ありがとう。もういいよ」

 苦笑いが、周囲、防犯カメラと見て消えた。死角を作るためだと、デカの勘が弾いた。視線がその下の斬新なデザインの扉へ降りた。取っ手のチェーンを確かめ、そばで佇む出品者へ目を移した。手持ちぶさたが伝わる婦人の背中に声を掛けた。 

「ここにさ。女の子が二人いたんだが、知らないかな」

「さあ〜、背中に目がないからねえ」と、振り向きもせず応えた。

 聞き込みの最後だ。機嫌がいいはずもない。また記憶に残っておれば、学校側へ連絡しただろう。いずれにしろ見切りが早いのはキャリアからか。さっさと外へ出た。周囲を見渡した。顔が荷物専用出入口で止まった。聞き込みから解放された者たちが、台車上の荷箱を支え、スロープを下っていた。それへ警部が、口をすぼめ、顎をなぜ、そのままグラウンドへ首を振った。ひしめく車と、正門前のてんやわんやに唖然とし、これはいかんと駆け足。警備、応援の教師に、二度首を横に振れば。途端に車が流れ出した。ひと息つき、元市警巡査と詰所へ入った。

「来場者のチエックは?」

「親子一緒が基本なのと、事前に参加者リボンを配布してます。その上で身分証提示。これで特別なことが必要ですか?」

「じゃ第三者の侵入は」

「出入口はここだけ、他は施錠してます。ありえません」

「この三十分だが、出て行った車の数は?」

「さあ・・・六、七十台、ってとこですか」

「そんなに」と天を仰ぎ、その目が、壁の会場モニターで止まった。

「きれいでしょ」

 返事より四隅が先だった。危惧した通り欠けていた。

「なんてこった」 

 失望感へ、じいさんが、更に追い打ちを掛けた。

「大海から漂流物を探す、ですな」

「それも飛行機じゃなく船でさ」と、やけくその捨てゼリフ。

 体育館へ引き上げた。もはや焦点は休憩所であり、聞き込みは中止、後を鑑識と防犯カメラに託し、コーラル・ゲーブルズ屈指の高級住宅街へ向かった。車中ひとり言が洩れた。

「こんな形でロベルティの豪邸へ行くとはな」

 延々と続く鉄柵、アラブ模様の芸術的門扉、洒落た警備ボックスに警備の数、造園職人たちが汗を流す広大な中庭、パームツリーの樹間に続く石畳の車道と、行き交う車、これら一つ一つに格差社会を思い知らされた。そしてとどめは、見上げれば美術館にも似た白亜の殿堂、見下ろせばパルテノン神殿風エントランスだった。

 黒服、ボウタイの黒人が会釈、超モダンなリビングへ通された。外へ目がいった。夕陽が影を落とす、ホテル顔負けの庭にため息を吐き、木立の奥に広がるプライベートゴルフ場で、アントニオーニ家の更なる実力を知った。

 何もかもが桁外れの世界に、場違いのデカ四人が収まった。直ぐさま中米系女性が現われ、飲物を聞き、テーブルに並べ終ると出て行った。それを機に別の黒服に伴われ、三十代半ばのこれぞ貴婦人が対座した。

「ジュリアの母、スーザンです。ご活躍はお義父様から」

「それはどうも。なにぶんにも急いでますので。話の途中で席を外し、戻るといなかった。これをどう見るか」

「急な用事が出来たのかしら」

「気が合い話が弾んでた。普通なら待ってたはず」

「それじゃその間に誰かが・・・」

「休憩所で何かがあった、つまり神隠しの場だった。鑑識の結果次第ですが、恐らく間違いないかと」

 気丈夫が押し黙り、しばらくして矛盾をついた。

「学校関係者ばかりですのよ」

「加えて警備もチエックも抜かりは無かった。しかし手品師はおった。そこでです、お家に変わったことは?」

「ありません。私の知る限り」

「アントニオーニ家に恨みを持つ者などは?」

「清く正しくが家訓です。答えになりません?」

 なんのことは無い。巷の評判を確認しただけである。ひと呼吸置いた。そして気になることを口にした。

「通学は?」

「スクールバスです」

「このお家から?」

「まさか」と、顔を伏せ笑い、 

「二重生活は覚悟の上です」と、キッパリ言い放った。

「そこまでして・・・じゃメディアが嗅ぎつく前に、解決しなくちゃなりませんな」

「ご配慮感謝します。でも、今は娘の無事。ただそれだけ」

「おっしゃる通りですが・・・」

 マーティン郡の事件が喉元で詰まり、時期尚早が飲み込んだ。

「遠慮なさらないで」

 絹のドレスが優雅に波打ち、足を組み替えた。仕草のすべてが洗練されており、生っぽい話は、やはり野暮だと思った。タヌキがシラッと話題をすり替えた。

「パブリックへ通わせた意義は、ありましたか?」

 ベールの内を覗き見た者へ、母親がサラリと返した。

「こう申しておきましょう。その答えは、今回の騒ぎ、いえ事件の結果が教えてくれると」 

 我が子に対する自信の表れだと思った。だが他方では、切ない願望とも取れた。

夫人が唇を咬み、悔んだ。

「こうなると防犯カメラ頼み。もっと増やせばよかった」

「じゃあれは?そうか、新しい設備、備品もだ」

 口から出たことを恥じるように応えた。

「学校に迷惑をかけてるのです。それくらいは」

 経済誌で驚き知った、資産数十兆円のほんの一端が、リアルに迫り胸の内で笑った。すると、近未来的掛時計の十七時半のチャイムが、早く失せろとでも言いたげに鳴った。呼応したようにポケットのケイタイも震えた。鑑識からであり、朗報を期待し腰を上げ言った。

「手品師から連絡があるやも。そのときは残った部下が。じゃっ」

 深遠な微笑が返った。やはり、家も住人も次元が違うのだと、頭をかき外へ出た。見送りの黒服が去り、ケイタイ。その第一声が。 

『警部、やりましたよ』

『出たか!』

『植木鉢の葉っぱに数滴。ベンゾジアゼピン系の睡眠導入剤ダルメーンでした。これは長時間作用型ですから子どもにはちょっと気になりますね。それと指紋ですが、引きずった植木鉢からは検出できませんでした。遺留品の無いことも含め、冷静ですね、犯人は』

 これで誘拐と決まった。しかし、リビングへは引き返さなかった。

 居残り組二名が、電話をいじりだした。それを機に夫人が別室へ移った。メキシコ出張中の夫ガブリエルへ、娘の危難を伝えた。意外にも涙声であった。続きワシントンDCへ。義父ロベルトの第二秘書、ジェーン・ロスが出た。


 イタリア系移民の末裔が、アメリカ小売業界の雄が、A&Gカンパニーの総帥が、そしてジュリアの祖父が、檻の中の熊の如く、超一流ホテルのスイートをうろついていた。カーテンが夕陽に染まり始めた頃だった。見兼ねた第一秘書、ジム・マクレガーが、ネクタイをゆるめ恐る恐るたしなめた。

「お気持ちは分かりますが、ここはヤスダ警部に任せて・・・」

「確かに頼りになる。なるがもう一枚カードが欲しい。スペードのエースみたいな」

 これにハーバード卒の熟女秘書が手を打った。そしてイライラの収まらぬ熊へ視線を送り、自信のひらめきを口にした。

「あの男はどうかしら?ジョー・コダカ」

「アイデアは買うが、彼は用心棒だよ」

「看板はそうだけど、でもただの用心棒とは違う。一昨年の麻薬撲滅運動 、そして昨年の違法賭博組織の一掃が、いい例でしょ」

 ロベルト・アントニオーニの足がピタリ止まった。出来る女が続けた。 

「どちらもボスがメトロを動かした結果。当然相手が相手だからジョーの出番。思い出して。彼が言った事。シンジケートは決して表に出ない、出るのは依頼された一匹の狼だけ。この羊面の狼と戦うには情報が全て。その道のプロのねって。いかが?」

「なるほど。でもアメリカにいるかなあ。それもマイアミに」

「いてたら、宝くじ買うわ」 

 なんとも頼りないが、とりあえずケイタイした。三度目のコールサインで落ち着いた癖のない英語が返ってきた。

『便利だねケイタイは。相手が分かるんだもん』

『今、胸がドキドキしてるの』

『恋?俺に』

『そう。そしてもう一つ。ジョーがどこにいるかで』

『うむっ?無鉄砲がまた何かしでかしたな。マイアミだよ』

 一瞬の空白。怪訝な熊と目が合った。ウインクで奇跡を伝えた。

『あなたのキャッチフレーズ、俺は運がいい奴。うふふ。あなただけじゃなさそうね。ボスと変わるわ』

 熊が人間へ戻った。ただ一人の孫を案じる気持が、機関銃をぶっ放すが如く、いっきに捲し立てた。

  

 十八時三十分発ブエノスアイレス行きAR459X便を待つ男が、ケイタイを手に、弾かれるようにラウンジを離れた。年は三十過ぎ。東洋人風学者面に銀縁丸眼鏡、標準サイズの体。なりは、白シャツに細身のデニムが、人波をかき分け、ロビーを走った。背中のイタリア軍リュックサックはそのままに、タクシーへ飛び乗った。十二分で目的の家へ着いた。硬い笑顔の夫人には無言で、愚直が絵になる黒人へは、軽口で挨拶にした。

「昔が見たかったな、ヘンリー」

「酒とバラの日々をですか?」

「ジャズマンらしい比喩だ。どう?復活だなんて」

 かって、一時代を築いたジャズギターの名手が、ジョークへ肩をすくめた。当然だろう。『人間みな同じ』が、万人の知るアントニーニ家の家訓であれば。

 三階奥のゲストルームは、客の大のお気に入り。窓を飾る緑の背景に、落ち着いた内装、家具、照明、美術品が、控えめな贅沢で統一され、実に居心地が良いのだ。しかし今は、非常事態作戦室。慌ただしく茶菓子を置いたミセス・レゲーが、 

「学者と用心棒が二人来た」と、すがるような目で言えば、

「請求書も分けるか、ねえヘレン」と笑わせ、重い空気が和んだ。 

 だが、ヘンリー、ヘレンが去り、場が静かになると、夫人の潤んだ瞳が、抑えていた心情を吐露した。

「ジョー、泣かせて。母親へ、スーザンへ帰るために」

 客が黙して頷き、忍び泣きが始まった。しかしそれも束の間で、潮が引くと、刺繍が目に着くハンカチで涙を拭き、まるで別人が身を正し言った。

「構えていたの、警察に。分かるでしょ」 

「大いにね。さてと」

「その前にお礼が言いたい。奇跡を与えてくれた神様と、無理を聞いてくれたあなたに。ありがとう、本当にありがとう」

 再びハンカチで目頭を押さえた夫人へ、腕時計を見つめ言い放った。

「俺の持ちタイムは五時間。スーザン、急ぐぞ」

「五時間・・・」

「がっかりしただろうが、ものは考えよう。この手の事件は五時間でも長過ぎるくらいだからね」

 確かにそうだと思った。気を取り直し、最新の情報を語った。銀縁丸眼鏡の奥が、決定的だと伝え、思考回路が後を継いだ。

「ジュリアの秘密がばれた。ありえる?」

「無い!神に誓って」

「じゃこの先は推理だ。もし、俺が犯人で金目当てなら、とっくに電話してる」

 掛時計の十八時のチャイムが、スーザンにリアリティーを与えた。

「なぜだろ?ごく普通の可愛くて賢い少女。これがヒントになる。普通のとは金目当てじゃない。可愛いとは、変質者の標的になる。賢いとは、計画的でなくちゃだませない」

 母親が声にならぬ声で反芻した。底知れぬ恐怖が襲った。しかし、不安を押しやった。救いの神がそばにいるのだと。

「犯人は顔見知りだ」

「そう、そうだわ!油断したのよ、あの子は」

「その通りさ。ジュリアは油断したんだ、その手品師にね。手口は容易に想像がつく。言葉巧みにつけ入り、スキを見て睡眠剤入の飲物を飲ませた。そして段ボール箱に入れ、荷物に見せ、大勢の目を交わした、とね」

 自然な推理が、母親を納得させ、またも震えせた。

「次は顔見知りが誰かだ。ジュリアの日常で、第三者が接するチャンスは?」

「学校だけ。出かけるときは必ず私が一緒だし。通学用のキー・ビスケーンの家も、周りは実直な社員の家」

「苦労が忍ばれるな。それじゃさ、この半年、いや三ヶ月でいい、言動で記憶に残るような人は?」

 ハンドバッグから手帳をひったくり、パラパラとめくった。そしてあるページで手が止まり、ためらいを口にした。

「やはりこれね。セントラル病院精神科で、二度カウンセリングを受けたときのドクター」

「精神科?」

「ええっ・・・なんて言うか、軽いウツになって」

「よければ」

「金ピカのお家とありふれた仮住まいの行き来。ギャップがすごくて最初は笑った。でも笑えなくなった。次第に・・・分かる?」

「大いにね。要するに目覚めたんだ、肩の凝らない生活にさ」

「目覚めたのはいいけど、ウツになったんじゃ」

 明眸皓歯にほろ苦さがあった。

「で、ジュリアが変だって、お医者様に診てもらおうよと言って、背中を押し、ついて行った」

「大当たり。おかしいでしょ」

「賢い子は親を見てるからね。それで?」

「ちょっと待ってて」

 待つ間もなかった。赤ちゃんサイズの優雅なビスクドール《十九世紀にヨーロッパの貴族の間で流行した人形》が、テーブルに乗った 

「犬や猫が苦手な奥さんに。そして夢見る少女にと、ドクターがこれを。勿論断ったけど、あの子が気に入って、結局頂いたの」

 手に取った。細部を見やった。緻密だ。先ず高価だろう。

「太っ腹に気を付けてと、ドールは語ってるよ」

「聴こえなかったのは、やっぱり金ピカのせいかしら」

 複雑な笑みがこぼれ、ジョーの問いに応えた。

「最初は去年の十一月五日。次は二週間後。名前はフレッド・ウイルソン、年令は・・・ジョーと同じくらい、かな」

「カルテのアドレスは?」と言って、ビスクドールを睨んだ。  

「勿論仮住まい。お家に迷惑がかかるもの」

「じゃ学校は分かった。しかし待望のチャンスへ、どうやって・・・」

「もし優しさを疑うとすれば、これはどうかな?」

 手帳に挟んだ案内状を広げ、対面に差し向けた。そして、主催者名を白魚の指でなぞった。学者面が読んだ。

「心の光慈善協会・・・胡散臭いな」 

 眉根を寄せ、素早くケイタイ、親友の情報屋へ繋いだ。

『キース、俺だ。マイアミの生き字引にすがりたくてね。心の光慈善・・知ってんの?なに!うん、うん』

 思わず怒鳴り、腰が浮き、途中で椅子を蹴った。

「車だ!」

「やっぱり」

「ドールは注意したかった。主人は少女趣味の病気持ちだって」

 母親が青ざめ絶句した。 

「私がついていれば、そばにいれば・・・情けない、悔しい。お礼も兼ねた二度目。帰りにドクターがこう言った。お嬢さんはビスクドールよりも可愛いと。きっと、きっとあのときに」

「泣き言はあと、 ジュリアを取り返す!」

「行きたい、私も」

 すかさず諭した。

「俺を信じる。信じればここで待てる」

 母が我を叱った。直ぐにヘレンを呼び駐車場へと背中を押した。その手で救いの神の腕を掴んだ。

「始まりはこの愚かな母。もし手遅れだったら・・・」

「よしっ!母子の命は俺が預かった!」

 階下へ降り、所在なげな捜査官の前を通り過ぎた。しばらくして一人言が漏れた。

「あの男、どこかで見たぞ、どこかで・・・」

 前を行くヘンリーが、地獄耳を披露した。

「ど忘れか。ありがたい、今のうちだ」

 エントランスホールから、花壇を配したアプローチが伸び、終点にジャガーが待っていた。運転席のドアが開きヘレンが降りた。ジョーが飛び乗った。ドアにしがみつき、涙目が言った。 

「不信心がイエスにすがるのは、こんなときだけね」

「それでいい」

 アクセルを踏んだ。ジャガーが吠え、見る間に黄昏の街へ消え去った。

  

 ヤスダ警部に客が待っていた。面談室へ行った。

「マイアミセントラル病院、精神科医のフレッド・ウイルソンです。お騒がせしてるバザーの実行委員長ですが、ボクが外出中にとんでもないことが起きてしまって。お願いします。どうか、どうか、ジュリアちゃんを助けて下さい」

 学究派か。線の細いインテリ面が、眼鏡を取り、涙、そして汗と拭った。何やら演技臭いが、立場上分からないことも無かった。しかし最後の言葉が気になった。

「助けて、ですか。ウイルソンさんは誘拐だと」

「子どもの行動心理学はボクの研究テーマです。考えられません。行進に選んだ生徒が、訳もなく失踪するなんて」

「すると、八人全員面接なさった?」

「いえ。学校に協会の意向を伝えただけです」

「どんな?」

「性格、授業態度、成績、家庭」

「家庭?ジュリアの家はどのように?」

「一般的家庭だと、お聞きしましたが」

 笑いをこらえ、生真面目医者へお愛想をぶった。

「後学のためにも一度研究話を伺いたいですな」

「いつでも。それでジュリアちゃんは?」

「今のところ何も。神隠しですな、まったく」

 肩を落とした医者が、足取りも重く立ち去った。続き、思わぬ電話が。始めは校長で、聞き覚えのある声と代わった。   

『その声は休憩所前の』

『はい。あの時はどうも失礼しました』

『いやいや。で、何か?』

『待って下さい、せがれと代わりますから』

 変声期の大人でも無い、子どもでも無い声だった。

『六年生のジェフ・アーロンです』

『ジェフ。何か見たな』

『はい。おかしいとは思わなかったことが、だんだんおかしいと思えて・・・。見たんです。おじさんと段ボール箱を乗せたカートを』

 しっかりした口調に胸が踊った。

『何時ごろかな?』

『三時四十五分です。友だちと待ち合わせしてましたから、時間が気になって。まちがいありません』

『おかしいと思った訳は?』

『会社へ行くような格好の人は、珍しいですから』

『なるほど。顔は?』

『植木鉢の影で、後ろ向きだったし、ごめんなさい』

 これだけでも文句なし。直ぐにモニター室へ走った。

「会場はもういい。正門だ。十五時・・・五十分から。始めろ」

 総出のヤスダ班。しびれるような時が過ぎていった。

 

 情報屋、キース・フラナガンが、警察犬並みの鼻を言葉にしていた。

『一昨年の感謝祭11月第四木曜日の祝日だった。マーティン郡の田舎町で行われたバザーで、出品者の子、ベティ・エイミス六才が行方不明になった。皆顔なじみだ。警察は失踪と判断、近隣を捜索した。メディアにも協力を仰いだ。しかし事態は進展せず、見兼ねた親が、ジャクソンビルの調査会社を頼った。だが、所詮は警察の天下り集団。二の足を踏み、その揚句おれさまに振ったって訳。で、これからだ。先ず他に類似した事件がないか調べた。あった。三年前のクリスマスだ。リー郡の教会バザーで、八才の少女アン・ハバードがな。そこで二人の共通点を洗った。家が熱心なメソジスト《プロテスタントの一派》。北欧系プリティー。小柄。勉強が出来る。クラスの人気者。そして何よりも、ビスクドールを可愛がり大切にしてる。これらから、キーワードはメソジスト、ビスクドールだと決めたんだが・・・』

 そこで別件だと言ってケイタイが切れ、五分後、情報屋が話を続けた。

『ビスクドールは有名な工房の作品だと数万ドルはする。ベティのはジュモー製。父親に値段を尋ねたが、大衆車が買えると笑ってたよ。恐らく犯人もレプリカなどせせら笑うコレクターだろ。で、ここからが推理のスタート。敵は三十代から四十代の富裕層のインテリ。職業は知的業種。それも、社会的地位の高い相手の。その上で敬虔なメソジスト、ストレスを抱え悩んでいると足し、コンピュータに絵を描かせた。結果はおれさまのイメージ通りで、そのイメージにそっくりなのが、偽名、変装で、世間を欺いた二件の主催者と、ジョーが知りたがった・・・』

 情報屋のトレードマーク、赤いアイビーキャップが目に入った。ケイタイを切った。待ち合わせの場所、NW一番街に面した南フロリダ歴史博物館前で停車した。元連邦捜査局国家保安部のエージェントが、おもむろに助手席へ収まった。そして素早くナビへ手をやり、マイアミガーデンズSW三百二十番と入力した。運転手が首を捻った。

「セカンドハウス?」

「復活ハウスだな、いかれた頭を冷やすための」

「けどさ、ヘルニヤだろ。どうやって侵入するつもりだったの?」

「手足は前の車のおやじ。昔泥棒、今錠前屋」

「どっちも役に立つ」

 大笑いから、クラクション。前が去ると、I95インター、そして北へと向った。「それにしても、一緒に行くなど誰の筋書きだ」

「神様。良きパートナーに従えってさ」

「次いでにお願いするか。持病と縁が切りたいと」 

 卑屈に笑い、黒ずくめの仕事着から、医者の写真とコンピュータの絵を取り、計器類上へくっつけた。情報屋がいっきにしゃべった。

「その顔を新聞のコラム欄で見たとき、こいつが犯人だと確信したよ。体外受精児として名を馳せたフレッド・ウイルソンだ。記事はメソジストの慈善活動と精神科医のアドバイスだが、笑ったよ、まったく。讃美歌三百二十番を口ずさみ、アンティークドールを見ていると、心が浄化されます、じゃな」

 二枚を見比べ頷いた。そしてキースの肩を叩き、感謝と敬意を洒落に込め言った。

「腰は重いが頭は軽い。教えてくれ、どうしてアジトを?」

「プレゼントが二度帰宅ルートを外れ、同じ北二十二キロの地点で動かなくなればな。おまけに地番が三百二十とくれば、もう鉄板」

「じゃ発信器にも感謝しなきゃね」

「感謝はしてるが、こんな日に車が換わっちゃ」

「アジトはつきとめたんだ。バチが当たる」

 苦笑したキースの顔が、にわかに曇り、衝撃の推論を口にした。

「ベティはもうこの世にいない。アンと同様に冷凍されアジトで眠ってるはず。ハイド氏が、ジキル博士R・R・スティーブンソンの二重人格を題材にした代表的小説に還るためにな」

「キースの洞察力は、賞賛に値するが・・・」

「ジュリアか。生きてる。フレッドが責任から解放されるのは、まだ先だからな」

「しかしなぜこんなことを?」

「フレッドは、言わば努力型秀才だ。それが大学、大学院と、キッチリ八年で医学博士になった。これは稀なことだし、ティーチングホスピタル《専門分野の研修医が研修を行う病院》だった今の病院も、ボランティア活動時、抜群の成績を修めてる。目に浮かぶよ。友だちも恋人も無く、ひたすら階段を駆けのぼった姿が。どうだ、他に説明いるか?」 

 無言が、褪せていく暮色へ祈った。  

『神よ。 ジュリアに幸運を。どうか幸運を・・・』

  

 フォードのワゴン車が、録画時刻十五時五十四分の、数字の影から現れた。ドライバーは背広だ。場がどよめいた。しかし警備の止まれの合図で鎮まった。が、それも束の間、サングラスを外し素面をさらすと、ヤスダ班ボスが語気を荒げ吐き捨てた。

「くそっ!とぼけやがって」

「この男はさっきの」と、面談室へ案内した部下も驚いた。

「バザーの実行委員長、フレッド・ウイルソンだ。続けろ」とへの字口が開き、先を促した。

 絵が流れ始めた。警備が会釈、主催者が微笑で返すと、車が動き出した。ゆっくりと。それはまるで、カーゴスペースの箱の中味をいたわるが如く。 

「知ってるか?灯台もと暗し。日本のことわざだがな」

 誰しも頷くと、医者の名刺からケイタイ。五度目のコールサインで、あのしおらしい声が名を告げた。

『特捜のヤスダです。先ほどはどうも』

『こちらこそ。いかがなさいました?』

 どこか白々しさを感じたのは、衝撃の録画のせいか。

『後学のためにがさっそく必要となりましてな。今どちらに?』

『自宅です』

『そりゃ好都合』

『いらっしゃるのですか?』

『先生のアドバイスが頼りなもんで』

『実は友人の奥さんがボクを必要としてまして』

『じゃ仕方ありませんな。お帰りは?』

『二十一時頃かと。家はケンドールウエスト2011』

『いい所に住んでおられる』

 そう遠くない。タヌキが風神に化けた。時と争うために。

「テッド、ベラ。ついて来い!」

 迅速、果敢な上司へ、モニター室の面々が、苦笑いで見送った。

 

 仮に精神科医が、今ハイド氏でなければ、ヤスダ警部の電話に怯えただろう。そしてこうも言えた。もし、臆病なほど用心深いジキル博士であれば、作戦はキッパリ断念しただろうと。青く霞む湿地帯が、狂気に輪をかけ、窓から目を離し箱を開いた。理想のドールが、横座りに眠っていた。宝物として抱き上げ天使のブロンドに鼻を寄せた。青白い顔にうっすらと血の気が差し、口元が歪んだ。暗い窓に映る狂気が、正気を嘲笑い、そっと床へ寝かせた。そして、通販で買った貴族の子供服を掛け、壁の牧師服をまとった。仕上げに金のクルスを垂らし、ドレッサーに映した。底知れぬ心の闇に潜む悪魔が、『さあ、儀式へ行け』と、そそのかした。 

  

 ジャガーが年代物の家の前で止まった。窓にボンヤリと灯りが点っていた。胸が締め付けられるような明かりであった。

「いてる。遅かったか」

 夜目に慣れたキースが、庭先の車を顎で差し言った。

「奴のベンツであればな」

「すると、あれは誰の?」

「知らん。どうする?」

「心臓が爆発しそうだからさ」

「よく言うよ、ったく。行くのか?」

「他に手はある?」

 門扉は開いている。即断即決が謎の車の横に横付けした。

「銃は?」

「何事も平和的にね」

「マジかよ」

 笑った顔が腰を上げた途端、大きく歪んだ。

「ほらほら。まだ無理、ここにいて」

「歩くのはどうってことない」

「キース。もしもだってある。分かってよ」

 最後は背中で言い、入口階段下に立った。名うての演技派が、親し気な訪問者として上り、軽くノックした。返事は無い。躊躇せずドアノブに手を掛けた。ロックはされておらず、体をドアに添わせ、九十度開いた。渋く、重い声が耳をついた。

「どなたかな?」と、ソファーから振り向きもせず。

「こっちが聴きたい」

 無言が返事だった。中を見渡した。樫木張りのフロア中央にポツンと置かれたソファー。背もたれの石像のような頭と肩。その先の渋い織物を掛けた祭壇、石膏壁の金の十字架、アールのついた天井、年代物のシャンデリアと追って、いっぱしの礼拝堂だと笑った。右へ首を振った。鶯色の壁に並ぶ窓が、小さく隣家の明かりを飾り、ここが街並から孤立してることを知らしめた。

 自然体が左手ドアへ歩み寄った。薄く開け、無人感が閉めさせた。振り返った。石像が人間に変った。疲れたきった感の、抑揚の無い声を発した。

「わたしはアンディー・ウイルソン。息子を待ってる」

「じゃ俺も待たせてもらうか」

 やるせない。そんな感じが立ち上がり、コートを脱いだ。そして座り直すと、手先で隣りを指した。肩が触れる前に目が合った。

「弁護士だが、顧客とは違うな。澄んだ良い目をしてる」

「欲がないからね。ジョー・コダカだ。もう終わりにしたくてさ」

 さして驚きもせず、老紳士が応えた。

「おっつけ来る。手伝ってくれるか?」

「ようやく気付いたんだ」

「職業が親心にあれば、もっと早くに、もっと・・」

 冷静でありたい。そう願う者が、拳を震わせ絶句した。 

「この三年で行方不明の女の子が三人。遅過ぎた」

「恥じ入るばかりだ」

 開け放ったドアから、キースがノートパソコンを手に顔を覗かせた。振り向いた顔は調査済みで、意外な展開へ声を掛けた。 

「プレゼントが動き出したぞ」

 事態は一刻を争う。先ずは車だ。父親がキーを渡した。

「ほら、やはり感謝すべきだろ。で今の位置は?」

「タミアミだ。ターンバイクを北上してる」

「ご対面までどれくらい?」

「そうだな。十四、5分ってとこか」

「キース様だ。それくらいあれば仕事はできる」

「おいおい」

 満更でもない苦笑いが、厳しい面構えに変わったころ、ジョーが小走りで戻って来た。無念顔と虚無顔の間に入った。虚無顔が祭壇のマリア像を手に取った。そして、じっと見つめ、淡々と語った。

「三十才の誕生日だった。フレッドが唐突に言った。自分自身のための教会が欲しいと。笑った。だが疲れた顔が金を出させた。それから三年が過ぎた。もし、もし息子の擁護が許されるなら・・・真実が見抜けなかったこの親に、責任があると」

「確かにね。しかしこの仕掛け、息子がとぼけりゃ分かりっこない。故に責任は心の悪魔だ。気にするな。さてキース様、結果は?」

「ツラ見りゃ分かるだろ」

「部屋も凝ってるが、仕掛けも凝ってるってことだ。ところでおやじさん。この部屋は以前のままかな?」

「正面以外はね」

「壁も色褪せてるし、改造したとはとても思えん」

「あれは古いものが好きだからね」

「こだわった訳か」

 祭壇へ歩み寄った。聖骸布キリスト教の聖遺物の一種風の織物を触り、半分冗談が言った。

「お手頃だな。この中で眠ってるとか」

「それじゃ子どもだって騙せん」

「だよねえ。すると祭壇は無し。残るは壁のみか」

 高さは大人の背丈か。額縁に似た長方形の凹みと、十字架で分けられた四つのレリーフが、芸術好きの好奇心を煽った。 

「バチ当たりだが」と言って、織物を踏み、壁の前に立った。

「薄っぺらなクリスチャンもな」

 ジョー、キースと横に並び、石膏壁と向かい合った。

「こいつの裏だとか」

「宗教画だ。ありうるな」

 拡大鏡がポケットから出た。両側の断面を追った。微かな段差の隙間に気付いた。

「医者は、道を間違えたな」

「よくある話さ。あとは仕掛けか」

 無念顔も加わった。宗教画の隅々まで調べた。結果は空振り。壁をあきらめ十字架へ移った。金箔を施した表面を、ジョーが、嘗めるように観察した。ある角度で息を止めた。そこは十字の交差する部分だった。シャンデリアの反射光が、ハガキ大の筋を浮き彫りにしていた。会心の笑みへ、キースが顔をくっつけた。口笛が筋に沿って弾けた。

「迷宮の入口だ」

「しかしどうやって?」

「見てろ」

 情報屋が上着を脱ぎ捨てた。切れ込みを軽く押した。表面がわずかに分離した。こじ開けた。鐘の音が鳴り響き、昔懐かしい時計が目に飛び込んだ。

「飾りでなけりゃ」

「カギの他にあるか」

「無い。ここもキース様だ」

「かみさんの口癖。あんたはのせたら恐いとさ」

「さすがキャロライン。旦那をよく見てる」

 テロ組織の謀略と戦い学んだ経験が、長針をグルグル回転させた。弁護士も横へ並び、奇妙な時計へ口を挟んだ。

「短針が連動しとらん」

「デジタルキーのアナログヴァージョンだよね」

「正解。はいいが、ミスしたときの罰だな」

「例えば?」

「局所爆弾なら中のみ、でなけりゃ?」

「フレッッドがそんな恐ろしいことを」

「職業、性格、この仕掛け。そう思うのが、自然と違うか」

「キャロラインに恨まれるな。旦那と生活、ドカ〜ンじゃさ」

「すれ違い夫婦に何を今更だ。金は心配いらん。ネット販売であくどく稼いでる」

「しかし弁護士は困る。係争中の顧客を思えばね」

「わたしは民事専門。金持ちの我がままには愛想が尽きてる」

「てな訳で、キース様始めて」

「そうだな。ここも讃美歌にすがるか」

「しつこいけど」

「フレッドとおれさまを考えろ。0は12時。行くぜ」

 間を置き、左回転。3、2、そして頂点へ。ビオラが祝福を奏でた。

「音色で知らせる。極め付きの凝り性だな。さて、次の楽器はと」

「まだあるの?」

「金庫と同じ。そうだな、フレッドの誕生日でいくか」

 応えた三桁の数字に、父親の切ない願望があった。左へ三度回した。ミスだと、コントラバスが、重低音で脅した。

「ほんと。分かり易くて涙が出るぜ」

「死んだスザンヌ。母親だがね。どうだろ」

「パパは?」

「コダカ君、幻想を強いた父親だよ」

 罪悪感が針へいった。ラストだと、パイプオルガンが、おごそかに笑った。緊張の極致か、パパが額の汗を拭った。

「そうだ。妻のスザンヌが亡くなった日は?」

「もう崖っぷち。それに縁起もねえ」

「いや、賭けるだけの値打ちはある。レシピエント《生体腎移植の受腎者》のフレッド。ドナーの母親。腎臓移植後、ドナーは高血圧、腎機能低下。そして心臓病へ進行。やがて十二才の子を残して、この世を去った、ではな」

「フラナガン君、キミは・・」

「大統領も黙る調査屋さんだよ。これくらいはね」

「愛する母親で命の恩人。あとは死んだ日が三桁かどうかだ」

 パパが黙して頷き十字を切れば、ジョーがニッコリ笑い、右手で時計へいざなった。武者震いが大きく息を吸った。針をつまんだ。

「勝負だ!言ってくれ!」

 キースの野太い声が、修羅場を渡り抜いた者の声が、えせ礼拝堂を揺るがせた。

 

 メトロ庁舎から実行委員長の自宅まではおおむね二十キロ。F1レーサー並みの腕を持つヤスダ班チーフであれば、逮捕も夢では無い。その男がひと息ついたところで、バックミラーに問い掛けた。

「警部。防犯カメラですが。事前に確認したんじゃ」

「でなきゃ、綱渡りなど出来ん」

 代わってベラ・ギビンズ。チェスで飯が食えるほどの才能を持ちながら、警察へ身を置いた変わり種で、昨秋、他部署からヤスダ班へ編入されたのは、チェスのお陰だともっぱらの噂。

「パレードですが、彼が仕組んだのでは。あの人波は予測しただろうし、親の行動も分かるでしょ。でも、事情からしてよく断らなかったなあ」

「いい線だ」

 校長へケイタイ。捜査の進捗状況に、胸を撫で下ろしたようで、丁寧に応えた。

『パレードですか、当然奥様は断りました。どこに人の目があるか分かりませんからね。しかし、本校に通っていた想い出としてはこれ以上なく、説得を重ねてようやく実現したのです。ええっ、ウイルソン氏のアイデアです。入り口よりも、パレードで寄付を募る方が、花があっていいと。確かに一理あり、決めたのですが。親が来れないことをですか?警部さん、知る由もないでしょう。ただ、気のせいか、リハーサルは他の子より気を遣ってたように見えました。うむっ?ウイルソン氏が何か?』

 適当にとぼけ切った。

「ベラの言った通りだ。しかし解せん。少女を誘拐してどうするつもりだ。単に、悪戯したいからか。いや違うな。何かある。綱渡りのリスクを冒してまでも、やらなきゃいかんことが」

「心が病んだ精神科医なら・・」

「最悪が見えて来るな」

 頷いたチーフ、自己へ問い掛けた。

「似たような二つの事件。本当に関連性はないのかな」

「リー郡は牧師、マーティン群は実業家、ともに主催者も名前も違う。加えて保安官たちはノーマーク。これじゃな」 

「変装、偽名、アトラクション」

「テッド。出張するか?」

 ボケと突っ込みが、暗い話を明るくしたとき、ナビが点滅し消えた。ウイルソンの家に灯りは無かった。

「ひと足違いか」

 落胆を隠せない者たちが、歩道に続く柵を越え、アプローチの先で足を止めた。テッドが電子ロックのドアノブを見て言った。

「窓から押し込みます?」

「令状無しにか」

 駐車スペースに三人の目がいった。あのワゴン車が止まっていた。薄明かりでも段ボール箱が無いことは分かった。フラッシュライト点灯、そばへ寄った。中を見回し、テッドが嘲るように言った。

「几帳面も、過ぎると人間味が無い」 

 手掛かりは得られず、二台目の割り出しに掛かった。本部へ問い合せるまでもなく、隣家の夫婦が教えてくれた。白のベンツ、おまけにナンバーまでも。ベラが淡い期待感を口にした。

「車を変えた。もしかしてジュリアは中に」

「いるかいないか。賭けるか、ベラ」

「いない方に」

 苦笑いの古ダヌキ。

「じゃ神経質だったらどうする?」

「前もって隠れ家、アジトを用意して、そこへ」

「そうだ。奴は友人宅などいっとらん。テッド、待機組に電話だ。ウイルソンの親兄弟を早急に調べろと」

 白いハロゲン光が家の周囲を巡り、メルヘンチックな郵便受けでストップ。鍵は無く、屋根に座る天使の頭をなぜ、ベラが、

「やはり変わってる」と鼻先で笑い、次いで警部へ、 

「不用心にあやかります!」と声掛け、中味を取り出した。  

「ああっ!友人が多いとは思えんし、まっ、DMばかりだろ」

 ズバリも、一つ一つ丁寧に見た。途中で手が止まった。請求書だった。送り主へ目がいった。左手のライトが心無しか震えた。

「警部!こ、これを」

 駆け寄り、覗き込んだ。

「ガスター製氷会社・・・」

「気になりません?」

「怪しいな。開けろ」 

 手早く開封、内容に鳥肌が立った。

「ドライアイス、五十キロ、三百七十ドル。こんなにたくさん・・・配送料三十八ドルも変。自宅じゃ高過ぎますから。警部、やっぱりアジトへ連れて、恐ろしい事に」

「使うためだよ。日付、配送先は?」

「一月二十三日、マイアミガーデンズSW320番」

「そこだ!ベラ、でかしたぞ!」 

 赤色灯回転、サイレンON。メトロの緊急車両が、都会の夜の底を突っ走った。

 

 万事が競争のアメリカ。これは官民問わずで、マイアミ市警ボブ・ダフィー巡査長が、明日を夢見るのもこの国ならではか。そのボブにチャンスが転がり込んで来た。チャンスとは、北部警邏中に入った緊急無線であった。

「バカにしてますよね。メトロが来るまで、ただ見張ってろじゃ」

「フン。指を加えてか」

「ボブさん。うちの意地を見せましょうよ」

「メトロとは協力関係だが、それ以上でも、それ以下でもない」

「と言うことは?」

「メトロの指示など、くそくらえだ」

「相手はやわな医者、決まりですね。で、作戦は?」

「通報があった。泥棒がお宅に入った、とな」

「なるほど。でもしくじったら」

「エドワーズ。言い訳は得意だろ。わっはっはっ」

 スケベ心に火がついた巡査長。被疑者宅を目前にしたリスコパーク通りの一角で、赤色灯のスイッチを切った。

  

 ターンパイクが北東から東へ向きを変え、インターチェンジが視界に入ったころだった。フレッドが助手席を倒し、バックミラーをのぞいた。リヤシートで眠る少女が白雪姫に見えた。目を細め、バッハのCDリストから、『イタリア組曲』を選び液晶画面に触れた。そして、最後の仕上げを思った。すると、正気が顔をのぞかせ、不安だと言った。ドライバーから独白が洩れた。バッハの旋律が不思議と似合った。

「もし、警察を訪ねていなければ・・・しかしあれは主催者として当然の責務。間違っちゃいない?いないが顔は覚えられた。シナリオに書き足すべきだった。メトロは甘くないと、地方の保安官など比じゃないと」

 街灯りの彼方へ、素のフレッドが問い掛けた。

「この期に及んでだが・・・医者さえ志さねば、分相応に生きていれば、こんな、こんなことには」

 心を蝕んだ悪魔が、また体のどこかで騒ぎ始めた。ナイーブな顔が歪んだ。正常が異常に屈し、思わず声を上げた。

「ボクは殺したんじゃない。永遠の命を与えたんだ!」

 そして、弱気へこう口走った。

「大丈夫!いざとなればボクも永遠の命を、永遠の・・・」

 悪魔が笑い消え去った。クルスを胸に押し当てつぶやいた。

「主よ。どうぞ安らぎの地へ、ボクを安らぎの地へ」

 愛唱歌を口ずさんだ。霧が晴れるように不安が去った。最悪が気にならなくなった。穏やかな心がインターチェンジを降りた。だが、リスコパーク通りの交差点で安寧は吹っ飛んだ。信号待ち、青、アクセル、右折。そして死角から現れたロードバイク。危ない!床が抜けるほどブレーキ踏んだ。目を閉じ、恐る恐る開いた。派手なサイクリングウェアの男が、背中越しに手を振り去った。

 

 アンディー・シンプソンがマリア像を祭壇へ戻した。そして胸で十字を切り、妻の死んだ日を告げた。

「三月二十日。三月二十日だ」

 用心棒と情報屋が、思わず顔を見合わせた。笑わなかった。不真面目なクリスチャンが、弁護士を真似、右手で十字を切った。大きく息を吐き止めた。左指先が長針をつまみ、来世の番人へ、3、2、0と伝えた。

 その瞬間、混声合唱が、モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスが、天から降って来た。また演出も抜かりなく、礼拝堂が暗くなっていった。だが、壁面はピクリともしない。 

「ママにキスしたいが・・・」

「蓋にもね」

 息の合ったコンビである。苦笑いの相棒が広いおでこをこずき、蓋を閉めた。待っていたように金の十字架が、彫刻が、左へ動き始めた。白い光が隙間から漏れ、断熱材を張り合わせた額縁扉が、ガラスの上を滑った。飾り窓のドラマが始まった。

 地をうねり、這う、不気味な白煙と、手を伸ばせば届きそうな壁の、凍てついた森と動物の絵で、それぞれが、病んだ精神の宇宙に圧倒され、声を飲んだ。そして遂に、最初のドールが現れた。六つの瞳が、見てはいけないものを見た。切り株に座り、膝の絵本に見入る少女を。

 胸の内で、ジョーが、自己へ問いかけた。 

「人間の尊厳とはなんだ。見たくない。しかし、ジュリアの無事を確かめるためには。ああ、なんて罪深いんだ。俺は」

 キースがやりきれない気持を弁護士へ向けた。

「この子がアン・ハバードだ」

「最初のバザーを混乱させた、あの・・・な、なんてことを!」 

 父親が体を震わせ呻いた。

「悪い夢だ。そう思わんか」

「思いたい。思いたいよ、コダカ君」と、今にも倒れそうな弁護士。

 しかし、非現実世界は、ガラスで区切られただけの悲惨な現実に過ぎなかった。次のシーンがそれを認めさせた。ベティ・エイミスが、Y字の幹に股がり、指先の小鳥と遊んでいれば。

 息子の天国から目を背けた父親が、祭壇にへたり込み、肩を震わせ泣いた。額縁がベティから離れた。いよいよだ。

「しびれるよ」とジョーが、日本流に手を合わせ祈った。

「そうだろうな」と同情も、余裕のキース。

 丸太組みの椅子が見え出した。胸が高鳴った。待ち切れぬ思いが、ガラスに額を押し付けた。一瞬目を閉じ、見開いた目の、銀縁丸眼鏡の擦れる先に、ジュリアの姿は・・・無かった。全身の力が抜け、ありったけの息を吐いた。熱い血が流れ出し、恐怖劇の全容に背を向けた。

「ジュリアは生きている」

 なんとも言えぬ安堵感が、奪還作戦の主役へ手を差し伸べた。その手を見つめ、父親が意味を感じ取った。握り合った手に互いの想いが伝わった。肩を並べ祭壇に座った。以心伝心の相棒が、ソファーのパソコンGPSを見て困惑した。

「妙だな。公園通りから動かん」

「いっぷくしてるとか」

「なら今のうちだ」

「あいつを閉めよう」

「と言っても仕掛けがな」

「まるで分からん、か・・・うむっ?アヴェ・ヴェルム・コルプスは三分弱だろ。長く見たい絵でもないし、なんたって、凝り性だからさ」

「なるほど、自動って訳か」

 エンディングへ耳を澄ませた。現実へ帰るように礼拝堂が徐々に明るくなり、額縁が動き出した。キースが慌ててシャツの胸ポケットをまさぐった。超小型カメラを掴み、悪夢へ向けた。すかさず気遣いが、手でふさぎ、首を横に振った。ヒューマニティーを知る者が、証拠写真をあきらめた。次いで後を託された者が、左ドアを目で指し、厳しい口調で言った。

「幕引きはわたしがやる。君たちはそこで」

 そして更に、こう付け加えた。

「気の毒な少女は、父親が命に変えても助ける」

 灯りが消えた。嵐の前の静けさに、底知れぬ寂寥感があった。   

  

 ここに至るまでのツキが、ご和讃になりそうな予感が、ヤスダ警部の渋面を作っていた。それがラッシュのハイウェイで助長され、たまらずしかめ面になった。無線を取った。市警本部に繋いだ。依頼先へ向かうパトカーの状況を尋ねた。不安が当たった。一台応答が無いと。苦々しい声が、先を行く部下たちの無線へ飛んだ。

「まずい!一匹点取り虫がおった。急げ!」

 サイレンと赤色灯の効果が出始めた。ブラウン捜査官のF1芸が、ヘッドライトの帯をかき分けスピードが上がった。マイアミガーデンズインターが瞬く間に迫った。部下と合流した。緊急車両三台の右ウインカーが、早々に点滅を始めた。

 

 二度目のラッキーは、先手が取れたことだった。つまり犯人より先に着いたのだ。ボブ・ダフィー巡査長が口元を緩め言った。

「もらったな、エドワーズ」

「市長賞をですか」

「うまいこと言う。さて、さて、どこで待つか」

 ハロゲンライトが、隅の物置を探し当てた。合わせたように周囲が明るくなった。

「犯人かも知れん。隠れるぞ」

 窓辺に顔を寄せていた三人。思わぬ展開に面食らった。そこへ車の灯り。波乱は避けられず、ジョーがぼやいた。 

「あれはどう見ても待ち伏せ。参ったな」

「五時間足らずで逮捕か。そんなバカな」

「神が罰を下した。そう思えば警察の奇跡も納得できるが」

「しかしそれにしちゃおかしい。大捕物に巡査二人だけ。しょぼ過ぎる」

「メトロのデカなら分かるがな」

「フラナガン君の言う通りだ。メトロは優秀だからね」

「どう?これなら。メトロが気付いた。市警へ協力を仰いだでは?」

「完璧主義者がつまずいたか。考えられんが、まっ、ヤスダ警部なら」

 ベンツが止まった。辺りをはばかるようにヘッドライトが消えた。膝丈ほどの柵の色が分かった。白でなくピンクであることに巡査長が笑いを噛み殺した。だがそれもドアが開き、降りて来た牧師が、驚きに変えた。犯人と拉致された子どもの特徴、車種、ナンバーと耳に入れたが、牧師だとは聴いてない。振り上げた拳に迷いが加わった。迷いながら常識案で振り降ろした。

「化けてるやも知れん」

「ありですね。神に仕える者がベンツですから」

「マイアミだ。おかしくはないが・・・」

 ブルジョア牧師が降り立った。胸のクルスを持ち上げ、ボソボソつぶやいた。後部ドアを開けた。屈めた腰が中へいった。チャンスは今だと、二人の巡査が銃を抜いた。忍び足が背後まで来た。先輩巡査が勝ち誇ったように怒鳴った。

「そのままだ!ウイルソン、両手は後ろ!」

 普通なら驚くはずが、平然と従った。間を置き、背中で疑問を返した。

「ウイルソン?もしや弟のことでは」

「なに?とにかく出ろ。ゆっくりだ」

 神父が腰を引き、首根っこを掴むと、ライトを向けた。仰向けに眠る少女の容姿に、巡査たちが意を強くした。

「生きてるな」

「何をおっしゃるやら。勿論ですよ」

「よしっ。手はルーフ。そうだ」

 ダフィーがボディーチエック。エドワーズが車内へ乗り込み無事を確認。そして外へ出て、牧師に顔を寄せ言った。

「人相、印象、どう見てもフレッドですね」

「当然でしょう。双子ですから」

「双子?ふん、言い逃れにしちゃ芸がないな。免許証は?」

「主のお導きに従ったまで。必要ありますか?」

「他の聖職者は持ってるのに?」

「ボクにしてはおぞましいこと」

「ふん、屁理屈を並べよって。じゃあ名前とここへ来た訳は?」

「トニー・ウイルソン。土曜礼拝のためです」

「と言うと、中は教会なのか?」

「ええっ、弟が作りました。立派なものです」

「その弟は?」

「信者の車に乗ってどこかへ・・・フレッドが何か?」

「誘拐の容疑者だ」

「そんなバカな。医者ですよ。いいでしょう、もう直ぐここへ来ます。中で待っていませんか?」

「逮捕するにはうってつけだな。エドワーズ、子どもを頼む」

 捨て身の演技にチャンスが舞い込んだ。

「まだ疑っておられる。ならば、手ぶらの方が良いかと」

 もはや流れは完全に牧師。少女を抱えた。先頭を歩き、急な階段を上った。入り口に来た。両腕を心持ち下げ、クルスが見えるようにした。カチッ。ロックが解除される音。これに背後が気付いた。

「なんだ、今の音は?」

「さあ、なんでしょう」

「カギは?」

「掛けてないと聞きましたが」

「入れ。ゆっくりとだ」

 左手でドアノブを回し右膝で押した。内開きのドアの角度を計算し、三十二キロの荷物に目を配り、斜めへ細身を滑らせた。図ったようにドアが閉まった。まるで突風に煽られたみたいに。はずみで巡査長がしこたま顔面を打ち、もんどり打って、鼻血を飛ばしながら、巡査もろとも階段を転げ落ちた。そして以後は、特別仕様の頑丈ドアが、叩く、蹴るを嘲笑い、わめき声までシャットアウトした。

 シャンデリアが灯った。 黒衣の演技者が思わず一歩引いた。祭壇に座る父親の姿と、厳しい視線で。だが、まだ余裕があった。言い逃れが出来ると、開き直った。 

「どうしてここへ?」

「主はなんと言われるか。フレッド。その子をソファーへ」

 言われるままにドールを座らせた。五歩の距離に無限の遠さを感じ、弁護士が、父親へ帰った。

「あれは三年前のクリスマスの夜だった。一緒に教会へ行こうと電話した。返事はノー。勤務医だ。まっ仕方ないかと、疑念は無かった。しかし昨年の感謝祭のノーは違った。胸騒ぎが教会へ行かせた。灯りが点っていた。誰もいないはずなのに。不信感がノックを拒否した。密室で何を?想像すら出来ず、息子が出て来るのをじっと待った。突然ドアが開いた。長い長い夜が、牧師姿を見て終った。そして二ヶ月前。心の光慈善協会なるものを立ち上げるから、ついては団体名として登録してくれだ。ピンと来た。これは何かあるなと。だが見当もつかなかった。そんな折り、顧客が口にした小学校のバザーと主催者名・・・。騒ぎは参加者から聞いた。血が逆流し、車を飛ばした。フレッド、罪はこのわたしにもある。自首しよう。二人の少女の冥福を祈ろう」

 近寄り、体一つ空け、向かい合った。 

「見たの?あれを・・・」

 愛情に苦悩を滲ませた目が、上下に動いた。

「おかしい。お父さんに分かるはずがない。そうか。誰かいるね」

 この問いには、躊躇せず応えた。

「コダカ君、フラナガン君、もういいよ」

 別室へ続くドアが開いた。ジョーがソファーへ寄った。そして、ジュリアの無事を確かめ、崖っぷちの男へ、容赦せず言った。

「陪審員が果たして君を有罪にするだろうか?俺の気掛かりはそれだけ」 

 眠れるドールがあくびをした。

「おめざのようだ、じゃ」

 中腰のジョーが、ドールの背に手を差し入れた。実にそのときだった。羊が豹変したのは。ソファーの肘当てを、後ろ手で上げ、中から拳銃を抜いたのだ。鮮やかな奇襲であり、父親とキースは、微動さえ出来無かった。銃口が目の前の頭にいった。これにキースが、それ見たことかと悔しさを投げた。

「なっ、事と相手に寄るだろ」 

 そして棒立ちの父親は、 

「お前がそんな子だったとは。な、情けない。フレッド!撃つならわたしを撃て」と、悲痛の思いをぶっつけ、更に、追い打ちをかけた。

「母さんをこれ以上悲しませるな」

 銃口が三歩下がった。土壇場で悪が、もがき出した。  

「行きたいのは主のそばじゃなく、お母さんのそば」

「フレッド・・・」

 悪が、善の首を絞め、蹴飛ばした。

「お願いだ、その子を祭壇へ。ぐずぐずしないで」

 幾多の修羅場を踏んだ男が、声の先へ一瞥をくれ悠然と従った。 

 

 サイレン、赤色灯無しのパトカーが、次々に押し寄せて来た。顔面血だらけのダフィー巡査長が迎えた。醜態から命令違反は明らかで、同僚たちが口々に罵った。針のむしろである。その上メトロのご到着。クビ、左遷覚悟で経緯を話した。聞き終えたヤスダ警部、開いた口が塞がらず、ひと言で切り捨てた。

「うせろ」 

 冷淡な視線の集中砲火が終ると、不機嫌古ダヌキが、隣りのチーフへ、首筋をなぜ問うた。

「さてどうする?」 

「これだけの車、人です。外の気配は中にも分かるはず。ならば、ここは正攻法で」

「だな」

 他に策も無く、頑丈ドアの前に立った。チーフ以下捜査官たちが後に続き、市警巡査たちが、アリも逃すまいと横に並んだ。頑丈ドアに微動だにせぬノブ。窓という窓の鉄格子。容易ならぬアジトにやけくその第一声が。

「ウイルソン!もう終りだ!ドアを開けてくれ!」

 三度怒鳴った。が、ハッタリ、お願いに返事は無い。続きテッドが、ドアを叩きノブをガチャガチャ。

「なんですか、これは」

「ただ者じゃないってことだ。特殊工作課へ電話だ。ぶっ飛ばして来いと」

 侵入不可のアジトに、結局は仕切り直し。そこへベンツ内、外と入念に調べていたベラが、以外なものを見つけた。

「リヤバンパーの下にこれが。GPS発信機ですね」 

 リアルタイムの最新型である。

「他にウイルソンを追ってた奴がいたとはな」

「探偵でしょうね」と、テッド。

「じゃ依頼者は誰?ジュリアの親だと早過ぎるし・・・」と、ベラ。 

「探偵に聞くしかないな」と、頭をかいた古ダヌキ。

 テッド、ベラ両捜査官が街灯の影へ目をやった。途端に警部のケイタイが鳴った。アントニオーニ邸の部下からだった。

『なに!コダカが。間違いないな。ん?なかなか思い出せなくて。バカッ!で、そっちを出たのは?十八時過ぎか。分かった』

 聞いていたベラが、内心の嬉しさを隠し言った。

「タイミングが良過ぎます。探偵と関係あるのでは?」

「テッドは?」

「ウイルソンに目を付けたコダカと、追っていた探偵。知己の両者が偶然にクロスした。ほんの一時間前に、では?」

「いいぞ。うむっ?ベラ、やけに嬉しそうだな」

「ええ、ファンですもの」

「知らんはずだが」

「夢の中で」

 お茶目の微笑に、苦笑いのヤスダ警部、周辺を見回した。そして、民家の灯りを映す向かいの池を見て言った。

「簡単だな、車を探すのは」

 打てば響く部下。寂しい一軒家を背に、左右へ散った。しばらくして、成果を顔に描き、ベラが戻って来た。

「それらしい車を見つけました。答えは二分後に」

 ナンバーから所有者が割れた。ジャガーはスーザン・アントニオーニ。そしてもう一台は、思いも寄らぬ人物だった。

「オヤジも来てたとはな」

 意外な展開も打つ手無し。ならばと開き直った。中にクレバーな男がいると。 

「待つ他無いな」

「仕方ありませんね、あのドアじゃ」

「テッド・・・まっいいか」

 過去、二度味わった無力感。肩をすぼめた古ダヌキにあった。


 儀式が始まった。貧乏揺すりが隣りへ耳打ちした。

「何か手は?」

「この余裕が分からんとは」

「うむっ?そうか、そう言うことか」

 敵の城にあって先ず何をなすか。友がプロの中のプロであることを、今更のように知った。

 悪魔の化身がクルスを外し取った。二度左右に振った。彫刻画がスライドし、ガラス窓が追った。ドライアイスの白煙が、祭壇に流れ、ジュリアに迫った。この時と、ジョーが歩き寄った。フレッドが振り返った。

「止まれ!」

「無駄だよ」

「なんだって?」

「撃ってみな」

 銃口が頑丈ドアへと向きを変え、撃った!

『カチッ、カチッ』

 虚しい金属音が、驚愕が、言葉になった。

「ここに隠してることを、どうして?」

「長生きしたい。そう思えば人は注意を怠らない」

「君はいったい・・・」

「ただの物好き。でもさあ、試し撃ちがドアだろ。正直面食らった。普通はそのまま撃つからね。察するに、ジキル博士が突然現れ、ハイド氏を蹴飛ばしたとか。素は優しい人なんだよね、きっと」

 仁王立ちがニッコリ笑い、更に続けた。

「俺が君だったらどうするだろ。死で報いても、ママが喜ぶか心配。心の病気は神の領域だ、と言って、悲しむかも知れないしね。つまり罪はハイド氏でジキル博士は被害者なんだ。よって、さっき口にした俺の気掛かりは取り消すよ。出直して」

「・・・遅い」

「フレッド。人生を楽しんだら。例えばパパのあとを継ぐとか。秀才なんだからさ」

「遅過ぎる・・・」

「どうしてもなら、俺は止めない」

 葛藤する狂気が、髪を振り乱し、祭壇へ上った。ジュリアを道連れにさせない。そう思わば駆け足だが、並の早さで歩いた。そして遂に、ジュリアを挟んで対峙した。涙目が足元からジョーへ移り、心の叫びを放った。

「友人が欲しかった。君のような人が・・・お父さん、さよなら」

 用心棒が弁護士を伺った。男泣きが返事だった。息子が非現実世界へ飛び込んだ。ガラス窓が、額縁が閉まり始めた。手を振りながらこの世から去り行く者が告げた。

「もう直ぐボクの悪夢は粉々になる。逃げて。念のために」

 ジュリアが座るべき椅子に牧師が腰をおろした。クルスの長辺をずらし、手の平へカプセルを落した。口に含んだ。うっと呻き声を上げ、苦痛から逃れるように、旅立ちの言葉を唱えた。

「主よ、みもとへ。お母さんの、お母さんの・・・も、と、へ」

 白煙が波打ち、ジュリアが身を起こした。すかさず抱き上げた。相棒が祭壇に駆け上った。悪夢の入り口を無造作に開いた。時計の長針へ目がいった。

「動いてる。一秒ずつ正確にな」

「今、何秒?」

「十八秒だ。六十秒でドカ〜ン」

「局所爆弾だが、とにかく出よう」

 用心棒、情報屋、弁護士の順に、出口へ急いだ。

 

 曰く付きのドアが、いきなり開いた。泡を食ったフラッシュライトが、いっせいに強烈な光の矢を放った。階段下のヤスダ警部が、いっきに駆け上がった。鼻先の学者面を複雑な目で見つめ、テッドが脇をすり抜けようとした。用心棒がそれを左足で邪魔した。そして、ジュリアの耳を腕で塞ぎ、軽い乗りで冷やかした。

「死にたい?」

「なんだって?」

 今度はグッと声音を変え、重々しさを加えた。

「この家が吹っ飛ぶかも知れんと、まあ、そう言うことだ」

 これにはニヤリとした古ダヌキ。腕の中、学者面と見て苦笑い。 

「変わらんな」

「警部。命令して」

「奴は?」

「自殺した。毒を飲んでね」

 拍子抜けが怒鳴った。

「全員退避!」

 ほんの数秒で水を打ったように静かになった。大半がパトカーの陰であり、ジョー他は、街路樹に隠れた。足で秒を刻む相棒が、カウントダウンした。

「3、2、1!」

 かすかな爆発音がした。額縁が吹っ飛び、入り口へ張り付いた。金のクルスに死者の情念を感じた男が、汚れなき瞳に問い掛けた。

「今日起きたこと、忘れられる?」

「ジョー。夢とちがうの?」

「うむっ?そう、そうだね。頭は?」

「大丈夫。もっと夢を見ていいかな?」

「好きなだけね」

 ジョーの胸に顔をうずめ、ジュリアが静かになった。フレッドのパパが、肩から顔を覗かせ、無邪気な寝顔へポツリとこぼした。

「孫が見たかった・・・」

「この先、どうするの?」

「君だったら?」

「主はかく語りし。第二、第三の、フレッドの力になれ」

「真実は?」 

 ドアのクルスを目で差し。重い口調で迫った。

「闇に葬るべし。違うかい?」 

「沈黙が最善とは・・・」

「おやじさん、世の中にはこんなのごまんとある。気にしない」

「ありがとう。救われたよ、息子同様にね」と、堅い握手。

 弁護士が立ち去った。次いで傍らのキースが。

「早く電話してやれ」

「苦手でねえ、分かるだろ」

「番号は?」

 ケイタイへ入力後、通話ON、相棒の耳に当てた。案の定であり、スーザンの感涙の声が、相棒まで泣かせた。パトカーの赤色灯が点り、寂しい通りが賑やかになると、ヤスダ警部がひょっこり現れ、サラリと言った。 

「校長の話だが、青い小鳥は二年たったらカゴへ帰るらしい。その上で難題を言いよった。事件は内密にしてくれないか、とさ。まっ、状況的には可能だから、署長にお伺いをたててみる。ロベルティとは懇意だし、多分、ウチの極秘資料として倉庫で眠るはずだ。いいだろう、これで?そちらの探偵さんもそのつもりでな。じゃ」

 きびすを返した人情派。肩で風切り、赤い光の中へ消えた。

 ジャガーのそばにライトを持つ人影があった。闇に慣れた目が女だと教え、近付くと灯りが制服から足元の道路へいった。警戒心を与えない配慮であった。相棒へキーを渡し、緊張気味の女へ軽いジョークを飛ばした。

「いいの?仕事さぼって」

 硬さが取れたか、白い歯を見せ明快に返した。

「初めまして。ヤスダ班ベラ・ギビンズ捜査官です。何かあります?私たちのやることが」

「そいつは悪かった。でもさあ、さすがって言うか、短時間でよく分かったね」

「まぐれです」

「俺もだ」

 互いの謙遜が、心を通わせた。笑った。その声にジュリアが顔を上げた。

「お家に着いたの?」

「次に目が覚めたらね。さて、退散するかな」

 ベラが後部ドアを開け、ジュリアの髪をなぜ、親の思いを口にした。 

「同じ娘を持つ身。お礼が言いたくてここへ。それと・・・うふふ」

 意味深な笑みを残し走り去った。直ぐにジャガーが追いついた。並走。窓からジョーの声が飛んだ。 

「ベラ。ありがとうって、警部にね」

「えっ?まあいいか。伝えま〜す!コダカさんもお元気で!」

 立ち止まった。チェスの名手が、赤い光の瞬きに閃いた。

「大事件でまた会える」と。 

 

 都会の夜景が窓を飾るころだった。バックミラーを見て、キースが呆れた。

「その格好で三十分あまり。よくもつな」

「体力、我慢、サービスが、俺の売りだからね」

「なるほど、報酬に値する言葉だ」

「その報酬だが、いくらでも請求して」

「こっちが世話になったのに?」

「キース、聞いてくれ。俺は大事な写真を撮らせなかった。緻密なレポートの裏付けをね。当然少女たちの親も納得しない。ボランティアは覚悟の上だろうが、一流にはちょっとね。そうだな、百万ドルがいいか。請求して」

 破格の報酬に前のめりになった情報屋。一息ついて返した。 

「それだけくれたら、三年休む。いいのか?」

「そいつはまずいな。うう〜ん、半年にして」

 腹を抱えて笑い、報酬話に付け足した。金はファミリーが出す。百万どころか、一千万だって目じゃない」

「廃業するか」

 笑いの絶えない、息の合ったコンビである。

 

 ガード付き超横長リムジンと、何台もすれ違った。紳士、淑女の乗るロールスロイスの列も目にした。ガーデンパーティーの多さにも、屈強な護衛の多さにも驚いた。ここはやはり別次元だと、助手席の寝顔を見て、更に納得した。莫大な富が言い知れぬオーラを放っているのだ。

「これでよくばれないもんだ」

 そんな一人言が聴こえたか、ジュリアが目覚め、気持良さそうに背伸びをした。

「ジョーはゆりかご、ジュリアは赤ちゃんだった」

「それでぐっすり眠れたわけだ」

「うふふ。ねえ、ジョー。大きくなったらお嫁さんにして」

 驚きもせず、慌てもせず、揺かごが、揺かごらしく諭した。

「揺かごは赤ちゃんを知ってる。けど赤ちゃんは知らない。当然だよね、赤ちゃんだもん。だからさ、大きくなって揺かごのことが分かるようになったら考えようよ」 

 うまく逃げられたことが、子どもにも分かったか、ダメを押されてしまった。

「夢も見たの。白馬にのった王子さまが、ジュリアを助けにきた。王子さまは顔も声もジョーだった。悪い人をこらしめ、ジュリアをお馬にのせ、天の川をよこぎって、ガラスの教会でけっこんしき。かわらないと思う」

 少女らしいと言えなくもないが、口調は大人並み。年を思えば、さてどう交わすかだが、開いた芸術門、敬礼で迎えた警備たち、そしてスーザン、使用人の姿が、思案顔の先にあれば、ほっとしたのも、むべなるかな、である。


『ジュリアは何も知らない』。ジョーの配慮が、母親、使用人と伝わり、金ピカダイニングの豪華ディナーが始まった。出発まで二時間ちょいで、ご馳走を堪能するには程好い時間である。自然、体も胃袋もリラックス。そこへグラスにワインを満たしたヘレンが、耳元で裏話を。

「完成したばかりのホテルから、コック長を走らせたのよ」

「アントニオーニ・クラシック、だよね。ファビオは?」

「帰ったわ。お口に合うか、ちょっと心配そうだったけど」

 ミラノのいち料理人の出世はジョーのお陰だった。昨夏、イタリア人らしからぬ、寡黙と真面目に、ウデを備えた友人の試食会。ロベルトの賞賛に辺り構わず泣きまくった生真面目兄さんが、脳裏に現れ、次々に食べまくった。だが品は心得ており、対面のスーザンが、目で笑い言った。

「何度も見たけど、今夜は特別ね」

「そりゃそうさ。先の短いお人とジュリアじゃ、話にならんだろ。俺のプレッシャーがさ。故にその反動が、見ての通り」

 楕円形テーブルの両サイドに立つヘンリーとヘレン。遠慮気味に納得し、結局は笑ってしまった。そしてジュリアと言えば、ちゃっかりジョーの隣りに座り、夢の続きを楽しんでいる。こうして愉快な夜は過ぎて行き、終わりは、ジュリアが夢の続きを提案した。

「ジョー、子供のころのお話をして。いいでしょ?」

 金ピカづくしの極み、掛時計を見て応えた。

「時間はまだある。OK!それじゃさ、アラスカ少年の話をね。ジュリアと同じ十才のときの」

「アラスカ・・・ええっ!」

「待って。場所を変えましょ。そう、図書室がピッタリね」

「あの〜奥様。わたしたちは?」

「後片付けは・・・まあ、いいか。じゃ一緒に」

 読書好きの夫ガブリエルが、英国風に仕立てたちょっとした図書館へ移った。重厚かつシンプルなデスク型テーブルに、難解な経済書がポツンと一冊。その上に指を組み、隣りのジュリア、向かいのスーザンと見て、左右へ首を振り、話の筋を雑作もなくまとめ上げた。

  

  序章2 アラスカ少年

 

 200X年1月26日木曜日フロリダ州マイアミ

 シャツの胸元ボタンを一つ外し、水二口で場を見渡し、おもむろにしゃべり始

めた。 

「先ず家族からね。冒険家より格闘家として有名だった日本人の父。バリバリのエスキモーだった母。そして俺をかわいがってくれた姉」

「超人の原点は分かったけど・・・皆さんご健在?」

 話が過去形であれば当然か。

「火事が元でさ・・・」

「亡くなったの?」

 暗い顔の似合わぬ男が、両手を広げ、明るく交わした。

「不幸だけど、家族一緒だろ、幸せだったかも。じゃいくよ」

 暗くなりかけたムードを、ジュリアが吹飛ばした。

「教えて。かくとうかって?」

「柔道、剣道、空手、ボクシングなど、闘うためのあらゆる技を身に付けた先生」

「すごいなあ。王子さまが強いはずよね」

 忘れて欲しい王子様だが、意外にも照れた。純な男なのだ。

「いくよ。北極海沿岸の小さな集落に住む俺は、物心ついたころから父親と行動をともにし育った・・・ちょっと難しいか。ジュリア、分かるかい?」

「うん、心配しないで。そうだ。ママ、ビデオカメラはどうかな。あとでわからないところは教えてもらえるでしょ」

「グッドアイデアよ。ヘンリー、用意して」

 一分とかからずスタンバイ。語り部が、二十三年前の記憶をたぐり寄せ、好きなナレーターを真似、アラスカ物語を続けた。

「北極海沿岸の小さな集落に住む俺は、物心ついたころから父親と行動をともにし育った。ここまでは言ったよね。じゃあ、これからは俺のことを少年と呼ぶからね」

 母娘がニッコリ、拍手で先を促した。 

「クリスマスが近づいたある夜だった。父親が少年を呼び、そのときだけはいつもと違って、優しい声で話しを切り出した。十才の少年はビックリした。恐いけど胸躍る話しだったから。

「明日、おまえはアイスフオレストへ旅立つ。以前から行きたがってた森だ。ルートは海岸線をバローまで辿り、南へ下る。湿地帯や湖を抜け、五十キロで大きな川に出る。蛇行を繰り返す川に沿って百キロ。小高い丘が見え出したら森は直ぐそこだ。苦労するだろうが、苦労して学んだものは、これから生きてくうえで、必ず、必ずだ、役に立つ。みやげ話、楽しみにしている」

 二度使った必ずと言う言葉が、自分に言い聞かせてるようで、少年はなんとなく嬉

しかった。さっそく準備に取りかかった。冬のアラスカの旅はソリ犬で決まる。いろいろ考え、二十頭の中から、オス二頭、メス六頭を選んだ。脚力は普通のメスを選んだのは、賢くて少年によくなついていたから」

「メスの犬にも人気があるなんて、やっぱりジョーよね」

 納得も大笑い。更に。

「しつもん。五十キロでしょ、百キロでしょ。マイアミからだったら、どのあたりまでかな?」

「目的地までは合計二百キロ。北の方だとベロビーチ。西だとケープコーラルくらいかな」

「ええ!子どもがたった一人で、そんな遠いところまで行くの」

「一人じゃない。犬といっしょ」

「そうか〜。八匹もいるんだもの、さびしくないよね」

「そう言うこと。続けるよ。眠れぬままに迎えた朝。ソリに乗り緊張気味の少年へ、母がそっと本音を打ち明けた。

「かわいい子には旅をさせよ。日本人の子育て法を真似たこの旅。お母さんは反対した。冬のアラスカでは何が起きるか分からないもの。でも、許した。理由は、体も気持も強いあなただから。決して弱音を吐かない子だから。ジョー、もしそれでもくじけそうになったら、耳を澄まして。お母さんの声が、きっと聴こえる」

 涙目が抱きついた。午前十時。氷の海に少しだけ朝陽が顔を出した。出発だ。嬉しそうでもあり、悲しそうでもある親に見送られ、少年の旅が始まった。五時間で陽が沈む、アラスカの冬の旅が」

「たったの五時間。じゃいそがないとね」

「けどさ。ソリのスピードは、車と違って自転車並み。それに犬も休ませなきゃいけないし、急ぎたくてもね」

「心配になってきた」

 いっしょにソリに乗っている心境か。

「最初の五十キロポイント、バローへは昼過ぎに着いた。バローはアメリカ最北端のイヌイット、エスキモーね、の町で、人口は三千人ほど。母の親戚があり寄った。旅の話をした。驚いて感激して、ご馳走を振る舞ってくれた。帰りに天気が心配だと言って、イヌイットの知恵とお菓子をいっぱいもらった。三十分ほどで親戚の家を後にした。進路を南へ取り、ツンドラへ入った。夏であれば青と緑の美しい風景も、冬の今は凍結、雪を被った白い大地でしかなく、東にかすんで見える岬の氷山で、退屈をまぎらした」

 たった一人の子どもと大雪原。それぞれが想いを巡らせた。

「辺りが暗くなり始めたころ、父の言った通り曲がりくねった川へ出た。ソリを止め、無数の星のまばたきと、青白い風景を見回した。少年は思った。何か自分がサンタクロースみたいだと。赤鼻のトナカイが、野営の準備の歌になった」

「やえいって?」

「キャンプのことよ」

「ひとりでキャンプだなんて、えらいなあジョーは」

 頭をかくも、少女の驚きと称賛は、とどまることが無い。

「極北の夜は早い。暗くなるまでにイグルーを作らなければいけない。イグルー、洞穴ね。本格的なのは必要ないから、雪をかき集め、固め、穴を掘り、いっちょう上がり。それが済むと食事。犬一頭、一頭と話しをして、足の裏に傷がないか確かめていく。終わると、アザラシの生肉を与え、残りは少年の口に」

「犬のきもち、わかるの?」

「家族だもん、当たり前。で、迎えた最初の夜。神様がプレゼンをくれた。滅多に見れないオーロラを。夢のようだった。青やピンクのカーテンが、次々に現れ、優雅に舞う姿は、地球の素晴らしさ、不思議さを教えた。けれど、それもしばらくのことで、やっぱり寒い、眠い。限界が来た。家族がひしめく穴の中で、丸くなり、両親におやすみなさいとつぶやき、少年は眠りに落ちた」

「わたしも見たい。つれてって」

「冷蔵庫より寒いよ」

「だいじょうぶ。ジョーがあたためてくれる」

 モテ男、頭をかいた。

「長い長い夜が明けた。眠い目をこすり太陽が昇らない地平線を見た。一瞬だけ赤く輝き、押し寄せる真っ黒な雲が、赤い光を呑み込んだ。親戚の知恵が頭に浮かんだ。天気が崩れること。嵐の前触れであること。無理は禁物と。雪の降る壁が遠くで見え、どこかへ去った。すると足元のサラサラ雪が渦を巻き出した。まずい、本当に嵐が来る。アラスカの嵐は、地吹雪は、短時間では収まらない。運が悪けりゃ、三、四日荒れ狂うことだってある。前進か避難か。アイスフォレストまで残り百キロ。ボスのリュウと相談した。袖口を引っ張り、南の空に向かって吠えた。『進もう』と。少年は意見が合ったことに満足し、リュウの頭をなぜた。真っ暗になるまで三時間。仲間へリュウが吠えた。八頭の合唱が雪煙へ突進した。そのうちぼんやり見えていた川の上流が、まったく見えなくなった。もう白い闇になるのは時間の問題。それまでに少しでも距離をかせがなくては、目的地へ一歩出でも近付かなければ。だけど雪原の

うなり声は容赦しない。重いソリを持ち上げ、吹き飛ばそうとする。駄目だ。少しでも風を避けなければ。低地だ。谷間だ。頑張れ!氷雪が張り付いた口をこじ開け、わめき続けた。わめかなければ迷子になるから。迷子になれば死が待ってるだけ。やがてコンパスがぼやけて見え出したとき、父親の声が耳を打った。

『立ち止まれ。自然に謙虚か、冷静に考えろ』

 焦っている自分に気付いた。ストップ!父親に感謝、窪地の吹きだまりにイグルーをこしらえた。少年と犬が体を寄せ合い、嵐が鎮まるのを待った。夜中のことだった。無理がこたえたのか、寒気と高熱に襲われた。漢方薬、植物の葉っぱや根っ子から作ったものね、を飲んだ。少し楽になった。だけどそれもいっときだけで、温かいカリブーの上着や、アザラシの下着、重い白クマのズボンを、脱いだり、着たり・・・」

「ジョーのお服は、まるでどうぶつえんね」

 苦笑いの語り部と、笑い過ぎて、目尻に涙の大人たち。 

「終いは裸になり、どうにでもなれと毛布にくるまった。でもますますひどくなるばかり。遠のいていく意識。白い霧の中の少年に、自由の女神とそっくりの母親が現われた。そして両手を差し伸べ、『アテナが守ります』と言って、子どもをあやすように抱き締めてくれた。奇跡が起きた。白い霧がいっぺんで晴れた」

 話しを中断。残りの水をいっきに飲んだ。スーザンがアイスペールからミネラルウォーターを取り、ボトルごと置いた。

「ふしぎ」と、ジュリアが小首を傾げ、その後、「アテナって、だれ?」

と、母親へ問い掛けた。

「ギリシャ神話の女神だった・・・かな」とママが、頼りなく答えた。

「ギリシャの女神が、どうしてアラスカにいてるの?」

「ジョー、助けて」と泣きついた。

「アテナは心優しい女神。困ってる人がいれば、どこの国だろうと、飛んで行って助けてくれる。詳しくは図書館でね。OK?」

「オッケーよ」

 アテナを三度復唱し、ニッコリ笑った。語り部が続けた。  

「目が覚めた。キクとサクラが、サンドイッチのようにピッタリくっついていた。ふと考えた。体を温め、救ってくれた二頭の他は、少年に無関心だったから。愛情は平等なのになぜ?夢が重なった。女神のせいだと思った。けれど、夢は夢、現実は現実。そう言わんばかりに、キクとサクラが、ほっぺをなめ上げ、尻尾を振った」

「ママ、やっぱり犬がきらい?」

「好きになった」

 単純である。が、娘は違う。

「ジョーだからよねえ。他の人だったら、わたしは考える」

「ママも同じ意見よ」

 言ったあと、ママの顔が、ほんのり紅くなった。

「ジュリア。人間の命はみんな大切。忘れないで」

 子は大きく頷き、親は顔を伏せ、小さくなった。 

「嵐は夜明けとともに去った。いつでもGOだ。が、急がなかった。それが昨日の反省であり教訓だった。午前中はのんびり過ごし、正午ちょうど、川伝いにソリを飛ばした。遥かな山の彼方へ、流れ行く雲を追って。小高い丘の続く入り口で、陽はまだ明るいが失敗に学び三日目を終えた。残りは五十キロ。全行程の四分の三を走破した達成感が、翌朝九時までぐっすり眠らせた。小雪が散らつく四日目。途中でタンポポの様子がおかしいことに気付いた。直ぐに足を見た。肉球から血が出ていた。たまにあることで、靴下二枚しばりつけた。様子見の速度がいつもに戻ったころ、川幅が狭くなってきた。白い木立も見かけるようになった。更に、冬には珍しいカリブーの群れとも出会った。アイスフォレストまであと一歩が、余裕を生み群れを追った。ひ弱な子どもが置き去りにされた。するとどこからか、狼の集団が現れ子どもを囲んだ。海岸付近では見られぬ狼の狩り。ドキドキしながら見守った。しばらくして、弱者の

悲劇は、忘れてはならない想い出の一つとなった。谷間に広がる森が視界に入って来た。ソリを止め、森から流れ出る小川へ降りた。風が湯気を吹き払った水面に、孵化したばかりのサケの稚魚がたくさんいた。三ヶ月は早い。首を傾げていると、丘の上で待つソリ犬たちが吠え出した。危険が迫っている合図だ。周囲を見回し、上流で唇を咬んだ。オオカミだ。他に仲間がいないのは幸運だが、かわりにデカイ。目が合った。水で飢えをしのぐ必要がなくなった。そう言わんばかりにジリジリと近寄っ来た。父親の言葉を思い出した。

『野生から目を離すな。鋭い目を向けろ。目が勝負だ』

 従った。威嚇のうなり声がはっきり分かる距離でにらみ合った。目の勝負は互角だ。もう戦うしか道は無い。三才から教わった格闘技が、今このとき役に立つのだと武者震いした。そして、父親が耳にねじ込んだ教えも、試すときだと。

『極限の中に身を置いたとき、いかに自然体であるかだ』

 心が無になった。生まれて始めての、真の勇気が、野生の非情な闘いに望んだ」

「ママ、のどがかわいてきた。とっても恐いから」

「うふふ、ママもよ。ジョーは・・・ワインがいいわね。ドミナスのビンテージものはいかが?」

「カリフォルニア産の名品だ。いただこう」

 休憩時間も話題はアラスカ。珍問、爆笑。難問、苦笑後、再開。

「狼がジリジリと後退りした。逃げるのではなく、チャンスを窺っているのだ。半身が力を抜いた。オオカミが低い姿勢から、うなり声を上げ牙をむいた。宙を飛んだ!人間を喰らったことがあるのか、首を狙って来た。野生の凶暴な眼と、鋭い歯と、熱い息とクロスした。

『勝負は一瞬で決める』

 一撃必殺。父の勝利の哲学が、雄叫びが、白い荒野にこだました。喉元に体重三十七キロの右こぶしが炸裂した。オオカミが喉の奥で悲鳴を上げ、雪の上に転がった。

ヨロヨロと歩き出した。少年に哀れみの心が湧いた。ソリへ引き返した。アザラシの肉を持ち、追いかけ、目の前に投げた。声の出ない口が、ペロリと平らげ、丘を登って行った。そして一度だけ振り返り、空に向かってヒューッと鳴いた」

「ゆりかごの赤ちゃんは、今日、ゆりかごを知った」

「ママにはさっぱり分からない。ジュリア、どう言う意味」

「ジョーにだっこされ、ずっとねむってた。きもち良くて、夢まで見た。ゆりかごがやさしかったからよね。そのことをオオカミのお話で知ったの」

「ジュリア・・・」

 成長した娘に言葉を詰まらせた母。そして、冷や汗をぬぐった揺かご。語り部がボトルを半分開け、ラストへ話を紡いだ。

「森が口を開けたように、川を吐き出していた。その岸に沿って森へ入った。いくらも行かないうちに、地表から雪がなくなった。苔類に覆われた混合樹林が、夏のようでほっぺを何度もつねった。犬たちに待機を命じ、ムースを見にいった。途中、アンカレッジから来たという地質調査隊の人たちと出会った。沿岸部からたった一人で来た少年に驚き、アイスフォレストの疑問を丁寧に教えてくれた。

『見ての通りここは夏だよね。じゃ、冬なのになぜ夏なのか。答えはこの森が火山の一部だってこと。そして地下にマグマ溜まりがあるってこと。地下四キロにあるマグマ溜まりが、地下水を温め、地熱を生み、このように森の環境に変化を与えているんだ。所々蒸気が吹き出してるから見て行くといい。ただし、森を突き抜けそうなのもあるから、十分注意して。それとヒグマにもね。ここじゃ冬眠の必要は無いだろ』

 ヒグマと聞いて身近なシロクマを思い浮かべた。シロクマはオスで五百キロほどだが、ヒグマはまれに千キロ近いものもいる。そんなのと出くわしたら、先ずアウト。奇跡でも起こらない限りね。調査隊と別れ森の奥へ向かった。歩きながら笑った。ホットフォレストにしなかったユーモアを。

 十頭ほどのムースのかたまりが、あちらこちらにいた。他にも小動物はいたが、もう圧倒的にムースだ。沿岸部にもいるが目じゃない。とにかくでかい。鹿の仲間だが、牛である。見た感じ千キロ近くありそうなド迫力のボスがやって来た。そこへ木陰から現れた小犬みたいなクズリが、無謀にも飛び掛かった。クズリは鋭い歯が武器。けれど正面からでは巨人と小びと。ボスに軽く追い払われ、今度は少年に気付いた。飛びかかって来た。ここは剣道である。手にした木の枝で思いっきり頭をなぐった。体重十五キロほどの小悪魔が、あっけなく転がり、動かなくなった。森が静かになり、ムースの角を探しに行った。手頃なのを見つけたときだった。ムースのボスと怪物ヒグマの決闘が目に入った。勝負は後ろ足で蹴り上げたボスの勝ち。だが顔面を砕かれ、血を流しても、それでも嗅覚を失わぬ怪物の鼻が、木陰の少年を感知した。とっさに隠れた。巨体の足音が迫った。さあどうする。絶対絶命だ」

「ジョー、もう恐くて、恐くて、胸がドキドキしてる」

「背筋を伸ばして〜。はいっ、深呼吸」

 母と娘に、ヘンリー、ヘレンまで参加し、三度目で大笑い。やがて静かになると、ジュリアが夢の未来を案じるように言った。  

「食べられなかった?」

「ほら、少年はここにいるだろ。はっはっはっ!」

 語り部の腕を抱き、笑みを送った我が子。そのなんとも言えない表情が、スーザンのひとり言になった。

(もしかしたら、この子は・・・でも十才よ。そんなことが・・・) 

「ヒグマの手足は時速五十キロを叩き出す。ましてや怪物だ。もっと早いかも知れない。がむしゃらに逃げた。怪物が追って来た。早い、早い。あっという間に背後に迫った。食われる、食われてしまう。あわやのそのときだった。前方の苔むした地面が、音もなく裂け、突然、蒸気が吹き出した。父の常套句、決まり文句だね、が、蒸気から聴こえた。

『崖っぷちはジタバタするな。いいか。ここは飛ぶしか無い。飛んでみろ』 

 そしてあの女神の声も。

『今必要なのは勇気、飛びなさい』

 食われるより増し。悲壮な覚悟が、シロクマの上着で顔を隠し、蒸気の中を、裂

け目を、飛んだ、転がった。と同時に、凄まじい大自然の叫びと怪物の叫びが、鼓膜を打った。振り返った。少年の目が丸くなった。ヒグマも、蒸気も、裂け目も、跡形も無く消え失せていたから。ほっぺをつねった。同じだった。これも夢?連日の奇跡に、少年は戸惑い、考え、結局は頭をかくだけだった。無事なことだけを素直に喜び、ムースの角を拾いに行った。不思議な森へ来た記念に、証拠にと。ソリへ戻った。リュウがひときわ大きく吠えた。またアイスフォレストへ来たいか?そんなふうに聞こえた。アラスカ少年の黒い瞳が、真っ青な空を映し、照れたように応えた。あの女神と、ほんとに会えるならね。お・わ・り」

 拍手が一つ足りない。腕が重いことに気付いた。愛らしい寝息へ目を送った。その目がスーザンと合った。

「ジョーが本当に好きなのね」

「子ども目線だからさ」

 母親の笑みに、微妙な意味合いがあった。 

「ちょっと違う気がするけど」

 おとぼけが腕時計を見て交わした。

「さて、そろそろだな」

「あら、もうこんな時間。ヘレン、車お願いね」

「ジュリア様はわたしが」

「ヘンリー。アラスカの夢を壊すのもな」

「コダカさんは何をしても成功なさる。それでは寝室へ」

 アントニオーニ家の至宝を、跡継ぎを、目を細め抱き上げた。


 ポルシェの客がヘレンに声を掛けた。

「旦那はコメディアンだったよね?」

「ええ、二流の」

「それでいい。上に昇れば疲れるだけ。ねえヘンリー」

 かっての一流が、ニヤリとし、付け足した。

「あのころに聴きたかったな」

「しかし、ガブリエルは天才のギターに癒された。そして今がある。時に悪くない、一流もね」

 面映ゆい黒人が一歩下がり、屈託のないヘレンが一歩出て、

「顔と職業は・・」と言うや、右、左と学者面をなめまわし、

「アラスカ少年を知り、ミスマッチじゃなくなった。はっはっはっ!」

と、豪快に笑い飛ばした。

  

 マイアミ国際空港の灯りが、ドライバーの美しいプロフィールをミステリアスにしていた。複雑、微妙な親心の反映であり、助手席の男はそのことを知っていた。盗み目は性に合わず、上体を屈め、ニナ・リッチのリゾートドレスから涼しい目を上げて言った。

「どう思う?年の差」

 いきなりだ。ポルシェが左へ向いた。が方向も体勢も立て直すと、横目で応えた。

「微笑ましい・・・本気なの?」

「うん。大人も痺れるあのラスト。十才が、最後まで寝た振りを演じた肝っ玉。本気になって然りだ」

「寝た振りって、どうして分かったの?」

「人間ウオッチで飯食ってんだよ」

「確かに物怖じしない子だけど・・・」

「もしあれが他の子なら大騒ぎ。結果、どうなったか。どう?ジュリアは俺にピッタリだろ」

「ほっほっほっ。そうね。でも・・・」

「用心棒かい?ジュリアが大学卒業すれば辞める」

「じゃ、結婚式は十二年後」

「いや、五年後だ」

「ええっ!中学生、いえ高校生よ」

「指輪だけさ。仕事が片付けばいったん戻って来る。ロベルト、ガブリエルへはそのとき話す。返事次第では、そうだな、ギリシャへでも連れて行くか」

「神々も驚かれるわね、きっと」

 笑い声が空港駐車場まで続き、ポルシェカブリオレが、VIP専用スペースへ収まった。

「情報屋さんだけど、三百万ドル払うそうよ。ジェーンから電話があったわ」

「弱ったなあ」

「不服?」

「とんでもない、逆さ。廃業しかねんからね」

「まあ、大変!」

「しかしサウスビーチのホテルでさ、のんびりしてる奴じゃないからね。まっ安心はしてるが」

「良かった。それと、肝心なあなた。義父曰く、ジョーは言い値だ。夫はサムシングエクストラ《景品》も用意するそうよ」

「妻のおじいちゃん、パパだよ。スーザン、よしなに」

「大学がもし同じだったら、わたしの未来は、なんて、ほっほっほ!」

 ストレートにものが言える相手に、しみじみと幸せを感じた。そして、素の自分も取り戻したような気がした。

「さて、行くか」

 ドアに手をかけた。スーザンも倣った。  

「見送りはけっこう。今度は親じゃ、空の上だもんね」

 はにかんだ微笑に、一転、まじめ声が刺した。

「専業主婦は柄じゃない。だったら、捨てた夢にチャレンジする」

 オハイオ大建築工学科の俊英が、驚き、空白の年月を数えた。答えは寂しい笑顔だった。 

「ロスタイム、十三年よ」

「要はマインドだと、思うが」

「今の私は、アイデンティティークライシス《自己喪失》。だから・・・」

「じゃ俺が処方箋を出そう。自然に触れる。とりわけ森がいいな。カリフォルニアのジャイアントセコイア、ニュージーランドのフィヨルドランド、ハリーポッターで名を馳せたディーンの森、日本の屋久島など他にもいっぱいあるが、とにかく行ってみる。歩いてみる。頭は空っぽにしてさ。考えて」

 うつむいた。決断は早く、真剣な眼差しが言葉になった。

「ジョー、決めたわ!やる!やってみせる!」

 パーティー嫌いが、上流社会のわずらわしさへ、決別した瞬間だった。

「即答は本気の証拠。俺も応援する」

「ありがとう、本当にあり・・・」

 言葉が詰まるや、世話焼きが決めを吐いた。

「ガブリエルが反対すれば、俺が叱る。真実愛してるのかと」

 美貌がクシャクシャになった。大泣きしそうだ。構わず外へ出た。そしてドアを閉めるとき、ニッコリ笑い、注文が。

「スケッチブック、忘れないで」

 ジョーが去った。高揚した気持はヘンリーの名演で鎮め、星空へつぶやいた。 

「女神からも愛されるはずだわ」 


  序章3 女神アテナ  

 

 200X年2月26日日曜日異次元α

 未明の空が明け始めたころであった。ボーイング777機の客が、夢とも現実ともつかぬ世界にいた。

『ようこそ、ジョー・コダカ』

「俺の名を?こ、ここはどこだ?」

『異次元αです。あなたにお話があって、ここへ招きました』

 頭を白くしている者が、藍一色の宙を眺め、二次元?三次元?四次元と想像を巡らせ、阿呆らしくなり、声の主を探した。が、直ぐに無意味だと悟った。再び、安寧に満ちた清らかな声が、天地の定まらぬ彼方から聴こえた。

『わたくしは、ゼウスとメティスの娘、アテナ』

「アテナ・・・」

『祖先は、宇宙の虚無を嘆き、星々を創造したガイア』

「ギリシャ神話、神話は事実だったのか?」

『ええっ。星々の誕生を思えば、楽に信じれるはず。違いますか?』

「確かに。ところで、心地良いギリシャ語の主は?」

『ほっほっほっ!神の姿を見たいと』

「愚問だった。で、話とは?」

『五年後アフリカ北部が、十七年後日本南部が、壊滅状態に陥ります。ただし、まことの歴史ではと、言い添えますが』

「ん?じゃアテナが変えるの?」

『地球に関心を示したのは、ジュラ紀だけ』

「恐竜か〜、あんなのといっしょじゃ・・・てことは、誰が?」

『αに招いたのですよ』

「俺が?さっぱり分からん」

『あの冬の旅。健気なわらべは、二度死にました』

「高熱、ヒグマ・・・そうか、そうだよな〜」

『人の運命には手を貸さない、このαの掟も、あの時だけは破った。故は、父ゼウスの再来を、死なせてはいけないから。コダカ、神々が黙認したのは、たぐい稀な気と力を見た証し。如何でしょう、わたくしとともに宇宙の悪と戦いませんか』  

「うう〜ん、買いかぶってる気もするけど・・・よしっ!分かった!人間が果たしてどこまでだが、アテナに恩返しするよ」

『明るく自信に満ちた声。意を強くしました』

「声に体は比例してないけど?」

『如何な巨人でも、シータ(θ)の子孫には、赤子も同然』 

「シータ?子孫?興味が尽きんな、話して」

『恒星プシー(Ψ)2501の終焉は、遠く離れたメタンの惑星を破壊、生物を根こそぎ死滅させしました。けれど、螺旋の巨木、シータだけは子孫を残したのです。リンゴに似た、透き通った無数の実を、宇宙に放って』

「それが地球へ・・・いつごろ?」

『遥かな過去とだけ』

「・・・壊滅状態とは?」

『根が地底を揺るがす。地上では?考えるまでもありませんね。悪しき略号、イータ(η)が、最初の厄災を。次にファイ(φ)が』

「素朴な質問。どうして分かるの?神だから?」

『αから望めば、地球の時間など、ほんの瞬き』

「てことは未来は過去・・・詳細が知りたい」

『それはいずれ。地球のゼウス。くれぐれも命を大切になさって』

「仕事が仕事だからねえ」

『意味の無い忠告でしたか。ほっほっほっ!』

 目が覚めた。薄墨色のアマゾンから、雲上の青黒い空を見渡し、客は、面白い夢だと思った。そして・・・五年後。


  第一章 女神伝説 

   

  1 アフリカの叫び


 200X年8月21日火曜日コンゴ民主共和国

 ジャングルが暗くなってきた。道とは名ばかりの、樹々の隙間を縫う、六人の行進が止まった。雲と風で先を読む先頭のガイド役が、天を仰いだ。木の葉がざわつく巨木の上に、青空は無かった。また鳥のさえずりが、遠く離れていくことも知った。スコールの前触れであり舌打ちすると、気配に敏感なシンガリの学者面が声を掛けた。「ビヌワ。迷子になったとか」

「なれば地獄行き。コダカさん、スコールが来ますよ」

「みたいだな。シリル。まだ歩けるかい?」

「七十の老いぼれを憐れんでるのか」

「無理しなさんなって」

 様々な植生が、地表を覆うジャングル。極限の体力を要求されるこの行進の中で、とりわけ、反政府自治評議会議長、シリル・ボランバの疲労は、遥かに限界を超えていた。当然である。まる一昼夜のジャングル逃避行なのだから。

「ビヌワ、あれを見ろ!ポイント20の旗じゃないか?」

 二番手のハマウが、目を凝らし、前方の暗がりを指差し叫んだ。半信半疑の列の目が追った。枝に巻き付いた白布が、ぼんやりだが分かった。列がばらけ駆け寄った。ハマウの肩にビヌワが乗り、白布を広げた。褪せかけた数字が、ゴール前だと励まし、歓声が上がった。それへ稲妻が水を差した。

「これはもう嵐です」と、ビヌワが言い、

「とびっきりのね」とコダカが脅し、避難場所を探した。 

 重い足取りの列が、大蛇の群れにも似たツルの陰で、肩を寄せ合い腰を落とした。口も体も重い者たちに、試練の時が始まった。

「コンゴ名物、花火大会に、嵐のオマケ。楽しめるな」

 青い稲妻がコダカの薄笑いをフラッシュバックのように照らし消し、直ぐさまいかれたスピーカーの如き雷鳴が、脳天を直激した。そしてそれを合図に、世界有数のカミナリ多発地帯が、気紛れショーを見せつけた。先ず天地をつなぐ稲妻が、ジャングルのそこかしこを切り裂き、緑の闇を暴いていく。稲妻は遠く近く、怒声を発する。時に怒声は、ずば抜けた巨木に、断末魔の悲鳴を上げさせる。悲鳴は滝のような雨と、天を揺さぶる風にかき消され、ジャングルは生ある物のざわめきに埋め尽くされる。そして木の葉を伝い地に落ちた雨は、無数の命を繋止める水たまりとなり、ショーはあっけなく幕を閉じる。と、思えたのだが・・・。

 ジャングルの寸劇を堪能したコダカが、老雄にタオルを渡しながら、前日の悪夢を口にした。

「シリル、ほんとにフツ族だったの?」

「我らツチとは犬猿の仲だ、見れば直ぐ分かる」

「しかし、タイミングが良過ぎる」

「そこだ、ワシを悩ませておるのは」

「素手で望んだ極秘の和平交渉だろ。スパイがいたとか」

「考えられん。が、従者を五人も死なせた。徹底的に調べる」

「テーブルを用意した大統領は信用出来るのか?」

「素直に頭を下げたんだ。カビラの息子は信じる」

「大国が黒幕。考えられんか?」

「資源が欲しいだけの日和見主義者は、風を読む。風をだ」

「なるほど。ゴマ市を制圧したシリルが、M23《ツチ族主体の反政府武装勢力》と手を組めば政府と対等だからね」

「コンゴの東は地下資源の宝庫だ。風が我らに吹いているとなれば、姑息な真似などせん」

「であれば、やはり北部フツ。封じ込む必要があるな」

「うむっ、なんとかしよう」

「LRA《ウガンダ反政府組織》とは?」

「力は認めるが、少女を集めて妾にするような、破廉恥な連中とは手は組めん」

「シリルなら首をはねる」

「ああ、即刻はねる。コダカ。ワシの目が黒いうちに、なんとか平和にしたい。子どもたちのためにもな」

 タオルをきつく絞る老雄の手が、決意に満ちている。その仕草へ気合いが入ったか、コダカが頬をしばいた。ご馳走をよばれたヤブ蚊が、泥と誇りにまみれた顔に赤い化石を残した。それを見た老雄がタオルを渡した。嵐の名残りも一緒に拭いさった。生き返った。端正な顔の赤く腫れた化石の跡をかきながら、老雄を励ました。

「隣のルワンダは奇跡の復興を成し遂げた。カガメ《ルワンダ大統領》の功績は認めるが、やはり国民だと思う。特に内戦時、海外へ避難した二百万ものツチ族だ。そこでスキルを身に付け、帰国し復興の原動力となった。シリルは人一倍教育熱心だ。第二のルワンダにして欲しい」

「無事、ポイント21へたどり着けばな」

「任せてくれ。さあ、出発だ!」

 忍耐、苦労も、先が見えれば大したことでは無い。安堵感が重い足取りを軽くし、ポイント21が、そこまで迫ったころだった。突然、熱を帯びた光と、度肝を抜く雷鳴が、地表を揺るがした。列がとっさに頭上を見上げた。巨木がまともに落雷を食らい、真っ二つだ。コダカの血相が変わった。

「ヤバイ!」

 引き裂かれた幹が、くすぶりながら、怨嗟の叫びを上げ、低木をなぎ倒し、襲いかかって来た。これに瞬時の判断に秀でた者が、岩場を指で差し怒鳴った。

「飛び込め!」

 木の葉をむしり取り、大粒の水滴を落とし、幹の片割れが岩で砕け、への字に折れ曲がった。雷ショーの締めは、恐怖の実演である。首をすくめ岩の間から這い出た一行が、受難の残骸を見た。不運と無念が、青い煙と死した匂いを漂わせていた。 

「シリル、怪我は?」

「大事ない。やはりコダカだ。礼を言う」

「礼よりあの反応。さすが英雄だ」

「お前の世辞は聞き飽きた」

 仏頂面が口元をゆるめ、従者を確かめた。緩んだ口元が真一文字に結ばれた。目が残骸の下へいった。青白い煙の中に、逃げ遅れた犠牲者の足があった。  

「エピーが犠牲になった」

 兵を失った者が、そばに寄り膝を着き、目頭を押さえ言った。  

「嫁さんや子供に、なんと言えばいいかな」

 喉の奥から絞り出した悲痛な声に、コダカが慰めた。

「エピー。君は議長に先を譲った。その忠義を、俺は誉め讃えたい」

 思い当たったか、反政府軍指揮官が腰を上げた。

「皆で歌おう」 

 シリルの褐色のささくれた指が、死者へ向いた。ビヌワが涙を拭き、死者の足元に座った。ボロボロに傷んだ靴を脱がせた。そしてシャツを脱ぎ、その上に掛けると、大地が育んだ声で歌い出した。老雄も残りの兵士も加わった。歌と言うより語りに近かった。素朴で、温かい、不思議な合唱が、緑の深い闇に同化し、死者を弔う歌は終わった。

 緑の天が次第に低くなり、視界が開けて来た。ポイント21の旗も、労せず見つかった。歓喜が草原へ出た。味方の村が目に入った。人影はあるが妙にひっそりとしていた。コダカがリュックから双眼鏡を取り、村の様子を窺った。土壁に葉っぱをのせただけの住居が、寂しく写った。

「敵がいるのか?」

「俺の勘ではね」

 シリルが双眼鏡を奪い取り、百メートル先を丹念に見た。 

「考え過ぎじゃないのか。みな村の連中だ」

「子供は?」

「・・・おらんな。それが敵と関係あるのか?」

「小さな村は子供が走り回ってる。どこもだ。てことは、人質にされてる、そう思うべきだ」

 キャリアが吐いた言葉に、真実味があった。 

「どうする?」

「ひと芝居打つ」  

 涼しい顔が、リュックから中身を取り出し、道端に並べ終った。次に、戦闘服を脱ぎ、サファリジャケット、ズボン、靴下、革靴と決め、二丁のベレッタM9《イタリア製自動拳銃 》をベルトの前後に差した。そして仕上げに露出した肌をきれいにし、銀縁丸眼鏡を掛けヘルメットを冠った。また財布から百ドル札を抜くことも忘れ無かった。

「ハンターと言うより、観光客だな」と、苦笑いの長老へ、

「シリルがそう思うのであれば、作戦は成功したようなもの。村に車は?」と双眼鏡を受け取り、質問で返した。

「ぼろいが、トラックがある。走るかどうかは、まっ、運次第だな」

「安心しろ、俺は運のいい男だ。フランス語は?」

 ポカンとしていたビヌワが、指でマルを作った。

「じゃ、片付けて来る」

「一人でか?」

「アカデミー賞が取れるような人がいる?」

「演技力か。残念だがおらんな」

「だろ。それじゃね」

 従者たちの祈るような視線に送られ村に向かった。途中、道端で昼寝を決め込む、縞模様の小さな蛇を捕まえ、ベルトの袋に放り込んだ。サファリルックの観光客が、それらしくで村に入った。勘が正しいことは、気配で分かった。第一に、押し殺したような重い空気。第二は、やはり子供がいないこと。そして第三は、派手なTシャツに地味な半ズボンの男たちと、体に色とりどりの布地を巻きつけた女たちだ。いずれも表情は普通じゃない。

 ここに来て戦闘態勢へスイッチオン。演技派が周囲を見回し、適当に声を掛けた。

「水が欲しい!水をもらえないかな」

 流暢なフランス語に応えがない。予想通りで、石像のように佇む人々へ、更に真顔で問い掛けた。

「どうかしましたか?」 

 三軒の家から計五人の男がヌ〜ッと現われた。ゴリラも怯みそうなコワモテが、ライフルを手に、ぞんざいに応えた。

「なにもんだ?」   

 やはり待ち伏せだった。コダカの知略が始まった。

「フランスの観光客でね。水が切れてもう喉がカラッカラッさ」

 ゴリラのごつい指が、近くの老人に向いた。にわか通訳がフランス語を適当に訳した。意味が飲めたか、とんでもない事を口にした。 

「この先にカバの溜まり場がある。ちと臭いがな。ヒッヒッヒッ」

 終いのヒッヒッヒッまで訳したが、降って湧いたご指名に、発音は明らかにビビっている。

「済まんな。じゃ」

 歩こうとした。

「おい、ちょっと待て!」

 通訳が少し遅れ、コダカの背にしわがれ声を飛ばした。

「なに?」

「おまえ一人か?」

 筋書きにない質問だ。

「ガイドがいるけど、木陰で昼寝。起こすのもかわいそうだろ」

「日暮れに昼寝するガイドがいるか?」

 連れの四人が首を横に振った。危うい展開だ。しかし希代の演技派は、空を見上げ余裕で返した。

「スコール、カミナリ、ひどいめにあったからねえ、疲れたんだろ」

 実際そうであればリアリティーは文句なし。疑念の目が、今度は欲に変った。 

「すげえ双眼鏡だな」

 筋書きに戻った。

「欲しい?」

「ああっ」

「ちょうどよかった。重くてねえ。上げようかな」

 金持ち芸が双眼鏡を手にした。山場だ。

「日本製、七百ドルだよ」

「七、七百。すげえなあ。よしっ、俺がもらう」

 差し出したゴリラの手は無視、仲間へ言った。

「この人さあ、隊長なの?」

 興味津々の通訳老人へ、口を揃え抗議の奇声。詰めだ。 

「やっぱり平等が一番。おばちゃん!お碗を五つ、貸してくれない」

 名優の注文に尻のデカイ女が、そそくさと中へ入り、コダカの要求を持って出て来た。五つのお碗が壊れかけの台に並んだ。

「このどれかに百ドル札を入れる。当てた人がお金も双眼鏡も貰える。どう?」

「金もくれるのか。よし、決まった!」

 他も目を輝かせ、通訳も羨ましそう。

「当然、おたくが最初。ボクの悩みを解決してくれたからね」

 ゴリラが胸を張った。

「列の端に並んで。そう、始めるよ。後ろを向いて」

 欲に目が眩めば、素直、従順である。笑いを噛み殺し、腰のベレッタを抜き取った。威嚇の一発、そして間を入れず、

「芝居は終った!」と怒鳴った。 

 直ぐ様、薄笑いの通訳が続き、横一列が、一杯食わされたと地団駄を踏んだ。

「て、てめえ・・・」

 首にねじこまれた銃口へ、ゴリラが歯ぎしりした。

「そう怒るな。隣りの男前。俺を見な。ただし、銃は後ろだ」

 従順な胸に今度は腹のベレッタを押し付けた。

「一度に三人は無理だ。構わねえ、撃て」とゴリラ。

 筋書きから、また外れた。  

「それじゃ、おまえの体を楯にするか」

 通訳が首を捻り、ボソボソ言った。

「うううっ・・・」

「返事がない。よしっ!今から三秒数える。その間に銃を捨てろ。全員だ。さて四秒目は?」 

 恐怖の限界を知る話芸に、分厚い唇が震えた。

「ワン、ツー」

 トリガーの指が徐々に動いた。ゴリラも男前も、眼が充血し、真っ黒なツラから油汗が吹き出ている。

「スリー!」

 命が欲しいと、歪んだ顔が言った。ゴリラがライフルを放り投げた。その上に次々と他の銃が重なった。途端に重苦しい空気が消え、村が歓喜に包まれた。男たちが銃を拾い、女たちは奥へ走った。土埃の中から子どもたちが出て来た。村が賑やかになった。日常の光景に笑みがこぼれた。

「こいつ等を縛り上げてくれ。大事な連中だ。後で兵士が連れて行く。それからシリル議長が林の入口にいる。呼んで来てくれ」 

 子供たちの追走を尻目に、おんぼろトラックが村を出た。子ども大好きのコダカだ。機嫌が悪かろうはずがない。口笛を吹き、ハンドルの手を変え、袋から蛇の入ったビニール袋を取り出した。

「こいつは二番目のアイディアで使う予定だったがね」と解説し、蛇の頭をなぜた。

 ビヌワがクスクス笑いながらおちょくった。

「運のいい人にあやかりたいな。分かるでしょ」 

「毒蛇?バカ!それを早く言え!」

 声を引きつらせ、あわてて外へ放り投げた。それを見た、端の老雄が冷やかした。

「咬まれても死なん、コダカは」と、ポーカーフェースで締めた。  

 コンゴとルワンダの国境線が、街中にあるゴマ市。かつてはルワンダ紛争、現在は内乱の中心地であり、老議長の屋敷もこの地のキブ湖畔にあった。だが、静かな高原の湖畔も、今夜は様相が違った。一日遅れの帰還を心配し、駆けつけた住民は数知れず、元気を拝顔するや、振る舞い酒をグイッ。結果、酩酊者が続出、そのまま本番へ突入した。こうなれば、必然無礼講。いつの間にか主役の恩人が主役になり、バナナ酒を蒸留したカニャンガ攻勢をひたすら断ることに。そして、ようやくのお開きムードに、ヤレヤレと思えば、半ば寝ている老雄が、伏兵となった。

「ところでコダカ。あの娘をみてくれ」

 シリル同様の酔眼が、向かいに座る子ども大人へいった。

「孫か?」

「そうだ。一緒に寝たいと言ってる。寝てやれ」

 主役の目線に気が付いた。よほど嬉しいのか、手を振った。 

「断る。明日一番でアビジャンへ行くんだ」

「せわしない男だ。まあいい。まあいいが、ワシはもう一度カビラと会う。しかし、お前がルワンダを誉めたからではないぞ。孫や子どもたちのためにだ。だから、お前も・・・孫と寝ろ」

 だからの先が、意味不明のシリル。大の字に沈没した。そして深夜、孫が離れへやって来た。青い素っ裸が、主役の布団へもぐり込んだ。意に介さぬ気だるい声が尋ねた。

「いくつ?」

「十三」

「おじさん、とっても寝相が悪いから、風邪引くよ」

「大丈夫、いつも裸だもん」

「じゃあ子守歌、歌ってあげる。日本の五木の子守歌。当然、知らないよねえ」

「うん、知らない。聞きたい、歌って」

「ええ~っと、ええ~っと・・・歌詞が思い出せない」

「それじゃ、わたしが学校で習った歌、聞いて」

 しかし一番の途中から、お休みのセレナーデと、なってしまった。


    2 神の国異変 


 200X年8月22日水曜日コートジボワール

 到着時間はその日の運次第と言うアフリカの飛行機。だとすれば、この日のコダカは、当人の看板通り運のいい男だった。わずか三十分遅れで、コートジボワール国、フェリックス・ウフエ・ワニ国際空港に姿を見せたからだ。その運のいい男が、腕時計を一瞥し、急ぎ足でロビーへ出た。人波に立つ女が、背伸びし、手を上げ振った。笑顔で応えた。大統領秘書官、アケレ・ネザが、三年の歳月を越え、大人の女を身につけ、控え目な微笑と抱擁で迎えた。

「待たせたな」

「ぜんぜん。アフリカだもの」

 政治の安定、経済の発展、人の流れと、平和な時代を肌で感じながら、熱気でむせ返る外へ出た。官邸公用車に乗った。

「反乱、選挙、暴動、戦争、平和、よくもまあって、思ってるでしょ」

「どこも同じ。アフリカは」

「うふふ。そうね」

 モスグリーンの民族衣装に同じ布地のヘッドタイを付けたシックな装い。褐色の光る肌。聡明さを沈ませた切れ長の黒い瞳。忍耐を学んだ厚目の唇と、小鼻からもれるフランス語。そして小柄な体から漂う、不思議な体臭。コダカにとって、アフリカの女は、いつもミステリアスであった。

「結婚した?」と、素朴な質問。

「FGM《女性器切除、アフリカの風習》からは逃れられたけど・・・」

 語尾は濁したが、想像はついた。

「男女平等。遠いな・・・」

 男尊女卑のアフリカ。アケレの憂愁を讃えた黒い瞳が、コダカの胸を切なくした。話題を変え、メールの内容に触れた。と言っても至極単純なものであったが。

「シンプルの裏に思惑あり」

 含み笑いが運転手の背中へ問い掛けた。

「ねえ、ビジー。大統領は、ああ見えて心配性よね」

「はいっ。我が国の七不思議のひとつです」

 山のような背中が笑った。

「と言うことはだ。難問を拒否されたくないから」

「皆あなたのような人だったらな」

「こっちは命がかかってる。で?」

「ある物を取って来て欲しいの」

「場所は?」

「地底」

「地底?ふ〜ん・・・畑違いだが、俺に頼んだのは?」

「詳細は官邸で話すけど、要するに、あなたしかいないってこと」

「相当ヤバそうだな」

「ええっ、正直言って」

「冒険家は?」

「破格の報酬も断られた」

「だろうな。命の次だもんね、金はさ」

「断る?」

「ここまで来たのに?」

「それじゃ、引き受けて・・」

「アケレのためにもね。キザか、わっはっはっ」と、豪快に笑い飛ばした命知らず。

 公用車が東西に広がる潟の最初の橋を渡った。コートジボワールは、内陸部のヤムスクロが法的な首都だが、実質は海岸部のアビジャンである。この首都は潟で分断され、公用車は最後の橋を渡った。そして十分足らずで、ココディ地区にある大統領官邸へ滑り込んだ。

 秘書官応接室へ通され、懐かしい藤椅子に座った。アイスティーを飲みながら、時の流れと無縁な白い部屋を見渡した。天井のプロペラ扇風機で目が止まった。飾りになっていることを、エアコンの心地良い風で知った。次に、新型テレビ、窓辺のシックなブーゲンビレアと移り、席を離れた。壁の肖像画の前に立った。カリスマの大統領が、三年前と同じように、この国の未来を案じていた。 

 ノックで我に帰った。ドアが開き席へ戻った。アケレに続き、鼻っ柱の強そうな白人女と、額のしわに曰くありげな老人が入って来た。組み合わせに妙があり、ヤバイ仕事に興味が膨らんだ。次いでお茶目秘書官補佐が、水と資料を並べ、ちょい笑わせ出て行くと、アケレが立ち上がった。そして対面へ目を送り、流暢なフランス語で幕を開けた。

「こちらがジョー・コダカさん。経歴は話したわよね。安心して。引き受けて下さるそうよ」

「見掛けと実績が重ならんか。わっはっは!まっ、よろしく」

 いきなりのジャブ。場の雰囲気が和らいだ。二番手は笑みに含みのある童顔女。 

「DGSE《フランス対外治安総局》のミシェル・コレットさん。我が国とお国のために、汗を流されてる方よ」

 メゾン・ラビ・カイルー 《パリオートクチュール、ブランド名 》のアクティブなパンツルックが颯爽と立ち上がった。握手を交わしながら、笑みの裏を言葉にした。

「お噂は上司から」  

「上司って、クリストフ・オベール?」 

「ウイッ。親友だとか」

「君がクリストフの、ふ〜ん、奇遇と言うか、世の中狭いな」

 意外な関係も、アケレにとっては好都合、ラストは爺さんだ。   

「バンダマ渓谷州、クト村のロベール・ミヴィアさん。前村長の弟さんで、カカオ農園の経営者。無理を言って出席願ったの」

 険しい目が話の先行きを物語っていた。本題に入った。 

「説明するわ。昨年、国連の地質調査チームが、希少金属の鉱床を発見した。場所はクト村の神の山。衛星画像を解析した結果、かなりの埋蔵量であることが分かった。でもそれからが大変。先進国の官民が、歩調を合わせて官邸詣で。これではと、大統領と村長が話し合い、フランスへとなったんだけど・・・」  

「土壇場でパアッ!村長の手の平返しで」 

 アケレの歯切れの悪さを、フランスエージェントが、悔しさむき出しでカバー。これにミヴイアが、顔の前で手を振った。

「昔から敬い崇めてる山だ。村長は当初から反対だった。それが大統領に押し切られた。その反動が、孫の急死。誰だって神の山の因果だと思う。しかし、開発が与える計り知れない富を思えば、少なからず未練はある。未練はな」

 その方策が自分であり、この会議だとジョーは思った。ミヴィアから悩める斜め向かいへ目がいった。軽いジョークを飛ばした。

「しかし、なんでも屋だな、DGSEは」 

 カチンと来たか、栗色ショートカットが逆立った。 

「国のためならなんだってする。バカにしないで!」

 ジョークもタイミング。迂闊だったと恥じた。

「これはいかん。配慮が無かったな。失礼だった、謝る!」

 素直に頭を下げた男と、むくれ女。アケレが風向きを変えた。

「話を進めましょ」

 資料からキャビネサイズの写真五枚が並んだ。ざっと見て唸った。緑の大地から引き剥がされた、お椀を伏せたような赤い禿山に。

 順に見ていった。最初の二枚は寄りと引きの空撮で、寄りでは穴ポコだらけの山の表面が、引きでは、近くの謎めいた湖と、緑と赤の境界に張り巡らされた黒い鉄条網が、なんとも不気味。次の二枚は地上からで、これも寄りと引きがあり、寄りでは、鉄条網の入口に立つ二体の鳥のトーテムポールが、引きでは禿山の麓に翼を広げた鳥の絵が、ここが神の山だと暗示している。そして五枚目は、トーテムポールの間から伸びる一筋の白い線が、鳥の足元へ飲み込まれる様は、実に不可思議だった。

 アケレが禿山を指で叩いた。 

「ミッションはこの山の地底から御霊を持ち帰ること」

「御霊?」

 ミヴイアがトーテムポールを差し、話しを継いだ。

「後で言うが、これと同じ物が黒曜石を加えてる。それが御霊だ」 

 アケレの顔が曇った。人間観察の達人がニヤリとした。

「何かあるな。遠慮はいらん」

「その昔は、村人が神の山を守り、今は・・・地雷が」

「地雷が番人、ふ〜ん」

 ミヴイアが赤い広場をなぞり、人生が刻まれた真っ黒い顔を歪め説明した。

「兄じゃが村長の折りだった。神の山から湧き出る川に、砂金が見つかった。アフリカ版ゴールドラッシュが起きた。しかしちっぽけな川だ。金の亡者どもが洞窟へ向かうのは、時間の問題だった。そこで兄じゃが先手を打った。洞窟に至るそこかしこに、地雷を埋めたんだ。いや、埋めまくった、だな。私財を投げ売ってまで」 

「そいつは厄介だな・・・他には、と言っても、禿げ山、急峻じゃな」

「一つだけ方法がある」

 初耳か。洞窟から白い線をなぞる骨太指へ、女二人が身を乗り出した。

「神の国の入り口へ通じる地雷のない道が、この細い線だ。兄じゃが作った。亡者対策の心の支えだと言ってね。幅十五センチ。しかし、五十メートルを思えばな」

 絶句したエージェント、困惑の秘書官と、交合に見たゲスト。あるアイデアを確認すべく、洞窟内部へ話しを移した。

「地図とかは?」

 頷いたミヴィアが、丸めたA3サイズのコピーを、テーブルに広げた。子どもが真剣に描いた、そんな奇妙な絵に視線が集まった。それぞれの表情を楽しみ、面白そうに続けた。

「古代の絵だ」

「古代って、いつごろ?」と、アケレ。 

「二千年前。有名考古学者のお墨付きだ」

「何処で?」と、ミシェル。

「何代か前の村長が、村の祠の中で見つけた」

「根拠は?」と、コダカ。

「よく見てくれ。トーテンポールが、写真のとそっくりだろ」

 じっくり比較、指でマルを作った。が、疑問もあった。

「アフリカ、地底。二千年も木が持つとは思えん」

「伝承では百年に一度取り替えていた。外、中ともね。それが五百年前から外だけになった。

「理由は不帰の世話人たちだ。恐らく、地底で何か異変が起きたんだろな。まっ、それ以来神の国は、その名の通りになったんだが・・・」

「じゃ地雷はいらんと思うが」

「噂など年がたてば風化する」

「まあね。それで」

「家族の捜索願いで表に出たんだが、かなりの亡者どもが、洞窟へ侵入していた。悲惨だった。そいつらに加えて、友人、警察、救助隊、皆帰らずだからね。兄じゃの決心も頷けるだろ?」

「なるほど。入口の大きさは?」

「行くのか?」

「約束は守らなきゃね」

「アケレの言う通りだな・・・大人が両手を広げ、余裕で通れる」

「御霊までの距離は?」

「北へおおむね七千歩。四キロくらいかな」

「絵では入口からしばらくは真っ直ぐだが、どうだろ?」

「信じるしかない」

 地図を睨む黙考のゲスト。次の言葉で周囲を唖然とさせた。

「決まった。バイクで突破する」

「気は確か!」と、ドングリまなこのエージェント。 

「ああっ、確かだ。タイヤ幅十五センチ以内であればね」

「止めて、ジョー。無謀だわ」と、あきれた秘書官。

「自信がなければ、こんなこと言える」 

 間が空いた。秘書官が目を閉じ開いた。微笑が決断だった。  

「分かったわ。で、いつ?」  

「俺も時間が無い。明朝七時で頼みたい」

「私も行く!」

「いくつだ」

「二十六」

「いい度胸だ、気に入った。ミヴイア、他には?」

「言うまでも無い。帰りだ。どうする?」

「十歩くらいは、サーカス芸とは言えん」

「ヘリね。待機させる」とアケレが、打てば響いた。

すかさずミヴイアが、上着から二つ折りのレポート紙を出した。そして広げながら言った。

「伝承の丸写しだが、果たして今はだな」

 親切に感謝し丁寧な文体を追った。アケレも顔を寄せた。大統領側近の陰謀に対し、様々なレクチャーを受けた日々が、脳裏に浮かんだ。が、甘く切ない気持も、ミシェルの声で我に返った。

「地底。得体の知れない相手。装備はどうする?」

「まさか鎧、兜ってわけにもいかんだろ。それなりでね」

 秘書官が電話口へ立った。お茶目が現れ、アケレと出て行った。ミヴイアも席を離れた。向こう見ずが、読み終えたレポートを隣りへ渡し言った。

「暗記してくれ、新人君」

「またバカにしてる。三年目よ」 

「十年未満はみな新人」

「例外もあるってこと、思い知らせるわ」

「もっと肩の力を抜け。ピンチにアウトだぞ。はっはっはっ」

 得体の知れないのは、洞窟でなく、この男だと新人は思った。悔しい表情がアドバイスを鼻で笑い、レポートを追った。すると、字面の影に我が立っていた。ピンチにアウトの救いを求める我が。

 翌朝、陽が昇ると同時に、作戦は始まった。村人総出の準備は、〇七時完了、鉄条網が取り除かれた。赤土を走る幅十五センチの白いライン、洞窟と見て、近くのミヴィアへ怒鳴った。

「ラインに石ころは?」

「心配いらん。地雷を埋めるとき取り除いた。サッカーができるくらいにな」

 言葉通り正面はきれいな広場だった。助走区間に歩を進めた。何度も試走し、手のうちに入れたホンダへ股がった。ボトルの水を口に含んだミシェルが、残りはジョーに渡し、後ろへ続いた。空ビンがアケレへいき、キュッと結んだ唇が開いた。

「御霊を持ち帰れば、すべて丸く収まる。だけど・・・」  

「俺の看板、知ってるだろ」

「でも、最初から命がけ。胸が張り裂けそうなの。ジョー、約束して。必ず、生きて帰るって」

「当然だろ。次の客が迷惑する」

 硬い笑顔が下がった。戦闘服のペアが不気味な神の口を睨んだ。でかいリュックを背負ったミシェルが、前の背にへばりついた。排気量250CCのガソリンタンクを、ヘルメットを、叩いた。気合いが入った。スピードを上げれば安定は増すが止まらない。下げればふらつくギリギリの選択、時速七十キロ。わずか三秒足らずの決死の勝負だ。

「ウイン!ウイン!」

 ホンダのエンジン音が、雄叫びが、異様な熱気を切り裂いた。修羅場の鬼へ、ミシェルが耳元で怒鳴った。

「弟、妹、扶養義務があるのよ!天国へ行かせたら呪ってやる!」

「親は?」

「ノーコメント!」

「訳ありか、泣かせるな」

 防水ランプ点灯。ヘッドライト点灯。クラッチを蹴った。助走区間三十メート。スタート!いっきに突っ切った。白いラインにピタリ乗った。アケレ、ミヴィア、村長他、固唾をのんで見守る中、ホンダが矢の如く疾駆。アッと言う間に洞穴へ吸い込まれた。成功だ!嵐のような拍手、歓声が沸き起こった。しかし喜びも束の間だった。ブレーキ音の先が、ヘッドランプの光が、地図にないおおらかさを教えたのだ。

「道が極端に狭くなってる。くそ〜、ハナからいい加減だとはな」

「二千年前でしょ。バイクなんて想定外よ」

「想定外か。わっはっはっ!おもしろい」

「おもしろくない!どうするのよ」

「うむっ?そうか。やっぱり看板はだてじゃないな」

 ハンドルが壁にくっつきそうになった。 

「どうせ運の悪い看板でしょ」

「もっとポジティブになれ」

 ねあかの言う通りで、グリップが擦れ出すと、後は成りいき任せ。ガリガリと悲鳴を上げ、異臭と煙を放ちながら、静々と止まった。

「滑り出しは、晴れのち曇りってとこか」

「どこがよ。晴れのち大雨だわ、能天気さん」

 ガソリンタンク、ハンドルと歩きながらの会話である。ジャンプ。カビ臭い道へ降り立った。そして重いリュックを受け取ると、ハンドル上の軍靴を眺めぼけた。

「マドモアゼルなら手は貸すが、まっいいか」

「失礼ねえ。で、帰れなくなったら?」

 勢いで飛び降りた不機嫌顔へ、顔を突きだし、一発かました。

「今言うか〜」

「極めつけの能天気ね」

「でなきゃとうの昔に廃業してる」

「私だっらとうの昔にクビよ」

 気分を害したうえにあまりの楽天振り。ふくれ面が対面を押しのけた。そして緩やかな坂を、狭い道を、勝手に下って行った。しかし苦笑いの数歩目で、鼓膜に突き刺さる鳥の鳴き声と羽ばたき、ミシェルの絶叫が足を止めた。さっそくのピンチだ

「それ見たことか」とぼやき、助け舟になった。 

 コウモリの大群だった。背のリュックが腹へいき、怪力が顔まで持ち上げた。斜めにして突進。ヘッドランプが、しゃがみ込む女を発見するや、前へ行き壁になった。「引き返すか!」

「笑われたいの!」

「筋金入りの強情っぱりめ。よしっ、俺の後に続け」

「のっけから借りを作るなんて」

「新人だろ。生意気言うな!」

 平和な洞窟の無頼だと思ったか、コウモリの攻撃は執拗だった。加えてヒステリックな大合唱。前傾姿勢の逃亡は、ほうほうの体で終り、道が二手に別れる地点で一息ついた。

「先が思いやられるな、ったく」

「私のことで?」

「食えんヒヨッコ。ケガは?」

「大丈夫よ」

 戸惑う表情は無視。肩を掴んだ。露出した皮膚に目がいった。

「知ってるかい。コウモリが怖いってこと」

「知らない。教えて」

「ふくれっ面は問題なし。首前も。首後ろは、いかん、やられてる。感染症の病原体を保有してんだ。人類に災わいをもたらす」

「やっぱり・・・ヒヨコね」

「そう思えば、勉強する、進化する。よしっ、これでOK」  

 謎の洞窟だ。色んな虫がいるだろうとの救急セット。さっそく役に立った。 

「足手まといになるんじゃないか、そんな気がして来た」

「自覚したんだろ」

「だからよけいに」

「まっ、先は長い。俺みたいに能天気でね」

 リュックから地図を取り広げた。アフリカ専用腕時計、ブライトリング・ナビタイマーを重ねた。

「何度見ても帰りたくなるが、先ずは天女の泉から」

「胡散臭い名ね。男だったらきっと油断するわ」

「俺もその口。方角は北、ピッタリ。さて伝承はいかに」

 おどけてリラックス、更に狭い道へ入った。

「待って。賞味期限切れの名はやっぱり女。先に歩くわ」

「懲りとらん」

 新人の自覚が芽生えたか、二歩目で足が止まり、道を譲った。ゴツゴツ坂が終わるころ、水の匂いがしてきた。カビ臭くさに慣れた鼻が急ぎ足にさせ、道行きの圧迫感が去ると、名に負けぬ光景が目に映った。駆け足が青い池の淵に立った。幻想世界に忘我、岸辺の岩に座り込んだ。そして、出足の向こう意気はどこへやらが、隣りに座り、声を上げ、落し、言った。

「きれい!夢のよう・・・いやな女でしょ」

「誰だってとっかかりは構える。気にするな」

 思い遣りが沈んだ心を晴れさせた。

「ヘリから見たけど、神の山は蜂の巣みたいだった」

 天井のおびただしい穴と、横たわる神秘へ、写真がだぶった。

「もしくは、ロマンを内に抱く、巨大な軽石の山でもあった」

 素は朗らかなパリッ娘が、始めて笑った。純天然ミネラルウォーターに喉が鳴りすくった。舌先が嘗めようとした。 

「知らん所では、先ず疑う。見ろ、底を」

 人骨が散乱していた。水が指を伝い、滴り落ちた。 

「いろいろ教わりそう。ジョーと呼ばせて」

「溝が少し埋まった。じゃこの先は英語だ」

「ウイッじゃない、OKよ」

 覇気の戻った目が、周りの壁へ釘付けになった。

「キラキラ光ってるけど、何かしら?」

「金だろ」

「ゴルドラッシュの夢の果てが、この池の白骨だなんて」

「水・・・いや違うな。もっと恐ろしいものが潜んでいた?」

「でも、どう見ても天女の泉。想像もつかない」

「ミヴィアレポートの結論は、七千歩の中に幾多の悪魔が潜んでいる。善人ぶった悪魔がと。この洞窟がなぜ人を不帰にするかの推論だろうが、俺はそれに付け足す。手を替え、品を替え、襲って来る悪魔だと。であれば、ここの天女は性悪女かも」

「どう言う意味?」

「美しいものほど毒がある」と、横目でニヤリも、

「毒がなければ、生きていけない」と、サラリ交わされた。 

「名言だ。うむっ?」

「どうかした?」

 どこからか虫の羽音が聞こえた。視覚、聴覚とフル回転。迫り来る金属的な音に、脳が黄信号で応えた。そして雲にも見える黒い集団で、赤信号が点滅した。急ぎリュックから必要な物を取り出した。集団が個として、おぼろげながら見えて来た。手早くポーチへ詰め、ベルトに付けるや、目が個を察知。思いっきり怒鳴った。

「やばい!ミシェル、泳げるか?」

「泳げないエージェントなんて・・・ハチだわ」

「いや、アブだ。やっぱり性悪女だった」

「毒があるもんね」

「似てるな、誰かさんと」

「もう、抜けた」

「ほんと?」

 ここに至ってこのやりとり。まだ余裕がある。池に浸かった。三十歩ほど先の対岸と、なりを見て、余裕がぼやいた。 

「この格好。近くて遠いな」

「やるしかない」 

 金属音が急かせた。防水ランプOFF。深呼吸二度、潜った。平泳ぎがとんでもなく重い。ヘルメット、戦闘服、軍靴。ハンデはやはり過酷だった。それが女であれば何おか言わんやである。おまけに怪し気な水。底に散乱する人骨。そして見上げれば、水面に群がる天女の番人ども。絶望に近い希望が、素潜り五分の記録を持つ男が、しゃかりきに泳ぎまくった。

 一分経過。やるしかないが遅れ出した。ベビーフェースが歪み、遂には酸欠だと、指を上に向けた。餌食はごめんだと首を振り、自分の口を指した。よほどに苦しかったか、飛びついて来た。唇を押し付け、むさぼるように息を吸った。肺の酸素があらかた空になった。今度は提供者がピンチだ。水面へ目がいった。フル回転の思考回路にアイデアが閃いた。

 ポーチの中のベレッタを握った。水面付近で数発撃った。黒い影が乱れた。上出来だ。今度は水面から出した。縦横無尽に撃まくった。渾身の反撃に怯んだか、黒い集団が散り散りになり、いっせいに天井へ昇って行った。水面がにわかに明るくなった。歓喜のミシェルが抱きついた。そのまま浮上した。

「上司が言ってた。シークレットサービス《米国大統領の護衛を任務とする機関》なんて目じゃないって」

「職を間違えたな、クリストフは」 

「セールスマン?うふふ・・・ごめんね」

「どうした?」

「最初はバカにしてたの」

「この体じゃね。どう?岸まで競争とか」

「望むところよ」

 マジで競泳となり同着、横になった。両者胸が波打ち、鎮まるのを待った。やがて、ミシェルがそっと身を起こした。ジョーの顔を覗き込んだ。滴が顎から滑り落ち、慌てて拭い、そしてもっかの関心を口にした。 

「独身は聞いてたけど、恋人は?」 

「明日が分からないのに?それより、ほら、また来るぜ」

「もうたくさん!」

 バク転二度。天女と別れた。回廊に響く軍靴の音が、次第に弱くなり、行く手を阻む青白い煙で、静かになった。

「ちょっとした雲海ね」

「じゃ、正真正銘の天女になってみる?」

 笑みで応えたミシェル。右足を上げ、はてなで引っ込めた。

「危うく騙されるところだったわ」 

「ウラを読む。しかし、素直さは無くさない」

「ヒヨコが、ニワトリになってもでしょ」

 笑みが天井へいった。背筋も寒くなるクラックの奥に、極彩色の小鳥が飛び回っていた。淡いブルーの瞳も仰ぎ見た。

「きれい!あれこそ天国ね」

「クラック《壁や岩壁などの裂け目》は地獄だけどさ」

「差引ゼロ。で、ゼロの位置を確かめるとして、入口からの距離よねえ。時計は意味ないし、歩数計を忘れたのはミスだったなあ」

 先生が脳みその端から歩数を引っ張り出した。

「だいたい二千三百歩。さっきの池を入れて約1・4キロ」

「すご〜い!普通に歩いてないのよ」

「アフリカで飯食ってるからね」

 納得、敬服のミシェルが、胸ポケットから地図の入ったポリ袋を取った。広げ、それらしき絵をなぞりながら、

「距離はまずまずだけど、感じはだいぶ違うわね」と、疑いは隠さない。

「作者が神に近い人で、芸術家だと思えば?」 

「お気楽思考の真骨頂ね。新人も真似しなきゃ」

「楽しみだ。さてこの霧みたいなガスだが」 

「臭いもないし、きれいだし、なんかわざとらしいな」

「いいぞ、その調子」

 道に散乱する石ころへ目がいった。拾い集めた。雲海の向こう岸から手前へ順に投げた。

「音がしたのは地面。しなかったのは?」

「クラック・・・」

「地獄へのカモフラージュさ、このガスはね」 

「性悪女の次は、ペテン師」

「そう。何がなんでも神の元へは行かせるかってさ」

「思いっきり飛躍した想像。敵はこの世に存在しない魔術師だなんて。いかが?」

「自然を自在に操る天界のマジシャン。笑いたいが、笑えんな」

 足元のガスへ薄く笑うと、大人っぽさが少し見えてきた童顔が、頭上のクラック、雲海と見て、推論を口にした。

「ジョー、ペテン師の奥行きは、上と同じじゃないかな」 

「ひと皮むけた。試そう。ミシェルは待機だ」

 小石をポケットに詰め、膝丈のガスを探るように、そろりと足を踏み入れた。壁伝いに進み、手前の裂け目の真下でストップ。奥の裂け目を頭に入れ、小石を数個投げた。コツンと音が返った。クラックの幅が分かった。やはりミシェルの推測通りだ。次に壁面を見上げ、じっくり観察、そのまま視線を下げた。背丈より頭一つ上でストップ。真横に走る影を触った。思わず口笛が鳴った。

「栄光への脱出」

「昔の映画のタイトルだけど」

 ご機嫌先生へ歩き寄った。

「カニの横ばいで進む。ざっと八メートルは、ちょい骨だが」

 背伸びし、隙間にぶら下がり降りた。脚力には自信も、腕力は今いちがぼやいた。

「素潜りから懸垂へ。もう〜」

「やってみて」

 必死も十二回目でギブアップ。

「戦闘服、軍靴、脱ぐ?二キロは軽くなる」

「じゃ裸で?」

「冗談さ。いずれにしろ選択肢は二つ。横這いか、笑われるか」

 即答した。

「よこばい!がんばる!」

 カニ歩きが始まった。爪先が地面から離れ宙に浮いた。歯をくいしばり続いた生徒が、二分の一、三分の二と過ぎ、不安が現実となった。動きが止まった。半泣きが絶望を洩らした。 

「もうダメ!完全ガス欠」 

「残り二メートル弱。それでも?」

「二メートルがはるか彼方に見える」

 ジョーが余力を確かめた。並みの男ではない。仮りに限界を感じても、それを補うだけの精神力がある。懸垂で試した。顔が楽に手先を越えた。それへ涙目が、必死に哀願した。

「恨んだりしない。先へ行って。お願い、お願い。御霊を村長へ届けて。フランスのために。フランスの・・・」

「弟、妹は?ミシェル、俺に見捨てるは無い。ウェイトは?」

「恥ずかしい」

「バカ!早く言え」

「五十三」 

「身長百七十。恋人合格だ」

「うれしいけどあの世じゃ・・・」

「ぐずぐず言わない。背中のベルトだ。ベルトにしがみつけ」 

「ええっ!無理、無理よ!」

「一秒が生死を分ける。早くしろ!」

「うん、うん。ごめんね、ごめんね・・・」

 消え入りそうな声が、総重量五十四キロが、背にぶら下がった。途方も無い負担に歯を食いしばった。十本の指先が極限の苦痛に耐え、脅威の試練がまった。

「しゃべっていい?」

「ああっ、気が紛れる」

「故郷が知りたい」

「アラスカの北の果て」

「なっとく」

「くそっ、やっぱり戦闘服が重いな」

「脱ぐ。服も軍靴も」

「後ろでゴソゴソされてもな。それに裸じゃ気が散る」

「気が散って欲しいけど」

「マドモアゼルだろ。口をつつしめ」

 楽にさせたい必死のジョークが一蹴された。ミシェルの瀬戸際の葛藤を救う、嬉しい叱責だった。縞模様のずれが目の横に迫った。だが、約束の履行と、人間愛だけが支えた指は、死人の色であり、余力はついえていた。目を閉じ開いた。手の届く目標が、ぼやけて滲んだ。そして、動かぬ指先への絶望感が、背の荷物にも伝わった。 「ジョー、ありがとう。もう一歩だけど、手を放す。手を・・・」

「待て。死ぬのは、あがいてからだ」 

 あがいた右手が、隙間のわずかな凹凸で止まった。ベルトの金具が引っ掛かると、そう思った。

「あがくって?」

「腰のベルトさ。外してくれ」

「分かった」

 右、左と手を放し腰へしがみついた。急いでベルトを取り、上へ渡した。金具がスッポリはまった。ベルトが垂れ下がり、ミシェルがぐいっと引っ張った。

「空中ブランコね」

「そう。一か八かのブランコだ」

 背中が放れた。体がいちどきに軽くなった。ブランコの妨げにならない位置まで後退、運を見守った。時計の振り子が振幅の頂点に達した。手を放した。ミシェルの気合いが、空洞に響き渡った。

「バジー(GO)!」 

 スレンダーボディーが宙を飛び、雲海へ飛び込んだ。一瞬の静寂。そして、祈りの絶叫。 

「ミシェル!」

 呼応するが如く、ガスが盛り上がり、笑顔が現れた。

「お尻半分、クラックだった」

 やれやれと息を吐き、荷物から解放された指が前進。ベルトを口に加え、残りを難なくクリアした。雲海を抜け、平らな岩でへたり込んだ。若きエージェントが、暗い表情で語った。  

「自負してた。わたしは強い女だって。こっぱみじん。本当は、福祉施設で働く予定だったの。でも、事情でお金を稼ぐ必要に迫られ今の仕事に。順調だった、なにもかも・・・そして今、うぬぼれ女はコテンパン」

「女の腕力だ。そう悲観するな」

「アケレが言った。心の広い、とっても優しい人だって。その通りね」

「上司と同じだな」

 短かく演じた、できの悪いセールスマン。生徒が吹き出した。

「俳優もいける」

「でなきゃ、今ごろ空の上。さて、次なる仕掛けは」

 きつい下り坂がグングン温度を上げ出した。加えて湿度も容赦せず、不快指数はうなぎ上り。そのうえ足元がヌルヌルでは、道はいっこうにはかどらず、全身汗まみれの苦行が続いた。

「ジョー、先に行って」

「えらい。よく耐えた。褒美にこれをプレゼントする。座って」

 ゴム製のスパイクが、胸ポケットから出た。こなれた手つきが軍靴へ装着した。

「カメがウサギになりたいときの必須アイテム。痛い?」

 目深のヘルメットが揺れ、お人好しの肩へいった。戦闘服へこぼした汗と涙が言葉になった。

「痛くない。痛いのは忍耐を学ばせた・・・愛のムチ」

 その鞭でしばかれた生徒が、へっぴり腰の手を取った。恋人気分が苔むした壁で終わった。

「行き止まり・・・」

「感じはね。地図」

 九死に一生を得た地点から道をなぞった。羽を広げた鳥と、たたんだ鳥の絵で止まった。

「イメージ的にはこれね」

 ジョーがベルトのアーミーナイフを抜いた。スイス、ビクトリノックス社製の優れものであり、ミシェルも知っていた。そのナイフが真ん中の苔を剥いでいった。鳥の彫刻が姿を現した。

「絵と同じだわ」

 ナイフを持つ手が壁を押した。びくともしない。今度はナイフをくわえ力任せに押した。隣りが援軍になった。二度めのトライで壁の一部が動いた。そして更に押すと、光が輪郭を縁取り、また押すと、人が通れる隙間が出来た。体を滑らせた。ギョッとして立ちすくんだ。累々と下り続く岩山に。

「まるで悪魔の通せん坊」

「言っただろ。何がなんでもって」

「ほんと。で問題は、この通せん坊が二千年前にあったかよね」 

「楽天コンビだろ」

「うふふ、探しましょ」

「先ず、ここを確かめてからだ」

 七、八歩先の岩山を見た。異臭を放つ濁り水が、岩を伝い、地に落ち、うっすらと湯気を上げていた。

「どこかに火山ガスが隠れてる」

「次は毒ガスか〜。急がなきゃ」

 視線が岩場の先端にいった。急坂で転がりもせず踏ん張っているのが不気味であり、奇妙でもあった。更に先を追った。天地が交わる面はギザギザに割れ、鬼の口同然だった。次いで地表へ目を落した。黄色いぬめりの中に、砂漠のオアシスのような苔が、帯状に下っていた。険しい顔がそのまま奥へ移り、一考、しばらくしてクイズに出た。

「二千年前のヒントが二つある。さて?」

「謎解きは得意なのよね〜。ちょっと待って」

 通せん坊から地表と、満遍なく見渡し、ニッコリ笑った。

「色の違う岩。そこが通路みたいな苔。行きましょ」

 緑を踏み、十五歩目で足が止まった。

「ここだけが深成岩、あとは全部火山岩。ってことは、通せん坊さんは五百年前に現れた。それと苔。道として利用されてたのね。でも気持悪いなあ、これ」

 天井から垂れ下がる様々な植物。その一つをかき分け、中を覗こうとした。慌ててジョーが襟首を掴み引き戻した。ヘルメットのムカデに似た虫は、指で弾き、手の平を見て言った。

「ヒルだ」

「ええっ!今度は吸血鬼。もう〜」

 声を引きつらせ摘んだ。引っ張った。が、びくともしなかった。

「無理すれば皮膚が剥がれる。これだけデカイとね」

 久しぶりのご馳走か、食事中にしてはパンパンだった。ナイフを手にした。ミシェルの手の甲を眼前に持っていった。

「痛いぞ、我慢だ」

「うん、なんとでもして」

「腹が座った。俺のタイプだ」

「ほんとにほんと?」

「ほんとにほんとだ」

 ナイフが巧みに滑り込んだ。まな板のヒヨコが目をつぶった。

「元外科医の寿司職人。信じれる?」 

「日本人?」

「いや、イギリス人。ボクなら利益が倍になるってさ」

 笑いたいが笑えないパリジェンヌ。きれいな手の平と、痛みを忘れさせたウイットに、胸がいっぱいになった。

「念には念を入れよ。日本のことわざだが」

 そう言ってヒルの跡に口をつけ、つばを吐き出し、また親心。 

「こんな所では臆病になる。さてと」

 感無量が言葉になった。

「世界も知った。凄い人がいるんだって」

「DGSEに営業部、あるはずないか」

 ともに笑い、元の位置に戻った。オアシスが下る位置まで歩き、表面を触った。横に来たミシェルへ言った。

「下を見に行くが、ここも臆病になる。スパイク」

 従順な生徒が、すかさず返した。

「先生、わたしは?」

「待機」

 ヌルヌルはスケートリンクで、こっちはスキー場だと頭をかき、途中の窪地で膝を折った。真向かいの岩山先端下を凝視した。これだけの傾斜でなぜ踏みとどまっているのか、理由が分かった。上へ叫んだ。

「ミシェル、銃は!」

「持ってる!そっちっへ行く!」

「それじゃ横になって転がれ!」 

 目を白黒させた生徒、恐る恐る横になり、緑の坂を転がり始めた。尻で滑ればキャッチャーが大変だ。腰をすえ、ガッチリ抱き止めた。思わず本音が出た。 

「サイズが悲しいのは、こんなときだな」

「けど女は嬉しい。お礼にキスさせて」

 ほっぺを向けた。が、唇へいった。純な照れ屋が、さり気なく生徒を下ろした。そして巨岩どもを支える小石に、驚愕が声になった。

「あいつが岩山を支えてる。奇跡だろ」

「って言うか、不思議。ジョー、まさかあれを?」

「ぶっ壊す」

「こっちへ来そう」

「当然、策がある」

 察しの早い生徒が、窪地の角へ寝そべった。 

「ピンポ〜ン。で、俺はミシェルの上。狙撃は?」

「オリンピックに出たいわ」

 足場は窪地で比較的平ら。狙撃には悪くない。自信家が拳銃を構えた。大風呂敷がウソでないことは、姿勢が示した。  

「出るべきだ」

 その気になったか、正面から斜交いに構えた。八歩先のソフトボール大に照準を合わせた。

「オリンピックは石。俺は接地面」

 二丁のベレッタが火を噴いた。音で命中は確かだ。しかし、巨岩の圧力に耐えるつわものだ。根性が違う。

「ダイヤモンドも真っ青ね」

「宇宙から飛んで来たとか」

 五年前の面白い夢が、突然、脳裏に現れた。だが、今はそれどころではない。 

「接地面でいこう」

「賛成」

「じゃここは任せる。アブ退治で撃ちまくったもんね」

「プレッシャーだわ」

「オリンピックだろ」 

 豹の目がアタック開始。徐々に小石が沈んでいった。そして十六発目の弾丸に、ラストの弾 丸に、

「坊や、神の国へ行かせて」と声を上げ、願いをぶっ放した。

 通じた。小石が沈み、巨岩が踏みつぶした。間髪入れず、ど迫力が転がった。見る間に鬼の口へ飲み込まれた。ドミノ現象が起こった。岩同士がぶつかりあい、空洞を震わせ、我れ先にと鬼の口を目指した。だが頂上の岩だけがヘソを曲げた。小岩を蹴散らし、狙いすましたように襲いかかって来た。とっさにミシェルが反応した。ジョーが被さった。自らの意志か。地獄への使者が段差の角を削り取り、上の背中数センチをかすめていった。無事と幸運が、地をえぐる音で分かった。反射的に顔を上げ、振り返った。悪魔が無念の叫びを上げ、鬼のご馳走となって行くのを見届けた。

「背の皮一枚だった。やはり運がいいな」

「神様がついてるのよ、きっと」

 アラスカ少年の奇跡が重なった。

「アテナ・・・」とつぶやき、窪地を上った。

 ガランとした広場に立った。三十歩ほどか、対岸に通路があった。置き去りにされた小岩、崩れた古代通路と見て、奥の壁から溢れ出た新しい岩山に、鼻孔がへばりついた。微かな異臭がタマゴの腐った臭いだと、嗅覚に訴えた。鼻をつまみ怒鳴った。

「硫化水素だ!逃げるぞ」

「もう、なんなのよここは」

 最悪に備え、ハンカチがマスク代わりになるや、膝を落し、両手を差し出した。

「抱っこだ」

「ジョーク?」

「マジ。スパイクなしじゃどうにもならん」

「迷惑ばかりかけて・・・」

「早くだ!」

 横に抱き上げた。崩落から免れた古代の岩の間に立った。対岸の洞穴が見えた。荷物、小石となければ三、四秒だが、どう見ても十秒は必要。百メートル十一秒が、記録に挑戦するが如く、スタート。鬼の形相が、抜群の脚力が、水しぶきを上げ、幾多の虫を踏みつぶし、走りに走った。目の端が逃げ惑うネズミへいった。ガスに飲まれた。もがき苦しんでいる。いよいよ剣ケ峰だ。刺客が迫った。早い早い。恐るべきスピードだ。出口は直ぐそこ。やみくもランナーとハナ差勝負になった。ガスの波が、大きく膨らんだ。襲いかかった。 

「いっかんの終わりか」

「ジョー、ごめんね」

 とそのとき、洞穴から、さ〜っと一陣の風が拭いた。刺客が行く手を阻まれた。後戻りだ。

「助かった!」と、九死に一生が吠えた。

「神風とはこのことね」と、ニッコリが腕から降りた。

「逆だってある。急ごう」

 古代人が作ったのだろうか。急坂をくり抜いた、石段の前で立ち止まった。

「いっぷくだ。さすがの俺も・・・」

 驚異の先生が、大の字にぶっ倒れた。 

「トライアスロンね、命がけの・・・もう迷惑のかけっ放し」

 ひざまずき頭を垂れた生徒に、曰くありげに笑った先生。

「向こう見ずが鉄人レースに挑戦した」

「当然一着よね」

「二着。前のおやじに並んだら、妻が悲しむな、で」

 いかにものエピソードに、ミシェル、頬をなで、 

「先生らしい」と言って、額にキスした。

「さて、次のお楽しみは」

「このままもう少し」

「もしもだってある」

「恥ずかしい限りね。ジョーのことを思えば」

 いにしえの石段、十八段目で、無数の発光体が目に入った。 

「まるでホタルね」

「それにしちゃデカ過ぎる」

 残り三段を上り、気は抜かず、そばへ寄った。

「蝶よ!きれい!」

「ルミネセンス《 発光現象》昆虫の大発見だが・・・」 

 奇怪な群れへ、ジョーの警戒信号が、黄色の点滅を始めた。

「羽はブラックと言うより、マリンブルーね」

「カラスアゲハと似てるが、いずれにしろ要注意」

 地図を見て地面に伏した。ヘッドランプの光の先が、T字路だった。左が本線であり、右は袋小路だ。しかし、点線が気になった。終点が神の国であれば。

「左はいないが、右はこいつらで埋まってる。ここは様子見だ」

 五歩バックした。見とれていたミシェルが、少し遅れた。数羽が頭上へ飛来した。灯りを消した。青く光る鱗粉が目に映った。赤信号が点滅した。

「鼻だ!鼻をふさげ!」

 だが、時すでに遅かった。わずかな鱗粉が、呼吸器官へ侵入していたのだ。

「く、くるしい。息が、息が・・・」

 膝から崩れ落ちた。俊敏がうつむき飛びついた。 

「毒蛾だ。またどじった。くそ〜っ」

 我への叱責と、ミシェルの頬をしばいたのが同時だった。返事無し。頸動脈も手応え無し。 

「ショックで心臓が止まった。まずい、まずい」

 戦闘服の襟首をつかみ、右手一本で引きずった。ホコリを振りまいた数羽が、仕事は終ったと言わんばかりに、群れへ戻った。

「なぜ追ってこん、なぜ・・・」

 疑問を胸に半死人を寝かせた。先ずBLS《一次救命処置》のうち、人口呼吸で対応した。口から呼気を吹き込んだ。しかし虚しく時が過ぎ去るのみ。あきらめ、胸骨圧迫に変えた。戦闘服の襟を広げた。Tシャツの膨らみの間に、重ねた両手を当てた。一分間に百回。強く、速く、絶え間なく圧迫した。額の汗が、死体然の口元、首へ、ポタポタ落ちた。

「こんなときは、やっぱりアレだな」

 苦境に立つ男が、レトロな歌を口ずさみ出した。ヤングマンだ。ノリが良く、心臓マッサージにはうってつけ。気分一新。単純、根気作業に弾みがついた。

 七分経過した。が、微動だにしない。死がリアリティーを持ち、蘇生の懐疑心が、絶望感が、歌を止めさせた。そして冷酷な現実にも気付いた。階段を這い上がって来る執念の臭いに、

「帰って来れんはずだ」と罵り、上目で前を窺った。

 上下にヒラヒラしてるだけだった。

「こいつらはほんとに敵なのか」

 得体の知れぬ相手に、とりあえずはほっとし、あの世へ逝ったかの青白い顔を見つめた。薄皮一枚の生が、もう神の領域だと悟った。自然に救いの声が闇に向った。 

「アテナ、お願いだ。俺と同じように、この女を助けてくれ。二十六才で終わらせたくない。頼む、頼む」   

 すると記憶の中の永遠が、絹の声が、ギリシャ語が、心へ響いた。   

『奇跡なんてありません。想いだけです。命を救うと言う』

 呆然が、一心不乱になった。アテナの声に励まされ、再び人工呼吸にトライした。しばらくして微妙な気配、変化が、口中にあった。鼻孔に甘い息も感じた。頬が膨らみ、へこんだ。胸も見た。ふくよかな隆起が波打ち始めたではないか。蘇った!胸骨圧迫千三百回、人工呼吸三度目の事であった。

 しかし疑問が。胸に問うた。

「アテナ、あれは現実だよね」

『ほっほっほっ。今日もコダカに手を貸しましたよ』

「じゃ、あの風は・・・」

『覚えてますか、イータのこと』

「うむっ。アフリカだったな」

『事に依れば・・・女が目覚めましたね。後ほど話しましょう』

 痺れた両膝に苦笑い、立ち上がった。夢うつつの瞳がその動作を追い、力ない手が、はだけた上着を触った。  

「息ができなくなって・・・どうなったの私?」

「説明は後だ」

「この臭いは、さっきの」

「動けるかい?」

 ヘッドランプが上下に揺れ、横座りになった。ジョーが続けた。

「とにかく脱出だ。いいかい。これしかないのアイデア」

 身づくろいの動作が止まった。

「今度はおんぶ。俺の上着を広げ、傘代わりにして突破」

「甘えてばっかり・・・」

「戦友だろ、気にしない」

 練習開始。 

「もっと広げる。下向き。手は服の内側、絶対。顔は俺の背中」

「どう?」

「OK!バッチリだ」

 振り向いた。刺客が臭いを増してきた。前門の虎、後門の狼と睨み、覆面男が思いっきり叫んだ。

「ミシェル!アテナ!行くぜ」

「アテナって、恋人?」

「みたいなもんだ」

 複雑な顔が頬を寄せた。ヘッドランプを切った。密度のましな壁際を選んだ。気合いもろともパンダ親子が大群へ突進した。すかさず蛍光体が揺れ動いた。知恵があるのか、行く手の頭上へ殺到した。いっせいに羽をばたつかせた。凄まじいホコリの凶器が傘に降り注いだ。更に群を離れた数匹が、親パンダの鼻先で踊った。左手でそいつらを払い落した。変わりにミヤゲが目に入った。痛い!強烈だ。ポロポロ涙がこぼれた。しかしウサギの眼はへこたれなかった。紫の足元が漆黒に変わるまで、脇目も振らず、一心不乱に走った。そして全暗黒で、疾走、逃走劇は終った。ヘッドランプON、ゆるり反転し、傘代わりを上げた。驚いた。 

「見ろ。ガスの餌食なのに、連中はピンピンしてる」

「うそ〜。どう言うこと」

「分からん。それに考えてもね」

 頷いたミシェル、注意深く戦闘服を取り、そっと捨て地に降り立った。点けたヘッドランプが、親パンダの眼へ行った。

「真っ赤!大丈夫?」

「涙ポロポロだったからさ、そのうちね」

「目にキスする。早く治れって」

 母親の心境へ、苦笑いが返した。

「顔、洗ってからね。分かる?」

「あっそうか。恐い鱗粉だもんね」

「そう。さて次はどんな手で来るか」

「楽しみね」

「エージェントらしくなった」

 カラ元気が道を急いだ。その後奇妙なことが起こった。捨てた上着から鱗粉が離れ、それが自らの意志であるかのように、二人の跡を追ったのだ。   

 二度目の分岐に当たった。足元にあの印があった。

「見て。鳥の彫刻よ。うふふ、地図はいらないわね」

「ちょうどいい、身体検査だ。ランプ消して」

 治りかけの目が、鱗粉の光る場所を探した。

「ヘルメット、OK。上着だが、裾がさ。ズボンも・・・だけどねえ」

「うふふ、照れてる。かわいい」

 鉄人も形無しだ。そして続きは、やんわりと。

「スポーツパンツだけど、気が散る?」

 色っぽい目線が、さらり交わされた。

「俺のハーフパンツを進呈する」

「いいの?見たところ、ジョーはオール・オア・ナッシング《何もない》よ」

「アフリカの場合、トランクスは水着仕様。ヘルメットは?」

「合格ライン、ギリギリ」

 慎重に靴、ズボンと脱ぎ捨て、ナイフを手に取った。Tシャツを切り裂き丸めた。ブラックトランクスオンリーが、胡座を組み、靴磨きになった。見下ろす幸せ女が、比類なきパワーを叩き出す体にみとれ、しんみり言った。

「きれい。ギリシャ彫刻みたいな・・・ねえ、わたしは死んでた?」

「まあね」

「ジョーは、生涯の恩人」

「上司がちらついちゃってさ。よしっ!これで大丈夫」 

 涙目が、極めつけのお人好しと、ピカピカの軍靴を見て、笑って、黙って、そして、子どものように泣いた。

 道が次第に明るくなり、広くなり、ちょっとした谷で終った。  

「まるでジグゾーパズルね」

「得意?」

「私が?」

「聞くだけ野暮か」

 氷を張れば、アイスホッケーがやれそうな空間の、地層の複雑な凹凸を見渡し、ミシェルが地図へぼやいた。    

「芸術はいいから、普通に描いて欲しかったな」

「プリミティブ《素朴》な芸術は、単純に考える」

「考えた末、またひどい目に会う」

「あたり」

 吹き出した。

「地球の芸術には慣れたけど、やっぱりビックリね。どうする?」

「ここから見れば正解が分かる」

「目がまわって、頭に入れて、で中へ入ったら」

「迷子になったとか」

「もう〜。でも見て。パスしても、あのクラックが跳べるかな」

「ここで心配してもね。しかしペテン師もしつこいって言うか。パズルの終りにあんなのを用意するとはさ」

 弱気が谷を下り、城塞に似た壁の隙間からスタート。ヒマと根気さえあれば、けっこう楽しめるゲームも、そのうち苦痛になって来た。完全に、嫌気がさした。

「とんでもない迷路ね。でも尊敬する、大自然を」

 ギブアップが、役立たずの地図へ八つ当たりし、放り投げた。それを根気が寝そべって眺め、閃きの問い掛け。

「ミシェル、ここまで来たら?」 

「芸術はいらない」

「そう。神の国は直ぐそこだからね。それに思い出したんだ」

「えっ!なになに?」

「ミヴィアレポートさ。迷える者は、フラミンゴに従え」

「・・・岩の色、オブジェの色」

「正解!さあ、行こう」

 再チャレンジ。暖色系の色彩とフラミンゴのピンク。類似色だがそれも慣れでクリア、ミヴィアに感謝し迷路の谷を突き進んだ。やがて見事なクラックが見えて来た。

「パスしたわね」

「問題はこの先」

 微かに聞こえる川のせせらぎが小走りにした。真っ二つに裂けた地層芸術に驚嘆、足を止めた。両端に礎石らしき物があった。

「橋の跡よね。木造だったのかしら」 

「幅は五メートルあるなし。マーブル《大理石》じゃ重くて大変さ」

「考えるまでもないか。跳ぶ!」 

 手前から向かいへ、斜めに走る断面を覗き込み、ちょい思案。せせらぎから吹き上がる風に、自信を問うた。

「いける?」

「元陸上よ」

 屈伸運動へコーチ面が冷やかした。

「足の筋肉は笑ってるけど」

「ブランクを差し引いても?」

「陸上は毎日やってこそ。幅跳びの記録は?」

「六メートル。よしっ、決めた。裸で勝負する」

「もう裸に近いけど」

「一グラムでも。分かるでしょ?」

「分かるが、ヘルメット、ランプぐらいはさ〜」

 さっさと脱いだ。知的フェースに紫のスポーツ下着は、妙に悩ましくも、カモシカの脚は、色気とは無縁だ。照れ屋が頭をかき、服、靴とひとまとめ、向かいへ放り投げた。瞑想後、男性誌の表紙も飾れる容姿が、不安を蹴飛ばした。礎石を踏み、下がった。見て見ぬ振りが考え、クラックの縁へ行った。パサパサの土をすくい、向かいと見比べた。結果が横やりになった。

「俺が先に跳ぶ。なんたって、相手が相手だからね」

 原始迷路にマッチしたトランクス男が、ヘルメットを叩き、助走。礎石を蹴った。気合 一発、宙へ飛んだ。高々と飛越、体操選手並みの回転技も披露し、縁より二メートルも先に降り立った。そして、おおよその着地点を足で確かめGOサイン。それへまんまる目が、

「ダチョウも真っ青ね」と、見たことあるのかだが、

「記録に挑戦するわ!」で、ダチョウを忘れ、女豹になった。

「意気込みは買うが、ここはリラックス。OK?」

「力みはノンね。ウイッ!」

 母国語の気合いが、カモシカのフォームが、地を駆け、歯をくいしばり、ジャンプした。ギリギリの着地点だった。

「セーフ!」

 前のめりに倒れた生徒へ、歩きながら拍手、手を貸そうとした。しかし、それは許さないと、亀裂の淵が崩れた。

「キャア!」

 わずか数センチ先の白い指が、悲鳴とともに消えた。

「ミシェル!」と土埃へ叫んだ。

 悲痛な声がクラックにこだました。光沢の美しい弓状岩盤の上を、滑り落ちてくのが見えた。間髪入れず飛び降りた。寝そべった。滑り台気分に先は地獄へじゃないと踏んだ。先端まで来た。思いっきり宙に投げ出された。一回転、水柱が上がった。底は砂。水深はヘソあたり。上流そして 下流と見渡した。今にも泣き出しそうなカッパと目が合った。胸がいっぱいか。半泣きが、がむしゃらに泳ぎ、抱きついた。 

「私のために・・・」

「背中、尻、痛くない?」

「優し過ぎる・・・ちょっと。でも大丈夫」 

 場所が場所だ。念のためチェック。

「傷は・・・変だと思わない・・・無し」

「変って、何が?」

「罠イコール死だ。けど生きてる」

「地獄どころか、むしろ天国よね」

「てことは?」

「あれは偶然・・・」

「そして、もしかしたら」

 コンパスの北が、キッチリ上流を差した。続けた。 

「狭いのに圧迫感のなさ。水と空気の匂い。そして、ゆったりした流れ。間違いない、神の国はきっとこの先にある」

「じゃあ不運は、実は幸運だった」

「その通り。お手柄、お手柄」

 照れ笑いが、甘え声で言った。

「ご褒美に、背中へ乗っけて?」

「今度はカエルか。OK、乗ってくれ」

 バネの利いた平泳ぎは、乗り心地満点。ルンルン気分も足をばたつかせ、親子ガエルが清浄なる川をさかのぼった。そして、存在の実感が乏しくなったころだった。S字カーブの終りで、薄青いものが目に映った。ランプの照度を上げた。

「なにかしら・・・滝?滝だわ」

「すると、行き止まり?」

 小ガエルが離れた。平泳ぎがクロールへ変わり、ピッチが上った。流れのそばまで来た。天井のわずかな隙間から湧きだす水は、幅、高さとも三メートルほど。飛沫の音さえ愛らしい。これにミシェルが、開き直ったか、畏敬の念を込めのたもうた。

「滝じゃなく、天国のカーテンね」

「ポジティブシンキングの極みだな」

「でもない。絶望感が言わせたの」

「新人卒業目前、あきらめるな」

「淡白なのよねえ」

「面白いエージェントだ。うむっ?」

 それは瀑布の右側だった。出入り口にも似た穴から、大小様々な岩が、水辺へ重なり落ちていた。

「悪意、作為、丸出しね」

「じゃ迷路もここへ出るってことか」

「やったあ〜!」

「喜んでいいけどさ、神の入口がねえ」

「探す」

 潜った。両壁、滝壺と明かりを追い、浮上。

「砂利と岩だけでなんにもなし。がっかりだわ」

「まっ、じっくり・・「面白いエージェントだ。うむっ?」

 それは瀑布の右側だった。出入り口にも似た穴から、大小様々な岩が、水辺へ重なり落ち

ていた。

「悪意、作為、丸出しね」

「じゃ迷路もここへ出るってことか」

「やったあ〜」

「喜んでいいけどさ、神の入口がねえ」

「探す」

 潜った。両壁、滝壺と明かりを追い、浮上。

「砂利と岩だけでなんにもなし。がっかりだわ」

「まっ、じっくり・・・うむっ?」

 鷹の目があることに気付いた。ランプを切った。

「ほら、カーテンの右が、微妙に明るいだろ」

 ミシェルが水をかき分け歩み寄った。水の色が夢想家にした。

「神の衣に触れよ・・・」

「それだ!」 

「ミヴィアレポートの終わりの方だったかな」

「衣とは瀑布のこと。てことは?」

「滝の裏側」              

 くぐった。これぞ神の道か。苔むした三角形の回廊が目の先にあった。水辺から上がり六つの石段を上った。一辺二メートルほどの底辺に立った。ほのかに明るい突き当たりの壁にドキッとした。不安顔が走った。

「行き止まり」と、壁をこずいたジョー。

「こんどこそ」と、早くもあきらめ気味のミシェル。

 だが、ピンチにめげないのがこの男。明かり取りの天井を見上げニヤリとした。

「光は壁の向こうから取ってる。だとすると?」

「この壁はドア、扉」

「そう。見事なトライアングルロード。まさか行き止まりなんてね。押してみよう」

「待って。もしもよ、この先が神の国だったら、多分、ひざまずいて、鳥の絵に一礼、それから入ると思うの」

「部長も夢じゃ無い」

「クリストフは?」

「デスク没収」

 想像したか、ニッコリ笑い座り込んだ。苔のかたちに胸が踊った。目と指で推測した。左右対称の二羽の鳥だと。 

「ジョー見て!きっとここを押すのよ」

 横から盛り上がった場所をなぞった。 

「局長も夢じゃ無い」 

「ヒマだもんなあ〜」

 と言いつつも、絵柄の中心を押す力はめいっぱい。お陰で彫刻が動き出した。開いた!祝福のハイタッチ。四つ這いで向こうへ出た。しかし霧で何も見えず晴れるのを待った。しばらくして霧が昇り始めた。地面も見えて来た。宙に浮いてる感じだ。 

「ひょっとして崖の上だとか」 

「ひょっとしなくてもね。さて、神の国はいかに」

 モヤが谷底へ落ちる五、六歩先へ、そろり寄った。対面の柱状摂理岩体に入った柱状の割れ目の壁が、そこから吹き出る瀑布、噴水が、幻では無くなった。

 真下に目を移した。キラキラ光る幾筋もの小川、中州に咲乱れる白い花、見たことの無い緑の樹々と、まさに神の国に相応しい光景が、二人から言葉を奪った。そして上空を仰いだ。波打つ白布が透けていき、消え、紺碧の空が現れた。

「沈黙しかないな」

「うん・・・」

 迷路の谷がアイスホッケーのリンクなら、こっちはサッカーができる広さ。地質学的には雨水、地下水による大寝食だろうが、それにしてもどれほどの時間を要したかである。が、謎は謎として楽しむ方が賢明で、水の豊かさに注目した。自然に空撮写真が頭をよぎった。

「神の山の直径は?」

「約三千二百メートル。ちなみに、標高は五百二十」

「近くに小さな湖があったよね」

「ええ、八百メートル北に」

「しめて四キロ、七千歩」

「じゃ神の国は湖の下」

「けど青空がねえ」  

「安心して。真ん中に穴の開いた小山があるわ」

「ほんと?じゃそこから覗いた人は?」

「ミヴィアの受け売りだけど、気違いになる山だって」

「俺もそう思う」

 笑いながらトーテムポールを探した。探したが木立が邪魔だ。そうやすやすと見つかるはずもない。三度首を回し、元の下流の崖下に戻ったときだった。ミシェルが声を上げた。

「あれって神様の頭と違うかな?上流の崖下、真ん中・・・ええっ!なにあれ!」

 半絶叫へ目を凝らした。神様でほっとし、隣りで目を剥いた。

「ん?幹も枝も全部螺旋、それで葉っぱなし。あれが木かよ」

「神様の番人?でも凝り過ぎ」

 寸詰まりの巨木は、滑稽だが、笑わせない貫禄と威厳があった。

「世紀の大発見」

「いちやく有名人ね」

「無事戻れたら。ミシェル、行こうぜ!」

「ウイッ!」

 好奇心のかたまりが、怒濤の結末へ、長い長い石段を駆け降りていった。


 数にして二百段、おおむね四十メートルが弾みをつけ、網の目状に流れ続く川に浸かった。砂金が足裏をくすぐった。バラ色の未来が目に浮かんだか、三歩で立ち止まった。手を合わせ祈った。

「神様、不浄なるわたしを、どうぞ、どうぞ、お許し下さい」

 しおらしい懺悔が引っ掛かった。

「もしかして欲が出たとか」

「なわけないでしょ、て言いたいけど、実は」

「どこへ入れる?」

「ブラとパンツに」

 転けた。が、笑えなかった。再びあの声が耳ではなく、心の奥底から響いたから。

『すべてが螺旋。あれこそイータです』

『なんだって!』

 前が思わず振り向いた。 

「ビックリね。どうしたの?」

 尻もちが返事だった。

「もう、からかったりして〜」

 唐突だ。そう思って当然である。しかし次に、だらしなく頭まで垂れたなら、血相も変わろうというもの。 

「冗談・・・と違う。しっかりして!しっかりするの!」 

 半泣きが力を振り絞り、岸辺へ引き摺り上げた。恐る恐る、脈、瞳孔と確かめた。異常無し。 

「眠ってる?いえ、気を失ってる。ジョー起きて!目を覚ますの」 

 もの言わぬ口へ耳を寄せ肩を揺すった。返事無し。半泣きから大泣きが、途方に暮れた。では、ジョーはどうなったのか。

『女には気の毒ですが、邪魔されたくはありません。意識喪失は、やむを得ない措置として』

『俺も助かる。それで?』

『現在のイータは、人間に例えればまだ若年。けれど、思考能力に加え、武器の気の力は、動植物の中枢神経を破壊、若しくは支配する事さえ可能です。もっとも、命令力は相手にも依りますが。他方で、気の力は諸刃の剣。使えばわたくしが感じます。しかし感じなかった、五百年前は。恐らく、数千年に一度の太陽風太陽から吹き出す高速度の荷電微粒が原因でしょう』

『それで分かった。この洞窟の謎がね』

『先住民とイータの邂逅、想像は容易いですね』 

『神と思った。それであの横に』

『安住の地が人間の聖域へ。怒りました。悲劇の原因ですね』

『イータが先だろうから、まっ怒っても仕方ないか』

『コダカ、真の悲劇は、この先ですよ』

『て言うと?』

『地球の歴史では、九月十一日。アフリカ全土、及び地中海沿岸部が、名状しがたい光景に瀕します。地獄絵図です』    

『根っ子が地底を揺るがす。地震、津波か。歴史を変えなくちゃ。どうすりゃいい?』

『今のあなたではとても』

『じゃ気の力に対抗するには』

『それはわたくしが。防御は思考を避けること』

『考えると奴が察し、気の攻撃にあう。最悪は?』

『水の中へ逃げなさい』

『OK!分かった!』

『幸運を願うばかりですね』

『助けてよ、もしものときはさ。わっはっはっ!』

『ほっほっほっ』

 絹の声が笑い、いずこかへ去った。途端に、泣き声、肌の香り、マシュマロ乳房にめり込んだ鼻と、順に感覚が戻り、慌ててボケた。

「俺は億万長者だ!」

 涙でクシャクシャの顔が、半信半疑の目が、喜んでいいのかと上から覗き込んだ。

「欲ボケが原因?」

「なんだ、夢か」

「バカ!」 

 どやされた先生が辺りを伺った。小高い岸へ上がった。神の国の大半は小川。だが向かいの崖下の川は違った。流れを指差し疑問が出た。

「あの川だけ真っ直ぐ。しかも逆に流れてる」

「それにとっても深そう」

「底知れんクラックか。そうだな、ここも楽するか」

「鉄人もお疲れ、だなんて」

 冷やかした生徒が手を取った。風がやみ、霧が流れ始めた。中州の木立の間を何度か通り抜け、目指す川へ辿り着いた。 

「神秘的。藍色でもないし、緑色でもない」

「あえて言えば、人を拒む色。見て来る」

「置いてけぼり?ひど〜い」

 だだっ子に苦笑い。二人同時に飛び込んだ。目が点になった。ひと抱えはありそうな緑色のコイルが、深海色の彼方にに消えていたのだ。しかも計五本あった。そばへ寄った。ミシェルがそっと触った。ジョーが拳で叩いた。驚愕が目を合わせた。触感、手応えがまるで無ければそれも当然か。息継ぎ、先を追った。バカでかいコイルが、岩盤に突き刺さっていた。触感との矛盾に呆れ浮上した。岸辺へ上がった。腰を下ろすと、五年前の衝撃の夢を語った。

「恒星大爆発、惑星破壊、生物死滅。だがシータと言う木だけは、子孫を残した。無数の実を宇宙に放ってね。でそのうちの二個が」

「地球へ。それが成長してあの木に・・・想像?」

「五年前の夢」 

「とても夢とは思えない。誰かに聞いたんでしょ」

「ギリシャ女神から」

「もう・・・あれ?じゃ、あのとき呼んだアテナは」

「神風、あれどう思う?」

「図ったように吹いたもんねえ・・・ってことは、アテナが」

「そう、文字通り、神の風さ」

「信じ難いけど、あのへんちくりんも見たんだし、ああ、頭がこんがらがってきたな〜。ん?するとさっきのも」

「アテナのしわざ」

「どう言う関係?」

 喉の奥で笑った。が、結局大笑いに。そしてひとしきり。

「ミシェルほどの関係じゃない」と、照れずに応えた。

「ほんとに?ばんざ〜い・・・」

 無邪気が突然、頭を抱えた。 

「どうした?」

「針で刺されたみたいに、いきなりチクリよ」

「頭痛持ちのエージェントなど、いないだろうから・・・」

 語尾が確信へ繋がった。

(イータだ。気の力が、ミシェルの感情を察知した)

 同じことがジョーにも。しかし我慢するまでも無かった。

(勘付かれてるのは承知。さてどうする・・・いかん、考えたら)

 考えずに直感で行動する。得意だが、それは相手を熟知したうえのこと。何も知らなければ、無茶、無謀、バカである。

「ねえ、正直に言って」

「チクリは怪物のせい。危険だ。この先は俺一人で行く」

「いや!絶対いや!」

 二度目のいやは、決定的。見つめる女が駄目を押した。

「とんでもない冒険で悟ったの。わたしは誰かさんのために、この世に生まれたんだって」 

 折れた。ミシェルを引き寄せ、耳元で、生き延びる術を語った。

「いいかい。これからひたすら無になる。絶対だ」

「ボ〜ッとしてるの?」

「そう。怪物の気のパワーから、逃れるにはね」

「大胆って言うか、恐れを知らぬと言うか」

「虎の穴へ入るんだろ」

「入るけど、自信ないなあ」

「上手く演じれば、そうだなあ・・・」

 怪物のレーダーを考慮。以後のセリフは、ミシェルの口を塞ぎ、ヒソヒソと。揚句、バラ色の小声が、指の間から洩れた。

「分かった。おバカになる」

 お気楽ペアが川に浸かった。流れはゆるやか、そして周りは、地下の幽玄峡谷とくれば、究極のデートゾーン。

「何も考えるな、でしょ。じゃまた乗っていい?」

「頭が空っぽになるならね」

「なる、なる。うふふ」 

 こぼれる笑顔が背に乗った。親子河童が霧雨の瀑布の下を、流れに身を任せ、怪物の近くへ流れ着いた。二人の目が、手前のトーテンポールへいった。古色蒼然たる神様に頷き合い、恐る恐る隣りを窺った。葉っぱの無い極端な寸詰まりは、奇妙で滑稽だが、バカでかい緑色の螺旋根幹と、まるで大蛇のような渦巻き枝が、嘲笑する事を許さない。

「無限宇宙。人間の常識などタカが知れてるな」

「ほんと」

 顔を見合わせ深呼吸。抜き足差し足が神様へ近付いた。サイズは門のと変わらず、少し見上げる程度。御霊を確認し、細部を見やった。あどけなさではピカイチが、素朴な感想を口にした。

「神様は宇宙人よ。まるでロケットだもん」

「よろしい。とても素直だ」

 苦笑いが胴体、上下四枚の飾り羽根と、質感を確かめた。 

「楽勝とは思えん」

「見るからに重そう」

 爪先立ち、くちばし奥の御霊を引っ張った。怪力が頑張った。だがソフトボール大の黒曜石はびくともしない。あっさり断念、土台を確かめた。岩盤に埋まっており、しかめ面が揺すってみた。微かに動いた。希望の灯が点り、がぜんやる気になった。ミシェルも加勢した。苦戦の末、感情を抑えた奮闘が報われた。神様を持ち上げ、慎重に寝かせた。その途端、背後でゴトンと音がした。キラキラした物が岩盤を転がり、へっぴり腰の足元で止まった。

(ダイヤモンド!)

 サイズは大人のこぶし大。目が丸くなり、足元から背後へと視線を移した。ドキッ!超まぶしい!足がすくんだ。息を吞んだ。ギンギラリンの怪物に。ネオンのお化けに。反動が神様のバランスを奪った。後ろ手が振り返った、うずくまる相方、キラキラ光る物体、目映いイータと素早く追った。 

(ダイヤ?人間を知ってる。試したんだ。いかん、水だ。水中だ)

 丸くなったミシェルを抱き上げた。川へ一目散、飛び込んだ。

『ここにいろ』と、水の中でジェスチャー。

 激痛に耐える顔が、頼りなく頷いた。引き返した。ひたすら無が、神様を引き摺った。背面歩行の苦痛に耐え、川まで残り数歩のとき、神の国が暗くなった。思わず天を仰いだ。

「なんだあれは?・・・そんなバカな!」

 あの毒蛾だった。しかも想像を絶する数の。異変は続いた。点の大集団が、自らの意志の如く、ひかたまりとなり、イータの真上で渦と化し、宇宙の怪木へ襲いかかったのだ。

「地図のあの点線。あれはトンネルだ。毒蛾はそこを通って・・・」

 渦からはみ出た黒いシミが、絶望感を更に煽った。残り五、六歩。遂に無の感情は捨てた。気合いが声になった。その瞬間、頭の中に雷が落ちた。トーテムポールが手から放れた。イータの気の攻撃は凄まじく、その場にしゃがみ込んだ。 

「あの野郎、く、くそ〜っ、ダメだ」

 以心伝心か、元気なミシェルが水面から顔を出した。もがき苦しむ愛しき人に、驚きもせず、岸へ跳ね上がった。そして抱き起こすや、肩を貸し、救いたい一念が、川へ転がり落ちた。

 しばらくして驚くべきことが起こった。イータが地を揺るがし、激しく身悶えしているではないか。水中の根っ子も同様であった。そして神の国も。天空の窓が、四方の柱状摂理の壁が、音を立て崩れ始めた。至るところから、圧倒的水量の滝が現れた。神の国が、夢の楽園が、次第に水の中へ埋没していった。

 水中のミシェルも異変の真っ只中にあった。崩れた断層の凹みに身を寄せ、ジョーを抱き、暴れ狂うコイルが鎮まるのを待っていた。だが苦しくなる呼吸で、一巻の終わりだと、覚悟を決めた。

(お化けが変。死ぬかも。でも、でも、ジョーといっしょ、悔いなんて)

 ありったけの力で抱き締めた。唇が愛しき唇へいった。予期せぬ猛烈なキスが返って来た。

(ええっ?治った!治ったのね!)

 螺旋の収縮が始まった。目にも止まらぬ早さで。やがてウソのように視界から消え、池になりつつある川が静かになった。

 水面へ出た。ジョーが我が目を疑った。楽園の変わり果てた姿、そして跡形もなく消え失せたイータに。

「いったい何が起きたんだ?」

「夢の終わりが、また夢だなんて」

 にわかに信じ難く、近辺にも目を凝らした。しかし二人の目に写ったのは、散乱する岩盤と、倒木と、地へ、川へ叩き付ける、瀑布のみであった。

「もしかして、連中が退治したとか」

「連中って?」

「ほら、あれを見て」

 風で流された大集団に、ミシェルが呆然となった。

「ここまで・・・信じられない」

「イータが毒蛾如きに屈するとは思えんが」

「イータ?あの木の名前?」

「女神が称するにね」

 心の内へ尋ねた。 

(アテナ、どうなったの?)

『地球環境が気に入ったのでしょう。イータは無機物から有機物へと変異しました。わたくしはそこにつけ入ったのです。呼吸する細胞は蛾の鱗粉が有効であり、致命的だと。そのためには気の力の勝負に勝つこと』

(勝った!アテナの知略、実力、思い知ったよ)

 隣りが小首を傾げた。

「もう、ブツブツ言って。どうやってここから」

「簡単。神様に乗っかって、あとは運まかせ」

「得意分野ね。私の勝手な推理も、運を応援してるわ」

「そいつを聞かせて」

「ミヴィアによれば、地下水の湖だって。流れ込む川がなければ、じゃ水はどこから?」

「朗報だ。マルタ島デート、約束しただろ。豪華ランチも足す」

「ディナー・・・じゃないの」

「日帰りだもんね」

「ひど〜い!」 

 よろけたミシェル。抗議の目線が、猫なで声になった。

「ねえ、一泊しよう」

「太陽、青空、拝めたら・・・まずい!風が逆になった」

 黒い大集団が風に乗った。終焉の叫びか。地鳴りが鼓膜を震わせた。パラパラと四方八方から崖の断片が降り落ちた。神様の陰に隠れた。行き場を失った小川が、裂け目を目指し、次々に押し寄せて来た。見る間に神様が浮いた。流されそうになった。必死に踏ん張り飛び乗った。小石がヘルメットで跳ねた。慌ててミシェルの背後へ移り怒鳴った。

「伏せろ!俺が屋根になる!」

 土壇場の男らしさ。感激の声が轟音にかき消された。ついには本流へ交わった。ヘッドランプ点灯。膨大な水が流れ込む亀裂まであとわずか。しかしそこは崩れた崖の雨あられ。逆さになったとしても、神様も我が身も無事では済まない。時は秒を争い、窮余の一策をと、心へ叫んだ。

「アテナ!助けてくれ!」

 すると、裂け目の遥か上にあった木が、音を立て滑り落ちて来た。それも枝、葉っぱが密生した樹木だ。激しい水のせめぎ合いが、二手に別れ、頭上からの攻撃は、助っ人が防いだ。 

「アテナは俺の神だ、ありがとう!」

 トーテンポールが枝で止まり、水しぶきに怒鳴った。

「ミシェル!寝そべろ!手は前の羽、足は後ろの羽の下。OK?」

「ウイッ!アテナ、信じる!」

 ジョーが乗っかった。神様と一緒に抱きしめた。枝から手を放した。裂け目へ飲み込まれた。ほぼ真っ逆さまだ。轟音と、逆巻く波に、一体ペアが叫んだ。

「キャア!」 

「ワオッ!」 

 川ではなく滝。上ではなく下。そして、水しぶきだけの白い闇だった。もみくちゃで、息もできない女が、必死にわめいた。

「あ、あっち、あっちで、結婚して!」

「まだ早い!」

 前方が明るくなった。水しぶきだと、泡だと、直ぐに分かった。

「滝壺よ!」

「と言うことは折り返し点。昇るぞ!笑ったんだ、神様が!」

「悲しい!」

「バカ!」

 池同然の滝壺に突っ込んだ。グルグル回った。飾りバネが、安定、推進力を与え、水の上、中と翻弄されながら、怒濤の波に乗った。ミシェルの素朴な弁。『まるでロケットだもん』は、意味じくもマトを得ていた。青く輝く星へと、グイグイ押し上げられた。そして、そして遂に、緑の底へ吐き出された。生還だ!時間にして一分足らずの、途方もない恐怖のスペクタルは、こ

うして、終った。

 水面に輝く陽光が、生存の実感を与え、ひと際眩しかった。天が、奇跡に祝福を贈っているのだと、二人は心から思った。

 ジョーは、後の回顧録へこう記した。

『もし、トーテムポールに四枚の羽が無ければ、いったいどうなっていたか、おそらく・・・と』

 湖を望むカカオ畑に、地獄を堪能した者たちがいた。風采が笑える男に、ビーチがお似合いの女。いくらアフリカと言えど、やはり目立つ。当然、声が掛かった。カカオの木の上から。

「アフリカに合わせたのか!」

「そうだ!ムードにこだわる奴でねえ」

「どいてくれ!実を落とす」

 ココナツが畑に落ち、次いでにおやじも降りて来た。笑いを噛み殺した真っ黒な顔の白い目が、おかしなペアを嘗めるように見回した。そして、はたと思い出したか、分厚い唇に手を当て、素っ頓狂な声を上げた。

「お宅らは、あのオートバイの!」

「ご明察」

「もどって、もどって来たのか!おお〜神様」

 膝を落し、何やら感謝の祈り。同じ目線で、ジョーが尋ねた。

「ミヴイアの農園、だよね?」

 首だけ振った。 

「どこにいるの?」

「村長の家です。アケレさんもあなた方を心配しています」

 肩越しに湖を指差した。

「岸に神様がいる。手分けして、村長の家へ運んでくれ」

 丸い目が、更に丸くなり、震える口が、感動を絞り出した。

「な、なんと!奇跡だ、奇跡だ!して、あなたたちは?」

  隣りの木に自転車が立て掛けてあった。

「あれを貸してくれないか」

 二つ返事に尊敬の念があった。小道へ出た。緑したたる高原を眺め、ラクチン男がペダル女へ、湖の不安を口にした。

「あれだけの水だ。氾濫しないかな?」

「神の国は消滅した。でもあの不思議な洞窟を思うと、わたしは楽観的になるの」 

「言い得て妙。一泊、追加だ」

「キャア!ちょうしあわせ・・・で、いつ?」

「近々」

 かくして、たかが三時間、されど三時間の、ドラマは終わった。

 

 十四時。軍のヘリコプターが、空港に舞い降りた。ドラマの関係者たちが、次々に吐き出され、ロビーへ急いだ。イミグレーションはパス、カイロ行きのゲート前で輪になった。

「大統領、本気だったわよ」

「軍司令官補佐?なら言ってくれ。ナショナルチームのゴールキーパーだったらと」

 上目使いに睨んだ秘書官。これにミヴィアが続いた。

「コダカは子どもたちの英雄だ。どうだろ。もう一度、バイクのあの芸を見せてやれんか?」

「言ってやれ。人間、生きてなんぼだと」

 リアリティーがあった。とりはミシェル。

「マルタ島デートが仕事になるなんて」

「上司め、読んだな」 

 ちっぽけな要塞島を知るアケレが、意味ありげに絡んだ。

「神の国異変が、マルタ島異変になりそう」

「おいおい、勘弁してくれよ」

 実感がこもっている。しかしエージェントは不機嫌。

「もうクリストフったら、なんで私なのよ」

「株を上げたからね」

「って言うより人材不足」

「チャンスだ」

「デートは?」

「仕事の合間に」

 不服も無いよりは増し。

「護衛の投資家が、パタンデール外相のお友だち。仕方ないか」

「俺も手伝うよ」

「ええっ!ほんと?」

「フランスのエスプリだ。大切にしないとね」

 思わず抱きついた。滲んだ瞳が切なさを訴えた。

「ドゴール空港に着いたら、電話して。絶対、絶対よ」

 輪が横になった。白のTシャツに、デニムの軽装が、銀縁丸眼鏡を掛けた。学者面がイタリア軍リュックサックを背にした。一陣の風が、ゲートを吹き抜けた。


  3 ファミリー     

 

 200X年8月22日水曜日エジプト、カイロ

 体力勝負のランナーが、ナイル川左岸を駆け抜け、ネコのヒタイ広場でストレッチ、汗を拭きながらホテルへ入った。エジプト産ワインをネフェルティティ《エジプト王ファラオの王妃》顔負けのコンセルジュへ注文、ジャングル、地底と、しこたまかいた汗はさっぱり洗い落し、浴衣のままライティングビューローへ向った。いつものようにパソコンを開いた。メール、ビジネスといき、プライベートの二通目で、手が止まった。ジュリアからだった。

『動画にしちゃった』の学生らしさに笑みがこぼれ、添付の動画をクリック。顧客の宝石商に注文したエンゲージリング。内緒で贈ったそのアップが、始まりだった。

 照れ笑いの絵が、子ども大人らしい指から、バラをあしらったレースのコサージュ、飾り気のない笑顔と移り、しばしストップ。やがて真珠のネックレス、ウエディングドレス、ハイヒールと下がり、全身で二度、クルリ回った。実感の湧かない保護者同様が、画面へ、思いを込めつぶやいた。

「ジュリア。天の川・・・渡ったね」

 五年前の思い出に浸った。ドアのノック音に動画停止、コンセルジュの鼻に掛かった声に応じた。

「いらっしゃらないかと思いましたわ」 

 そう言って怪しく笑い、仕事を済ませるや、古代王女に相応しい胸と尻が、品を作り出て行った。飛んで窓を開けた。鼻をつまみ、残り香を追い出し、琥珀色のグラスを手にした。停止解除。再び画面に目をやった。 

 白を基調にした優雅な部屋の情景に、父親のガブリエルが入り、娘の手を取った。カメラは親子を追い、窓辺のソファーに座るとホワイトアウト。再び絵が出ると、カメラマンのスーザンも加わっていた。青い水平線をバックに、右の父、左の母と見て、ジュリアが話し始めた。

「エンゲージリング、ありがとう。もう感激しちゃって・・・」

 胸がいっぱいになったのか、ブルーの瞳から涙がこぼれた。母親がハンカチで拭い、カメラへウインクすると、話を続けた。

『世界で、十五才で、エンゲージリングをプレゼントされた人っているかなあ。多分ギネスものだと思うけど、ほんとうにしあわせ。大切にしてハイスクールがんばるね。それから、ドレスはママがあつらえてくれたの。もうそんなに大きくならないだろうからって、百五十八センチよ。ひどいと思わない。あと五センチ。運動は苦手だけど、ジョーみたいに毎日走ろうかな、うふふ、笑ってる。今は勉強と同じようにジョーのことが心配。兵隊さんと変わらないくらい、命賭けで戦ってんだもの。毎晩お祈りしてるのよ。どうぞ元気でありますようにって。でも安心して。用心棒は不死身だと、信じてるから。うふふ。パパとかわるわね』

 親爺ゆずりのいかつい顔が、顎をなぜ、顔に似合わぬソフトな声で、おもむろに喋り出した。

『七年後、四十五才で引退。これが条件だったが、娘の話を聞いて気が変わった。三年後にしてくれ。つまり高校卒業、引退、即結婚だ』

 母娘がびっくりした。しかし、父親は意に介さず。

『心配も七年じゃ、ちょっとな。それに親爺のことも。このところ、うるさいのが丸くなってきたからね。年も七十二。引退は口にしないが、重役たちを思えば、どうしても君が必要になる。娘の結婚に乗じた僕の本音、ひとつ分かってくれ。それからこの部屋は、アントニオーニクラシック、最上階スイート。なぜここにいるかは後で親爺が説明するが、当分ここに住みそうだとなれば賢明な君だ。説明はいらんな、わっはっはっ!朗報が届いた妻と替わる」

 独断要望に抗議の視線を向け、スーザンが話を継いだ。

『もうほんとに社長なんだから。許してね。その朗報を話すわ。ヴェネツィアビェンナーレ《 二年に一回開かれる美術展覧会》、建築部門で、金賞を頂いたの・・・』

 感極まったか、今度は母親がうつむき、もらい泣きしそうな夫が背をなぜ、自慢顔の娘が、カメラへVサインを送った。  

 世話焼きがしみじみとこぼした。

「富だけが、幸せじゃない」

 更に感動シーンが、

『授賞式は来月十四日。ローマの友人宅に二日お邪魔するから、出発は十一日。ガブリエルは縁起が悪いって言うけど、テロの日を持ち出されてもねえ。とにかくあなたに伝えたかった。歌を忘れたカナリヤが、歌えるようになったのは、ジョー、あなたのお陰ですもの。ありがとう、ほんとうに・・・』

 泣き出してしまった。これにはさすがの男も不覚を取り、浴衣の袖が目元へいった。次のメールへ繰った。旅先であることが、窓から見える灯りで分かった。丸くなったと言う感じがどこにもなく、ファミリーのドン、ロベルトの話に聴き入った。『本来は、冒頭はわたしなんだが、生っぽい話じゃ、孫の晴れ姿に水を差すようでね』

 生っぽいが、笑みを消した。

『先日、マイアミ港事業財団の理事長選挙があった。会社も関わってることだし、わたしは新人のアラン・キャンベルを推した。黒い噂の絶えなかった現職、ギル・モーガンには辟易してたからね。結果、アランが圧勝した。選挙後、国がマイアミ港のコンテナヤード入札日を、九月十五日と発表した。半年前の公告以来、わたしと不動産屋の腹の探り合いが続く、超一等地十二エーカー、基本入札価格三億二千万ドルの代物だ。そのような折り新理事長が殺された。市警はモーガンの怨念に嫌疑をかけたが、そう易々と尻尾を出す奴じゃ無い。捜査は行き詰り、危惧していたことが起こった。二十日夜の事だ。後ろから来たバイクの男が、リムジンへ発砲してきたんだ。防弾ガラスと知ってのことだろうから嫌がらせだな。入札から手を引けと。利権に目のないモーガンの仕業だろうが、先ずは警察。メトロ署長に電話した。ヤスダ警部が飛んで来た。第一声が用心棒はだ、参ったよ、わっはっはっ!』

 熟女秘書がカメラへ手を振り、ウイスキー、水と渡し、グイッとあおり、続けた。『八エーカーの土地は、わたしの最後の夢になるかも知れん、そう前置きしてだ、二人の男が夢に絡んで来た。一人はナポリのカトリック教会修道院長レネ・ベラスケス。公告後、視察中に出会い、気になって話し掛けた。スーザンの受賞作、『キノコの教会』は新聞にも乗ったんだが、それを手に物思いに耽ってたんじゃね。で彼の弁だ。この作品は、ガウディ《スペインの建築家。作品群は世界遺産に登録されている》を彷彿させる。素晴らしい!いかがだろう。もしあなたに財があれば、この地に作品を具現化して頂けないだろうか。キノコの空中教会を。ありがとう、夢想家の戯言を聴いて下されて、と笑って立ち去ったんだが。もう一人は君も知ってるだろうが、かのセベリアーノ・ガルシア。カリブ海の名も無き島にリゾートを創りたい。ついては会って話しがしたいと。こっちも興味があったから快諾した。接見はアントニオーニ・クラシック、スイート。しかしなんだな、上品な王様と、如才ない美人侍女、イケメン親衛隊と見て、更に上のスイートがないかと思ったよ、わっはっはっ!入札の話しは行き掛り上出た。わたしのライバルになっていいかとこうだ。不機嫌なジム、ジェーンへ言ったよ。彼はピカソと並ぶマラガの英雄。地中海風マイアミも案外じゃないかと。そこで本題だ。この二人が気になる、プロに調べさせてくれ。宗教家と王様の実像をね。わたしの身は案ずるな。メトロが目を光らせてる。じゃっ』

 画面隅の二十二時を見て、少し考え、ローマカトリック教会の友人へ電話した。ナポリの修道院は直ぐに分かった。繋いだ。

『辞職?いつ?二ヶ月前・・・』

 温かいがどこか冷たい声へ、ドアのノック音。ケイタイを切った。 

「プリーズ!」と、腰を上げながら応えた。

 

  4 帝王談義


 200X年8月22日水曜日エジプト、カイロ

 モサッド《イスラエル諜報特務庁》のエージェント、ダニエル・アレンスが、親友の背中へ、来訪の言い訳に近い言葉を投げた。  

「クリストフの仕事と、ボクの野暮用がうまく重なってさ」

「それにしちゃ出来過ぎ」

「まっ、いろいろあってね」と、しんがりのDGSE作戦局次長が、難しい顔から口元を歪め弁解した。

 アラブらしい部屋で膝付き合わせ赤ワインで乾杯。二杯目をパリジャンのグラスに注ぎながら、ミシェルを褒めちぎった。

「おたくの部下だけど、ひと皮、いやふた皮むけたよ」

 おうむ返しで、思いもかけぬ言葉が。

「むけ過ぎだ。辞めたいと言われればね」

 寝耳に水であり、青天の霹靂である。ワインがグラスから溢れてしまった。慌ててテーブルを拭きながら、

「マジ!」と、疑えば、

「冗談で言えるか」と、一蹴された。

「だよね。しかし解せんな。勲章ものの活躍したのに」

「勲章は君だ。先ず礼を言う」

 ジョーより四つ年長が、慇懃に頭を下げた。

「礼よりミシェル。またどうして?」

「女の子らしい仕事が、お望みだってさ」

「じゃ配置替えでは?」

「言ったが聞く耳持たん」

 死線を切り抜けた関係、分からなくも無いが。それにしてもだ。

「まだアビジャンにいるの?」

「明日の便で発つが、辞表と一緒じゃな」

「そこまで・・・」

「口振りは本気だ、真剣だ。応えてやれんか」

 ダニエルがあと押し。

「用心棒とエージェント。ぼくの理想に近い」

 なるほどだが先約がいる。さてどうしたものかと、ちょい考え、裏事情は喉元で引っ込め、とりあえずの策で凌いだ。 

「クリストフ。明後日パリへ行く。会って慰留する。任せて」

「ありがたい、頼むよ」

「せっかく化けたのに、勿体ない」

 胸のつかえが降りた上司。渋面が消え改めて乾杯。よも山話に花が咲いた。そして話題がアラブに及ぶと、合わせたようにクリストフのケイタイが鳴った。手に取り着信名へぼやいた。

「仕事の出来ん奴は、時、場所を選ばん、まったく」

 席を外し戻るや、カバンからパソコンを出し言った。

「こんな席でなんだが、内局から知恵を貸せ、だとさ」

 飲物類をテーブルの端に寄せ、DGSE情報局へ繋いだ。ファイルナンバー入力。いきなり、悲惨で、美しい写真が目に飛び込んだ。悲惨とは、中年紳士、淑女の銃殺体であり、美しいとは、小鳥のさえずりが聞こえそうな、森の情景であった。

「男はパリ在住の証券アナリスト《証券分析家 》、セザール・ベルタン。女は業界誌記者ブリジッタ・アルノー。昨夕のことだ」

 画面がアップへ変わった。男が口にするものへ視線が集まった。

「殺してから挟みよった」

「カラスの羽か、しゃれた真似をしやがる」 

「示威行為さ、ブラックバードの」とモサッドが、テロ組織の名を。 

「こんなきれいな仕事、連中がするかな」と、ジョーが勘ぐった。

 次のページへ繰った。海岸道路の交通事故であった。断崖下の無惨な車が、波をかぶり、死んだ者の哀れを訴えていた。更に次へ。へし曲がったガードレールの根元に、小石で固定した黒い羽根があった。

「カーブに油がまかれていた。被害者はイギリスの教育ソフト会社、フユチャーボックス社、社長バーニー・キャラック、インサイダー《証券市場操縦行為》嫌疑の渦中にあった。開発中のソフトが、噂だけで株価が急上昇、乱降下じゃね。年は四十二。友人も同乗してたがいずれも即死。場所はイングランド。今朝起きた惨劇だ。ちなみに、内局もウチも、ブラックバードには懐疑的だ」

「でもさ〜、イスラム急進派はジェラール《フランス大統領》も批難してるよ」 

「だったらもっと派手にやる」

「スンニ派が怒ってるかもね。くちばしが鋭いだけの農民集団に、一流の殺し屋が雇えるかって」

「まさにダニエルの言う通り」

 そして次へ。街角のスナップか。いかにものパリジャンが現れた。

「オリビエ・バンジャマン。昔、シャンゼリゼの高級娼婦宅配組織の親分。で今は、素質に気付いたかファンド屋社長。もう分かるだろ、どんな悪さをしたか。蛇足だが、そのインテリやくざも、昔の彼女と比較すれば、まっ可愛いもんさ」

「気になるな」

「スペインの巨人、マラガの帝王と言えば?」

 ダニエルが何を今更と。 

「セベリアーノ・ガルシア」

 帝王の名は商売柄よく耳にした。それがわずか数分前に調査対象となり、そしてまたその名が。驚き桃の木なんとかである。しかしここはポーカーフェース、話に耳を傾けた。

「年は七十五と食ってるが、渋い男前だ。で昔の彼女が帝王の愛人であり懐刀。名はルイーサ・ブリオネス。そして帝王のホテルチェーン、マイソルナンバー2。風聞だと、仕手戦の資金欲しさに進呈したとか、賭けに負けて奪い取られたとか。見たいもんだな、それほどの女だったら」

「映画向きだ。それで?」

「株価操作やインサイダー取引は表に出易い。しかしバンジャマンはなぜか表に出ん。これはパリ第一大学経済学部卒が、いかに用心深いかで、まっ五千万ユーロもはたいた今度の仕手戦なら、綿密な作戦を練り、臆病なほどナーバスになっただろうからね。他方、火の粉はロンドンにも飛んでる。捜査権があって、罰則が厳しいSESC《証券取引監視委員会 》が動けば、ちょっと厄介だ。そこで先手を打った。証拠隠滅のね。セザール・ベルタン、バーニー・キャラックの死が、ボクにそう語っている」

「しかし命令と実行が別じゃね」

「ミシェルとはいつ?」

「明後日、早い方がいいだろ」

「明後日・・・明後日ねえ」

 腹に一物のニヤリ顔へ、ロベルトの話を聞かせた。エージェントが顔を見合わせ、モサッドが先に口を開いた。

「スペイン国民は英雄の立志伝を知らない。なぜなら英雄が謎に満ちてるからで、今現在分かってる事と言えば、バスク《スペイン北部の自治州》人、情に厚い、妻に恵まれなかった、長男は非業の死、腹違いの二男は行方不明、そして養子の三男はつい最近殺害された。カジノホテル十五軒、傘下企業百二十社のオーナー、クリストフ、他には?」

「芸術好き、社交界に顔を出さない、マラガ市民のキリスト、ぐらいか。要するに起承転結で言えば、転が不明なんだよ。これじゃ立志伝もね。まっ情報屋がこの欠落した穴を埋めれば、ガルシアの人となりが見えて来るだろうが」

「要塞宮殿にメディア嫌い、これじゃね」

「そうだな〜、先ずは養子から」

「名はエミリオ。住居はモスクワ。何故殺されたかは、諸説紛々でねえ。その中で今信憑性があるのはこれかな、カジノホテル建設に伴うルスカーヤ《ロシアンマフィア、世界的犯罪組織の別称》との確執」

「養子は表向きだと思うな」

「訳がありそうだ」

「うん。同居の女がバレリーナ。彼女の母親もまたバレリーナ。ボリショイではスターだったが、十三年前殺された。エミリオが親代わりになった。そこから鑑みるに、母親はガルシアの愛人。で娘のために上辺は養子として派遣した。ガルシアのことだ、犯人は許せないから、そっちの方もね」

「ほんと気の毒なお人だ。非業の死とは?」

「長男ベルナルドの場合は、シシリー連中のマシンガンでボロボロ。視察に訪れたナポリのホテルでね。十二年前の話。さて帝王は?」

「言うまでも無い、では」

「もしそうなら、ガルシアは帝王にはなれなかった。つまり政府に圧力をかけたんだ、シシリーのハエ(マフィア)を追っ払えと」

「ふ〜ん、やるな」

「ボス、幹部、関係者、実働隊と全て検挙され、今も獄中だ。そして音楽家の次男、クラウディオは、ひと月前、公演先のイルクーツクで消息を絶った。これには内務省も困った。袖の下で世話になってるからね、帝王にはさ。で大捜索、バイカル湖までは頑張ったが。結局それまで。さてくだんの君は?」

「探偵を山ほど送った」

「馴染みのハゲタカもその一人。ナホトカ行きの車掌から聞いたんだろ。アラブ系の若い女と一緒だったらしい。しかし地元警察もひどい、次男がシベリア鉄道のフアンなら、まっ先に列車を調べなきゃならんのに。話を戻す。女の席は、同じ一等車でも別だったと」

「ん?じゃ車内で知り合った?」

「そうなるな」

「始末すために近付いた」

「しかし二人の会話は、スペイン語だったとか。これをどう見るか、だな」

「推理好きには楽しめるが、ダニエルは?」

「シシリーマフィアの復讐、ぼくはね。で殺し屋は、スペインが話せるアラブ美人」

「今頃になって?はっはっは、イタリア人は気が長い。違うかい?」

 暗黒世界の争いが聞こえ、遠ざかった。やがて仲良したちが、ギザのスフインクスへ繰り出した。そして、四千年前の歴史絵巻を肴に、酒とおしゃべりの夜は、のんびりと過ぎていった。


  5 ピカソのネフェルタリ


 200X年8月23日木曜日エジプト、カイロ

 ワイン、ビールのしっぺ返し、二日酔いは、ギザのナイル川中州を走り、北端でクリア。そのままハッサンカフェの扉を開いた。それなりの客だが、店主のアシャイが目ざとく見つけ、ナイルの水が匂う席を指し、座った。渋いガラベイヤ《アラブの民族衣装》男が、白い歯を見せ、体をくっつけ言った。

「元気なのか、疲れてるのか」

「分かった。エジプト人が必要以上にくっつくのがさ」

「詮索好きだから?」

「違うの?」

「ただの習慣でしょ。いつもので?」

「サラダもね」

 アシャイが娘を呼び、注文を伝えると、エジプト人の親切心を口にした。

「エジプト考古学博物館、いかがですか?昼だとヒマですから」

「残念、ちょっと遅い」

「それじゃ、次回と言うことで」

「済まん。済まんついでにさ、ケイタイ貸してくれないか」

 コーヒー、水、ケイタイと、トレイに載せ持った来た。新しい記憶から顧客のナンバーを引っ張り出し繋いだ。せわしなさが露骨に表れた、初っぱなだった。

『何時だ?』

『八時前』

もう、そんな時分か。今、遺跡発掘現場にいる。手が離せそうもないから、悪いがシェビティに聞いてもらえんか』

『約束を違えるのは、エジプト人の常識だが、ユースフ・カフラーはカイロいちの観光会社社長。そして美術史学者。大目に見よう』

『感謝する。うむっ?こら!ぼやぼやするな』

 作業員へカミナリ一発。切った。 

 紺碧の空、遠く霞むピラミッド、目に優しい緑の田畑、真っ直ぐな道とたどった視線が、前方の水色のヒジャーブ《エジプト女性のスカーフ》を被った女性で止まった。カフラーの妻シェビティであり、タクシーへ門を指した。口笛運ちゃんがハンドルを切った。 

 エジプト美術史学の特別講師カフラーへ、渋とく難問、珍問を連発した歴史好き。アラブ様式の前時代的リビングで、大学時代の想い出に花を咲かせ、頃合いだと、シェビティが、手元の重厚なケースをテーブルに載せた。ここに来て依頼が人でなく物だと分かり、メールを笑った。用件に入った。

「これを見て」

 10号(530×455センチ)サイズの油絵だった。芸術大好きが、立ち上がって覗き込み、??。女の上半身、古代衣装まではなんとかだが、それ以上はやはり??。頭をかき、恐ろしく幼稚な絵の、殴り書きサインを見て、読んだ。

「パ・ブ・ロ・・・ピカソ。ん?ん!シェビティ、これ本物?」

「亡くなる前に描いたものよ」

「そんな凄い物を、またどうして旦那が?」

「お礼よ。ラムセス二世の妻、ネフェルタリの資料を集めた」

「するとこれが最高の美女という名の王妃、ネフェルタリ。へえ〜」

 唸った男にシェビティが、微苦笑混じりに言った。

「本人は完璧だと言ってたけど、でも正直言分からない、この絵が。美術史家の嫁としては、失格ね」 

「青の時代青春期の孤独、陰鬱を表現 したピカソ初期の作品風だったら?」

「あなたがカイロに来ることは、ほっほっほっ、無かったわ」

 失笑にチャンスと見たか、カルカデ《エジプトのお茶》を手に娘たちが間に入った。結婚相手の話を聞かせ、採点をせがんだ。大甘の点数が鼻歌になり出ていった。やれやれが本題へと移った。

「これをフランスにいる、さるお方に渡して欲しいの」

「ピカソだ。それなりのお人だよね」

「セベリアノ・ガルシアさん」

 昨日の今日だ。ひっくり返りそうになった。しかし、同姓同名もあるだろうし、届け先もフランス。ドキドキが確認した。 

「スペインじゃ無いの?」

「それはお屋敷。届けて欲しいのはレマン湖畔の別荘」

 言葉が出ず、ちょい黙り込んだ。

「あら、どうかしたの?」

 賢妻の誉れ高いシェビティ。じっと対面の顔を窺い、小首を傾げた。目が合い、照れ隠しのジョークで逃げた。 

「まさか脅迫されて、とか」

 上目で睨まれ、軽くいなされた。

「すると、ハンサム、上品、紳士のギャングね、ガルシアさんは」

 ジョーの描く帝王像と、ピッタリ一致した。

「完璧な絵だろ、何故?」

「彼はね、遺跡の発掘にことの他協力的なの。そのお返しが、この絵。もう、大変なお喜びようで、首を長くして待っておられるわ」

「そんな重い役に軽いメールとはさ」

「夫のことだから、フランスへ絶世の美女を届けてくれなんて?」

「ご明察」

「必要以上に気を回す夫の欠点ね。でも気持は察して。宅配屋さんと同じだもの」

「しかし参るよ、前の仕事もそうだったもん」

「それだけあなたが信頼されてるのよ。夫が言ったわ。ピカソの絵、届ける相手、わしの代理人。これはコダカしかいないって」

「褒め上手に乗るか」

 ニヤリが席を立った。 

 行きのタクシーが迎えに来た。難解極まりない古代美女を、最愛の恋人だと言い聞かせ、ジワリ乗り込んだ。シェビティの深謝、娘たちの黄色い声に送られ、砂漠の家を後にした。銀縁丸眼鏡がサングラスに変わった。ギザ台地を見た。陽炎揺らめく大スフインクスへ、降って湧いた幸運を投げつけた。

「ネフェルタリ、紀元前があきれてるぜ」


  6 勝負の愛 

 

 200X年8月23日木曜日フランス、エヴィアン

 七十五才が一つ年を加えたこの夜。セベリアノ・ガルシアは、長年いそしんだピアノの腕を、三組のゲストに披露していた。一曲目はベートーベン『月光』を、第三楽章まできっちり弾き、終ると、窓の三日月を仰ぎ、図抜けた品たちへ語った。

「若い頃は月を見て恋人を想い、そして、今もまだ、恋人を想う。ドビュシュー、月の光」

 品とは、祝宴に招かれたスペイン国王夫妻、以下首相、マラガ市長夫妻であり、三階大ホール同様、近寄り難い威厳に満ち満ちていた。そして、ピアノの旋律もまた品があった。国王のアンコールはその証左であり、長い拍手に添え、心からの賛辞を贈った。

「セルゲィ・ラフマニノフ《ロシアの作曲家、超絶技巧のピアニスト》。曲調も、余韻も、そして雰囲気も」

 スイスを北に見て、風光明媚なレマン湖畔の町、フランス、エヴィアンに、政府から買い取ったガルシアの古城はあった。当初、歴史的価値から批判を浴びた曰く付きだが、動せずこう言い放った。

「わたしの手にあれば、向こう百年、いや千年は、お国の宝として、レマン湖畔に存在するだろう」と。 

 警察の列がいっせいに動いた。国王夫妻が、続き首相夫妻、マラガ市長夫妻が慌ただしく立ち去った。古城内外の静寂が、ルイーサ・ブリオネスにひと息つかせ、二階へ上がろうとした。だが第一執事、エステバン・アレセスの掛け声で足が止まった。

「アンヘル元老ですが、マルタへ行かれました」

「元老長がこちらへ来てるのよ。困るわ、勝手な真似されては」

「僕もそう言ったのですが・・・」

「この際ね、自由気ままを諌めるのは。ありがとう、下がって」

 二階奥の執務室を覗いた。カタリナ・バンデラス庶務官が席を立ち迎えた。懐刀が眉をひそめ、声音で期待を表し言った。

「パリの新聞、読みます?」

「バンジャマンの噂、スキャンダル?だったら破いて」

 期待通りが笑みになった。

「うふふ、ボス」

「それって、私?」

「お屋敷の実権はルイーサ様。いいでしよ?」

「男みたい。ルイーサでけっこうよ、カタリナだったら」

「ルイーサだなんて・・・ルイーサ、なんだか偉くなったような」

「ほっほっほっ!検討してるわよ、八番目の執事に」

「ええっ!でも、執事は男性が規則です」

「私が変えるわ」

「身にあまる光栄って言うか・・・そうそう、ベイルートですが。どうしてもお帰りに?」 

「親の反対を押し切って、パリへ行ったのが十六のとき。それ以来一度も国へ帰ってない。家族がテロに巻き込まれ、死んだ年も」

 一度もは嘘だった。八年前、三十二の折り、帰ったのだ。家族の仇を討つために。帝国ナンバー2が、暗い影を見せず続けた。

「だから墓参は許して」

「それじゃ親衛隊を」

「私事だもの」

 侍従長ベリンダ・カサレスが、あるじの優しさを伝えに来た。

「よくやってくれた。しばらく休んでいなさいと、左様に」

「とか言って、元老長と昔話がしたいのよ、ほっほっほっ!」

 軽やかな足取りと、静かな足付きが出て行った。水をグラスへ注ぎソファーへ横になった。腹這いになり水を口に含んだ。瞼を閉じ過去へ想いを巡らせた。すると、人生を変えた勝負の愛が、津波のように脳裏を襲った。   

 

 実のところ、あれが故意か過失か、ルイーサは今だもって判然としていない。あれとは、職場で拾ったオペラ座のチケット。二流のプレタポルテで縫子として励み、八年が過ぎ、始めて店頭に立った日の事だった。 

 客の申し出があるまではと、個人的に預かり指定日が来た。時効だと言い訳し、オペラ座の席へ着いた。後ろめたさの隣りが、空席であることに不安を覚えるも、幕が開くと、不安を忘れた。しばらくして空席に男が座った。知的風貌とスキのない全身に、ルイーサの心は踊った。何かの弾みで言葉を交わすようになった。こうなれば、流れは閉演後のカフェ、お決まりの恋人関係。そしてどこか心配だった幸せが、思いも寄らぬ話で。

「とてつもない富豪なんだが・・・ちょっと、言いにくいな」

「遠慮しないで」

「ルイーサ、僕を愛してるか?」

「勿論よ、結婚したいもの」

「じゃ先に言い訳すべきだな。実は、僕にはファンド《投資信託》の才能があってね。そのスキルに、一生一度のチャンスが挑戦して来たんだよ」

「ごめんなさい、よく分からない」

「要するに、金が必要と言うことさ。三千万フラン」

「三千万・・・オリビェ、私にそんな大金は」

「はっはっはっ!ごめん、笑ったりして。ここで最初に戻るが、どうだろ友だちになってくれないか、その富豪と。無論強要はしない」

「友だちになれば、そのお金を?」

「彼にとっちゃ、端た金だからね」

「信じられない、友だちになったくらいで・・・考えさせて」

 オリビエ・バンジャマンが、その夜、いつものように愛さなかったのは、この男ならではの計算であり、女を利用する処世術でもあった。

 数日後。パリ三区にあるピカソ美術館へ出向いた。富豪に圧倒されるだろうが、とりあえずは最高のおめかしをして。

 指定された『闘牛』の絵の前で待つこと十分。張り詰めた神経が人の気配を感じ取った。無理して平静を装った女に声が掛かった。 

「女性を待たせるのは、不本意なんだがね」

 語学を試すようなスペイン語であった。バスクの友人が救った。   

「いえお気になさらないで下さい、セニョール・・・」

「セビリアノ・ガルシアだが、セベで結構」

「初対面だし、やはり距離が近くなるまでは、ガルシアさんで」

 吟味した言葉に、見たこともない風格が、笑みを送り言った。

「絵が好きでねえ」

「普通はルーブルですが?」

「わたしをツアー客にしたいのかね」

 もっともなジョークが、心を添わせた。  

「一つ質問があるのですが」

「友だちの期限、かな」

「ええっ・・・。正直言って、とても不安なんです」

「不安でなかったら、わたしはとっくにここを去ってる。五日間。明日、明後日は、オルセー《パリにある国立近代美術館》、マルモッタン《パリ16区にある美術館。フランス印象派の画家クロード・モネのコレクションで有名》。その先はどうするか、君次第だね」

「うふふ、本当に絵がお好きなんですね。それともう一つ・・・」

「監視されてるような気がする?」

「なにもかもお見通し・・・」 

 スリムな体のエキゾチックな顔が、表情を変え、何かサインを送った。その拍子に、近くにいた来館者の半分が、姿を消した。

「わたしが田舎者だと案じてるらしい。他には?」

「切りがないでしょ」

「はっはっはっ。さて、次へ行こうか」

『浜辺を駆ける二人の女』を見つめ、自信の審美眼が、最大の関心事をサラリと言ってのけた。 

「美しい女性のコレクターでね」

「コレクター?」

「不適切だが、まあ、許してくれ」

 ボルサリーノ《 イタリアの高級帽子会社》へ手をやり、頭を下げた。そして次の言葉で大紳士の威厳を示した。

「ただし、問題をクリアしなければ、コレクションにはなれない」

「?・・・」

「ある紛争国の指導者から注文がきた。新しい武器が欲しいと。しかし貧乏国だ、金が無い。さあ、軍需会社の社長はどうしただろう」

「テストですか?」

「わたし自身のね。直感が、正しかったかどうかと言う」

「まあ大変。ガルシアさん、重役は器量の大きさを見せた、では」

「ただで。訳は?」

「平和になって良し。泥沼になれば更に良し。いずれにしろ商売が広がるわけでしょ。生意気かも知れないけど、戦争屋さんの本質だと思う」

 視線が交錯し、完璧ダンディーが、笑みで満足を告げた。

「指を見せてくれないか」

 差し出したしなやかな右手を、柔らかい両手が包んだ。

「おまじない?」

「もっと本能的。温度を確かめ、その温かさが伝わるかね」

 首を少し傾げた表情は、いたって真剣。その真剣が緩み、手を放し、温度の結論を下した。

「冷たいが、本質は温かい。伝わったよ、完全にね。明日以降の予定はキャンセル、わたしは帰国する。そして半月後に、親友とまっこう勝負だ」

 驚愕の黒い瞳に、穏やかな鳶色の瞳が、決然と応えた。

「親友の希望は叶えた。滅多とないチャンスらしいが、わたしとしてもまたとないチャンス」

「もしかして、私をコレクションに・・・」

「そう。美辞麗句などいらんだろ。さて、どうする?」

「ご友人を愛してるのに?」

「人のものを欲したことなど、いまだかってない。まっプライドと言えば言えなくもないが・・。ある機会に君の話題が出た。話しを聞くうち、興味が芽生え深まった。親友に無理を言った。感謝してるよ、興味が正しかったからね。君はこの絵と同じだ。賢く、明るく、美しい。確約は出来んが、コレクションの最後になるだろう」

 言葉を返せない息苦しさが、当たり前を言った。

「結婚したいと思ってます。それでも?」

「それでもだ。わたしの情熱が君の意志を退けていてね。次はヨットで来る。そして、寄港地リスボンで聞く、ルイーサ・ブリネオスの返事が、わたしの勝負だ」

 動揺が隠せない女へ、薄く笑ったガルシアが、言葉を足した。

「それと、謝るべきかな。無理してシックなドレスを選ばせたからね。ルイーサ、楽しかったよ。ありがとう、じゃ失敬」

 颯爽と踵を返した。磁石で吸い寄せられるように、取り巻きが囲み、やがて館内が静かになった。

 その夜、バンジャマンの誘いを断った。女を利用した愛と、コレクションの愛を、天秤に掛けるため。より良き偽りの愛を、大人として選ぶため。しかし、受話器を取らぬ電話の数が、結論へ至ることを許さなかった。眠りに着くことを許さなかった。

 翌朝、早々に店へ現れた。仕方なく外へ出た。

「君が欲しくなるのは、ある程度想像してた・・・ルイーサ、結婚しょう。今直ぐにでも」

 思い詰めた視線から逃れ、ズバリ言い放った。

「勝負の愛。その行方次第」

 そして半月後。超豪華クルーザー、マー・デ・ハダス(海の妖精)号が、リスボン、アルカンタラ港へ戻って来た。二月にしては温かで、絶好のセーリング日和であったことが、キャプテンの機嫌に表れていた。

 ランチの準備が整ったことを、ガルシア帝国の宮仕えが告げた。船尾に用意された凝ったテーブルに三人が向かい合った。シェフ自慢のバカリャウ《ポルトガル人のソウルフード、タラ料理が多い 》の匂いへ、船のあるじが言った。

「どうする?ランチが先か、ギャンブルが先か」

「命の次に大事なものを賭けると言うのに?」

 余裕のない視線が、対面のマドロスルックから、船外へ逃げた。

「決まった!」

 船首へ椅子を用意させた。ガルシアとバンジャマンが差し向かいに座り、真ん中に思い悩んだ末のジャンポール・ゴルチエを選んだルイーサが座った。黒地に白の、水玉模様のワンピースは、シンプルかつ大胆だが、勝負、白黒を着けるの意味合いが忍んでいた。

 目ん玉が飛び出るシャンパン、ドンペリニヨンが、親衛隊隊長から、キャプテンへ渡った。派手な音を残し、高価な液体が三つのグラスに注がれた。各自が手に持った。あるじが、女、ライバルと見て、気負いもなく言った。  

「友よ、美しき人よ、覚悟は?」 

「はっはっはっ、こんな勝負があるとわね」

 引きつった笑いだった。それに隣りが見せかけの同情。

「裁判官って、本当はつらい仕事なんですね」

 帝王が目を細め笑った。インテリヤクザが、心ここにあらずと、力なく笑った。幾ばくかの明るさを混ぜて。女で飯を食って来た自負心と、巨人と争うヒヨッコの、精一杯の強がりも混ぜて。

 グラスが合った。無言の乾杯。コレクターがひと息に飲み干し、空のグラスをタホ川へ放り投げた。ヒヨッコも真似た。そして主役は、瞳に流れる雲を映し、やがて、瞼が塞いだ。

「さて、麗しき人よ、勝負の愛は」

 両横が、ピンクの妖艶な唇を窺った。

「さて審判はどちらに!」

 ルイーサがゆっくりと目を開いた。その目がバンジャマンへいった。ポツリと洩らした。

「悪いけど」

 しらけたランチのテーブルに、勝者が気遣った。

「親友の寛大さに、心から敬意を表する。ありがとう」

 寛大でない者が、いたたまれず応えた。

「自信家が自ら墓穴を掘った例だな」

 船を降りるバンジャマンに、解きたい謎を、背中にぶっつけた。

「あのチケットは、スカラ座は、ゲームだった!」

 元カレの足が止まった。煙草を取り空へふかした。そして、振り向きもせず立ち去った。


 想い出は二口目の水が流した。机の隅に立つフォトフレームへ視線がいった。ガルシアとのツーショットへ語りかけた。

「勝負の愛は、私の人生を変えた。しがないパリの縫い子が、贅沢も権力も手に入れた。私は負けない。絶対に!」

 記憶の走馬灯が、次に、ベイルートの悲しみへと、回り出した。


 リスボンの選択から七年後のことだった。テロの国の不気味な闇へビジネスジェットが飛来した。キャビンドアが開き、容姿にそぐわぬ身なりが降りた。出迎えたレバノン自由国民潮流イスラム教シリア派組織代表シャヒーラ・サレハが、不慣れなラテン語で、良きスポンサーを気遣った。

「ブリオネスさん。薄明かりですが、目立たない装いに、あなたのお気持が見て取れます。ですが、もしもだってあります。そのときは、必ずやこのサレハめが」

「ラテン語は心配りの証し。感じ入ったわ、よろしくね」

 ベイルート国際空港降車場に旧型ベンツが待っていた。警察が壁になり国賓並みが乗った。幹線道路に入ると、助手席の戦闘服の男が、バックミラーへ、重く低い声で言った。

「ヒズブツラー《イスラム主義政治組織》議長、マルセル・ゴーンです。あるじはおいくつに?」

「六十八」

「お変わりありませんか?」

「ええっ。年を疑うほど」

 ゴーンが初めて振り返った。客と握手した。

「それは良かった。我々が今日あるのもスペインのお陰。みなとても感謝しています。さっそくですが、銃はどのようなものを?」

「デリンジャー《アメリカ製超小型拳銃》」

「トリガープル《銃の引き金を引く力》をご存知ですか?」

「女には厄介?」

「試しましょう。僕の手をしっかり握って下さい」

 ゴーンが左手を差し出した。ニコリともせず、左利きが、ギュッと握り締めた。 

「無理です。チビは、十キロ以上ですから」

「そう・・・他には?」

「ジュニアコルトがベストかと重量は三百六十八グラム、装弾数六発。護身用として女性にも人気があります」

「あるの?」

 ラシャ紙に包んだものを、ごつい手がポケットから摘み取った。

手の平に乗せ、開き、渡した。

「お膝元製です。どうですか?」

「かわいい」

 構えた。軽い。

「無骨だけど悪くない。やはり我が国ね」

 及第点が微笑んだ。

「古いですが、実力はそのままです」

「情報、探索、お膳立て、そして銃まで。ゴーン、ありがとう」

「礼など。カディンは二十一時に店を閉めます」

 時計は二十時四十五分だった。 

「人通りは?」

「夜の裏町。多分、猫だけかと」

「うふふ。でも変わってるわね。週に二日しか営業しないなんて」

「反シリア派のゲリラに、本気で商売してる者などいません」

「もう一度言う。ありがとう。あなたがいなければ、家族の仇を取るなど、夢のまた夢だった」 

 照れ隠しか。親シリア派の猛者が、街並へ目を移した。ベイルート市内に入った。地番、ベイルート山岳レバノン217Xは、寂れた町のひと隅にあり、ベンツは角で止まった。

「店はこの先十二軒目。看板で確認して下さい」

「思い出すかしら」

「レバノン方言をですか。はっはっはっ、ご冗談を」

「行くわ」

「ご武運を」

 ゴーンの言った通りだった。猫の鳴き声だけの暗い道を、勤め帰りとして、それらしく歩いた。建物を数え、看板で足が止まった。シャッターが半分降りていた。腕時計は二十一時ジャスト。作戦開始。手は頭。丸くうずくまった。店主が現れた。目の端で窺った。店の明かりで、髭面、やさ男だと分かった。完璧な演技へ、首を傾げ歩き寄って来た。思惑がはまった。

「どうかしましたか?」

「少し目眩がして」

「それはいけません。よろしければ、中で休んでいかれたら」

「ご迷惑では?」

「ご覧のように店は閉めましたから。さあ、どうぞ」

「じゃあ、今少しこのままで・・・」

 滑り出しは上々。一息ついた。

「ぼくの腕に掴まって下さい」

「ごめんなさい、助かります」

 優しさが、親切が、出ばなをくじいた。中へ入った。情報通りの下町の雑貨屋が、どこか懐かしかった。お人好しが直ぐに椅子を用意した。座ると水も持って来た。仕草のひとつひとつに相手を思い遣る気持が滲み出ていた。

「あなたは運が良かった。店は火曜と土曜だけですから」

「それじゃ不幸中の幸わいね」

 あどけなさが残る髭面から、白い歯がこぼれた。

「ハンサムね」

「ぼくがですか?」

 陽焼けした赤い顔を、更に赤くし、ハンサムが裏部屋へ行った。戻ると頭をかき言った。

「とりあえずと思った頭痛薬がなくて」

「ありがとう。もう、大丈夫よ」

「いい加減な商売のツケが、こんなところで出ちゃいました」

「お客さんに頭痛持ちが多いの?」

 突っ込みが受けた。人懐っこい笑顔に、ためらいが生まれた。ちょうどその時だった。視線の先が首を捻ったのは。

 グレーのスーツとは似合わぬアラブの美貌を、思案顔が穴の開くほど見つめた。ルイーサに不安が走った。そして遂に、気紛れな運命が、ゆく手に立ちはだかった。

「思い出した!ブリオネス、ルイーサ・ブリオネスじゃ」

 全身が凍りつき、胸が高鳴った。そして、これでもかと。

「この顔ですからよく分からないでしょうが、ほらしっかり見て」

 店内の灯りを全部点け、そばへ寄り、腰を落とした。目線も合わせた。ルイーサも気付いた。表情は変えず、心へ問い掛けた。

(確か、ファード・ジェマール。カディンは、カディンは、俗称だった)

 決意がぐらついた。しかし、あの憎しみが、ためらいを拒否した。 

「ごめんなさい、記憶にないの」

「人違いか〜。学生でしたけど、やっぱり初恋の人は忘れないもんですね。あっ、ファード・ジェマールです。どうも失礼しました」

 ぼやけていた記憶のパズルが、次第に形を整え出した。中学三年の半ば、パリへ渡る年だった。隣り組のファードと何度かデートしたことを。そして最後のデートで、涙を流したことまで。

「学校はどちらの?」 

 あくまでもよそよそしくシラを切った。

「サジェス《レバノンの有名進学校》です。中三の年、その子は突然、何処かへ行っちゃいました」

「テロの街に、テロの日々に、その子はきっと・・・」

「ですよね。ぼくだって、平和な国へ逃げ出したくなります」

 ほろ苦い想い出に、またもや心が騒ぎ出した。鎮めなければと、怒りをたぐり寄せた。なんとか持ちこたえた。店を見回した。 

「偉いわね。その若さでお店を持つなんて」

「お父さんのです。もっとも、親シリア派から殺されましたが」

「親シリア派から・・・」

 家族は反シリア派に、ファードは親シリア派に。この国が、アラブが、イスラムが、分からなくなった。

(これでは同病相哀れむではないか。意趣返しに意味があるのか)

 仇がぼやけた。だが。

「もう、大丈夫よ」

 立ち上がった。よろめいた。ファードがしっかり受け止めた。自然な流れに、愛が、叫びを上げ、沈んだ。左手のチビッコが、脇腹へいった。右手が甘酸っぱい体を抱きしめた。頬を寄せ試した。

「カディン・・・」

 背中のピクリが、うろたえ言った。

「あなたは、いったい・・・」

 トリガーの指が応えた。

『パン!』

 悲しい銃声に、涙が溢れた。微かな声に、心が震えた。

「だ、だれ・・・」

 即死だった。亡きがらを必死に支え、椅子に座らせた。そのまま唇を合わせた。止めどなき涙が、死人の膝へこぼれ落ちた。店を飛び出した。滅茶苦茶に走った。走りながら叫んだ。

「イスラムなんて!イスラムなんて!」

 眼下にベイルートの夜景があった。涙の枯れ果てた女が、人間の哀しさと、矛盾を与えたこの夜へ、つぶやいた。

「さよなら、私の故郷・・・私の過去」

 ケイタイが鳴った。あるじからだった。

「ルイーサ、心配したよ。今夜は飲もう。酔っぱらえば、忘れる」

 なによりの慰めに夢中でわめいた。

「セベ!愛してる、愛してる!」

 高度一万メートル。どす黒い大気圏へ、虚しさを吐き出した。 

「勝負の愛に勝った・・・でも、あのときと較べたら・・・あのときと」


  7 脅迫状


 200X年8月23日木曜日アメリカ、マイアミ

 かつてナポリの修道院長だった男がマイアミにいた。ロベルト・アントニオーニへ夢を語ったレネ・ベラスケスである。二ヶ月前だった。ハイアリアー《 マイアミ北西部にある都市》にフラリと現れ、ネコの溜まり場教会を再建、以後、庶民性と機知に富んだ説教は、地域住民の心の支えになったのだが。

「神父様。小僧がこんなものを」

「小僧?レイチェル、神が嘆いておられるぞ」

 雑用一切を取り仕切る女が、舌を出すと、封書らしきものを渡し、執務室から出て行った。らしきモノを見つめた。A4サイズの子どもが喜びそうな絵柄にピンときた。悪意があると。開けた。スーパーのチラシだった。渋面が裏返した。白地にマジックの殴り書き。読んだ。

「ハイアリアーから出て行け。これは命令だ」

 腹が立ち罵りの言葉を吐いた。

「闇ブッカー《違法賭博組織》め、まだ家族を泣かせたいのか。地獄に堕ちろ!」

 テーブルの端へ目をやった。信者が活けた白いバラで、呼吸を整え、ニーナ・ピアッツイーのケイタイを手にした。短縮に触れた。指が迷った。迷いながら指が離れ、奥へ声を上げた。

「レイチェル!コーヒーを。砂糖無しだ」

 注文を手に裏庭へ出た。遅咲きのヒマワリに、決意を語り、ベンチに腰を下ろした。ブラックをすすった。

「苦いのも案外だな」と声に出し、次は、本音を口籠った。

「ニーナがいてくれたら・・・。バカな。臆病風に吹かれたか」 

 だが意とは裏腹に、美に剛を兼ね備えた女殺し屋が、瞼の裏に現れた。するとあの日あの時が、運命の邂逅が、自然に蘇った。

  

  8 嘆きの壁


 200X年6月イスラエル、エルサレム神殿

 テロで親を失った子どもに生きて行く術は限られている。親戚か、名前だけの養育施設か、道端で物を乞うか、難民に混じって他国へ紛れ込むか、のいずれかである。シリアの孤児レネ・ベラスケスの場合、四番目を選んだ。詰まり親切なオヤジの家族になりすまし、まんまとイタリアへ潜り込んだのである。

 しかし不景気の風は少年には冷たく、お定まりのコースを一直線。気が付けば修道院の見習い坊主になっていた。けれど、おいしくはないが、とりあえずパンにありつけたことは、何よりであり、少年もそれ以上の望みは無かった。そしてそのまま、凡庸に半世紀が過ぎ、最高の料理を口にするようになった。つまり修道院の頂点を極めたのである。では何故凡庸が最高位に着いたのか。

 アッパス《修道院長》の称号は、いかに欲がなく、神の教えに忠実だったかの勲章であるが、レネの場合、欲があり、仕事も適当。ただただフリをしていた、それだけの結果なのだ。その男が、月に一度、喜捨で訪れる聖地で、嘆きの壁で、神との対話を邪魔された。体三つ離れた所から。 

「私は悩める狼です。司祭は何故ここへいらっしゃるのですか?」

 かすれ気味の魅力的な声だ。しかし、狼が女とは。 

「即答出来たらぼくはヴァチカンに招かれた」 

 ユーモアが理解出来たか、狼がすり寄った。 

「私はどうしてここにいるのでしょう?」

「分かれば占い師で稼いでいる」

 含み笑いが更に近付いた。

「楽しい方ですね」

「司祭になるコツだ」

 笑った。遠慮気味に。そしてもっと近寄った。

「欲はありませんか?」

「なければとうに死んでる」

 軽妙洒脱。声に出し笑った。体臭が分かる位置まで来た。 

「結婚したいとは?」

「全然。ばれぬようつまみ食いする」

 もう駄目だと言わんばかりにゲラゲラ笑った。声へ目がいった。掛け値無しの美形が、思い詰めた視線を言葉にした。

「もっと早くお会いしたかった」

「はてはて。これは異なことを」

「悪が悪に耐えきれず・・・ご迷惑ですか?」

「壁の向こうに道はあると思うが」

「是非聞いて下さい。お願いです」

 困った。仕方なく近くのテーブルへ誘った。

「ぼくはえせ聖職者だ。それでよければ」

「わたしはイエスより、生きた人間の声が聴きたい」

「であれば、ここに来る必要は無いはずだが」

「待っていたのです、あなたのような人を」

 レネは無表情を常としていた。喜怒哀楽が表に出なければ、信者は神々しく思い敬うのである。狼の告白もそうだった。目は確かに相手を見据えてるが、あくまでも無限遠であり、虚無さを秘めた無限遠でもあった。

「飛行機は待ってくれない。名は?」

「じゃ急ぎます。ニーナ・ピアッツイ」

「職業は?」

「殺し屋」

 しばしむっつり。やがて口を開いた。

「どうして?」

「仇を討つため、資金を作るため」

「仇とは?」

「マイソルのドン、セベリアーノ・ガルシア。ご存知ですか?」

「ナポリの修道院長だよ」

「じゃ、あの事件を・・・」

「知るも知らんも無い」

 十二年前のナポリを揺るがした殺人事件。話が早いと思った。

「ガルシアの息子を殺したのは、確かにシシリー。でも警察のマフィア狩りは行き過ぎ、無実の父親まで投獄するなんて。お陰で母親は病死、そして兄妹とは離れ離れ」

「決め付けてるようだが」

「カジノホテルは利害が付きまとう。だから地元に配慮があれば、あの事件は無かった。即ち五分五分。政府が及び腰だった理由。しかし途中で本気になった。ガルシアが政治家の尻を蹴ったから。ファーザー、あいつが憎い、憎いよ」

「ファーザー?背筋がムズムズするな」

「お名前を」

「レネ・ベラスケス。ファーザーよりレネの方が嬉しいが」

「やっぱりファーザーで。今言ったのは推論じゃなく真実。何故なら、首相の側近と、仲良しになったんだもの」 

 押し黙った。無限遠を見て鉾先を変えた。

「訓練は?」

「イスラエル情報機関で」

「年は?入隊は?」

「三十。十八のとき」

「悪が悪に云々とは?」

「依頼主はギャング。そして、ターゲットもまたギャング。だから罪悪感は無かった。でも・・・」

「命は命」

「迷い始めたのです。でこうやって」

 義憤を感じたか、レネが断を下した。

「目には目を、真似ても罪は無いな。ある機会にマイソルの執事の妻と知己になった。名はリディア・アバロス。年は二十八。このリディアの境遇が、驚くほど君と似ていてね」

 ニーナが上体を乗り出した。レネがそれをチラリ見て言った。

「彼女が執事と結婚したのは・・・」

「復讐、私と同じ」

 無限遠が真剣な目とピントが合った、話題を転じた。

「実は、ぼくも俗人になった」

「えっ?名誉をお捨てに。何かわけが?」

「十年後は七十。人生、そこまでだ」

「じゃこの後は?」

「マイアミへ飛ぶ。夢を実現するために」

「夢とは?」

「空中に浮かぶ不思議な教会」

「おもしろそう。ファアザー、実現させようよ」

「二億、あるいは三億ドルの金があればね」

「仕事、やめません」

「わっはっは!」

 愉快だと、言わんばかりに笑った。そして戯けた表情で。

「そんなに儲かるの?」

「二億ドルはちょっと」

 穏やかな慈愛の目に、威厳が加わった。

「この先は暗号名がいいな。仮のニーナ・ピアッツイだから」 

「じゃフォックス、フォックスで」

「美しいキツネだ」 

「死んでもいいよ、ファーザーのためだったら・・・」

 ニーナが席を立ち、父親と呼んだ者を抱き締めた。それへ父親と呼ばれし者が、栗色の髪を優しくなぜ、言い放った。

「マラガへ飛びなさい。セットしておくから」

「ファーザーはいつ?」

「三日後に」

「マイアミのどこ?」

「ハイアリアー」

「心配、治安の悪い街だもの」

「人間、夢があれば死ぬことは無い。それじゃ」

「ま、待って下さい。ケイタイは?」

「嫌いでね。しかし、持つかな」

 ニーナが、いやフォックスが、自己のケイタイを渡した。司祭が受け取り、笑みを残し立ち去った。残された女は、壁に向かい、懺悔で無く、ファーザーの息災と、復讐の成功を祈った。


  9 レマン湖の夜


 200X年8月23日木曜日フランス、エヴィアン

 夜。スイス、ボーデクスの港からエンジン付きヨットが沖へ出た。スピードは自転車より増し程度。船を操る女が、長い髪をたくし上げ、コンパスを手にした。やがてナビに変えた。目標ポイントの正確な位置へ舵を切った。腕時計を睨んだ。そしてヨットパーカーからケイタイをつまみ、唯一の友へ繋いだ。

『フォックスよ。ここまで順調』

『何時?』

『二十時五分』

『宴が終るのは二十一時。テラスへはそれから。ちょうどいいわね。帰りは?』

『ヘリが』

『やっぱり姉さん。抜かりない』

『プロだもん』

 笑い声で切れた。手の平を風にさらした。西風だ。エンジン停止、帆を張った。

「準備運動ね」と言って、マストのロープを握り、右舷へ倒れた。

 月光に輝く波が、左右へ散っていった。


  10 長距離狙撃 

 

 200X年8月23日木曜日フランス、エヴィアン

 まどろみは心地良くもあり、悪くもあった。テーブルのグラスを取った。残りの水が目覚めさせ、二十一時二十五分の掛時計に、 

「そろそろね」と言って、立ち上がった。

 遠来の客が訪れるまであと五分。階段を駆け上った。三階自室へ入るなり、ドレッサーを開いた。ミラノコレクション信奉者が、一見チャイナドレスに着替えた。ミラーのセクシールイーサに投げキッス、二階テラスへ向った。  

 控え室に居並ぶ親衛隊が、敬礼、扉を開いた。談笑が止み吐息が漏れた。ガルシアが歩み寄り手を取った。ベリンダ侍従長が椅子を引き座れば、向かいのデメトリオ・バンデラ元老長が、たいそうに目を剥き声を上げた。

「いやはや、この美しさ。クレオパトラも、さぞ悔しがるでしょうな」

「デメトリオ、舌を出してくれる」

「わっはっは!ほれ、一枚しかありませんぞ」 

 いかに帝王の旧友であれど、こなれた世辞、茶目っ気の気質が無ければ、生真面目タイプの心は掴めなかった。要するに、似た者同士ではウマが合わないのだ。上機嫌が言った。

「無人島のディズニーランドが、おかしいほど受けてね」

「タークスカイコス諸島カリブ海の英国領の島々ね」

「行くかい?」

「勿論よ」

 どこかで呼び鈴が、『チ〜ン、チ〜ン』と、歴史の貫禄を告げた。

「セベ。待ち人来るよ」と言い残し、ルイーサが控え室に出た。

 庶務官カタリナが目で笑い、うやうやしく一礼、そして言った。 

「エジプトよりジョー・コダカ様が来られました。ユースフ・カフラー様のお届けものを持参したとのことです」

「お待ちかねよ」

「それではお呼びします。コダカ様、どうぞ!」

 隅のソファーから、学者風の男が荷を持ち立ち上がった。若い親衛隊員に伴われ、ルイーサの前まで来た。

「気分はタイムトラベラー。ジョー・コダカだ。よろしく」

「まっ。ほっほっほ!ルイーサ・ブリオネスよ。どうぞ」

 しゃれた挨拶に場が和らいだ。そこへ、親衛隊隊長フェデリコ・エスピナルが割り込んだ。

「ボディーチェックを」

「必要かしら?この方に」

「しかし、規則なので」

「フェデリコ、もっと人を見るべきよ」

 先生に諭された生徒であり、庶務官が吹き出しそうになった。

「カタリナも入って」

「えっ?よろしいのですか?」

「今夜は特別。遠慮しないで」 

 嬉しさを顔に描いたガルシアが迎えた。夢の夢の、そのまた夢が、いとも簡単に実現した。ほっぺを軽くしばき、いつものように、初対面の相手を観察した。イメージ通りであり、孤高の父と重なった。

「遠路ご苦労さま。私事で遅くなったこと、先ずは詫びて、ユースフとコダカ君に、心から感謝の意を捧げたい、ありがとう」

 伝説の王様、いや帝王は、相当の人物だと踏んだ。次に妖艶美女が、それぞれの人を紹介した。前時代的地位名に古典好きが感心、さっそく荷を広げた。ピカソが現れた。??の視線が、テーブルの端へと移り、支え持つ客と、ガルシアが向かい合った。それへ壁際に座る侍従長が、そばの宮仕えに代わるようにと命じた。いち早く首を振って断り、変わりにブラケットを指した。壁の灯りがすべて消えた。ロマネスク《キリスト教美術様式》テラスが、奇妙な静寂に包まれた。

 シャンデリアの下で熱心に見入る目と、??の両隣りが、面白くもやはり退屈。遠くレマン湖を見た。青白い航跡に目がいった。船が停止した。一キロは余裕であるだろうか。鷹の目が獲物を探るように睨んだ。

「狙撃?まさか。しかし、この程度の波、風であれば・・・」

 目から脳へ。レーダーが警告を発した。 

「灯りを消して!」

 みな一様に怪訝な目。間に合わないと見た。

「伏せて。床に伏せるんだ!」

 デカイ声に圧倒されたか、帝王以下すべてが床へ這った。顧客は命に代えても守る、絵画とて同じ。驚異の反射神経が、ネフェルタリを抱き、仰向けに床を滑った。 その瞬間、

『パン!』、レマン湖に銃声が轟いた。

 額のあった背後の壁に、見事な穴が空いた。正確な射撃だ。ウラ世界を知る者に危機感が走った。

 控え室も慌てふためいた。怒号が走り、武装組が雪崩の如く飛び込んで来た。思わず怒鳴った。

「伏せろ!」

『パン!』

 闇を切り裂いた第二弾が、一人の足に命中、もんどり打って倒れた。苦悶に喘ぐ者を、同僚が引きずり出ていった。エスピナルが腹這いで前進、手摺の間から応戦しようとした。修羅場の鬼が背丈の二つ先へ言い捨てた。

「無駄。その銃じゃね」

「くそ〜、あんなところから」

「長距離ライフルは?」

「無い。あったとしても誰も使えん」

「わたしの部屋にある。チコ、取って来い」

 副隊長チコ・アンセルモが、あるじの命に身を翻した。一分とかからず、イギリス製長距離狙撃銃、重量六・五キロが、隊長の隣りにセットされた。ジョーが、若き日の傭兵時代に帰った。

「L96A1。さすがだ」

『パン!』

 花瓶とバラが散り散りに吹っ飛んだ。 

「ただ者じゃないな」

「特別な銃に興味があるだけ」

「スコープは十倍だが」 

「高けりゃいいってもんじゃない。手入れは」

「所持者で察してくれ」

「タマは?」

「マグナム弾十発、装填済みだ」

「OK!有効射程距離千六百メートル。さて沈めるか」

 配達屋が用心棒になった。  

「コダカさん。頼りにしてる」と、ルイーサが泣かせ、 

「がんばって!」と、カタリナが声援を送った。

『パン!』

 四発目は頭上の石膏芸術、手摺が砕け、ジョーの髪を、上着を白くした。寝そべる者たちが、祈るように白い男を見守った。

「やられっ放しじゃな」 

 うそぶき構えた。照準器に狙撃屋がチラリ映った。ビックリした。

(ん?女・・・まさか)

 ごついライフルが否定した。反撃に出た。十字線ど真ん中に、ヨットの喫水線が入った。重いトリガーを苦もなく引いた。

『ドン!』

 腹に響く音が、テラスを揺るがした。二秒間隔で計八発、水面ギリギリの横っ腹を撃ちまくった。船が衝撃で揺れ、狙撃屋がバランスを失い、湖へ落ちた。いや飛び込んだか。再度確認した。

(あれは・・・やはり女だ。しかし・・・) 

「船が傾いて来たわ」

「うむっ!やったな」

 拍手の嵐の中、船が横転した。親衛隊隊長が力んだ。

「捕まえて来ます」

「無駄。刺客は先の先まで読んでる」

 その通りだった。何処からかヘリが飛来、サーチライトの光芒停止、女を引っ張り上げるや、さっさと消えたのだ。

 悲惨なテラスが侘しい静寂に包まれた。 

「さて、帰るかな」

「帰る?それじゃあんまりだ」 

「そうよ、命を救って頂いたのよ。今夜のご予定は?」

「知人宅で寝るだけ」

「それじゃ少し、私たちに時間を下さる?」

 役者がほくそ笑んだ。 


 一方、腹の虫が収まらないのはフオックス。

『リディア、ガードがいたなんて聞いてない!』

『親衛隊じゃ』

『へなちょこにあんな芸は無理』

『ごめんね。至急調べさせる』

『二発目が船縁を貫通、危なかった。まだ運がある、徹底的に』

『ネズミがそっちにいる。待ってて』

 ヘリがイタリア国境へと闇に消えた。


 迎賓室は豪華絢爛であった。金の柱、金のシャンデリア、天井画、優美な家具、幾多の彫刻、感動を数え上げれば、それこそ切りが無かった。

 所狭しとご馳走が並ぶテーブルに、農夫服が席に着いた。

「似合ってると言ったら、失礼?」

「役者だよ、褒め言葉さ」

 対面が顔を見合わせ苦笑した。宮仕えもクスッと笑い、揚句、スペイン料理前菜と見比べた。だが、耳にした言葉で、ぞんざいな態度を改めた。

「あれは暗殺だ。心当たりは?」

「分かれば既に手は打ってる」

「チャチな組織に一級品は雇えん。それでも?」

「それなら尚更だ。巨悪は片付けたと信じてるからね」

「じゃあ、おやじさんを狙ったのは、雑魚の金持ち」

「おやじさん?」

 飲物だけの両人、腹を抱え笑った。

「死んだおやじとダブッちゃってさ」

「父上と・・・国はどちらかな?」

「アラスカ、それも北の果て」

 想像と近かったか、隣りが、待ってたように口を挟んだ。

「よろしければご職業を教えて?」

「その質問は、これを頂いてからね。なにしろ空きっ腹でさ」

 顔、体、もの言いと、全てに矛盾だらけの男が。豪快に食べまくった。ルイーサは思った。

(ここはお城よ。なのにこの人ときたら・・・きっと、極限の環境が育んだのよ。返り見て私はどう?弁解させて。同じ極限でも、彼は自然が、私は荒廃した国が、と)

 具、てんこ盛りのソパ・デ・マリスコス《魚貝スープ》が、見る間に片付いた。ナプキンが口元へいき、合わせてマル秘を喋った。

「職業上、本当は教えない。でも、今夜は例外にする。要人警護」

 口元のグラスが離れ、真顔が返した。

「それで得心した。どうだね、わたしたちも?」

「たくさん家来がいるじゃない」

「他国はそうはいかん」

「考えて下さる?」

 ルイーサも本気だ。取引きのチャンス到来。

「マイアミの真意を、聞かせてくれたらね」

 次はソーセージ・チョリソ《香辛料入り》。大好物だ。高級ワイン、スペインベガシシリア社製ウニコが、いっそう食欲を煽り、対面の困惑顔をよそに、ひたすら食べまくった。そして、胃袋が幸せになるや、ルイーサが口火を切った。

「マイアミって、アントニオーニのこと?」

「そう」

「どうしてそれを?」

「顧客だもん」

「ユースフとはどのようなご関係?」

「変な友人でもあり、ボランティアの顧客でもあり」

 子の無い身。千変万化の表情に、ふと母性愛が湧いた。

「宅配先を知ったのはいつごろ?」

「今朝」

「じゃあ、偶然を利用したんだ」

「宝くじに当たった、そう思ったよ」

「あるのね。そんなことって」

「愛されてるからね、幸運の女神にさ」

 あるじが見事な銀髪をかき、バリバリの東欧女が吹き出した。今度は客が攻勢に転じた。

「マイアミだけど、ひょっとして逆じゃない?」

「逆?って」

「コンテナヤードが目的で、カリブの無人島は付け足し」

 二人が顔を見合わせ、おやじさんが説明した。

「ハナから勝ち目のない入札に首を突っ込むバカはおらん。もっとも、米政府がよそ者に配慮してくれるなら、君の弁も一理あるがね。それと念のため言うが、カリブリゾートは本気だよ」

「じゃ、ライバルになってもいいか、は?」

「ジョークだよ。マイアミに新風をと、期待してね」 

「ロベルトもおやじさんを買ってたな。よしっ、ここは俺が仲を取り持つ。地主、ロベルト。施設、おやじさん、いかが?」

「頼めるか?」

「お任せ。今だもって夢見る少年だもん、きっと上手くいく」

「わたしと同じだ、わっはっはっ!」

 寡黙でなる男が哄笑し、ルイーサが目を見張った。気が付けば紅茶があった。匂いを嗅ぎ、産地に想いを馳せていると、明快、歯切れの良い口調が、辺りをはばかるように言った。

「スペイン語、お上手ね」

「いてると思う?命知らずの通訳がさ」

 笑ったルイーサが、隣りを目で指し、離れて見守るベリンダ侍従長が、歩み寄り顔を覗いた。

「眠っておられます。お疲れになったのでしょう」

「早寝、早起きだもの。コダカさん、許してあげて」

「長生きの秘訣、気にしない。はいいが、とりあえず寝かせなきゃね。寝室は?」

 ジョーが自分より三割増の体を、軽々と背負った。ルイーサが目を見張り、微笑、侍従長とともに先導し廊下へ出た。そして、お口アングリの親衛隊員が、帝王の歴史的光景を見送った。

 やがて、重責から解放されると、再び迎賓室へ。見れば注文したエントゥレメス《野菜サラダ》が置いてあった。本来は前菜だが、いつも通り、逆でリクエストしたものだった。食べ終わるころ、ルイーサが戻って来た。

「半分はタヌキ。気分は、もう嬉しくて、嬉しくて。うふふ」

「年寄り、子どもには、優しくしなきゃね」

「耳が痛いな。どう、庭で飲み直さない。と言っても紅茶だけど」

 三日月、星空、ドレッシーな美人と、ガーデンティータイムは事の他ロマンティック。だがここはやはり王宮。周囲の凛々しい親衛隊、如才ない宮仕えと見て、いきなりストレートを。 

「敵対する者がなければ、身内と考えるのが自然」

「ええっ!」

「ルイーサと呼ぶ」

「じゃあ、私はジョー」

「いいかいルイーサ。先ほどの狙撃屋みたいなのは、ありきたりの仕事はしない。客を選ぶんだ。成功すれば即引退、優雅な余生と思ってるからね。で、客は安心して頼む。この安心。これこそが身内説なんだ」

「いったい誰が・・・」

「偉い奴に決まってる。それも相当のね。てことは、マイソルを我がものにするため。もしくは、帝国のボスになりたい」

「帝国?そうよねえ。じゃ教えて。差し当たってやる事」

 種々雑多な悪。少し間を開け言った。

「早急にマラガへ戻る。後は自分で考えて」  

「危機感は持ったけど、どうしていいのか・・・」

「平和ボケ、だもんね。先ずは今夜を教訓にする。そしてじっくり考える。自ずと策は出る」

 ため息のルイーサ。はずみでスプーンを落し、拾うつもりが止められた。

「人といる間は絶対目を外さない、これ常識。要するにまわりの者を使えってこと」

 ジョーが拾った。シースルー調、短めスカートへ目がいった。

「ネフェルタリなら、色香は王にだけ」

 一言一句が胸に突き刺さった。庶務官がやって来た。   

「お洋服、きれいになりましたけど」

「早いのは嬉しいが、他に着たい服があってね」 

 含みのある我がままに戸惑った。

「それじゃ後ほど」

「美人は多いほど楽しい。キミも座って」

 ルイーサよりひとまわり若いカタリナ、舞い上がり椅子へ着地、追加の一杯を口にした。そして次なるひと言で、吐き出しそうになった。

「デートしない?」

 なんとか踏ん張り応えた。

「あの〜、光栄ですけど、夫が・・・」

「夫ねえ〜、わっはっはっ。実は試したいことがあってさ」

 エジプトの使者が、王に思えてきたネフェルタリ。

「聞かせて」

「この辺の住人は、当然調査済みだよね」

「お城の譲渡に反対の家が多かったの。だから余計に」

「別荘もあるけど」

「それが何よりも心配だった。第三者が借りてる場合もある訳だし」

「そこで試そう。二人の日課は?」

 カタリナが応えた。

「岸辺の散歩です。夜はルイーサ様だけで」

「夜?何時ごろ?」

「だいたい今時分です」

「仕事が終わってでしょ、どうしても遅くなるの」

「おやじに言う。出来る女をこき使うなと」

 吹き出した。小気味良い語り口が大受けだ。 

「楽しいです。コダカさんといると」

「半分子どもだからね」

 そう言って目尻に涙を誘い、物々しいフェンスまで歩いた。

「無粋なこれを見りゃ敷地が一目瞭然。中で気になると言えば、東の桟橋に突き出三軒、あれは別荘に見えんが?」

「民家よ。桟橋は共同で使ってる」

「譲渡の賛成派だな」

「ええっ。無人の城に不安があったみたい。とてもいい人たちよ」

「東は良き隣人。西は城が壁。デートはいらんな」

 がっかり庶務官が、足した言葉で笑み、そしてピリッとした。

「でもさあ、簡単に下がらん奴でねえ。フォーマルなドレスに着替えてくれる。敵を欺くためにね」

「それじゃ私のを」

「カタリナは百六十五センチ、五十一キロ。ルイーサは二センチ高く、一キロ重い」

 言葉をなくした主従。

「髪も黒。遠目では先ず見分けがつかん」 

 従、我に返り、飛んでリクエストに応じた。戻って来た。まあまあで冷やかした。

「もし、カタリナの旦那がこれを知れば?」

「すれ違い夫婦。鼻で笑います」

「ネフェルタリ、休暇をあげなさい」

「じゃ私は?」

「おやじに重ねて言う。自分も手伝えと」

 爆笑。果たして何をやってるのかだが、落ちは心得ており、 

「庭の灯り、全部点けて」と、近くの宮仕えへ催促。

 ナイター設備がフル稼働、夜が昼になった。

「これで海からの敵は逆光。判断が甘くなる」

 興味津々の親衛隊から目立たないヤングを呼んだ。

「農夫も悪くないよ」

 用心棒が親衛隊に化けた。風雲急を告げる帝国。罠には罠だと、直感のパフォーマンスが始まった。


「マイソルナンバーツーをしとめたら、十万ユーロ」

 降って湧いた儲け話に、田舎ヤクザが飛びついた。ターゲットの情報から知恵を絞った。楽して大金をゲットする方法を。そして、思いついた。

 

 副隊長チコ他二名が、遊歩道へ降り、演技者が続いた。そしてルイーサは、警護の輪の中から見守った。先導が桟橋前で歩を止め、ライフルを海へ向け構えた。遊歩道の張りつめた空気へ、前がわざと声を張り上げた。

「ルイーサ様!思索にはとっておきの夜ですね」

 ドキドキの胸中が、覚悟を小声で伝えた。

「コダカ様。もし、わたしの身に何かあっても、悲しまないで下さい。あるじやルイーサ様のためですから」

「今どきの忠義、感に入った。庶務官の上のポストは?」

「執事です」

「その上は?」  

「元老。あるじ直属です」 

「デメトリオはナンバースリーってことか」

「みんな友だちなんですね、コダカさんには」

「風来坊だからさ、誰にも遠慮無し。その遠慮無しがルイーサへ進言する。右ウデのポストを作れとね」

「そんな!」

 演技者は呆れていた。風来坊の傍若無人さに。物怖じしない大胆さに。そしてこうも。

(夫がこんな人だったら・・・)

 憧憬がつぶやきになった。その矢先だった。桟橋に繋留されている船から、二つの影が飛び出したのだ。闇に慣れた目がドーベルマンだと教えた。しかも明らかに普通で無い。

「デュドネさんのペットです」

「桟橋共有者か」

 演技が消え失せ、喉の奥から声を絞り出した。

「は、はい!でもなぜ?こんな夜中に・・・」

「脅迫されたな。キミはチコのところへ。さあ、走れ!」 

 カタリナは言われた通りに、だがジョーは一歩も引か無かった。ドーベルマンと闘う。誰しもが無謀だと口走った。拳銃が、ライフルが、いっせいに二頭へ向いた。そしてその間隙をついたか、船が、中型ヨットが、桟橋を離れた。ルイーサが周囲へ叫んだ。

「誰かデュドネさん宅へ!」 

 宮仕えが、敷地から二軒隣の瀟洒な家へ走った。ルイーサの祈りの視線が、命知らずの一点に注がれた。

 厳しい調教に耐えた犬がなぜ人間に?答えはただ一つ。オーナーの命令には絶対服従する、賢い犬の宿命だった。だがしかし、

「人に一度たりとも牙を剥けば、殺す他無い」と、断を下した。 

 先ず一頭。これをしとめる。冷徹な頭脳コンピュータが、小石の広がる水際へと命じた。軍靴も確かめた。爪先の硬さが味方になった。波打ち際の足場を踏み固め、半身に構えた。二頭が桟橋の角から斜めに飛び、吠え、猛然と突進して来た。

『パン!パン!パン!パン!』

 チコ、他のライフルが、拳銃が、いっせいに火を噴いた。が、かすりもしなかった。小石を蹴散らす殺気が、無心の境地に迫った。どう猛なる刺客二頭が視野一杯に迫った。

「オオカミは飢えを凌ぐため。じゃこいつらは何のため?ただ単に主人のため?」と言い捨て、戦闘モードに入った。

 飛びかかった。その寸前、体を右へ反らした。野良犬同然が、目標を見失った。半回転から繰り出す、入魂の右回し蹴りが、軍靴が、一頭のヤワな腹を蹴り上げた。湖へ吹っ飛んだ。皮膚が裂け、骨を砕かれ、ジョーの顔へ鮮血を残し、湖面に浮かんだ。日本空手の奥義に、全ての者が息を飲んだ。そして、残り一頭との対決を手に汗し見つめた。

 コンピュータの次なる一手は、水の中へ誘うことだった。岸辺を東へ走り徐々に深さを足していった。戦友の死を何と思ったかだが、気にも止めず追って来た。脛が少し波をかぶリ出した。反転、犬に立ち向った。走った。全速力で。間が詰まった。ジャンプ。犬も負けじと飛びかかった。が、平地の勢いは無く左へ交わした。右腕を首へ回し、そのまま落下、水柱が上がった。馬乗りの両足が胴体を締め付け、怪力が両耳を引き絞り、鼻先を水底へねじ込んだ。グイッ、グイッ、更にグイッと。死に物狂いが、もがき、抵抗。やがて、静かになった。岸へ引きずり上げた。 

 純な犬へのやるせなさが瞑想、合掌。これに真の優しさを見たカタリナ。震えの止まらぬ体、顔と寄せ言った。

「は、はじめてです、こんなに感動したのは。血、拭きます」

「いいよ、そこで洗うからさ」

 水辺でジャブジャブやれば、ルイーサも息を弾ませ駆けつけた。

「ケガは?」

「見ての通り。それより犬。ていねいに葬ってあげて」

「敵だったのよ」

「いや。ほんとは友だちだ、俺にはね」

 この時だった。女心が、母性愛を押しやったのは。様子見の宮使いが、額に汗し戻って来た。 

「インターフォン、電話、いずれも応答がありません」 

「カギは?」

「掛かってます。隣家の話だと、八時ごろまで灯りが点いてたとの事。連れて行かれたのでは」

「用済み、始末、先が見えてる。家族は?」

「夫婦だけ。譲渡騒ぎで一番お世話になったの。でも殺すなんて」 

 即断男が、遠ざかる船影から城の桟橋へ目をやった。大型クルーザーの影にモーターボートがあった。

「あれを借りる」

「追いかけるの?」

「良き隣人だろ、助けなきゃね」

「もうこれ以上・・・警察に任せましょ」

「時間が無い」 

 エジプトの王に従った。ジョー、チコ他親衛隊二名が、キャビンへ乗り込んだ。ウォータージェット高速艇が、月光に浮かぶクルーザーを追った。助け人が吹っ飛ぶ夜景、速時計と見て声を上げた。

「五十ノット(約時速九十キロ)か、速いな」

 ラダーを操るチコが胸を張った。 

「最新鋭です」

「じゃ工夫するか」

「どんな?」

「スイス警察」

「なるほど、読めました。北東に舵を取りましょう」

「どう?俺の助手に」

 はなからジョーク、肩をすくめた。

「皆も聞いてくれ。高速艇、制服が、芸をしろと言ってる。そこで、スイス警察水上犯罪課をでっち上げ、化ける。ポイントはいかにそれらしくやれるかだ。自信は?」

 道を間違えたか、おしゃれ二名が、口を揃え言った。

「俳優志望でした。任せて下さい」

 東へ進むクルーザーに、北からウォータージェットが突進、五分で追いつき並走した。投光器に人影は映らず、オシャレヤングが、流暢なフランス語で、ソフトに怒鳴った。

「スイス警察水上犯罪課だ!ローザンヌの強盗犯がレマン湖にいる。船を止めてくれ!」

 だが返事無し。変わって顔に似合わぬヤサ声が、ドイツ語でがなり立てた。

「スイス警察だ!キャプテンはいないのか!出て来い!」

 スピードは落ちた。しかし、なしのつぶて。リピートした。

「命令に従え!止めろ!止めるんだ!」

 止まった。キャビンハッチが開き、ランプを手に小男が出て来た。軽い面構えが、警察を見回し、口を歪め皮肉った。

「そんなのあったかよ?」

 いきなりピンチだ。当然、ここはエースが交わすことに。 

「新しい部署だ。船で逃げるのが多くてね。キミ一人かな?」

「いや。連れがいる」

「じゃあ呼んでよ。手配書の顔と違えば、退散するからさ」

「ふん。まっいいだろ。ブルクハルト!ツラを拝ませろ」

 ノッポが小男の横に並んだ。すかさずライフル二丁が、ゲームセットだと威嚇した。主役が飛び移った。小男の歯ぎしりを笑い、ベルトから銃を抜き取った。そして凄んだ。

「両手は頭、ケツは床。早くしろ!」

 不覚を罵り合い、観念した。老夫婦はキャビン奥の物入れに放り込まれていた。猿ぐつわを取ると夫が号泣。事情は聞かずとも分かり、舵を取らせた。凸凹コンビの尋問に入った。

「お喋りはチビ。名は?」

「デュドネ・ラフォン」

「国は?」

「スイスだ、ベルンだ」

 しばかれた。

「わ、わかった。マコン、マコンだよ」

「命令した奴は?」

「親分か?ならオレだ」

 また、張り手が飛んだ。小男がびびった。

「問いを変える。今夜の作戦はバッヘムが考えたのか?」

「ああっ。警備、ガード、厳しかったからな」

「田舎のチンピラにしちゃ上出来。さて次は無いぞ。頼んだ奴は」

「知らねえ、オール電話の仕事じゃ応えようがねえだろ」

「掛けろ」

 ケイタイ、六日前の着歴、番号と押し、ジョーが奪い取った。七度目のコールサイン、そして、見下したような女の声が。

『フオックスよ。 沈黙はしくじったってこと。マコン《フランス西部の街》じゃいきがってるけど、おのれを知るべきね。アデュー、ラフォン』 

 切れた。聞き耳のチコが、ポーズでぶるった。 

「恐ろしく冷たいって言うか、ぞ〜っとしますね、あの声」

「わざとさ」

「はあ?」 

「声も武器だってこと」

 桟橋へ戻った。既に生存は連絡しており、再三の活躍に主従が駆け寄り、飛びついた。ひとしきりしてチコを呼んだ。

「ローザンヌまで送ってよ」

「こいつの足がよほどお気に召したようですね」

「そう、速いのは大好き」

  慌てたルイーサ。

「このまま去られたら、あるじがなんて言うか。お願い、お礼をさせて」

「気にしない。世話焼きだからさ」

「不思議ね。今まで知らなかった人が、わずかな時間で私には無くてはならない人になった・・・心に正直でありたいから話す。私に変化が起きてる。何だろう。そう、限界を知ったの。女の」 

「いいことだ。進化するためにはね」

「進化?うふふ、そうね。じゃあ、チェック《小切手》だけでも」

「甘えるか」

「いくらでも」

「冗談。ルイーサ、敵は女だった」

「女?まさか」

「事実。二度、スコープに映ればさ。ヤクザを使ったのも、失敗したときの二の手。さて、極限の訓練に耐えた女が、この先何をしでかすか」

「恐い・・・」

「今、俺は思う、恨みで無く、カネであって欲しいと」

「どう違うの?」

「執念ほど厄介なものは無いからね」

「来てくれる?勿論仕事として」

「乗り掛かった船、よって仕事抜き。それにさ、俺の信じる神はお人好しでね。困った人には力になれってさ。近々行くよ」

「あなたって人は、あなたって・・・」 

 語尾は声にならず、カタリナの感涙に、ルイーサがつぶやいた。  

「幸運は、実はこの私だった」


『ネズミの報告。ガードは遠来の客。風体は普通。なのにドーベルマン二頭と闘い、殺した。スキル、パワー、ずば抜けていたと。名前はコダカとかジョーとか。察するにジョー・コダカではないか。いずれにしろこの男には要注意』

 イタリア北部の灯りへ、フォックスが、ファイトを投げつけた。

「コダカ。覚えておいで!」


  11 ドリームクラウン 

 

 200X年8月23日木曜日スイス、ローザンヌ

 自称カモメのマリーが、客室ドアを薄目に開いた。シェードの柔らかい光の中で男が眠っていた。そっと足を忍ばせベッドへ寄った。理性を備えた緑の瞳が、子を案じる母親のような目が、客の寝顔を見つめ微笑んだ。そのままチェスト上の衣服へ視線だけ移した。清潔なスタンドカラーシャツ、横のおしゃれな制服と見て、クスッと笑った。そして亡夫のパジャマ姿へ目を落し、足元のシーツを胸まで掛け、額にキスし、リビングへ向った。

 バッヘム博士が帰るところだった。

「完全に沈没してたわ」

「安心したよ。鉄人も人の子だったからね」

「港まで迎えに行って、とりあえずシャワーで、気が付けばベッド。せっかく来てくれたのに、ごめんねフェリクス」

「どのみち朝会える。プロムナードでね」

「あれじゃどうかな」

「賭けるかい。用心棒が日課をさぼるかどうか」

「なら、走るに」

 互いが表情を楽しみ笑った。

「だって、走るのが嫌になったら即引退でしょ」

「賭けにならんか。二人とも知ってたんじゃね、はっはっはっ!」

 脳工学者、フェリクス・バッヘム博士が帰途についた。見送った。その足で、近くのレマン湖畔プロムナードを歩いた。フランス、エヴィアンの寂しい街灯りが、

日付がとっくに変わっていることを、フリーライター歴二十年の女へ教えた。

 街灯の下で足を止め、ベンチに腰を下ろした。ウインドブレーカーから今日届いた葉書を抜いた。差出人は新堂香織、沈没客の従妹であった。投函地、カザフスタンで笑みを洩らし、人気写真家を思いながら裏返した。文面は日本語で、以下の通り。

『故郷を忘れそうな日々。マリー、元気、だよね。兄貴からうれしい便りが届いたので報告。九月早々、ニューギニアへ行くんだって。革命指導者の亡命幇助が仕事らしいけど、せっかくだし、この際便乗しちゃおうかな、なんて。兄貴はニューギニア、わたしはお隣りの天国に一番近い島、パプア。で、原初の人たちに今を問う。いかが?カモメのお姉さんも。返事、首をなが〜くして待ってる。簡単にて申し訳なし。香織』

 日本語の味わい深さが、差出人のキャラを表しており、久し振りにルポ屋、マリー・ローゼンの血が騒いだ。ベンチを離れた。歩きながら南空を仰いだ。アルプス最高峰モンブランが、月光に映え、その鋭い山容が、香織の従兄とオーバーラップした。若くして夫と死別し、独身を貫いた想いが、レマン湖の風に吹かれた。 

「端正な顔立ち、決断力の早さ、しゃれたユーモア、無鉄砲とも言える勇気。あの事件のあと思った。これでカモメは、一羽でさすらうと」 

 家へ戻り、書斎から星空を眺めた。

「もう、ひと昔前もの話しだなんて・・・」

 熱いモカを両手で包み、タイムマシーンに乗った。旅行くカモメが、翼を休め、あのときの、ジョー・コダカと会うために。

 

 ドリームクラウン。人間の記憶を映像、言語で再現する驚異のマシン名である。発明したのはバッヘム兄弟。兄フェリクスが、脳信号解析、設計を、弟ギュンターがソフトウェア制作と、言わば脳工学と電子工学の異端児が、アインシュタインと同じドイツ人の血が、この神なる創造物を世に使わしたのであろうか。

 スイスらしいどんより曇った十一月の朝だった。さして嬉しくもないと言った声が、受話器から流れた。完成ではなく、失敗の間違いでは。そう思えるような、フェリクスの口調だった。

 開店前の花屋で、無理を言って祝いの花束を買い、バッヘム研究所を尋ねた。夫人が明るく笑い言った。

「変には慣れてるけど、今朝は特別、うふふ、変。入って」

 コンピュータが管理する研究室へ通された。王冠と似たようなものを手に、博士が待っていた。

「おはようマリー。さっそくだが、冠ってみるかね?」

「私が?」

「冠るだけ。本当は試したいがね」

 そう言って笑い、王冠をマリーの頭に載せた。鏡を渡した。

「王女のようだわ」

「宝石も加えるべきだったな。はっはっはっ、まっ、冗談だが」

 冠を取りトルソ《胴体だけの彫像》へ移すと、博士が無念の表情を崩さず言った。

「実は、嬉しくないのだ。DC《ドリームクラウン》の誕生がね」

 奥歯にものが挟まった電話の声が、明らかになって来た。

「分からない。素晴らしい発明よ」 

「悪意ある者が、この世にいなければね」

「悪意?あっ、そうか。確かにそうよね」

「理論の段階から危惧していたが、完成して見ると、情熱を退けることが出来無かった自分に腹が立つよ」 

「それじゃ、DCをどうなさるの?」

「今朝、ギュンターと話し合った。その結果・・・」

 そこで話をやめ、プレゼントの花束を嗅ぎながら言った。

「壊すのは勿体ないだろ?」

「勿論よ!」

「ギュンターがかく言った。天使と悪魔を兼ね備えたドリームクラウンに、天使の部分だけを利用する方法が、必ずあると」

 そこで間を置き、道行く老夫婦を眺め、話を続けた。

「あったよ。脳医学に貢献すると言う。例えば認知症。DCは脳と対話が出来る。対話は劣化した脳細胞に刺激を与え、思考、記憶することを思い出させる。これで記憶力は復活する。認知症は無くなるんだ。無論対話は一方通行。つまり患者の脳からは何も引き出せ無いってことだ。DCは特化するよ、医学にね」

「大賛成だけど・・・」

「だけど?ふっふっふっ。マリー、DCの最初で最後の仕事を見たいと思わないかい?遠い国だがね」

「ジャーナリストよ、何処だって・・・何処へ?」

 マリーの怪訝な表情を楽しむように博士が応えた。

「アメリカ、シアトル。私たちのスポンサーであるライフイノベーションが、DCを使わせてくれと頼んで来た。先ほどね」

「ソーシャルネットワークの天才、あのヨセフ・フォークナーの・・・」

「うん。あらましは機内で話すが、ある事件にヒントを与える、まっ、ポアロみたいなもんだね、DCは。わっはっは!」

「ギュンターは?」

「ロマン派が旅する先は?」

「ほんとノルウェーが好きなんだから」

 訳の分からぬまま、大急ぎで旅支度。十時にはジュネーヴ・コアントラン空港にいた。二時間後、ロンドン・ヒースロー空港へ到着。アメリカ大使館員の案内で待機中の政府専用機に乗った。博士が説明した通り、重大な事件であることは、もう疑い無かった。 

   

  12 奇跡の映像 

 

 199X年11月アメリカ、シアトル

 スイス時間十日二十二時、シアトル時間当日十三時、米政府専用機は、アメリカ西北端の空港へ舞い降りた。息つく暇も無く関係者と警察ヘリに乗った。雪のレーニアワシントン州にそびえる標高4392メートルの成層火山やピュージェット湾が流れ過ぎ、眼下に近未来ゾーンが迫ると、マリーは思った。

(時差九時間からかすめ取った四時間。四時間でいったい・・・)と。 

 ライフイノベーションCEO、ヨセフ・フォークナーのねぎらいも早々に、電気自動車へ乗った。色褪せた落葉の絨毯を縫う道は、春であればと思うも、好天気と若い東洋人のウイットで、疲れも忘れ、A0研究棟へ着いた。直ぐ様管理官が、白衣、シューズ、ヘッドキャップ、マスクと手渡し、素早く身に付けた。高鳴る胸がブルーのひと際濃い場所でストップ。CEOが壁面を見つめた。顔認識カメラがあるのか、ピンクの光彩を放ち、壁が左右に別れた。いよいよだ。中へ入った。 

 コンピュータゾーン中央に鎮座する医療椅子、そして話に聞いた女と目に飛び込んだ。思わず胸の内で微笑んだ。頭部の包帯が無ければ、まるで昼寝の最中のように思えたから。しかし直ぐに謝った。未知の実験に望む、勇気ある重度障害者へ。 

 CEOがスタッフ五人、客二人と紹介し、患者のアニー・オルコットを囲んだ。先ず現在の睡眠状況から入った。LI《ライフイノベーションの略称》専属医師アラン・ギレットが説明した。

「メラトニンで眠ってますが、治療効果を考え、量は控えてます。浅い夢を見る程度ですから、覚醒は六十分ほどで」

「じゃ、のんびり出来る」

 フェリクスは知っていた。いついかなる時も、余裕が結果に繋がると。続きチームリーダーへ問うた。

「ミスター・マグレガー、準備の時間は?」

 LIきっての精鋭が、背筋を伸ばし応えた。

「ベンとおっしゃって下さい。そうですね、三十分もあれば。送って頂いた配線結合図、覚えてますから」

「あれを?どうかね、僕の研究所に?」

「フェリクス。我が社を潰すつもりかい?」

「はっはっは、わかっとらんな。このうえないLI賛歌だと」

 CEOも知っていた。しびれる時はジョークがなによりだと。 

 ギレットが包帯を取り、髪の無い右側頭部の傷口へ、新しい絆創膏を当てた。代わってベンの両手が、ジュラルミンケースから王冠を持ち上げ博士へ渡した。最後に天才科学者が、万感の想いを込め、アニーへドリームクラウンを乗せた。マリーは感心した。理知的容貌に良く似合ってると。スタッフが詰めに取り掛かった。

「さて、この間を利用して何をするかだが」

 顔、声、体格、オール子どものフォークナーの問いに、マリーが、答えを教えた。

「事件の詳細を教えて頂ければ」

 これに対し、ジョー・コダカと名乗った東洋人が、銀縁丸眼鏡に触り、横から口を挟んだ。

「ヨセフ、極秘のオペレーションだ。何故ジャーナリストを?」 

 何故は、むしろこっちだとマリーがむくれた。ボディーガードが雇い主を気安く呼び捨てたうえ、普通サイズの体と学者面。大男の専門分野とはずいぶんかけ離れている。正直が顔に出た。察したフォークナー、先ずコダカの疑問から答えた。

「博士の友人であること。そしてこれは彼女の弁だが、見たもの聞いたもの一切を、沈黙の貝に閉じ込めるとね」

 満足のルポ屋が継ぎ足した。

「当然でしょ。フェリクスの安全を考えれば。でも指摘は当然ね」

「悪かった、ミス・ローゼン」

 素直さが疑問に拍車を掛けた。

「どう見ても、うふふ、見えない」

 渡りに船の子ども大人。我がことのように自慢した。

「ロスの街中で危機一髪の小男がいてね。救ったのが目撃したコダカ。頭の回路がショートしたボクの信奉者三人を、五秒で片付けたんだ。美しい技でね。格闘技世界一、僕は信じて疑わないよ」

 照れたコダカから、暗い表情の実業家へ話を移した。

「あらかじめ言っておくけど、当社は事件に関与していない。ただただ、こちらの親友が、被害者のアニーが、気の毒でひと肌脱いだだけ。アレックス、説明して」 

 小型航空機メーカー、ニューフユーチャー社主、アレックス・ハモンドが、アニーを見つめ、おもむろに切り出した。

「四日前、当社のメインコンピュータがハッカーの侵入を許しました。目的は未完成の設計図、ウルトラソニック。二人乗りジエット機ですが、型は誰もが知るUFOと同じ、要するに円盤ですね。速度はハイパーソニック《極超音速》を越え、エネルギーは地球温暖化に配慮した、大気中の酸素と窒素。それが、それが、いとも容易くハッカーの手に渡るなど・・・」

 悔しさ剥き出しが、一呼吸、続けた。

「社運をかけたプロジェクトです。悩んだ末、ヨセフへ相談したところ、ネット犯罪の適任者を紹介してくれました。シアトル市警、ダン・クロフォード警部補です」

 ぱっと見、エンジニア風へバトンが渡った。

「資材開発課に解雇された者がいた。ブライアン・ヘニングだ。解雇理由は無断欠勤が多い事。そんな奴に限って、素行を棚に上げ、根に持つから動機は十分、アパートへ行った。引っ越して間もないことが、クロの印象を与え、ヘニングの行方を追った。それが一昨日だ。そしてその夜だった。流体力学課主査アニー・オルコットの両親が、連絡がつかないと署へ尋ねて来た」

 バトンがハモンドへ戻った。どこか異次元の女を見つめ、堪え難い心情と、DCにすがる想いが、心の叫びと化した

「いいですか。喋れない、聴こえないのアニーが、職場で困った事など一度たりとも無いのです。何故なら、苦労して読唇術を学んだからです。それがこんなことに・・・責任は僕。博士、お願いします。まだ二十八才です。この神の子に、記憶を、どうか記憶を!」

 ギレットが継ぎ足した。

「やはり神の子ですね。記憶は奪われましたが、ほんの数ミリで、脳が、命が、助かったのですから」

「情報漏洩の謎は社内に暗い影を落としています。誰もが疑い合う悲惨な状況と言っても差し支えありません。そんな中でアニーがただ一人カヤの外、もうお分かりでしょ。ヘニングはそこに付け入ったのです。設計図の要は暗号化してますから、数学者の、彼女の能力を利用するために」

 ハモンドの推測は合理的で現実味があった。それを更に、警部補が後押しした。

「彼女には、吐く気など毛頭なかった。機密を知っていようが、いまいがね。そして昨夜だ。拉致された場所から、隙を見て逃げた。犯人、ぼくは複数だと思うが、その一人から撃たれた。かすり傷だが様子がおかしい。試した。質問攻めだ。反応無し。目も死んでる。記憶喪失は明らか。加えて重度障害者。これは好都合だとばかりに

会社の門前に遺棄、本気度を示唆した。それがこのメールだ」

 コピーが博士の手に渡った。マリーが顔を寄せ、文字を追った。

『パズルは共産圏の暗号屋が解くだろう。五千万ドルが高いか、安いか、まっ、ハモンド次第。上を呈示すれば、ハード、ソフトの全てを抹消する。当然、記憶もね。信用できなきゃ話は終わり。製品は軍用にも可能な器。大統領とも相談すべきだな。最後にXは生粋のアメリカ人であることも付け加えておく。腹が決まれば以下の通り。明日十七時までに、クレディスイス匿名口座、SE66A54T32TLEへ振り込む。確認次第約束は果たす。残り八時間。ぼやぼやしてるとあっという間だ。PS:哀れな子犬が、更に哀れになった。捨てる?無いよな。はっはっはっ』

 怒り心頭のマリー、強い口調で吐き捨てた。

「善人ぶった悪党。許せない、絶対許せない」

 やるせない沈黙へ、CEOが、事件後の経緯を語った。

「友人のマッコイ下院議員が大統領へ伝えた。二つの夢に驚き、興味を持ったことは、旅程のスムーズさで理解してもらえたと思う。しかしマッコイはぼやいてたよ。FBIを断るのは、そりゃ大変だったと。アメリカの国防、国益が掛かってるから、まっ、分かるけどね」

「それだよ。FBIを蹴ったんだろ。こっちのプレッシャーもな」

 援軍無しの捜査。開き直りが苦笑にあった。ベンがやって来た。

「博士、OKです。いつでもどうぞ」

「CEO。アニーの家族へは?」とマリーが、当然の問い。

「勿論ね。母親が淡々と言った。私が娘なら、喜んでドリームクラウンを冠るでしょう、と」

 一語一語噛み締めるように応えた。誰もが胸を熱くした。心遣いの決心に、未知への挑戦者に、そして、健気なモルモットに。場がしんみりした。これではと、博士の気合いが飛んだ。

「記憶を取り戻す!最初は百二十秒、二分だ!」

 四つのワゴン上のマシンがカラフルに光った。DCの後部から、髪をくくったような結束線が床を這い、最初のマシン、脳信号増幅装置へいき、脳信号解析システム、視覚プログラム、言語モジュールへと続き、そこから先は無線LANで大型コンピュータと繋がっていた。

 王冠の額の位置を調整、博士がメインスイッチに触った。アルプスを模した峰々が青く輝き出した。博士の指がキーボードを滑った。アニーとの対話が始まった。

 六十秒経過。これと言った変化は無い。未来空間が重苦しい雰囲気に包まれた。しかし、博士は泰然としていた。タイムリミット。十分の休憩に入った。

「ミスターハモンド。アニーは左利きじゃないかな?」

「ええっ、そうです。それが何か?」

 眼鏡の奥が笑った。脳を知る者が説明した。

「人の意識、記憶、視覚などが働くのは、おおむね左脳。DCは後頭葉の左脳、特に言語野へ話し掛けた。だが返事は無い。しかし左利きであれば右脳に語るべきだった。これまでのデータがその事を実証してるからね。安心したまえ、アニーは応えるよ。どうしたの、ってね」

 その通りだった。二度目の対話が始まった直後、言語モジュールの液晶グラフが、微かに、緩やかに、そして激しく波打ち出したのだ。

 場がどよめき、ベンがメインコンピュータの若手に怒鳴った。

「音声文字、もっとクリアに!」

 対話に耳を傾けよう。無論、博士のパソコンとであるが。 

『わたしはどうしたの?』

『記憶を失ってた。しかしもう大丈夫、アニーは普段のアニーさ』

『治してくれたの?』

『きみが冠ってるものがね』

 左手が王冠を触った。場がざわついた。

『女王様みたいだよ』

『うふふ、見たい』

『目が覚めたらね。アニー、いいかい。きみをひどい目に合わせた犯人だが、捕まえたいよね。協力してくれるかな?』

『もちろんです』

『じゃ相手の顔、覚えてるかな』

『最初の人だけ。帰宅途中に、手話で、わたしの足を止めました。年は四十くらいでしょうか、面識のない人でした』

『それで?』

『わたしを褒め、公園へ誘い、一緒にベンチに座った。だけど、あったかいものを買って来ると言って、直ぐいなくなった。すると、誰かが背中に何かを突きつけた。拳銃だった。そしていきなり頭からマスクが』

『マスク・・・マスクか〜、参ったな。それじゃずうっと?』

 博士の落胆は、スタッフにも分かった。

『いいえ、あの時のわずかな時間だけは・・・』

 しゃべりにくいのか、間が空いた。

「リミットまで十秒」

 博士には聴こえなかった。希望にすがる焦燥感で。

『車に押し込まれ、とても遠く感じた場所は、潮の匂いがしました。それと魚貝類の臭いも。周囲にいたのは三人。気配には鋭敏なので』

「博士!」

「すまん、すまん。つい熱くなってね」

 チャンスは三度と決めていた。その計六分は、言わば脳を知り尽くした博士の、人を思う限界だった。コダカがアニーの口に目線を合わせ、対面のルポ屋へ言った。

「歌ってる」

「声が出ないのに?」

「数学者だろ、楽譜ぐらいはね」

 同じ目線が喜色ばんだ。

「ほんとだ!なんだろう?」

 コダカが唇をたどり、真似し、歌った。

「聴いたことある。ええ〜と、ええ〜と・・・フォスターの、オールド・ブラック・ジョー。お気に入りだったとか。ねえ、ハモンド」

 アニーを案ずる者が、笑みを浮かべ頷いた。

「そう!そうだわ。じゃ記憶は!」

「取り返した、完全にね」

 最後の十分が過ぎた。泣くも笑うもこれっきり。そう言わんばかりにDCが、『ウイ〜ン、ウイ〜ン』と、愛らしく再会を告げた。博士の祈りが、キーボードへ、熱く静かに伝わった。

『アニー、気分はどうかな?』

『ごきげんよ、先生』

『そりゃ良かった。それじゃ話を続けてくれるかな。出来たら覆面が取れた所から』

『こんなこと先生以外に話せない』

『心は頭でも胸でもない、人の未知の場所にあると、先生は信じてる。だから恐れることなんてない。ありのままに、自然にしゃべればいい』

『先生、友だちになって下さい』

『喜んでね』

『マスクの色が赤味を帯びてたから、多分日没前だと思います』

 視覚プログラムが、賑やかに点滅を始めた。先生が指でマル、そして手を上げた。ベンがオペレーターに映像変換の指示、CEO、ハモンド、警部補が、『赤い闇』だけの百インチモニターの前に立ち、記憶の、視覚の、生のドキュメントが、いったい如何なるものかと、胸をときめかせ、その時を待った。

『体を縛られ、ソファーに転がされていたわたしは、感覚だけが頼り。だから、今何人いるかは、部屋の空気、気配で分かった。また、誰であるかも臭いで感じ取った。マスクの色が元に戻ったころ、あの嫌な臭いだけになった。突然それが、キスして来た。胸を触り、少し間が空き、縄を解いた。そして、マスクも、マスクも取った』

 暗いモニターがいっきに明るくなった。再び、どよめきが起こった。二十世紀の偉業に。下賎なインテリ面に。迫り来る恐怖に。アニーの足元へ視線を落し、博士が優しく言った。

『先生は見たくない』

 映像が消えた。

『お気遣いありがとうございます。でもわたしの意地が、負けん気が、捜査のお役に立つようにと』

「博士、残り三十秒ですが」

 ベンの口調に、続きの催促があった。

『じゃあ、お喋りは無し』

『記憶のトレースだけですね、分かりました』

 アナログ時代のフイルムが切れ、間の抜けたスクリーン。観客は呪いの言葉を吐き、今か今かと待つ。そんなある種の飢餓感が、いきなりのど迫力シーンで吹き飛ぶ。モニター前の面々が、まさにそれであった。

 卑しき者が覆い被さった。色褪せたた天井が、激しく揺れ動いた。欲望だけのクローズアップが、リアルさが、作り物の映画を嘲笑った。そして誰もが、心理のレンズに圧倒された。無秩序な構図と、残酷なレイプ描写に。

 窓が、夕映えの海が、祖末な家具が、パソコンの羅列が、次々に現われ消え、抵抗の凄まじさを見せた。死に物狂いが、シャツの腕を噛み千切った。苦悶する者が、後ずさりし、うずくまった。指の隙間から血が滴り落ちた。いきなり室内が飛んだ。テーブルが倒れ、缶ビール、書類、雑誌が散乱し、キッチン横のドアへ体ごとぶつかった。開いた。板張りの床から空へと、画面が回転し、外へ転がり出たことが、切ない希望を伝えた。すべての目が夕景に食い入った。

 海を渡る歩道橋、草地の白い車、丘に並ぶ民家と。それらが吹っ飛んで行き、二度、振り返った。一度目は、レストランを思わせる建物へ。そして二度目は、左腕から血を流し、拳銃を構えた非情なる者へ。 

 必死に逃げたのだろう。しかし弾丸が・・・。映像が震え、徐々にぼやけ、暗くなり、終った。

  

  13 シャドーマーケット 

 

 199X年11月アメリカ、シアトル

『少し疲れました』

『そうだよね。ありがとうアニー。ゆっくりお休み』

 未来ゾーンに拍手が鳴り響き、温かい眼差しが席を立った。  

「DCはこのままで?」

「写真はこんなときのためにある。ベン、そう思わないか」

「歴史に残りますね」

 録画の検討が始まった。時計は十四時と、Xの要求に対応するには、あまりにも過酷な、残り三時間であった。 

 二度再生、クロフォード警部補が、しかめ面を言葉に変えた。

「彼女には気の毒だが、二十秒の絵が笑ってるよ」

 これにマリーが異を唱えた。

「橋の上のカフェかレストラン。それも遠方。珍しいし、調べてみたらどうかな」

「南北二百キロの海岸線をか?せめて北か南かでも分かればね」

「ここは一種の潟じゃないかな、海の色からすると」

「いいぞ。ミス・ローゼン。北だ、ピュージエット湾の北だよ」

 さすがジャーナリストだが、コダカには気になることがあった。

「一番の問題はピント。視点以外、ぼけてるなんてことは?」

「漠然と見るか、意図して見るかだ。アニーの気持を察すれば、後者だと思うが。問題はそれよりも視力だ」 

「ハモンド。アニーは?」

「良かったよ。自慢してたくらいだからね」

「ありがたい。ベン、ラストの振り返ったシーンを」

 手慣れた操作が、橋、狙撃者、家、背後の陸地と、即座に拾った。

「家だ。拡大してくれ」

 画面が家だけになった。窓の上、文字へと拡大。

「漠然じゃなかった。ピントが合ってる。読めるぜ」

 デカが呆れた。

「あのくすんだ文字を見逃さんとは、いったいどうなってんだ、コダカの目は」 

 ルポ屋もビックリした。

「猛禽類ね、ほんと」

「そりゃそうだ。コダカの日本名は、小さな鷹。どうだい?」 

 CEOの例えに周囲が納得すれば、しゃいな男は目下の論点で視線を交わした。

「さて、これが解読できるかだが、オイスター・・・ハウス・・・後はちょっと無理だな。じゃ、下の数字。ダン、読めるかい?」

「肝心の店名が消えてるとは。電話番号か。3、6・・・分からん。6、5、1。0・・・3・・・7・・・うう〜ん、分からん」

「ミス・ローゼンは?」

 凝視する隣りが、あっさり応えた。

「市外局番の三桁目は6か0。最後は・・・3か8。四回電話すればこと足りるわ」

 ニンマリの警部補、即ケイタイした。留守、使われておらず、間違いと、ガッカリが、ラストで表情が変わった。そして、立てた親指に視線が集まるや、口調を変え、さりげなく言った。

『旬のカキが食いたくてねえ』

『そいつは残念だ。とうの昔、店は閉めたよ』

 電話はそのまま使われていた。その上犯人までも。小躍りが署へ連絡、カマーノアイランド対岸、ワームビーチと判明した。

「もうこっちのもんだ」

「そうかな?」

「うむっ?」

「敵はマヌケだと思ったが、実は賢かった。この橋を見ればね」

「容易に近付けんってことか」

「そう。攻め手を牽制するにはもってこい。で、策がいる」

「どんな?」

「任せて」

 軽く言って退けたコダカ。CEOへ何事か耳打ちした。まん丸目が笑った。がしかし、その後二度、首を傾げた。

 科学の最先端に身を置く者が、懐古趣味を合わせ持つのは、ある意味必然か。ヨセフ・フォークナーのクラシックカーコレクションがそうであり、千九百六十年型キャデラック・エルドラド・コンパーチブルもその一つであった。

 西へ急ぐ太陽が、目に入りだしたころだった。深紅のどでかいコンパーチブルが、フォークナーの屋敷を出た。運転は警部補、助手席がコダカ、そしてリヤシートには、意外にもマリーが。敵を欺くコダカの方策は、車だけで終らなかった。リアリティーが肝要であり、貸衣装屋へ寄った。昔懐かし阿呆丸出しの派手服と着替え、互いを笑いながらハイウェイを一路北へ向った。

「ルポ屋に、ねえ、面白いもの見たくない?でしょ。当然見た〜い!で揚句が、このアメ車、いかれたこの格好。ねえ聞かせて、ジョーの作戦を」

 いつの間にか、お友だちになった。

「おバカは甘く見られる。誰にだってね。故に、正攻法が功を奏する。お分かり?」

「じゃあ、正面から堂々と」

「そう言うこと。あのさ〜、デカだろ。模範運転なんかしないでさ。もっと、ほら」

「ローゼン女史じゃないが、ハイウェイパトロールに手帳を見せてだ、矛盾の訳を信じてくれると思うか。わっはっは!」

 気温十六度、ルーフ無しも、熱気、やる気がクリア。白バイ、覆面パトも身分証のご威光で黙らせ、道程八十キロは三十分で走破した。

 海が潟へ、並び続く民家が、草地へと変わり、やがて浜辺から突き出た橋と、見覚えのある店が見えて来た。幕が開いた。

 アニーの目には映ってはなかったが、草地の陰に細長い駐車帯があった。砂利に草が絡んだ道から、ど派手キャディラックは中へ乗り入れた。端っこにあの白い車が止まっており、横付け。紺に白のストライプ背広が、一見チンピラ風が、ドア越しに飛び降りた。そして、好奇心バリバリの女、デカ、車、歩道橋の階段と見て、コメディアンへ変身、気合い一発かました。

「よ〜しっ、おっぱじめるか〜」

「どうするのよ〜」

「おいおい、ここでやるのか」

 赤いスカーフにおもちゃのサングラス、白のブラウスに水色のカーディガン、ピンクの朝顔型スカートと、車に引けは取らぬ女が口を尖らせれば、革ジャン、紫のダボダボズボンの突っ張り男が、リーゼントヘヤーをなぜつけ、首を捻った。

「まさか。橋の真ん中でね。ロックンロールだよ、忘れないで」

「待って。一生無い記念に、これ」

 カメラ、セルフタイマー、階段と走りポーズ、そしてパチリ。笑える写真の一丁上がり。しかしこの余裕。やはり度胸の座った三人ならではで、橋の入口にてもう一枚、大いにはしゃぎまくった。 

 店までは約二十メートルと、やたら長く、大人二人がなんとか通れる橋を、懐メロツイストに合わせ前進、ほどほどでゲーム開始。冷たい風もなんのその、缶ビールをあおり、奇声を上げ、滅茶苦茶踊りが始まった。

 店のドアが開いた。奴が出て来た。アニーに襲いかかった男だ。左手をかばい、足早に近付き、眉間にシワを寄せ怒鳴った。

「あほか〜!おまえら!」

 インテリ面から出た汚いののしりに、おとぼけが踊りながら傍へ寄り、我関せずと返した。

「おたくもどう?」

「なめてんのか!」

「実はね」

「なにっ!」

 内ポケットへ右手がいった。その瞬間、ふところの右肘、左肩と掴み、右足を跳ね上げた。オリンピックなら即一本で、 柔道の立ち技、払い腰が見事に決まった。鉄の床に叩き付けられ、インテリ面が泣くように呻いた。ダンが拳銃、ケイタイと抜き取り、襟首を引っ張り、声高に質問した。

「シアトル市警だ。名は?」

「バ、バート・ウォル、ウォルシュ。ど、どうしてここを?」

「おまえが教えたのさ。一人か?」

「お、おれが?う、うん」

「ボスは?」

「相棒のバーニー・エイムズと、ど、どっかへ」

「とぼけてるな」

「ほんとだ!し、しらねえよ」

 左腕をギュッと締め上げた。叫び、泣き、応えた。

「お、おれは、使い走りだ。知るはずない」

 どうやら本当のようだ。あきらめ店へ連れていこうとした。

「歩くのは・・・まっムリだな」 

 ウォルシュの両手が欄干の柵を抱き、手錠が番人になった。

 殺伐としたコンピュータルームには、レイプの名残りがあちらこちらにあった。改めて怒りが込み上げ、空き缶、雑誌と蹴飛ばし、三台のパソコンにそれぞれがくっついた。同時にファイルを開いた。結果、ウルトラソニックの設計図はマリーがゲット。類似したものも含め、片っ端から消去、ダンに代わった。

 コンピュータ犯罪のエキスパートが、この一週間のメールから怪し気なのを探し、遂に拾った。

「王京竜(ワン・ケイリュウ)。こいつだ、買い手は」

「なにもの?」

「中国マフィアの一人。おもては人材派遣業と聞こえはいいが、単なる人身売買。二年前、中国ハッカーに苦しむ我が国が、当局に圧力をかけ、とりあえずの意味で逮捕されたんだが」

「パクリ大国にとっちゃ無くてはならぬお人。ほとぼりが冷めたころ放免、だよね。内容は・・・うむっ?なにこれ」

「一種の乱数表だ。数字がアルファベットになった。FBIでも手こずるな・・・うう〜ん、やっぱり分からん」

「ウォルシュに吐かせれば?」

「使い走りだろ」

「なっとく」

「奴らの商売に文章は無い」で話を切り、パソコンのデジタル時計を見て、

「残り二時間足らず。ヘニングの居場所もメールが教えてくれるやも。手分けして探そう」と、革ジャンを脱ぎ、力んだ。

 教えてくれ無かった。徒労であった。

「大事なことはさ、やっぱり電話だよね」 

「他に策があるか?」

「相棒だ、こいつを捕まえよう」

「どこにいるのか分からないのよ」と、マリーが失笑した。

「俺は運のいい奴でねえ」

 試したのか、ウォルシュのケイタイが鳴った。

「ものまねは得意。貸して」

「奇想天外、アイデアマン。期待してる」と、マリーが囃し立てた。

 ニヤリ笑い通話ON。カナダなまりの英語が耳をついた。

『バーニーだ。今そっちへ向ってる。ウォルシュ、姉貴には頭が上がらんな。ヘニングがあれだけいかれてたんじゃ』

『命拾いしたのも姉さんのお陰。何かプレゼントしなきゃ』

『ん?声がちょっと違うぞ』

『掃除してまして、ホコリのせいですかね』

『掃除?火をつけるのにか』

『アジトへの愛着とでも』

『センチメンタリストはスケベが多い』

『おっしゃる通りで』

『直き金持ちだ。ベンツでも買ってやれ』

『家にします。ピュージェット湾が見えるところに』

『こいつ、大きく出たな。しかしシスコから離れんだろ』 

『じゃゴールデン・ゲート・ブリッジが見える家を』

『勝手にしろ、わっはっはっ。二十分で戻る』

 切れた。聞き耳の二人が、感嘆、はしゃいだ。

「ハラハラ、ドキドキよ。でもアドリブも自然だし、すごい、ほんとすごい!」

「本人でもこうはいかん。アカデミー賞もんだ」 

「まあまあ。さて諸君、今の話から分かったことは?」

「ヘニングとウォルシュの姉は恋仲。で姉はサンフランシスコに住んでるから、ウォルシュの引っ越し先か、ホテルにいる」

「ここまで二十分。エバレットからリンウッドあたりだな」

 役者がちょい考え、究極のアイデアを披露した。

「三人は重要な話をしてた。例えば、中国マフィアと取り引きする場所、時間、値段とか。そこでバーニーを生け捕り、口は割らないだろうから、ドリームクラウンにお願いする。生々しいドラマにきっと興奮するだろうな。いかが?」

「キスしたいわ」

 恍惚とした目線、マジでされそうだ。

「どうだ、ウチへ来るか?」

 こっちも目は真剣だ。苦笑いがフォークナーへケイタイした。

『へりがいる。頼むよ』

『今度はヘリ?OK。ポールが喜ぶよ』

『アランも一緒にね。メラトニン、忘れないでって』

『ボクも行きたいな。はっはっは!』

 事件の急な展開に、ご満悦の子ども大人だった。

「三十分でご到着。よってちょうどいい」

「二人目もあれか?」

「いやなの?」

「ジョー、見て。ダンがそんな顔してる?」

「してない。だって一番のってたもんね」

「突っ張りは青春期の憧れだったからな。さあさあご両人、フィーバーしようぜ」

「ほんとに警察かね」

 照れ笑いのリーゼントおやじ、使い走りが気になった。

「所轄か、救急車か、どうする?」

「姉は弟思いのようだ」

「なるほど、人質か」

「役に立つ、必ず」

「そうすると、一人乗れんぞ」

「ダンは司令塔、マリーはご意見番、そして俺は手足。つまり兵士。従って俺は車で行く」

 否応も無かった。

 呻き声に猿ぐつわをかまし、ウォルシュをキャデラックの床に転がした。そしてその横でスタンバイ。チャック・ベリーの『ロール・オブ・ザ・ベートーベン』が、最初の一曲目になった。

 周囲に民家、人影はなく、やりたい放題のハチャメチャぶりで、見兼ねたマリーが注文をつけた。

「ねえ、わざとらしいわよ。真面目にふざけるの。分かった?」

 難しい注文に首を捻るも、丘を駆け下りて来るワーゲンで、急きょボブ・マレーに変更。なりにそぐわぬレゲーで、とりあえずは格好は付けた。 

 なにごとも本気に徹すれば、それらしく見え、ワーゲンが疑いもせず近付いた。ど派手車の後ろに止まった。長身、ヤサ男が下車、西日に光るサングラスを向け、そばへ寄って来た。幌を掛けたからウォルシュは見えない、と思ったが・・・。

「どこから来た」

「ロスよ。あっちじゃ面白くないもん」

 百九十センチはあろうか。見下ろす厚化粧に鼻をつまみ、男二人を見比べ、物珍しさの視線が、キャデラックへ注がれた。   

「いい年して・・・ん?」

 ウォルシュがばれた。身構え、ふところへ手をやった。間髪入れず、雄叫びが上がり、ジョーの必殺右回し蹴りが、サングラスを高々と弾き飛ばした。歩道橋前の車道へ転がった。すかさず馬乗り、拳銃を奪い取り、空手を見舞おうとした。だがその必要は無かった。脳しんとうが想像以上だったから。ダンが頬をしばいた。

「気絶してるぜ」

「ヤワな悪党だ」

「もうしびれっぱなし」

 ジョーよりひとまわり年上が、胸をときめかせ、なにくわぬ顔をカメラに収めた。ちょうど南の空からへリのローター音が聞こえた時のことだった。

 ベル・ヘリコプター社製最新モデル、ベル407ヘリが、オートローテーション《回転翼をエンジンのトルクでなく、抗力によって回転させ揚力を得ること》へ移り、高度を下げ、海側から進入して来た。そしてアジト、歩道橋と越え、目印のキャデラック、その後ろの車と過ぎ、草地から三メートルの高さでホバリング。ふわりと舞い降り、スキッドが地を掴んだ。キャビンスライドドアが開き、LI社専属医師アラン・ギレットが、精一杯の声を張り上げた。

「ヒマでよかった!」

「毎日遊んでいると聞いたが!」

 バーニー・エイムズを背負ったジョーが、一本取り、後部座席の端へ下ろした。

「こいつを眠らせてくれ」

「眠ってるじゃない」

「いや気絶してるだけ。王冠は似合わんが、とりあえずさ」

「博士が驚くぞ」

 エイムズの瞼がぼんやり開いた。即、左腕に注射針が食い込んだ。アランが効果を確認、指でマルを作れば、ダンが隣りに座った。それを見てジョーがキャデラックへ引き返した。床の哀れな男を抱き上げ、大股で歩き、後部座席の残りへ座らせた。

「腰が痛いらしい。なんとかしてあげてよ」

「空手の次は柔道か。まっ座れるんだ、大丈夫だろ」

 用心棒のすご腕を知る医者が、錠剤のパラセタモール《鎮痛剤》を飲ませると、賑やかなウォルシュがおとなしくなった。そして最後にマリーが、スキッドに足をかけたときだった。青い車とサングラス女が、ジョーの目に入った。距離はそこそこも、いきなり拳銃が向いた。とっさにマリーを抱き寄せ、枯草の中へ倒れた。

『パン!』と乾いた銃声が耳を打ち、キャビンドアがへこんだ。ダンも気付いた。銃を抜き、床に寝そべり応戦した。しかし不利な体勢は、やみくもに近かった。

「いいかい。俺がウサギになる。必ず撃ってくる。あとは分かるな」

 マリーが涙ぐみ返した。

「私の勇者は、ぜったい永遠」

 赤い顔のダンが、銃を振り怒鳴った。

「持ってけ!」

「女はウォルシュの姉、だとすれば?」

「また生け捕りか」

 ニヤリと返したジョー、涙ポロポロの背を叩き飛び出した。銃弾があとを追った。すかさずマリーがキャビンへ飛び込んだ。

「ジョーは残る!飛んで!」 

 際どいシーンは始めてか。操縦士のポール・アッシャー、ガチガチの体でヘリを浮上させた。

「なにモタモタしてるのよ!」でかつが入り、コレクティブレバー《出力をコントロールし、高度・速度を変化させる》を引いた。いっきに加速、上昇、そしてサイクリックレバー《任意の方向へ機体を進める》を回した。ヘリが海側へ旋回、フォローからアゲンストの風に変わると、グングン上昇、海辺を走るジョーが、追う青い車が、マリーの心配をよそに、視界から遠ざかっていった。


 歩道橋から見えた釣舟用の桟橋と、数そうのボートが勝負だと思った。潮が満ちて来たのも好都合。百メートル、十秒〇五秒が、ジグザグに走り、橋脚の付け根へたどり着いた。クサリが掛けてあり、真ん中に、『車不可・危険』と記したプレートがぶら下がっていた。

「やっぱりついてるぜ」と口走り、振り返った。

 車が止まった。タマ切れか、装填してるのが見えた。

「願っても無い」

 クサリを外し砂浜へ放り投げた。高さ二メートル、鉄柱と木板を組み合わせた素朴な橋は、思いの他長く木の床を踏んだ。亡き父の口癖、好事魔多しが気を引き締め、足元を確かめながら走った。二十歩あたりが腐食していた。果たして車がもつかだが、これも運次第で、波をかぶり出した砂地、動き出した追っ手と見て、先っぽへと早足になった。

 ケイト・ウォルシュは後悔していた。護身用、かっこよさで買ったS&WM36《アメリカスミス&ウエッソン社製自動拳銃》の不甲斐なさに。一に装弾数五発が、二に有効射程の短さが。そして他方で、未熟なウデと、これで良かったのかという思いも。しかし気を取り直しタマを込めた。何がなんでもがひとり言になった。

「バカねえケイト。ヘリで連れ去られた弟を助けるのよ。愚痴なんて言ってられないでしょ」

 装填完了。アクセルを踏み、視線の先へ戯れ言を跳ばした。

「あたしがバカなら、あいつはマヌケね。あんなとこ走るなんて」

 右手の駐車場には目もくれず、桟橋へ乗り込んだ。タイヤが木の床を踏んだ。ギシギシと音を立てた。


警部補が左、右と見て、アランと席を変わった。そして、隣りの心ここにあらずへ、妙薬を試した。

「謎掛けするか」

「からかってるの」

「ボスニア、ユーゴスラビア、イラクときたら」

「もう・・・紛争、戦争でしょ」

「大学で社会行動学を修めた者が、この地へ行くとしたら」

「自殺行為だけど・・・それって」

「フランスの軍事会社に籍を置いてたとか」

「ジョーが傭兵・・・」

「国連監視兵としてね。まっイラクはちょっと違うが。じゃ非戦闘員なのに、何故四年もの間無事でおれたか」

「素手が生き抜く方法を知っていたから」

「その通り。戦場で、地獄で、見えない敵と渡り合ってきたんだ。とうしろ女なんてちょろいもんさ」

「そうか〜、そうよね。ダン、ありがとう、安心したわ」

 ダンの謎掛けは、百万の援軍にも等しかった。どんと構え、バッヘム博士へケイタイした。経緯を語った。返しは、憮然とした口調だった。

「陰のDCまで試すとはね」

 ため息のマリー、どうしようもなく心が痛んだ。


 一方、船着き場はただならぬ様子。

「変だわ。ひょっとしてここは・・・」

 買ったばかりの日本車だ。ブレーキ、そしてバック。その途中、目の端に男が映った。ボートへ飛び乗った。

「逃げられる」

 ケイト・ウォルシュ、やぶれかぶれになった。素足がアクセルへいった。前進。その途端、板張りの床がスコンと抜けた。ケイトの目線が、板、丸太、鉄柱の続く海面と下がり、遂には、車の鼻先が海に沈み込んだ。水深は浅いが、押し寄せる波で満ち潮だと分かった。ほぼ四十五度で停止。しかし海底は泥の混じった砂地だ。徐々に車体が沈んでいく。慌ててドアを開け逃げようとした。が、鉄柱がそれを許さない。ならばと窓を開けた。思いっきり波をかぶった。更にもう一発で、戦意喪失。最後は神頼み。助手席のドアノブへ手を掛けた。体ごとぶち当たった。だがこちらもびくともしない。そして窓は開いたが、  

「壊れた床が邪魔してる・・・万事休す、ね」と、力なくぼやいた。

 シスコのネオン街でタフに生きてきた女が、フロントガラスへ打ち付ける波を見て、もはやこれまでと腹をくくった。

 ジョーにとって、先ずは女を助けることだった。海、波と見て走った。陥没現場近くで床に這うロープを取り、壊れた床下を覗き込んだ。既にフロントは海の中、でかい声を飛ばした。

「銃を捨てろ!助けてやる!」

 聞こえなかったか、再度怒鳴った。若干の空白。そして、これ見よがしに拳銃が踊り、窓から滑り落ちた。

「名は?」

「ケイト、ケイト・ウォルシュ」

「五分もすりゃあの世だ。顔を出せ!」

 助手席の窓が開き、濡れネズミが、ヌ〜ッと顔を出した。年は三十そこそこか。メイクが剥げ落ちパンダ面だが、男好きのする容貌に、なるほどと笑い、ロープを投げ下ろした。バッグを口にしがみついた。何もかも、ギリギリの脱出だ。

「あきらめが早いな!」と言うや、力任せに引っ張った。

「じたばたしたって!」

「女とは思えん。残骸に気をつけろ。ヘニングの居所が知りたい!」

「警察?」

「ああっ。教えてくれるか」

「あいつは仕事の話などいっさいしない!だから知るはずない!」

 雲行きがどうも怪しくなった。浮かぬ顔が、しまいは手で引きずり上げ、さてどうしたものかと、歩道橋の前まで来た。

「弟のものだと思うが、セーター、ズボンがぶら下がってた。着替えて来い。ただし、五分でだ。タイムオーバー、即さよなら。行け!」 

 ずぶ濡れが黙ってうなずき、往復全力疾走、息を弾ませど派手の運転席に収まった。根性、脚力、変身振り、恐るべき女である。

「アタイが運転するの?」

「考えろ」

 幌を取ったキャデラックが動き出した。

「どこへ・・・」

「ヘニングと恋仲じゃないのか」

「ふん、あいつが熱心なだけ」

「こっちへ来た訳は?」

「弟は軽い脳障害を負ってる。だからときどき」

「そんな風には見えんが」

「極端に緊張すると、人が変わる」

「具体的に」

「たとえば、夢と現実の見境がなくなるとか、上手くいかないと被害者意識が強くなるとか」

 レイプの背景が見えてきた。しかしそれには触れなかった。

「じゃこう言うことか。四、五日前、ケイトはシスコから弟の様子を見にきた。だが仕事で帰らん。これはおかしい、気になる。そこへ理由は分からんがヘニングが現れた。ひとめ惚れだ。次の日も、また次の日もやってきた。当然弟の居場所を尋ねた。しかし教えてくれん。これは何かあると勘ぐった。そして今日。海千山千が、見事に男ごころに付け入った、だろ」

「海千山千?あっはっは!・・・名前教えて」

「用心棒」

「なにそれ?警察じゃないの」

「協力してるだけ」

「名前・・・まあいいか。ようじんぼうさん、教えて。バートは悪いことしたの、ヘニングは何者?」

「タチの悪いハッカー。で弟はその下働き」

「ハッカーって?」

「ネットを使って企業の機密文書を盗み出す連中」

 衝撃はきつかったか、ケイトが押し黙った。いっきにスピードが上がった。風光明媚な湖街道から高速五号線へ乗り入れた。フォークナーのお宝が南へ取って返した。

  

 フェリクス・バッヘム博士が、未来ゾーンのデジタル時計、十六時二十一分五十七秒へ一瞥をくれた。そして姿勢を正すと、差し向かいの王様然を見つめ、『醒めた熱気』へ、ポツリ。

「始めよう」

 D Cも事情を知ってか、『ウイ〜ン』と悲し気に泣き、OKと告げた。

「君の名前は?」

「バーニー・エイムズ」

「順調だ。さて、なにから聞きたい?」

 医療椅子へにじり寄り、ダン・クロフォード警部補が尋問調で。

「ヘニングとどこへ行ったか」 

 キーボードへ伝えた。それなり王様が応えた。

「バートの家だ」

 謎が解けたか、マリーが急かせた。

「博士、映像お願い」

「うむっ。エイムズ、思い出してくれんか」

 素直、従順が映像化された。再び、あのどよめきが起こった。地方の住宅街らしく、どこかのんびりした風景が、左右に流れ、ちっぽけな家のドアが開いた。どこか崩れた感じの女が、品を作り客を迎えた。上機嫌が男の後姿でも分かった。

「話が違うぞ」

「ダン、慌てない。ヘニングは途中で寄っただけ。それに二人は恋仲とはほど遠い」

「分かるのか」

「あれは演技。姉は相当したたかよ」

「なるほど、そう言うことか」

 退屈な絵が動き、ワーゲンの車内で止まった。煙草を加えふかした。二本目で五分の休憩に入った。再開、色男気取りが出てきた。ぬめっとした顔がほころんでいる。再び絵が動き、ヘニングの上半身で止まった。音声ON。

『首尾良くいったかい?』

 問われた者が、背広から櫛を出し、髪を整え、その揚句口元を歪めウインクした。

「口説いてたな」

「そうね。いやな男」

 ケイタイが鳴ったか、ヘニングがズボンをまさぐり取った。耳に当てた。真顔から中国マフィアとのコンタクトであることが透けて見えた。確認のため復唱した。

「これだ!」

「静かにして」

『晴れてシャドーマーケットのメンバーになった。そのうえケイトはオレのもん。バーニー、今夜は飲み明かすか』

 有頂天が親指を立て、揚句は、心ここにあらず。

『じゃついでだ。チャイナタウンでデートして、念願のお楽しみ。わっはっは!』

 下卑た笑い声を残し、二台の車が、左右へ走り去った。

「シャドーマーケットは、噂じゃなかった・・・ついでと言ったな」

「交渉の場所はチャイナタウンね」

「いかにもだが、その先がな・・・そうだ!エイムズに聞けばいい」

 しかし、博士は弱気だった。

「忠節の度合いにもよるが、見たところ、先ずしゃべらんだろ」

「試してもらえんか」

 キーボードに伝えた。反応無し。二度目でエイムズの顔が苦痛で歪み出した。

「明らかに命令を拒否してる。これ以上は危険だ」

 仕方なく録画を諦めたが、肝心かなめの復唱シーンだ。口元を追うマリーが、にわかに膝を叩いた。妙案が大声になった。

「アニー、アニーよ!読唇術よ。フェリクス、彼女は今どこに?」

 博士がニッコリ笑い返した。

「奥の喫茶室にいる」

「起きてるかしら?」

「多分ね。ケーキと紅茶でご機嫌じゃないかな」


 沈黙の限界にきた女が、助手席を窺い、寝ているようで寝てない男へ、ねこなで声が声で試した。

「ねえ、アタイのことどう思う?」

 返事無し。

「弟を、バートを助けてくれるなら、色になってもいいよ」

 返事無し。

「自慢じゃないけど、からだには自信もってんだ」

 返事無し。それではと、とっておきまで出した。

「バンバンかせいで貢ぐからさ〜、おねがい、なにか言ってよ〜」

「専門医に診てもらったのか」

「しゃべってくれた!もちろんよ。医者は、のんびりした田舎で、刺激のない生活を、だって」

「それでこっちへ」

「うん。父ちゃんは下積みのへぼ俳優。母ちゃんは色気ばっかの踊り子。当然家は火の車。でアタイが母親がわり。でも今思うと、コンピュータ学校へいかせたのが間違いだった。おかしくなったのはそれからだもん。後悔してる」

 哀れな話も、サラリと聞かせるのは、この女ならではか。

「ヘニングとは?」

「メル友だと思う」

「ハッキング同好会か、ふっふっふっ」

「ハイキング?歩くの嫌いだよ」

「ケイト。救われるぜ」

 ユーモアとはまた違うとんちんかんへ、人情派が笑いを噛み殺した。

「そうだな、王冠でもかぶるか。生まれつきでなければ、ひょっとして治るかも知れんぞ」

「冗談・・・ほんと?」

 にわかに信じ難いケイト。今までお目にかかったことの無いタイプに、愛情の本質を知るはめになった。


 録画復唱の再三のアンコールは、責任感の、プレッシャーの表れだった。ミスを許さぬ厳しい目が、メモを取り、またアンコール。やがてキチンと清書し、マリーへ渡そうした。が、しかし手が止まった。つぶらな瞳が清書から目を放した。そして、思わぬ福音が。

「声が、声が・・・」

 博士がアニーと目を合わせた。そして、唇、耳へと言った。

「しゃべってごらん、しゃべって」

 息苦しい、かすかな声であった。

「チャイナタウン、店は天峰(テンホー)。席は黄仙。十、十七時・・・」

 最後は涙声だった。博士もハンカチを取った。感動が、未来ゾーンを震わせ、全ての者が涙した。赤い眼のマリーが、半ば叫ぶように、アニーの鼓膜を振るわせた。

「おめでとう!おめでと・・・」

 後は絶句、そして身を乗り出し、抱き締めた。

 十六時三十分ジャスト。ドリームクラウンが、一人の重度障害者に、奇跡を与えた瞬間であった。


 高層ビルの狭間から、シアトルタワーが見え出したころだった。待ちに待った着信音、いきなりのご挨拶で始まった。  

『やっぱり無事か。姉は?』

『ご機嫌で運転してるよ』

『意外性も、やっぱりだな』

『まわりを楽しませるのも俺の仕事。で、分かったかい?』

『ばっちりだ。と言っても、アニーのお陰だが』

『ん?そうか、読唇術だな』

『うむっ。しかし、伝えたのは口だ』

『なにっ!うそ、ほんと?』

『胸も、足も、震えたよ』

『そいつはすごい!』

『いま何処だ?』

『ボーテージ湾を渡ったところ』

『そっちの方が早いな。場所はチャイナタウン、テンホー』

『ん?揚嶺明(ヤンレイメイ)の店だよ』

『知ってるのか?』

『ヤンは空手好き、俺は中華好き』

『じゃ、店は組織とは』

『ダン。プロになんだが、ネットで飯食ってる奴らが、溜まり場などつくる?それこそ百害あって一利無し。違うかい?』

『子に教わる。わっはっは!コンタクトは十七時。交渉は飛行機に詳しい代理人だろうが・・・』

『えっ?なに?でちょん。ヘニング逮捕だけでも良しとしなきゃ』

『お説の通り。たった四時間の、奇跡中の奇跡だからな』

『そう言うこと。弟は?』

『社内の医務室だ。腰よりケツがひどいらしいが、それも三、四日すりゃ増しになるとか』

『そうかい。ダン、ここも兵隊に任せてくれ』

『警察いらんな。じゃ向こうで』

 照れくさい声が切れ、聞き耳が不安を口にした。

「バートはケガしてるの?」

「ちょい転んでね。でも心配いらん、直き治る」

「よかった。これからどこへ?」

「チャイナタウン・・・知らんか。とりあえず降りろ」

 ハイウェイのド派手スターが、高速五号線のインターを下って行った。

  

 幕引きの準備はおこたり無く、ダン・クロフォード警部補が、マイカーに乗った。強引さでは舌を巻くマリーが、助手席に陣取った。チャイナタウンまで約二十分。なんとか間に合いそうだ。

「ジョーのお陰で命拾いしたんだ。もう懲りたはずだが」

「あの程度じゃ」

「真っ青だったぜ」

「しっかり見てたんだ。はっはっは!寄せはどう決めるか。役者の知恵が見たいし、姉にも興味があるの」

「粋狂と言うか」

「商売、商売、ね」

「ん?沈黙の貝だろ?」

「殻を開いた」

「記事にするのか?」

「ミラクルばっかりのドラマ。いったい誰が信じる?」

「うう〜ん、まっ確かにな」

「ルポじゃなくある種のSFとして書く。CEO、アレックス、博士が許せば」

「大統領もね」

「うふふ、そうね。急ぎましょ」

 ダンのケイタイが鳴った。部下へテキパキと指示。いよいよ詰めだと、マリーの胸が騒いだ。


 六番街の高級衣料品店にジョーとケイトの姿があった。

「みんな面白い女だと見てるよ」

「だらしない顔、だらしない格好、アタイだって笑うわ」

「そこでだ。俺の趣味を押し付ける」

 そう言って、ジヴァンシーを装ったマヌカンの横に立たせた。

「とりあえず顔だな、洗ってきて。化粧は無しだ」

 髪は一つにまとめ、スッピンが再度横に立った。

「まさにシンデレラ。決まり」

 ケイトの目が値段へいった。ビックリだ。

「アタイにはムリだよ」

「俺が払う。大役に必要だからね」

「金持ち?」

「貧乏。でもカードがある」

「心配だな」

「ついでだ。もろもろも買っちゃえ」

「パンツも・・・」

「ん?そうか、びしょびしょだったもんな」

「スカスカで、力が入らないって言うか・・」

「じゃ下は裸?」

 こっくりうなずき顔を紅くした。苦笑いが奥のコーナーを指した。数分後、早技ケイトが鮮やかに変身、助手席で異彩を放った。だが様子はどうも落ち着かない。とうとう化粧を始め出した。

「ケイトは素朴で飾らない女。であれば?」

 少し考え、コンパクトを閉じた。チャイナタウンは直ぐそこだ。

「アンタ・・・名前教えて、ダメ?」

「作戦がハマったらね」

「さくせんって」

「簡単」

 話した。

「のってくるかな?」

「ケイトにいかれてんだよ」

 さして広くもない町の一角で車を止めた。店主のヤンには連絡済みで、キャデラックを見るや飛んで来た。

「いてるよ。黒人の大男と」

「やはりな。相手は?」

「まだ」

「ヒマそうだな」

「今時分に来る客は仕事さぼってる」

「その通りだ。紹介する。こちらのご婦人が舞台のヒロイン、ケイト・ウォルシュ。よろしくな」

 純白のドレスからアクセサリーまで、全てパリ女が、微笑一つにもこだわった。

「清楚で、品があって、美しい。さぼり客がビックリするよ」

 世辞には慣れっこだが、今は違った。口では言えないほど幸せだった。やる気が更にパワーアップした。

「さておっ始めるか」

「どうするよ?」

「普通に案内するだけ」

 不満顔が後ろの車へ向いた。止まったばかりだ。

「知り合い?笑ってるよ」

 バックミラーを覗いた。ダンがケイタイをかざし、マリーが手を振りはしゃいだ。敵の目があるから、以下ケイタイでやりとり。

『通りは私服で固めた。いつでもどうぞ』

『ガードもついてるとか』

『さすがだ。作戦が当たったな』

『先の先まで読む。ちょうどいいや、隣りと代わって』

 上気したマリーの声。

『今度は何をやらせるの?』

『姉のエスコート』

『詳しく』

『役どころは姉の親友。店主が案内するからそれに従って席に着く。変身したからヘニングは気付かない。で、ここが肝心。わざと大きな声で名を呼ぶ。ケイト、ケイトってね』

『結果どうなるの?』

『奴がそわそわ、じろじろしだしたら、ケイトは席を立つ。忘れ物したとかなんとか言って』

『それで』

『必ずあとを追う。ケイトはそのままキャデラックに。ヘニングが声を掛ける。その瞬間、御用と、まっ俺の筋書きだが』

『策士ね、ほんと』

 十七時前、エンジニア風アジア人二人が店へ入った。ゲーム開始。マリー、ケイトが、店主の案内で敵陣近くに座を決めた。遅れてジョーも店へ。そして、誘導作戦が始まった。

「ケイト!フカヒレの姿煮がおすすめよ」と、メニューを差し、声高に。

「フカヒレ?他には?」

「ケイトの口に合うかな。ツバメの巣のスープ」

「ええ〜っ!そんなもの食べれるの?」

「びっくりのケイトね、はっはっは!」

 マリー、目の端でターゲットを窺った。明らかに落ち着かない様子。仕上げだ。

「忘れ物した。取って来る」

 ケイトが席を立った。誘われるようにヘニングも。並足で店を出た。歩道を横切った。次いでヘニングが現れた。振り向かず、ど派手車の助手席に乗り込んだ。後ろが駆け寄った。策士の思惑が、見事はまった。半信半疑が、まわりに目もくれず、声を掛けた。 

「ケイト、ケイト・ウォルシュだよな」

 上下の視線がぶつかった。過去への嫌悪感がアドリブになった。

「その人は、ちょっと前に、この世からいなくなった」

「な、なんだと!どう言う意味だ!」

 冷静さを失った目に周囲は映らなかった。通りすがりの二人のヤカラが、背後で立ち止まり、銃を突きつけた。呼応して遊び人風が逃げ場を断った。決めは革ジャン、ダン・クロフォード警部補。棒立ち男へ、警察手帳をかざし、吐き捨てるように。

「右手はうえっ!生粋のアメリカ人か。ふん、笑わせら」

 ヘニングの左手のアタッシュケースが・・・力なく、指から滑り落ちた。


 一方、店の中では。窓際の席で通りを窺っていた男たちが、いっせいに席を蹴った。黒人大男を先頭にレジの前まで来た。するとヤンの横にいたサングラスキザ男が、スッと右足を差し出した。先頭がつんのめった。すかさず襟首をつかみ、右空手を一発見舞った。煉瓦をも打ち砕く破壊力だ。床へぶっ倒れ、白目を剥き、悶絶した。これには後続も震え上がり、なす術も無く、刑事たちにしょっぴかれて行った。


 ケイトへの取材はルポ屋を大いに満足させ、ジョーが加わった。そこへヤンが、自ら厨房へ入り、中華料理の神髄を持ってきた。そして円卓へ並べながら、朴訥にケイトへ言った。

「おつきあい・・・ムリ?」

 ジョーが、想いのこもった笑みを浮かべ、しみじみとした口調で。

「ヤン。四十まで待った甲斐があったな」

 別人となったケイト、今までとは違った。

「いきなり言われても・・・」

 マリーも抗議。

「そうよ、失礼よ」

「無礼、失礼は分かってます。どうか考えて下さい」

 こんな気まずい場は、やはりこの男。

「わずかな時間でケイトの運命は変わった。従え、その運命にさ」

 更にダメを押した。 

「生まれ変わった。弟の持病も治った。これからは自分の人生だ。ヤンは苦労してここまできた。保証する、ヤンの全てをね」

 早技ケイト、三秒考え、目に涙をにじませ、小さく、そして大きく頷いた。拍手、拍手、そして・・・。


 今へ帰った。冷めたモカを口に含んだ。甘いが、どこかほろ苦い味がした。クスッと笑い、再び想い出を綴った。

「ねえジョー。恋人は厚かましいから母親にして」

「マリーが俺の母親・・・OK!これで気兼ねなく泊まれる」

「仕事、辞めるの?」

「うん。フリーになる」

「クライアントは?」

「前は傭兵だったこと、聞いた?」

「ええ、飛び立ったヘリから地上を見たときに。心配顔へダンが気を利かしたの」

「警部へ一歩近付いた」

 去り行く、嬉し恥ずかしの警部補が、瞼に浮かんだ。

「繰り返すけど、当てはあるの?」

「アラブ、アフリカ。仕事には困らん」

「命がいくつあっても足りない国ばかりよ」

「俺が簡単に死ぬと思う?」

「うふふ。思わない。でも、母親としては眠れないわね」

 残りをすすった。大切なものを愛おしむように、星々へ語った。

「翌年の夏、ヤンとケートは結婚した。アラスカの原野で。しかも陽の落ちぬ白い夜に。参列者は私とジョー、そして写真を撮るために従妹の水沢香織も。(ちなみに弟バートは実刑三年の服役中だった)。牧師役は息子と、ヒマを持て余してるソリ犬たち。真面目なジョークに犬が分かったように吠えて、もう笑ってばかり。でもツボはちゃんと押さえていたから、やっぱり我が子よね。(後の話だが、このときの写真が話題を呼び、香織はメディアから注目されるようになった)。帰りは、新婚さんはバンクーバーへ、香織は東京へ。そして私とジョーは、ニューヨークで一泊した。ひとつベッドで。母子として。うふふ、眠れなかった。当たり前よね。でも、子はアヴェマリアのイントロでスヤスヤ。なにか悲しいような嬉しいような複雑な気持が朝を迎えた。パジャマの母へ、トランクスだけの子が(習慣だとか)、しんみり言った」

『白人と黄色人種、なにもかも違うよね。けどさあ、あったかさと、匂いだけは、死んだおふくろとそっくりだった。ありがとう、俺のお母さん』

「うふふ、しっかり抱いていたのよ、十二才で生んだ子を」

 香織の絵はがきを手に、もう一度我が子の様子を見に行った。浅い寝息は用心棒の資質であり、身を起こした。近衛兵に似た服が気になった。襟元を触った。緑色の上質の生地、金ボタンの城の刻印から、仕える人は貴族、もしくは王族だと推測した。

(ジョーが王様の用心棒?うふふ、まさか)

 胸元のポケットへ指を差し入れた。手帳だろうか?抜き取った。身分証だと直ぐに分かった。シンプルかつ重厚な表紙は、ボタンと同じ城のレリーフ、そしてその下で輝く金文字を追った。ゆっくりと。 

(セベリアーノ・ガルシア・・・ええっ!じゃ、エヴァンの古城から来たの。スペイン、いえヨーロッパの帝王と我が子が・・・カモメさん落ち着いて、落ち着くのよ)

 マリー・ローゼン、五十才。ブン屋魂に火がついた。日の目を見なかった、SF話の仇が、このとき、討てると思った。


  14 武器屋

 

 200X年8月24日金曜日イタリア、ローマ

 古代ローマ時代が、置き忘れたかの武器屋フランコ・ガストーニの家。仕事に便利なのと、異心地の良さから、いつの間にか居候になったフオックスが、骨董品が散乱する三階へ、足を踏み入れた。外光に慣れた目が、円柱、彫像、家具と触り、奥の申し訳程度のリビングに辿り着いた。窓の遺跡の明り、日付の変わった掛時計と見て、昔ながらのテーブルへ視線を落した。ピザとメモが置いてあった。メモを手に肘掛けに座った。

「ロレッタだわ、ありがとう」

 冷めてはいたが腹スキであり、さっそくゴチになった。食べながらメモを読んだ。

「父ちゃん愚痴ってるでしょ。仕方ないのよねえ、半端者でも愛しちゃったらさ。近くに住んだのはそのお詫び。話しはニーナね。あたしはニーナが何者か知らないし、興味もない。これは武器屋の娘のエチケット。でもさ、掃き溜めのツルは、軍、警察の狙撃屋さんとはネクラの質が違うし、あたしのルールを危うくするの。一緒に酒飲もうよ。飲めば幸せになり、本音がポロポロ。楽になるよ〜、(笑)、ロレッタ」

 フォークの手が止まった。

「復讐が終れば」、そう言って、残りを片付けた。 

 シャワーを浴び、裸のままベッドに倒れた。いつものように、研ぎすまされた肉体の、右太腿に触った。違和感に顔が歪んだ。

「もしかしてキドン が・・・」

 陸軍、モサッド、キドンと、栄光の道を歩んだニーナが、暗殺に失敗、瀕死の重傷を負った。もしかしてとは、その手術の時、何かを埋め込まれたのではと、疑っていたから。一センチ有るか無しの突起物へ、今夜も同じ事を語り掛けた。

「用済みにそんな必要がある?じゃこれは何?」

 摘出も考え、パジャマ、パソコン、メールといった。殺しの依頼は蹴飛ばし、戦友リディアのを読んだ。

「夫がびびってる。そりゃそうよね、血判まで印した元老が、突然、抜けたいと言えば。私は最初から疑ってた。優柔不断、人望が無い、かかあ天下、これじゃさ。今夫婦はマルタにいる。殺して。お願い。裏切った者に安心は無いから。でこの先。気弱な夫に変わって、私が指揮をとる。不満?だったらやめる。うふふ。それからバンジャマンの話。彼から聞いたの。ルイーサを横取りされた怨念、いまだにくすぶってるのね。財産はたいても王様と愛人、必ず始末するって。なんならスポンサーになってもいいぜ、は心強いけど、姉さんはあいつが嫌い。でも援軍だと思って我慢してくれる?ただし、インサイダーの証人がいると、メディアに語った大投資家、シプリアン・ペジャールがカギ。もしもよ、これが事実で証人が現れたら、インテリヤク

ザは終わり。始末する?明日、ペジャールもマルタへ行く。講演のため。考えて。時間が無いから、返事は早めにね。PS、元老は沈黙の町イムディーナに二度行ってる。参考まで、リディア」

 石膏ボードからワインを取った。ラッパ飲みが決心だった。


  15 マルタ島の怪人 1 

  

 200X年8月24日金曜日フランス、パリ

「もしもし。ミシェル?俺だ」

「ジョー!!」

 思わずのけ反った。ソプラノ歌手が絶叫しても、ここまではだ。 

「デート、プラス、止めに来た」

「今どこ?」

「ドゴール空港」

「約束、守ってくれた。直ぐ行く。二十分と掛からない」

 人波の中、身のこなし、駆けっぷり、息も切らさなかったのは、神の国の賜物か。しかしである。ツバ広帽子に渋いディオールと、魅惑の大人へ様変わりし、耳元で洩らした涙の告白は、ちょい違った。

「こんなに人を愛したことない・・だから」

「ディオール、似合ってる。一緒に考えよう」

 優しい返しに、パリッ娘の表情は、雨のち曇り。

「二泊・・・よ」

「承知。十一時二十分発だ。急ごう」

 マルタ島、通称マルタは、EU圏でありビザ無しでOK。そして時節はヨーロッパの長い、長いバカンスの大詰め。久しぶりに息抜きが出来ると目論んでいた。が、離陸直後の、ミシェルの開口一番は、

「とりあえず、仕事はする」であった。 

 目論みは露と消えたが、先ずはめでたく、念を入れた。

「とりあえずは無し。でなきゃ・・・」

「もう〜脅かして。辞めたら、嫌いになる?」

「なる。でもさあ、その人いつ来るの?」

「明日、十時」

「タイミングがいいって言うか」

「クリストフは数学はダメだけど、計算高さは天才的ね」 

 いっぱい盛られたか、と、カイロの夜を思い出した。

  

 沈黙の古都、イムディーナに、二人はいた。

「時が凍りついた。ほんとそんな感じね」

「二百何十人か、住んでるらしいが」

「生活感はゼロ」

 想像通りの閑散とした首都ヴァレッタから、警察の車を借りて七分。中世の不気味な静寂は、警護の下見にいやな予感を与えた。

「かっての首都はいずこへ、だよね。どう?ガードは」

「広いようで狭い城塞のオリ。襲う方も頭を使うわね」

「しかしなんでこんなところに?」

「大聖堂のフレスコ画が見たいんだって」

「カラヴァッジョ《バロック絵画の形成に大きな影響を与えた画家》派の画家が描いたんだ、一見の価値はあるがね。で、その後が講演会?」

「ランチが先」

「じゃロケハンは三カ所だ」

「ペジャール氏がよそ見しなければ」

「ヴァレッタはさ、歩いてるだけでも楽しいよ」

「クギを刺さなきゃ」

 そのパウロ大聖堂へ向う途中だった。場にそぐわぬシャレ者が路地から出てきた。山高帽に蝶をあしらった銀のマスク、そして赤系のマントに黒いコスチュームが、フワリとすれ違った。ミシェルの肩に触れ、一瞬立ち止まり、通り過ぎた。二人が首を捻り、顔を見合わせ、振り返った。驚いた。シャレ者の影も形も無かったのだ。

「なにもかもビックリね」

「ヴェネツィアから飛んで来て、飛んで帰った」

 マトは得ており、ミシェルがそれを現実的に補足した。

「ここで仮面舞踏会やアトラクションは考えにくいし、そうね、大道芸人のパフォーマンスよ、きっと」

「女だったな」

「シャネルの臭いがしたから?」 

「しなくても男と女の区別はつく」

「ジョーと背丈は変わらないのよ」

「商売で学んだからね」

「気になるな〜」

 雨のち曇りのヤキモチ焼きが、また雨とも限らず、石畳の坂道に続く手前の民家を差し、種明かしで交わした。

「どっちかの家に入った。空も飛ばず、消えもせずじゃね」  

「住人かな?」

「石畳に足音も立てず、残さずだよ」

「訓練しないとムリよねえ。なんかこっちも気になってきたな〜」

 公に私を絡めたミシェル。苦笑いが、即、次なる手を打った。

「路地だ。路地に何かある。行こう」

 そこは袋小路の突き当たりで、イタリア国旗が垂れ下がる、みやげ物屋のベンチだった。あか抜けた老男女の奇妙な姿と、足元に散乱するバッグ、帽子、カメラが、目に異常だと訴えた。 

「昼寝にしちゃ大袈裟よね」

「いくら眠くてもさ」

 駆け寄った。

「死んでる・・・」

 双方とも上体が反り上がっており、もがき苦しみ息絶えた、そんな壮絶な死であることは、容易に想像できた。 

「顔は真っ赤。で、両手が喉元だから、呼吸困難に陥ったのね」

「いっぷく盛られたな」

「あいつのしわざだわ」

「ちょっと見えてきた。ミシェル、調べて」 

 大きく開いた口、露出した肌と、丹念に追った自信の推論は。

「毒は口でなく皮膚から注入した。例えば極細の注射とか。でもそれは合意のうえでなければ無理。消去法の結論。針に毒を塗って刺した。あの格好なら興味を持つだろうし近付ける」

「やっぱり引退する?」

「嫌われなければ」

「しっつこい。次は身元だが、二人とも軽装だし、バッグに頼るか」

 エルメスのメンズポシエットを拾い上げた。

「手袋しなきゃ」

「用意がいい」

 ショルダーバッグから取り出した。レースのしゃれた逸品が両腕を飾り、アンサンブルの上着に手を合わせポーズ。

「うふふ、服と合わせて買っただけ。感想は」

「マドモアゼル、と呼ぶ」

 幸せな手が、指先が、チャックを開き、サイドポケットからはみ出た黄金のカードを抜き取った。ヨーロッパ主要国の言語は、職業上必須であり役に立った。

「芸術的ね。マイソル、スペイン語で海と太陽。どこかで聞いたことあるな〜。その下に元老、ファルケ・アンヘル、たったそれだけ」

「元老・・・他には?」

 札入れを手にした。かなり重い。

「すごいお札。クレジットカードもどれも一流。お金持ちね」

 夫人の顔、首へと視線を落しながら、ジョーが問いを重ねた。

「免許証は?」 

「ある。スペイン発行の。写真はこの人。名はファルケ・アンヘル、年令は六十八。住所はアンダルシア州マラガ市、エル・リモナル」

「マラガ・・・」

 ある仮想が現実味を帯びてきた。

「ケイタイは?」

「無し。変ね」

「持っていったな。じゃついでだ。夫人のショルダーも」

 同姓の免許証から夫婦だと決まった。

「お財布、メークセット、レンタカーのキーと、他には・・・」

 分厚い貝殻のカメオがあった。手に取り裏返した。 

「刻印があるわ。ベルタ・アンヘルの六十歳の誕生日に。セベリアーノ・・・ガルシア。ガルシア、ええっ!伝説の巨人よ」

(昨日の今日、俺は疫病神か) 

 そう内心で語り、伏せた顔から苦笑いがこぼれた。 

「そのお人とさ、会ったばかりでねえ」

「冗談・・・ほんと?」と、まんまる目のミシェル。

「ちょっとした縁だけど、ん?なんだろ」

 夫の右掌中からわずかに見える紙に気付いた。体はまだ硬直しておらず、簡単に引き抜けた。斜め半分に切り裂いた、旧イタリア紙幣であり、血の指紋で汚れていた。三つの血の誓いに頷き、目先が左手の首輪のロケットへ移った。フタが引き千切られていた。

「死者の遺言よね、犯人は指紋の人たちだって」

「DGSEがいやなら警察は?」

「結婚してくれる?」

 しっかり見つめられ、窮地に立つも、

「今言うか」と、苦言でしのぎ、

「ごめん、場所をわきまえてなかった」で、なんとかしのいだ。

 やれやれが、周囲へ目を配りながら言った。

「血判はマフィアの代名詞。が、今いち分からん。旦那はさ、どう見てもスペイン人だからね」

「マフィアにこだわらず、ある目的のための同士だと思えば」

「警察がいやなら探偵は?」

「いっしょにやろうか」

 またまたピンチ。

「上司もね」で、勢いをそいだ。

「営業しかない。もう・・・ジョーったら」

 クスッと笑うも二体の仏でえりを正し、推論を語った。

「ロケットに入れてたってことは、この人にとって命の次に大切なもの。つまり誓紙の指紋の一つよね。で、仲間割れしたあげく、他の指紋の人から殺された。他国の古いお札に、カビの生えた血判。ここまでこだわるのはよっぽどの計画だと思う。だから破綻は許せず、殺し屋に頼んだ。さっきのよね。じゃあいつはどうやって殺したか・・・」

 辺りをキョロキョロ見回したミシェル。正面五、六歩先の小さなテーブルへ歩み寄り、記念撮影のポーズをとった。

「うふふ、どう?お休みのミヤゲ物屋。がっかりした夫婦。そこへあいつが現れへ声を掛けた。わたしはイタリア出身のガイドとか言って。そして夫のカメラをここに置き、夫婦の真ん中、ベンチの後ろに立って、セルフタイマーでパチリ。確かミステリーにあったな、指輪に毒を塗ってブスッ。二人だから両手にしてたのね」

 そこで話を切って、遺体の首筋に血痕がないか探した。

「ジョー、見て。このちっちゃな血」

 もう尊敬以外無く、隣りも探した。あった、左肩に。

「次はデータね」 

 足元のデジカメを拾い上げた。最後のショットを見せた。ミシェルの推理通りのカメラポジションに、ツーショットが写っていた。しかしその先は無かった。 

「削除か〜、やっぱりヘボじゃないわね」

(生涯の伴侶は二人・・・じゃ、まずいよなあ)  

 内心洩らした未来計画は、ミシェルへの賞賛の表れだった。

「次は犯人よね。マイソル、思い出したわ。ガルシア王国の宝、カジノホテル群の総称よ。じゃ犯人はガルシア?違うな。だってマフィアに長男を殺された人よ。そんな人が血判など真似る?」 

「やっぱり警察・・・」

 色っぽい目が返った。含み笑いが頭をかき返した。

「これは頂くとして、遺体はどうする?」

「さっきの巡査に報せる」

 世話になった係官へテキパキと説明、合掌後、通りへ出た。

「なにか考えてる?」 

「うん。まっそれは後で。女を捕まえよう」

 両手を伸ばせば届きそうな通りへ出た。

「奴は左側を歩きすれ違った。てことは左のその家。いかが?」

「魔法使いでなければ」

 壁伝いにソロリ歩き、観音開きの扉の前でひと呼吸。

「ミシェル、銃を貸して」

「相手は女。わたしが先」

 一抹の不安が、扉を押し開いた。一歩、二歩、三歩目で止まった。薄明かりの中、二本の柱、その間の作業台、端の黒い筒状のものへと目がいった。そして・・・。 

「あ、あれは!」と、後ろが目を剥き、

「スタングレードよ!」と、前が叫んだ。

 桁外れの閃光と、轟音が自慢のうえに五、六歩の距離。爆発すれば火傷、失明、難聴、命の危険だってある。とっさに相棒の手を取った。頃合いだと、柱の影から女の声が飛んだ。低く冷たい声だった。 

「逃げるのかい」

 耳に残る独特の声音。それへ逃げ足が反応した。

「アデュー、ラフォン」 

「・・そうか、おまえかい、仕事の邪魔した奴は」

 人が動いたことを、気配でなく空気で感じ取った。常人には無い感覚のレーダーが振り向かせた。目を見張った。仮装から一転、全身ブラックのパンツスーツ、魔女ハット、サングラス、ハイヒールと、全てが怪しく美しかった事に。

 冷静、沈着が、ミシェルを背で隠し、疑問を口にした。 

「フオックス。ここへ来ると何故分かった」

「ヒント。おしゃべりのかわいい子」

「盗聴器・・・」

「警察が見つけたら、褒めてあげるよ」 

 不敵に笑い、戸口へ歩き出した。背中から銃が追った。 

「ミシェル、だったね。なかなかやるじゃないか。撃つかい」 

「場合によっては」

「じゃ三人いっしょにドカ〜ンだ」

 フオックスが手の平のリモコンらしきものを見せた。

「ひとつだけ教えてくれ。カネか、それとも復讐か?」

「そのうち分かるさ」

「そのうち、てことは?」

「どうだい。差しの勝負は」

「女だろ」

「みくびったね」

 ジョーの横に並ぶや、脚線美を見せつけ、ハイヒールを脱いだ。

「モデルのような体じゃさ。OK、じゃない、ウイッか」

 表へ出た。なだらかな坂に立ち、向かい合った。

「ケンカだと様にならんな」

「空手さ」

「おもしろいが、あまりにも狭過ぎる」

「技を極めてりゃどうってことない」

「じゃ女とは思わん」

 銀縁丸眼鏡を外し、マリーの亡夫愛用の、麻のジャケットへ放り込んだ。そしてちょい考え、脱ぎ、ミシェルへ渡した。スタンドカラーシャツに細身のジーンズが半身で構えた。オールブラックも構えた。リズミカルに。まさに昼下がりの決闘だ。

 空手のウデも侮れぬと、要警戒信号が点った。そして、両手薬指のライオンの指輪にも。

(あれだ。あれに毒針が仕掛けてある)

 ひとり言が集中力を奪い、いきなりピンチを招いた。予想もしない電撃の突きが、右、左拳が、胸元へ激しく迫ったのだ。ミシェルが悲鳴を飲み込んだ。しなやかなジョーの体が弧を描き、尻もち、辛うじてピンチを交わした。しかし負けに等しい尻もち。起き上がり、苦笑いが、相手の指を差し言った。

「気になってね」

「言い訳にしちゃ上出来。名は?」

「イエローモンキー」

 遠く近く、パトカーのサイレン音が聞こえてきた。

「愚問だったね。キツネ対サル。一幕はサルの勝ち。二幕はサルの負け。さてこの次は?アディユー、男前」

 ハイヒールを手に、肩で風切る後姿へ、

「キツネは魔女。果たして俺が」と、不甲斐ない自己を叱咤した。

 

 観光立国マルタの売りは、新鮮かつ豊富な魚貝類。当然、街中はシーフードレストランが軒を並べ、食通たちもその中にいた。

「ウニのパスタって始めて。おいしい!」

「これでマルタが語れる」

「レポートの最初ね」

「シブチンだよ。経費として認めるかい?」

 冗談も噂をすれば影か。上司のクリストフから電話が。

「込み入ってるみたい。待ってて」

 ウニパスタ、ジョーと視線を移し、夕陽に染まるテラスへ、飛ぶように出て行った。チャンスは今だ。ケイタイ、かの人へと繋いだ。

『もしもし、ルイーサ、俺だ、ジョーだ』

 スペイン語に一瞬間が空き、驚きに嬉しさの混ざった英語が返ってきた。

『昨日の今日でしょ。深呼吸させて』

 胸の奥から吐く息が、リアルに伝わった。

『今、何処?』

『忠告、守ったわよ』

『そうかい。聞くが、警察から電話あった?』

『えっ?じゃマルタにいてるの?』

『うん。しかも第一発見者』

『ええ〜!』

 偶然もここまでくればと呆れ果て、言葉を失なったようだ。ちょい間を開けた。 『おやじさんは?』

『一緒に聞いてる。続けて』

『ちょうどいいや。まだ断言は出来んが、アンヘルは敵の一人だった』

 再三の驚き。もう慣れたか、冷静な返しだった。

『傍弱無人だから、言われてみればだけど』 

『分からん。なにか証拠があるのか』と、落胆を隠せぬあるじ。

『ロケットから抜き取ったリレ紙幣の一部に、血に汚れた三つの指紋があってね』

『血判?その一つがアンヘルだと』 

 衝撃がきつかったか、疑念、怒りの、複雑な口調だった。 

『肌身離さず持ってた、その意味を考えて』

 感銘したミシェルの推理、その通りに話した。

『こいつは切り札。おやじさん。敵は身内だが、手強いのは手足。なんたって、スーパー魔女だからね』

 口調は軽いが、こけ脅しではない真実味があった。 

『魔女が相手か。まいったな』

 笑いたいが笑えぬ声へ、チラリ外を見やり、もっかの核心へ。

『アンヘルの旅先、知ってる者は?』

『執事だけ。それが何か?』

『スパイさ。首謀者Xの』

『直接、Xに話したってことも』

『いいかい。血判は相手が信用出来んから押す。そんな関係に夫婦のんびりなど、いちいちしゃべる?』

『確かにそうよね。分かった、皆調べてみる』

『先ずこいつをあぶり出す。勝負はそれからだ』

 待ちかねたように、ガルシアが口を挟んだ。

『君にはなんと言ってよいか・・・ひとつ、よろしく頼むよ』 

『任せて。帝国が大好きだもん』

『ありがとう、ありがとう』

 感に堪えない声へ、ルイーサがかぶさった。 

『こちらへは、いつ?』

 即答した。

『三日後、二十七日』

『待ってる、待ってる・・・』

 切ない声を切った。そして地産ワインをあおり、人けの無いテラスへ出た。夕陽に向って歩き、ミシェルの前で腰を落とした。

『前にいる。変わるわね』

 ケイタイがジョーへ。

『作戦局次長、ダテじゃないな』

『分かったか、あっはっはっ。内局が元SAS《イギリス特殊空挺部隊》工作員を探してる。派手な私生活にウラがあるとか。しかしパリに住んでるから怪しいじゃな』

『カラスの羽だろ。軍事会社、傭兵は?』

『ヒマな奴はひと通り』

『スーパー魔女、聞いた?』

『うむっ。危うしジョーなど想像もつかん。よほどの女だな』

 長距離狙撃の一件を話した。

『捕まえてくれ』と、口調は真剣。 

『こいつが明日絡んでくれば、ご要望に応えたいが、しかしあの技、頭、度胸、厄介なのは事実』

『おいおい、脅かすなよ』

『まっ、正直、明日は明日の風が吹くさ。ロンドンは?』

『SECが調査中。スコットランドヤード《ロンドン警視庁》は、テロと怨恨の両睨みだが、どちらでもなきゃ先は見えてる。あらましは部下に聞いてくれ。ひと月の休暇で、辞職をチャラにした』

『おいおい』

 切れた。浮かぬ顔のほっぺに柔らかい唇が触れ、返しにその耳元へささやいた。

「ほんと?」

「しばらく助手よ、誰かさんの」

 ジョーの未来計画が、また頭をもたげてきた。

 山とも丘ともつかぬ果てに夕陽が消えると、ヒマそうな一流ホテルへ入った。フロントのえびす顔を背に、エレベーターへ向えば、隣りが急にUターン。えびす顔へなにやら尋ね、返しに両手を広げ、戻って来た。

「ビックリした〜、三千ユーロよ。大丈夫?」 

「スィートにしちゃ安い」

「用心棒代、高いの?」

「他とはひと桁違う。乗って」

 最上階へのんびり動き出した。

「てことは、要人、ビップばかり」

「そう。命がけだもん、並みの報酬じゃね」

「心配になってきたな〜。ウチにそんなお金ないし・・・そうか、クリストフが身銭きるのよ」

 笑った所が最上階で、幸せパリジェンヌが腕を絡ませ、リッチ空間へと誘った。空、海ともバラ色で、当然甘い夢もバラ色なはずが、いつの間にか浮かぬ顔に。

「フォックスが分からない、リモコン、持ってたのに」

「簡単に殺せたよね」

「なぜ?」

「卑怯だからさ。ライバルだったら正々堂々とね」

「警察へは言わなかった、どうして?」

「空手の突き、寸止めした」

「寸止め。じゃ恩返し?」

 頷いた。そしてミシェルの肩を抱き、バルコニーへ出た。

「俺は今、燃えてる。最強の敵にね」

「分かる。分かるけど、わたしは妬いてる。きれいで、強くて、度胸があって、もう、ほんとにかっこいい・・・ジョーをとられそう」

「修練はきつかったはず。なのにあの体。不思議だ」

 上司よりも詳しくレマン湖の夜を語った。ヤキモチ焼きに配慮して。

「ヨットから長距離銃、しかもマトは的確。考えられん」

「元特殊部隊のエリートじゃ」

「同意見。ミシェル、手始めはバンジャマンだ。昔の怨みに加え金もある。そんなのが敵と繋がれば、ますます厄介になる。よってこいつを有罪にする。作戦会議だ」

 ボルドー産のシャンパンで乾杯、助手がパソコンを開いた。

「最初はイギリスから。この人が教育ソフト会社、フユチャーボックス社長バーニー・キャラック。二ヶ月前、同社が開発中のマル秘ソフトが、街中で噂になった。F・B社の新商品は子どもを天才にすると。噂は瞬く間にイギリス全土へ広がった」

「笑ってるな、ホーキング博士イギリスの理論物理学者 は」

「でも買っちゃうのよねえ、ママは」

「それで?」

「市場が見る間に反応した。株化はうなぎ上り。慌てた同社は対応に追われた。根も葉もない噂だと。そう否定したにも関わらず、株価は止まらなかった。そこへ最近になって大量の売りが出た。図ったようにまた噂がたった。あちこちで。画期的ソフトは頓挫したと。噂で火がつき噂で大暴落。怪しい、違法だ、インサイダーだと、投資家が騒ぎ出した。SECも調査を始めた。そして三日前、事件は起きた」

「バンジャマンとの関係は?」

「赤の他人、今のところ」

「どれくらい儲けた?」

「単純に七倍として、三億五千万ユーロ」

「すげ〜な・・・問題は元金だ」

「へそくりだと、とぼけてるらしいわ」

「しらじらしい」

「でも以前、十年・・・もっと昔か、仕手戦で大金を手にしたから、あながちウソとも言い切れないのよね」

 ルイーサがバンジャマンと出会った頃の話だ。

「金は持ってた。が更に欲しい。何故?帝国乗っ取りのため?いや二人を殺すのにそんな大金はいらん。だとすれば・・・」

 マイアミ、コンテナヤードの一件が頭をかすめた。話した。

「まさかだが、側近に洩らせばどうなるか」

 ケイタイ、ロベルトの秘書ジェーンへ。落札予定額は三億四千万ドル前後だと教えてくれた。ユーロに換算した。 

「土地以外に建物も目じゃない。普通に考えよう。入札話がアンヘル元老の耳に入った。魅力的だ。首謀者Xに相談、じゃカネはで、大金を手にしたバンジャマンへ。正味の実業家になるチャンス。乗った、では?」

「文句ない」

「よしっ!」

 ケイタイ。スペインの情報屋、ドッグへ繋いだ。

『ジョーだ。パリのインテリギャング、知ってるかい?』

『オリビエ・バンジャマン、だよな。調べるのか?』

『訳があってね』

『巨人は?』

『キャンセル。お友だちになったからさ』

『他の奴なら、笑い飛ばすが、おまえさんならな。で何が知りたい』

『先ず出身地』

 キーボードを叩く音がした。

『フランス領バスク』

『バスク?ガルシアもバスク人だよね』

『ああっ。側近、グループ会社と要職にある者は全てだ』

『何人くらい?』

『十五、六人ってとこか』

『エタ《E T Aバスク地方の分離、独立を目ざす組織》とは?』

『あれば即、クビだ』

『バンジャマンは?』

『奴がか。わっはっはっ!エタじゃ無いが同郷に面白い女がいる』

『聞かせて』

『資金不足のエタに、せっせと貢いでるのがデボラ・ロドリゲス。年は食ってるが、ひとまわりは若く見せるいい女だ。商売はシャンゼリゼの娼婦』

 シャンゼリゼ、娼婦が、六勘に触った。

『フリー?』 

『ネット時代だ。ヤクザは手を引いたよ』

『昔は?』

『分からん、調べるか?』

『ついでに帝国バスク人も。大急ぎでね』

 頬をピッタリ寄せていたミシェル、目を見張り言った。

「今の人って?」

「情報屋。本業は探偵だけど」

「高いの?」

「俺と同じ」

「ウチじゃムリだよなあ」

「ミシェルだったらお手ごろにさせる」

 ニッコリがキス、話を続けた。

「次はフランスね。殺されたセザール・ベルタンは、本業ではライアーマイナー《うそつき九官鳥 》と揶揄されてたけど、それは株で負けた人のやっかみ。実際はフアンも多かったとか。でこれからね。半月前、彼がバンジャマンに噛み付いた。週刊誌で。自作自演の証拠は握ってる。しかし悲しいことに、証人は口をつぐんでる。闇から飛んでくる銃弾を恐れてだ、と。そして」

「図らずも自分へ飛んで来た、二十二日に。ん?その証人は、もしかして」

「飛躍する。デボラはいくらでもお金が欲しい。そこへ上客のキャラック。渡りに船。バンジャマンに利用したらともちかけた。でも問題は、入札の話をいつ知ったかよね」

「公告は半年前」

 ニッコリが、ケイタイを取った。ジョーがその手を押さえた。

「まだ早い」

「相手はフォックスよ、生きてるかな?」

「答えは明日」

「えっ?」

「刺客が現れたら。それがフオックスだったら」

「生きてる・・・」

 この世にいなければ、リスクなど冒すはずが無いのだ。

「ペジャール氏とベルタンは関係あるの?」

「パリ第一大学の師弟。バンジャマンもそう」

「繋がったな」

「ベルタンは先生と共有してたのよ、隠し球を」

「しかし、非情って言うか・・・」 

「しょせんヤクザよ」

「そんな奴と組んだキャラックもまた哀れだな」

「自社株の売買は禁じ手。だから利益は折半が条件。自業自得だと思うし、わたしは同情しない」

 ただ嵐が過ぎ去るのを待つだけ。それだけで巨額の金が入る。確かにミシェルの指摘通りだと、自己の不明を恥じた。


 ワイン二杯で夢見心地になった。ハードな連日のつけだろうが、今後を思えばただ寝るだけ。ソファーへ横になった。夢路その一歩前で甘い息づかいに目覚めた、いや目覚めさせられた、か。

「シャワーの間にお眠なんて、も〜許せない」

「ミシェルは若い。俺はそこそこの年。分かってよ」

「年は認めないけど、疲れてるのは認める・・・ごめんね」

 数センチ先の色っぽい顔がしょぼくれた。ロバの目がタカの目へ戻った。自己の真実が、言葉になる寸前だった。あの清らかな声が告白を封じた。

『コダカ。あなたはまだ誰のものでもありませんよ』

『アテナ・・・そう言われてもさ』

『父をご覧なさい』

『ゼウスと比較されてもねえ』

『ほっほっほっ。至上の愛に報いなさい、コダカ、報いるのです』 

 アテナの声が余韻を残し消え去った。余韻がバスタオルを剥ぎ取った。ピカピカ、しっとりの裸体がおおい被さった。愛の嵐が荒れ狂い、マルタの夜が、ゆっくりと流れ過ぎていった。


  16 モサッド異聞


 200X年8月24日金曜日イスラエル

 二十二時過ぎ。モサッドツォメト《諜報活動を行う最大部署》 、ダニエル・アレンスが、衛生通信室に入った。平時であれば、とっくに帰途へ着き、良き夫、良き父親であるのだが・・・。

 室長のモシェ・カーネマンが、自慢のコーヒーで珍客を迎えた。

「またどう言う風の吹き回しだ」

「アフガン北部の地形が知りたくてね」

「行くのか?」

「場合によっちゃ」

「敵国だ。嫁と子のため、保険増額しとけ」

 苦笑いが、巨大スクリーンの世界地図に点滅する、一個の赤い光を指差した。

「元キオンの殺し屋さ。また商売に行ったのかな」

「じゃあれはアルゴス《データ収集衛星システムのうち発信器》」

「そう。訳はあとで話すが」

「思い出した。ニーナ・ビアッツィ、伝説の女じゃないか」

「うん。容姿、頭脳、射撃、格闘技。キオンでは群を抜いてた」

「しかし、なゼ辞めたんだ」

「辞めたんじゃなく、辞めさせられた、だ。詳しく話せば長くなるが、要するにアサド《シリア大統領 》の側近暗殺に失敗、捕まったからだ」

「生きてよく帰れたな」

「お互い人質交換でね、虫の息だったけど」

「条件は最低じゃないか」

「普通に考えろ。キオンは首相直属だぞ」

「なるほど。それで?」

「大手術。奇跡的回復。ユダヤ教徒のうえ、口が堅いのはお墨付き。無罪放免。まっ、すご腕だし、後は言うまでも無いな」

「アルゴスは何のために?」

「コードネーム、フォックスは、危険な奴だし、我が国の要人と関わる可能性だってある。それで手術のとき右足にね」

「埋めたのか。ポイントは・・・」

「マルタ島、ヴァレッタ」

 そこへ行政管理、分析課のアスカラとイサッカルが加わった。

「相変わらずの売れっ子ね」と赤い光を見て、古株女、アスカラが。

「シシリーのキツネは、血に飢えてる」と、中堅、イサッカル。

「しかし、この二ヶ月よね、頻繁に動き出したのは」

「それっ!多分、あの男のためじゃないかな」

「男って?」 

「その頃の話。見たんだ、彼女と東欧系の司祭が、親子のように抱き合ってるのを」

「何処で?」

「嘆きの壁。しかし、ビックリもいいところ。氷の女が、ごく普通に笑い、表情豊かにしゃべっていたんじゃさ」

「鉄仮面が?はっはっは!冗談・・・」

「本当。ボクも目を疑ったがね」

 場の沈黙へダニエルが問うた。

「イタリア人が何故イスラエルへ?」

 アスカラがこれに応じた。

「スーパーウーマンになりたかったのよ。陸軍のある人から聞いた話。初日の訓練で華奢な体を笑うと、三年後が楽しみです、と突っ張ったとか。それがハッタリでないのは、戦闘情報収集科司令部への栄転が証明した。それもたった二年半でよ。以後キオンまで六年。分かるでしょ?ニーナがそこいらの女でないことが」

「伝説に相応しいが、気になるな、その司祭がさ」

 ダニエルは夢にも思わなかった。ニーナが、いやフォックスが、親友のもっとも危険な敵であることを。


  17 マルタ島の怪人 2


 200X年8月25日土曜日マルタ国、ヴァレッタ

 翌朝。往復十キロと軽く日課を済ませ、スィートに戻れば、懐かしきシャンソン、『愛の喜び』が耳をくすぐった。リビング奥のドリンクバーから、その名残りが飛んできた。

「うそつき。そこそこの年だなんて」

 歩み寄り返した。

「ほら、あのときを思えばさ」

「神の国?地獄巡りよね。ある、説得力」

 笑った目に、粋に着こなしたジョーの白シャツが眩しい。

「洗ってくれたの?」

「妻だもん」

 幸せの笑みを浮かべ、カウンター越しに、照れ屋の首へ両手を回すと、

「い・ま・は」とささやき、おでこをくっつけた。

 そして、堰を切ったように言葉を綴った。

「あのとき、コンマ何秒のためらいがあった。ピンときた。奥さんか、それに近い人がいるって。でも、でも気にしないことにした。だって、私はこの人のために、生まれてきたんだもん」

 ここまで愛されると、覚悟あるのみ。

「そのコンマ何秒のとき、アテナは言った。俺は誰のものでも無い」

「女神が、アテナさんが、そう言ったの?」

「うん。でもさ、ゼウスを例にされてもね」

 溢れ出る涙。ベビーフェースがくしゃくしゃになり唇を這わせた。そして、熱いキス、ミシェルの手料理と進み、話が弾んだ。

「アラスカ育ちにフランス人の朝食、クロワッサン、ビスケット、ココアじゃかわいそうでしょ」

「アザラシの生肉、丸かじりだったもんね」

「それであのパワーか」

「どう?もう一戦」

「時間が・・・」

 と言いつつ、向かいの腕の中へ。そしてそのままいにしえの絨毯に膝をつき、もつれ合った。イントロは敏感な耳元、首、肩であり、場とは不似合いな会話が、BGMだった。 

「会場の騎士の間、騎士の廊下で襲われたら・・・」 

「こんなときに・・・ああ・・・どうしょうも・・・ない」 

 喘ぎ声にシャツのボタンを外し、腕、脇、程良い乳房と移り、 

「ペジャール氏に、何があったの?」と、ささやいた。

「ああ、うう〜ん・・・もう・・・メール。今度は・・・おしゃべり爺さんだ、外相のメッセンジャーめ、って。ジョー、話は、あ、あとに・・・」

 少し間を置き、脇腹、太ももと進み、得意のチェロを弾くような微妙な指使いが、舌先が、言葉を混ぜた。

「相手はF、決まり。さてどんな手で・・・」

「あっ、あっ・・・あれだけの、騎士たち、うっ、うっ・・・中味を調べるなんて・・・ジョーおねがい、どっちかに、して」

 香しい匂いが鼻先へといき、突然あるアイデアが。

「うむっ?そうか!いい手があったぞ。見てろ、第二ラウンドを」

「もうだめ・・・わたしは、雲の上、雲の・・・あああ〜」

 いついかなる時も、仕事を忘れぬ男が、ピカッと光った窮余の一策で、思考回路の全てのスイッチを切った。すると神の、師の、尊い諭しが、心の奥底から聞こえた。

『コダカ。至上の愛ですよ。今必要なのは、忘我の時。ほっほっほっ」


 前後はミシェル、ジョー。左右は四人の警官とガードは固く、空港、イムディーナ、レストランと何事もなく過ぎ、中世を今に伝える公会堂へ入った。

 一階は役所の一部として使われており、勤勉な職員たちが、三顧の礼で迎えた。その中から愛嬌男がしゃしゃり出て、「用意はできてますが、ちと重いですよ」と脅し、肩で笑った。

「どれくらい?」

「そうですな・・・子ども一人分、身に付けとると思えば」

 話に聞いていたペジャール氏、

「凶弾に死すと思わば、大人一人分でも踏ん張ってみせる」と、大見栄を切った。

 公演は一時間。質疑応答を加えれば、プラス三十分。よわい八十才が、悲壮な覚悟が、別室へいった。それを目で追い、階段を上った。目の先に、騎士たちがズラリ並んでいた。

「左右合わせて六十体。もう一度調べる?」

「武器を持った騎士だけわね」

 手ぶらが大半で、別棟の会場へと。刀、槍、弓、楯と手にしたマント姿の騎士が、今にも襲いかかりそうで、なんとも不気味。しかしこの不気味に対し、最強の防御法があったとは。 

「こんなこと、愛の最中に閃くなんて、また謎が増えた」

「思考と行動は別。楽器で学んだ」

「ピアノ?ヴァイオリン?」

「チェロ」

「聴きた〜い」

おきながさ。無事帰ってくれたらね」

 ほぼ完璧な騎士が出来上がった。大人二人がやっとの騎士たちの間を、老雄は一歩一歩着実に歩き進んだ。前は銃を構えたミシェルが、背後はタカの鋭い眼が、怪し気な気配を探した。

 四十歩の行進が、倍の倍の距離に思えた。紛れもなくフォックスの幻影に怯えていた。その証左に、会場へ辿り着いたときは、額から脇から、汗が滴り落ちていた。胸に問うた。お前は臆病なのかと、

「そう。俺は今臆病。当然だろ。相手は怪物じゃ」と、開き直った。

 

 頼りない歩調が演壇に上った。すり鉢型の会場に居並ぶ各界名士が、何事かとざわつき、騎士の挨拶で鎮まった。

「年寄りめ気が狂ったかと、さぞやビックリなされたでしょうな。しかしこれもマルタ騎士団に敬意を表してのこと。皆さん、どうかご無礼をお許し願いたい」

 命の危険をつゆにも出さぬ、勝負師のウイットへ、何も知らぬ聴衆が万雷の拍手で応えた。退屈で緊迫した九十分。その九十分が終ろうとしたやさきだった。主役があっさり兜を脱ぎ取った。拍手、拍手の中、慌てたガードが、思わず周囲へ首を振った。すり鉢底の最上段、騎士の列へ目がいった。とりわけクロスボー《弓》を構える二体だ。脳のレッドシグナルがせわしなく点滅した。夢中で演壇へ走った。目の端が一体の不審な動きを捉えた。鉄の両腕が動き、目の位置で止まった。   

「左のクロスボーだ!撃て!」

 騎士が構えた。老雄へ飛びついた。ミシェル、トリガーを弾いた。

『パン!パン!パン!パン!』

 銃弾を嘲笑うかの金属音が、矢を放った。そしてワンテンポ遅れ、足元から白煙が立ち上った。誰しもが異変に気付いた。先を争うように名士たちが狭い出口へ殺到した。ここはアドリブだと怒鳴った。

「みなさん!防火訓練です!慌てないで、速やかに出口へ」

 誰もがニヤリとした。分かり切ったジョークに。 

「さすがね。皆整然と出て行くわ」

 一方、唸りを上げ飛んで来た矢は、背後の床に突き刺さっていた。必死の体当たりがペジャールを救ったのだ。しかし、まだ油断は許されず、ミシェルが壁になり、ジョーが老体をいたわった。

「大丈夫かい?」

「うかつだった、謝る」

「いやいや、よく頑張ったよ、尊敬する」

「やせ我慢は、年寄りの得意とするところ。おっ、それより煙だ。火事とは違うな」

「敵のプレゼント」

「発煙弾まで用意してたとは」

「よくある手さ」

 ミシェルが煙の異変に気付いた。

「見て!煙が上へ。そうか、フオックスが逃げたのよ、窓から」

「プラン通りにね。ミシェルはここへ」

「気を付けて、あなた」

「ん?」

「言いたかったの」

「夫婦じゃなかったのか」と、頭がくすぶった大投資家。

「一歩手前」と、更に頭をくすぶらせたミシェル。

 苦笑いが鼻をつまみ、ぼんやりと映る最上段へ走った。次々に窓を開け、目指す場所へ来た。空っぽの騎士、半開きの窓と見て、柱の金具にくくられた紐の先、街路と追った。ひと目でそれと分かる女が、小型トラックを止めた。運ちゃんが降りた。荷台のレモンのカゴをかき分け、女が開いたスペースに飛び乗った。そしてレモンを手に、ジョーへ投げキッスと、実に見事な、逃走劇だった。

 窓ガラスの殴り書きに気付いた。声に出し読んだ。

「三幕はキツネの負け。さて次はどうかしら。アディユー、いい男」

 駆け上ったミシェル、ますます心配になった。男前からいい男へ変わったことが。


  18 召使いメラニー・デュカキス 


 200X年8月25日土曜日ギリシャ、アテネ

 ポンコツロールスロイスに、昔風ドレスでめかし込んだ婆さん。助手席の目が優しい大型犬。雰囲気にあったチェロのBGM。これらにすれ違う観光客が足を止め、物珍し気に、あるいは興味深気に覗き見て、通り過ぎて行った。

 アテネ国際空港ロビーから、目に着くカップルが出て来た。

「チョコ、ご主人様よ」

 愛らしい名前の犬が、嬉し気に尻尾を振れば、人生の荒波を刻んだ顔が、白髪頭のレース花付きカンカン帽子を触り、アクセルを踏んだ。

 カップルに追いつき、並走した。そして窓を開け、

「ご主人様。もしかして、歩いてお帰りになるとか」と、鹿爪顔で。

「メラニー。なんならそいつと競争するかい」

 チョコが婆さんの膝に乗っかり、二度、三度吠えた。

「あっはっは!・・・お乗りになって下さいまし」

 停車。婆さんがバックドアを開いた。若い女と目が合った。

「あの〜、と、ともだちのミシェル・コレットです。よろしく」

「召使いのメラニー・デュカキスでございます。お揃いのお召し物、とても友だちとは、さあお乗りになって下さいまし」

 なるほどであり、ベビーフェースが紅くなった。

 発車。見る間にスピードが上がり、百三十キロ。ポンコツでもやはりロールス。更に二十キロ足し、いつの間にか、青い、青い海が、エーゲ海が、迫って来た。

「ご主人様。お顔が強張ってますが」

「当たり前だろ、大事なお人が乗ってんだ。ねえ、F1級のウデは認める。認めるから、ほら、なんとかしてよ」

「なんともなりませぬ。スピードは緊張感を得るため。あきらめて下さいまし」

「だって。ミシェル、お祈りでもする?」

 ギリシャのアジトを任せ、六年が過ぎたメラニー・デュカキス。八十三才と、老いてなお元気なのは、万人の認めるところだが。

「ジョー。理にかなってる」

「さすがは奥様です。腹も肝も座っておられます」

「あの〜」

「彼女の仕事、分かったの?」

「ご主人様とその辺の女。はっはっは・・・似合いません」

「そうよねえ」 

 思わず合わせたが、これまでを思えばその通りであり、胸いっぱいの幸せが、夕映えのエーゲ海で、更に、更に膨らんだ。そして、岬の断崖に建つ白い家に、とんがり帽子の青い瓦屋根に、瞳を輝かせ、声を上げた。 

「あのお家、ステキ!」 

「奥様、あれがご主人様の別荘でございます」

「ええっ!ほんと?あの〜ミシェルで」

「人には身分がございます。とんでもないことで」

(二泊が一泊になり、面白い家があってねえって、ついて来たけど・・・)

 アテネ、召使い、別荘。混乱が極みへ達した。そこへ得意のボケが。

「金が払えん。どうだ。あれと、このロールスで」

 混乱が少し薄れ、夢見心地が、シリアスになった。

「損した?」 

「振りした」

 反動が大笑いに。ミシェルが、らしくなった。

「誰かさんの謎は、もう深まるばかりね」

「謎は多い方が楽しい、だろ?」

 とんがり帽子を眼前に、ポンコツが止まった。何か変だが、要するに駐車場は崖上、家は崖下ってことである。地形を受け入れ器用に造った結果だが、漆喰を塗りたくった四階建ては、通路、階段が複雑に入り組み、まるで迷路。おまけに、赤や紫のブーゲンビレア、ハイビスカスが目を奪えば、まさに花園の迷宮である。 

「迷子になりそうね」 

「なれば、他の奴なら放っておくが、ミシェルだったら、飛んで助けに行く」

 思わず腕を絡ませたパリジェンヌ。二十六年目に訪れた幸せに、足も弾み、階段を登り詰め、通路が平坦になったところで、夢では無いかと心配になった。絵のようなエーゲ海、白いヨット、行き交う大型客船と目に映れば、それも当然か。

 青い扉の前で、メラニーが足を止めた。

「ご主人様。アレンス様のお迎えは?」

「ダニエルかい。適当に来るだろ。それより、アフガン《アフガニスタン》の客人と一緒らしいから、レシピは、アラブ人が好むものをね」

「では、トルコ料理などは」

「さすがだ」

「わたしも手伝う」

「マドモアゼルには恐れ多いことでございます」

「いろいろ勉強したいの」

「それではフランス料理を教えて下さいませ」

「家庭料理は普通よ」

「五つ星のレストランなど、たまに食べていくら。庶民が口にするものが一番でございます」

「そうよね。じゃ情報交換」

 意見がまとまり、ドアを開けた。デカ犬がかしこまっていた。先導したデカ犬が横に並び、同時に吠えた。 

「どっちもラブラドールよね。かしこそう!」

「元は盲導犬だからね」

「盲導犬は吠えないって聞いたけど」

「メラニーのお陰」

「そうか〜メラニーさんが自然へ戻したんだ。名前は?」

 茶色と狐色を指し応えた。

「右はチョコ、左はクッキーでございます」

「じゃコーヒーにお菓子はいらないわね」

 大いに笑いを取った。

「さあ奥様、情報交換の場へ」

「うふふ、よろしくね」

 食えぬ召使いが、孫を愛でるようにキッチンへ誘った。直後にケイタイが鳴った。

『ダニエルだ。これからそっちへ行く』

『グッドタイミングって言うか、まさか衛星でさ、俺の後をつけてるなんて』

 胸に覚えがあったか、わずかな空白を飲み込み、

『衛星?衛星ねえ』と言い、フォックスの赤い光を振り払った。

『ん?何かあった?』

『まあね。しかしワンチャンスをものにしたんだ。ユーロミリオンズ《ヨーロッパで人気の宝くじ 》でも買うよ』

『あれは安い。スーパーエナロット《イタリアの宝く》にしろ』

 その気になったか、口笛が聞こえ、遠のいた。

 最上階のテーブルにエレナ渾身のレシピが並んだ。図ったようにチョコ、クッキーが、三人の客を連れて来た。もじゃもじゃの赤毛男が、友と認める二頭の首をなぜながら、

「何度来ても、心に残るな」と、エーゲ海の感動を挨拶にした。

「また残してくれだが、モサッドに、アフガンの友達がいたとはね」

 異宗教の疑問が口から出た。

「宗教、主義主張、くそくらえさ」

「俺と付き合えるはずだ」

 そばをうろつくカモメたちが、笑い声に驚き、赤い光の中へ飛び立った。その光景に、連れの老人が首を振り言った。

「平和だな・・・バーブラーク・アミーンだ」

「実感がこもってる。ジョー・コダカ」

「テロ、テロ、テロ。人を救う宗教が人を殺してる。この年まで矛盾に悩んでるよ」

「アラブの人々に聴かせたいな」

「初めてです。アミーンがぼやいたのは。補佐役のムハンマド・タラキーです、今日は突然押しかけて済みません」

「客は多いほど楽しい、よろしくね」

 あたたかく優しい銀縁丸眼鏡の奥が、アフガンの親子然に注がれた。足元まである白い衣装に、肩からパトゥーと呼ばれる生成りのショール、頭にターバン、靴はサンダルのスタイルが、素朴派の情感を揺さぶった。

 落陽を眺め席へ着いた。ダニエルが横目で長老を差し、マジ顔で冷やかした。

「アミーンはね、天然ガス田の地主。その上周囲には石油も眠ってる。もう笑いが止まらないとさ」

「何を言う。あれは言ってみれば民の浄財だ。それでなければこのような所で呑気に暮らしてるわ」

 滑らかな英語が、表情を読ませない髭面から出た。だが鋭い目と、鷲鼻、薄い唇だけは読ませた。老人が知識率の低い貧しき国のカリスマ、リーダーであることを。情報戦に明け暮れるダニエルがしみじみと言った。

「国のために身を捧げる。アミーンもボクも同じ。でも僕は英雄にはなれない。陰の仕事だから?いや違う。人間界の欲を、捨て切れ無いから」 

「それでいい。みなワシであれば世の中つまらん。違うか、ダニエル」

 自己を顧みた凡夫、ほろ苦く笑い、話を足した。

「君に電話したのはアミーンの意向でね。後日改めてが、まさかのギリシャ」

「この渡り鳥を、偶然でも捕まえた。賞賛に値するな」

 鳥の羽ばたきを演じ笑いを取ると、場が和やかになった。そこへ、古代ギリシャを彷彿とさせる女が、飲み物を持って来た。ミシェルのちょっとした余興であるも、夢、幻と判断が出来ない男たち。それをチラリと見やった古代美女。してやったりの満足顔で男たちへかしづき、ビールを注ぎ、流し目でニッコリ。そして最後の男で、

「いかが?」と、唖然顔へ媚を売った。

「独占欲の強い男であれば、天女を連れ去るだろうな」 

「もうジョーったら、うれしがらせて」

「世辞は商売だけ。でその衣装は?」

「若き日のメラニーさんが仕立てた、ハロウイン用のもの」

「ふう〜ん、彼女がこれをねえ。しかし、鏡もビックリ・・・」

「ご主人様。何か」と、いつの間にか近くにいた、地獄耳。 

 慌てて次の言葉を飲み込めば、天女が肩をすくめ、魔法使い風老女へ、お愛想とは思えぬ賛辞を贈った。

「演出家としても一流ね」

「世間は年寄りを小馬鹿にする風潮があります。そのアンチテーゼ《反定立。否定的判断•命題》でございます」  

 強引なアンチテーゼが、場を笑わせ、アミーンが口を挟んだ。

「その通りだ。若いもんに婆さんの知恵は出て来ん。ほれ、美女の崇拝者が言ってるぞ。女神を紹介しろと」

 ムスリムの堅物も好奇心には逆らえない。海を背に本人が颯爽と応えた。

「身分は明かさないのが決まりですが、みなさんには明かします。フランス、DGSE作戦局、ミシェル・コレット」

「ほう!スパイか?」

「あの〜」

「バーブラーク・アミーンだ」

「アミーンさん。映画がお好きのようですね」

「さて、国に映画館があったかな」

 英雄のボケへ、ダニエルが口を挟んだ。

「噂の部下って、キミ?」

「やっぱりなあ、お酒のあてにしてたんだ」

「お陰でうまい酒が飲めた」 

 上目使いでジョーを睨むも、こんなところで会えるとはで、ご同業へ質問攻め。なにやら説教臭くはあったが、当人は至って真面目だった。それを見てアミーンがメラニーを手招き。

「これ婆さん。ビールが軟弱なムスリム《イスラム教の教徒 》を誘惑しとる」

「爺さん、ひとつ軟弱祭などこしらえたらどうだい」

「うむっ?戦争がバカバカしくなるか、わっはっは!」

 笑えない現実を笑い飛ばし乾杯、笑える宴が始まった。先ず、魚スープ、ショルパで、アミーンの険しい髭面がゆるんだ。

「酸っぱさが絶妙だ。婆さんがこしらえたのか?」

「気にいったかい」 

「うむっ。どうだ、ワシの飯を作らんか?」 

「とかなんとか言って、そばめにしようなどと」

 老雄、トマトを飲み込み、むせび込んだ。メラニーの一本勝ち。次いで衛星を思い出したか、ダニエルがビールをいっきに煽り、 

「かつてウチに凄いのがいてね」と言って、更に残りをゴクリ。

「ダニエルなら百のウソも一になる」

「ニーナ・ビアッツィ、コードネーム、フォックス」

 一瞬の沈黙、空白。そして・・・。

「もう一度言って」

「ニーナ・ビアッツィ、通称、フォックス」

 ジョー、言葉が出ず、代わりにミシェルが詰め寄った。

「先輩教えて。彼女の知ってること全てを」  

 泡を食ったダニエル。魔女の過去を語れば、グラスを手にする者は無かった。

「その話を聞いて、今度ばかりはね」

 ガルシア、バンジャマン、フォックスと、たかだか三日で関わった者へ、ダニエルが呆れ果てた。しかし友を思えば、これからの策だ。

「怯えてる女に、交渉相手はエタ。すげなく断られるのが落ち」

「しかし、行く。必ず会ってみせる」

「意気込みは買うが、下手すれば殺されるぞ」

「それは私が」

 後輩の真剣な語気に、先輩が薄く笑い言った。 

「死ぬのは男だ」

 そして英雄が。

「テロを起こすヤカラは国を問わん。皆自国の利益だけ。そこでだ。ダニエルが言った通り、死ぬのはコダカ、ミシェルは生きてワシの見張り。スパイより増しだ。冗談じゃないぞ」

「感謝します。でも、アフガンじゃ似たり寄ったりかと」

「わっはっは!こりゃまた一本取られたな」

 豪快に笑ったアミーン、一呼吸置くと場を見回し、隣りのタラキーへ目配せした。

「コダカさん。多分無理かと思いますが、こちらへお邪魔した目的だけは、どうか聞いて下さい」

 淡々とした英語が、続けた。

「アフガン北部は、NATO連合軍の支配下にありますが、それでもタリバンははびこってます。ケシ栽培農家が跡を断たないのはそのせいです。ロシアへの麻薬密輸ルートを封じれば、北は農家が畑を放棄し、更に治安が良くなるでしょうが、それもアビダイ・ジャビラが生きてる限り、先ず無理でしょう。先般、このジャビラがアミーンの命を脅かしてます。資源を我がものにすれば、状況は一変しますからね。しかし今アミーンを守るのは、警察、有志二十人ほど。これではとてもとても。そこでコダカさんの知恵と力をお借りしたくて、こうして」

 何を思ったか、ミシェルが横槍を入れた。

「二日だけですが、私では」

 驚いたタラキーへ、ダニエルが補足した。

「それって外相のアフガン訪問じゃ。行くの?」

「正式にはまだ」 

「いつ?」とジョー。

「来月、二十日、二十一日。決まれば少しはお役にたてるかと」 

「地形、気候、食べ物、医師不足、女性には厳しいですよ」

「アフリカで慣れてます」

 こうなれば用心棒に否応は無い。

「OK!引き受けた。ただし生きてればね」

 何とも言えぬ空気を、ダニエルが破った。

「フォックスと父親らしき司祭が、嘆きの壁で親しそうにしていたとか。こいつを探す方が、案外近道かも知れん」

「嘆きの壁か。ここに秘密があるな」と語るも、これは後と決め、 

「で当面はどうするの?」と、難しい顔のタラキーへ。

「軍へお願いしてますが、兵站は余裕がありません」

「それじゃしばらくここにいる?」

「いいのか?」と、アミーン。

「どうぞ」

「コダカ。冗談だ。よわい五十七。国の寿命を思わば、枯木に花が咲いたも同然。よって、コダカが来るまで、花を咲かせていようぞ」

 誰しもが胸を打たれ、それ以後は飲めや歌えやの無礼講。束の間の安らぎは、夜遅くまで続いた。支離滅裂、あるいは八方破れの宴が終った。アミーンが最後を締めた。しみじみと。

「アフガンとギリシャ。同じ夕陽だったが、印象はまるで違う。あえて申さば、血の色と安寧の色。戦争を呪うのはこんなときだ。同じ感情を持ちたい。同じ心を持ちたい。切にそう願う」

 二十二時、客たちがベンツの横に並んだ。

「衛星通信室に鞍替えするか」

「似合わん」

 強がった。しかし出来るものなら、頼むよと、言いたかった。

 ポンコツロールスが雄叫びを上げた。アミーンが最後に乗り込んだ。しかしニッコリの婆さんを見て、驚き、たじろぎ、疑問を投げた。

「婆さんが運転するのか?欲が出てきた。目は大丈夫だろうな」

「爺さん!来年のモナコグランプリ、楽しみにしてな」

 受けた。これに苦笑いが突っ込んだ。 

「どうだ、ワシの運転手は」

「とかなんとか言って」

「そばめか。冗談は顔だけにしてくれ、わっはっは!」

 膨れっ面が思いっきりアクセルを踏んだ。数秒後、アフガンの英雄は、メラニーがF1婆さんであることを知った。カミナリロールスが、アテネの街明かりへ、瞬く間に消え去れば。

 それでも戻るまでは気掛かりで、心配顔にむっときたか、 

「ご主人様、こちらへ。奥様もどうぞ」と言って、隣室の小部屋へ連れていった。

 年期の入った机にパソコン二台、どこで探したか、骨董品的書棚の帳簿類と、メラニーの趣味世界に収まった。咳払い三度でノートパソコンを開いた。スイス銀行当座預金の最新ページが現れた。

「シリル様、アケレ様と、さっそくにご入金されています」

「金払いがいいと言うか」

 ミシェル、振り込み金額に声を飲んだ。

「シリル様は三十万ドル、アケレ様は百万ドル。ありがたいことです。直ぐに感謝のメールを送りました」

「さすがだ。もういい?」

 今度はカード会社の請求書へと。

「使い過ぎです」

「そうだね」

「仕事のためだと、メラニーは理解しています。が、ほどほどに」

 マルタのスイートを思い出し、ミシェルがクスッと笑った。

 さんざめく満天の星、遠く行き交う客船の灯り、崖に打ちつける波の音、爽やかな夜に生気を取り戻した芝生と、ロマンスの舞台はバッチリ。そこへこだわりの召使いが、主人は膝丈の長いキトン《古代ギリシャ衣装》、ミシェルには本格キトンで演出し、並んで座れば、長寿の秘訣、ギリシャコーヒーをそれとなく置いていった。

「もう世界一ね、お手伝い、召使いの」

「先見の明があった、と褒めてくれ」

「なっとく。なれ初め、聞かせて」

「うん。六年前だった。屋台のシシカバブ売り婆さんが、何を思ったか、哀しい過去をしゃべり出した。あのキャラだ、楽しそうにね。終いまで黙って聞いた。気の利いた慰めなど無用だから、ただ代金だけを渡した。ところがいらないだ。こんな詰まらん話に耳を傾けてくれたお礼だと・・・」

 ひと息いれ、話を継いだ。

「じゃさあ、礼に別荘の管理人はいかが?と、半ば冗談で声を掛けた。その夜、ほんとに婆さんがやって来た。でかいカバンを提げてね。しかし条件があった。英語、パソコンを覚えること。で六年が過ぎた。それが、ねっ、見ての通りさ」

「月並みだけど、えらいなあ」

「手入れの行き届いた家も庭も、俺が心置きなく仕事がやれるのも、犬が自然に帰ったのも、みんなメラニーのお陰」 

「言葉がない」

「努力は人に見せず。ほんと頭が下がるよ」

 感無量がコーヒーを口に含んだ。

「エスプレッソみたい」

「上澄みだけすすってね」

 しばしメラニーに想いを寄せ、ミシェルが言った。

「愛はこんな夜のためにあるのよね」

「ここで?」

「もちろん」

 ロマンチックな愛を邪魔するものは無かった。だが無粋なケイタイは違った。いまいましそうなミシェル、通話ON。

『もしもし姉さん。ディオンが、ディオンが警察に連れて行かれた』

『ええっ!なんでまた』

『ケンカ相手を刺したの、ナイフで。幸わい傷は浅かったけど』

『ドミニク。直ぐ帰る、直ぐ・・・』

 涙の女を抱え上げた。客船の警笛へ、愛をかえりみ言った。

「ミシェルは兄妹の母。待ってる」

 至上の愛、愉快な召使い、賢い犬、素敵な別荘と美しいエーゲ海。ミシェルは悔しかった。それら全てと、分かれ去ることが。


  19 帝王の娘


 20X年8月27日月曜日ロシア、モスクワ  

 朝一だった。ロシア内務省、組織犯罪総局の一室で、ソーブル《緊急対応特殊課》トップ、アダム・バランニコフが、一ダース余りのエリート捜査官へ、腹の底から檄を飛ばしていた。 

「来月フランス外相が来る。口うるさい奴が、何をわめくか、諸君は分かってるな」

 そこで話を切り、一ダース余りを睨み、続けた。

「加えてだ。大統領は、ソーブルは遊んでる、たるんでるなどと、側近に洩らしてるらしい。言語道断だ。いいか。ルスカーヤの売人麻薬密輸組織の末端にいる人を片っ端から上げろ。先日はたまたまうまくいったが、氷山の一角の、そのまた一角に過ぎん。諸君!大統領や口うるさい奴に、我々の批判はさせるな。どんな汚い手を使ってもかまわん。組織にダメージを喰らわす大物をしょっぴけ。犬のように這いずり回ってでもだ。以上!」

 追われるように部屋を出て行くエリートたち。その最後の背中二つに、バランニコフの声が飛んだ。

「アレンスキー、エゴロフ。残れ」

 最前列の机に向かい合い、ボスが、部下を試すように言った。

「カジノホテル建設がまたぞろくすぶり出した。今度はうまくいく。何故だ?」

「政治家、省幹部、金でなんとでも」

 ロシアの大地を思わせるエゴロフが、事も無げに応えた。

「そうだ。スペインの金は、政府の隅々まで行き渡ってる。取り分け、高官どもにはな。アレンスキー、そのうちホテルはドラッグの温床になる、どうすりゃいい?」

 ソーブル一のインテリが、眉一つ動かさず応えた。

「奴らに任せましょう」

「ルスカーヤか。しかしだ、モスクワが潤うのも事実。どうする?」

 インテリが即答した。

「差引きゼロ。では綱引きは、ガルシアの方を」

「でさっそくのご達しだ。バレリーナが里帰りする。ついては空港まで見張れとさ」

「知る人ぞ知る、ミロン・アンドレーエフですよね」

「うむっ!」

「警察の間違いでは?」

「役不足なんだろ。ガードはそれとなくな」 

 ソーブルの看板、バランニコフが、肩をいからせ立ち去った。

 空港へ直結したターミナルが間近に迫ってきた。合わせるように車内のざわめきが増していった。そしてピークになったところで、ガルシアの娘ミロンが、あたふたと降車に掛かった。エアロエクスプレスが、ホームへ滑り込んだ。順列の最後方に並ぶミロンへ車掌が声を掛けた。列車が停止した。

「ミロン・アンドレーエフさんですよね。あなたのバレエは素晴らしい、サインを願えませんか」

 それを機に、前で並ぶ者が足を止め、いきなり振り返りった。マスクをしていた。

(な、なんなの、この人たち)

 不安が現実になった。マスク男がいきなりミロンを羽交い締めにした。声を上げるべき口が、グイッ、ピタッと塞がれた。車掌がベルトからアーミーナイフを取った。瞬時であり、訓練された者の技であった。声を奪われた恐怖が絶望へ変わった。二十一才の輝ける命が、ついえようとした。だがそのとき、

「パン!パン!」と、二発の銃声が車内を震わせた。

 車掌がマリアにもたれ、ずるずると足元へ崩れ落ちた。これに乗客が驚いた。我先にとホームへ駆け降りた。絶望を救ったのはアレンスキーであり、騒動に乗じたエゴロフは、ホームへ飛び降り前方へ走った。

 思わぬ展開に泡を食ったマスク男。懐から銃を抜いた。ミロンを楯に、ブラウスの襟首を掴み、引き摺りながら、後部座席の陰へ数発見舞った。一方のエゴロフ、乗降口の客をかき分け、扉の横に身を忍ばせた。開いた。息づかいが聴こえたそのときだった。ロシアのヒグマが銃を持つ手を捻り上げた。ボキッ。骨折、絶叫。更に頭突き。たまらずマスクが床でのたうち回った。そして決めは、デッキへ引きづり、ホームへ蹴り落した。二人を検分した。

「ロシア人じゃ無いな」と、エゴロフ。

「ツラはイタリア系だ」と、アレンスキー。

「シシリーマフィア」

「だとすれば、ガルシアは黙っちゃいない」

「戦争か。面白い」

 駅員数名が駆け付けた。アレンスキーがバッジを見せ、クールに言い放った。

「ソーブルだ。死体とこいつを預かってくれ。おっつけ本省が引き取りに来る」

 直立不動の駅員たちが命令に従った。アレンスキーがミロンの肩を抱きホームへ降りた。震える体が辛うじて声を絞り出した。

「なんてお礼を言ってよいか」 

「危うくクビになるところだった」

 アレンスキーのジョークへ、堅い笑みで応えた。

「エゴロフ。無事を祝ってゲートまで送るか」

「ボリショイの未来のスターに、敬意を表してね」

 照れたミロンに顎をしゃくり、エリートが歩き出した。でかいサムソナイトを指二本で引き、ロシアのヒグマが後に続いた。  


  20 ロシアの闇


 20X年8月27日月曜日ロシア、モスクワ

 ジョーの従妹、水沢香織は、カザフスタン、ウクライナ、ベラルーシと取材を終え、モスクワにいた。撮影目的はバレリーナの練習風景だが、アポ時間までまだ間があり、赤の広場をうろつき、ボリショイ劇場へと向った。

 一キロほどをのんびり歩き到着。口うるさい振付け師に、ひたすら忍の一字で頑張り、納得の写真が撮れるといっぷく。そこへ劇場の広報が現われ、赤い腕章が目に着く中年男へ言った。

「残念だね。ミロン・アンドレーエフは休暇を取ったよ」

「いつまで?」

「さあ、上に聴いてくれ」

「一緒に住んでいた兄クラウディオは行方不明、急きょ派遣されたエミリオは、気の毒にも殺された。恐くなったのかな?」

「元気が無かったし、まあ、そう言うことだろ」

 幼児程度のロシア語では、ヒアリングもままならず、半分想像で聞き耳を立てた。がいずれにしろ、話が穏やかじゃ無いことは、想像するまでもなく分かった。

「コムソリスカヤ・プラウダ《ロシアの新聞社》は、ミロンの特集を組むつもりでいたが、旅行かな?」

「旅行?もしそうだとすれば、スペインかもしれん。フラメンコの勉強にね」

 聞き手の表情がスペインで変わった。興味が耳をそばだてた。

「いかにも彼女らしいな」

「研究家、努力家は折り紙付きだよ」

 どうやら新聞記者のようだ。目が合った。日本人らしくキチンと頭を下げると、白い歯を見せ、首のニコンへ視線を送り立ち去った。足元のスクラップに気付いた。分厚い手帳から落ちたのだろう。拾った。四つ折りを開いた。読んだ。

「ボリショイのプリマ、レイラアンドレーエフ、非業の死」

 色褪せ黄色くなった切れ端の、派手な見出し、美しい顔写真が興味を呼んだ。従兄同様、イタリヤ軍リュックサックを背に、記者の後を追った。

 足が早く劇場前のチアトラニナラヤ・プロシャン広場で追いついた。

「あの〜、これをお届けに」

 イントネーションも幼児以下。相手は?しからばと前に回って、スクラップを差し出した。目は口よりで、

「ありがとう」の、まさかの日本語が返った。

 ビックリ日本人に親近感が湧いたようだ。好奇心を満たすチャンスだ。

「コムソリスカヤ・プラウダの日本支局にいたか、特派員で長い間日本にいたとか」

「絵は自由に描くものです。はっはっは!」

 詮索はキャラに無い。

「わたしの名前は、水沢香織。報道写真家です。仕事柄ちょっと気になって」

「ビクトール・ボンダレフです。この人の事件ですよね」

「ええっ」

「それじゃカフェに行きませんか?」

「お腹が空いたから、レストランの方が」

 チャーミングな笑顔が返事で、通りを渡り、ダイニングカフェへ案内した。メニューの料金にも、一品のおいしさにも、ロシアを見直した。そしてコーヒーの量、味わい深さにも。

「知らない者同士、ざっくばらんに話しましょう。十三年前、冬のモスクワ川に遺棄された男の銃殺体は、名前、年令以外は公表されず、ロシアの闇に埋もれました。いつものように事件は幕です。しかし匿名のたれ込みが、闇に光を与えたのです。男は内務省特別機動隊に所属し、レイラ・アンドレーエフ殺害の犯人だと」

 話に熱が帯びてきた。対面も椅子を寄せた。

「僕の記者魂が騒いだ。裏付けです。男の住むアパートで重大な証言が。ゲオルギー・レオノフはレイラのファンだったと。それも狂の着く。そしてレイラのマンションでは、住人が、周囲をうろつくレオノフの姿を、再三見たと。たれ込みに信憑性が出てきました。しかし疑問も。犯行が拳銃ではなく、何故ライフルだったのか。身の安全のため?凍てつく夜の寂しい通りですよ。変だとは思いませんか?結局はこれは宿題にして、狙撃の現場、アパートの屋上へ行きました。目標の入口まで六十メートルほど。仕事が仕事ですから、先ず外さないでしょう。帰りに最上階の人が、警察には内緒だと行って、そっと耳打ちしてくれた。あのときの靴音は金属音がした。軍靴でははないかと」

「遠い昔の話が、まるで昨日のよう。私だったら思い出すのが大変」

「写真家と新聞記者の差、では?最後はアリバイです。近くの行きつけの酒場がアリバイを蹴飛ばしました。犯行時刻、即ち二十二時前後は、よほどの事がなければウチにいると。残りは宿題です」

「届かぬ愛の果ては、遠くから」

「なるほど。これで繋がりましたね。ええ〜と、ミズサワ・・」

「カオリです」

「ミズサワカオリ・・・そうだ!アフガンの現実を、世に知らしめた人だ。しかしよくもまあご無事で」

「兄がついてましたから」

「お兄さんが。スーパーパーマンですね、きっと」

 香織の満足が、残りのコーヒーへ混ざり、喉を通った。 

「話はこれからです。僕がミロンに興味を抱いたのは、才能プラス、謎の父親でした。役所が戸籍閲覧を断れば尚更です。恐らく内務省が命令してるのでしょう、相当な人物です」

「気になりますね」

「スペインの雄、セベリアーノ・ガルシア、であれば可能です」

「写真で見ましたが、住居は、あれは宮殿ですね」

「はっはっは!彼なら内務省も手の平で転がせます。賄賂天国ですからね。ミロンの世話役と会いました。ミロンはバレイ学校では抜きん出ていますから取材と称してね。しかし驚きました。腹は読めてる、そう言わんばかりに、いきなり告白したのです。ぼくはセベリアーノ・ガルシアの養子、エミリオだと。そしてミロンは、ガルシアの娘だと。だがオフレコにも関わらず、エミリオは殺された。悲劇のお母さん、生死不明の兄クラウディオ、ミロンは本当に哀れな人ですね」

「じゃミロンがロシアへ戻る事は」

「無いでしょう。残念ですが」

 別れ際、スター候補の写真をくれた。母と瓜二つだった。思えば次の取材先はバルセロナ。ガルシアはマラガ。同じスペインに何か因縁めいたものを感じ、ロシアを去る足取りは、しばらくは重く、そのうち軽くなった。  

 

  21 スペインの犬


 200X年8月27日月曜日スペイン、バルセロナ

 ムンジュイックの丘の、白い不思議なモニュメント。それは青空にひと際映え、芸術都市バルセロナを想いやった。やがて頭が空っぽになったころ、ルノーステーションワゴンが、ベンチの背もたれのそばで止まった。情報屋ドッグが、でかい鼻をぴくつかせ、外へ出た。そして、ぶっきらぼうに、

「歩くか?」と、辺りに向って言えば、

「世話になる」と、モニュメントを仰ぎ、ジョーが慇懃に応えた。

「不思議な街だろ」 

「ガウディの影響を受けてればね」

「シリアスな犬には、宇宙人はついていけん」 

 喉の奥で笑い、仕事に入った。

「喜んでいいの?」

「情報通りだったらな」

「デボラの兄だって?」

「腹違いのな。まっ名字が違えばもたついて然り、大目に見てくれ」

「カミロ・・・なんだっけ?」

「バルガス。エタのメンバーでは数少ない穏健派だ」

「場所、職業は?」

「ビルバオから東へ八十キロ。直ぐフランスだな、サンセバスチアン《スペイン北部の観光地》のパーマ屋としては、けっこう流行ってるらしい」

「メンバーのボスが、よく黙ってるな?」

「とりあえずは様子見ってとこか」

「他に嬉しくなるような材料は?」

「無いな」

「感じはどう?」

「率直に言って、厳しい」

「ダメ元。ありがとう、恩に着るよ」

「高いぞ」

「いくらでも」

「マラガに人気内科医がいる。名はミランダ・ボニージャ。ミスユニバース級の女だ。ガルシアは五十代半ば、高校生のこの女にいかれた。だが相手にもされなかった。訳は死んだおやじの意志を継ぐため。寒村の医者になれと言う」

 タバコ嫌いが、ガムを取った。包みを広げながら話しを継いだ。

「しかし金が無い。がこの辺はガルシアだ。欲無しで援助を申し出た。甘えた。立派な医者になった。ついては恩返しだ。毎月末帝国へ足を運ぶのは、その想いがあるからだ」

「てことは?」

「知恵ある殺し屋だ、必ず利用する」

「わけないか。他は?」

「バスク同盟のエリートは、みな律儀だった。素行も申し分ない。こういっちゃなんだが、ガルシアに今、敵などおらん」

「参ったな。じゃこれを見て」

 札入れから曰く付き紙幣を抜き、ドッグへ渡した。しばし見つめ傍らのベンチにどっかと座った。ルーペで念入りに調べ始めた。期待の視線が、所作の一つ一つを追った。ルーペから目を上げた。

「しかしなんだな。旧千リラ紙幣のこの狭い余白に、三つもよく押せたもんだ。深読みすれば、覚悟の結束ってことか」

「しかし一人が殺された」

「ん?説明してくれ」

 イムディーナの一件を、簡潔にしゃべった。 

「フオックスと言ったな。その女が血判の一人?まっ巨額の報酬を思えば、なきにしもあらずだが」

 再度血の指紋を調べた、入念に。そして・・・。 

「見ろ。こいつを。明らかに女だ」

 札を手に取った。穴の開くほど見つめた。他とは違う繊細さがあった。頷いた。

「フオックスの指紋だろうか」

 ドッグがその指紋の匂いを嗅いだ。

「おれの鼻がこう言ってる。共通の目的、つまり復讐だな、で結ばれた、フオックスと深い仲の女だと」

「片方は妄想に取り憑かれた元老、そしてもう一つは?」

「宮殿内部の要職にある者」

 更に匂いを嗅いだ。

「執事七人の誰か」

「執事が夢を見るかな、見ないと思うけど」

「筆頭、アレセスだったら、満更でもない」

「パリのやくざは?」

「バンジャマンか。奴を知る者は笑ってこう言う。血を見るのが恐い、臆病なヤクザだと。そんな奴が血判など押すか?」

「押さない。じゃ指紋の女は何処に?」

「決まってる。宮殿の外だ。例えば、書記官にチャンスがあったとする、まあ無いだろうが、銃を隠し持ったとしても、センサーが感知する。宮仕えが毒入り紅茶を仕組もうとしても、侍従が、親衛隊が目を光らせてる。その上、調査会社の監視下。何が出来る?」

 ひと呼吸、そして続けた。

「私見だが、復讐は、幼なじみより、知り合って間もない仲の方が、より現実的。じゃどうやって知り合ったか」

 ダニエルの話、嘆きの壁、の情景を明かした。ドッグが吠えた。

「それだ!その司祭がキーワードだ。修道院へ電話しろ、司祭は何処へ行ったかと」

 ナポリ修道院へ繋いだ。分かった。

「マイアミ。布教が目的だってさ」

 コンテナヤードの一件も加えた。

「キースにコンタクトだ。大至急レネ・ベラスケス神父を探せと。次は女医だ。健診まで残り四日、ぼやぼや出来ん。乗れ」

 持主の気迫が乗り移ったか、ルノーが猛スピードで走り去った。


  22 帆船マー・デ・ハダス号危機一髪


 200X年8月27日月曜日スペイン、マラガ

 マラガ空港、別名パブロ・ルイス・ピカソ国際空港のロビーに、マイソル庶務官カタリナ・バンデラスが待っていた。

「もう、楽しみで、楽しみで・・・」

 目が潤んでいる。

「俺もだ。ルイーサは?」

「マー・デ・ハダス号です」

「ん?マー・デ・・・」

「ハダス号。あるじ自慢の帆船です」

「何かあるの?」

「歩きながら」

 屈指のリゾート地も、賑わいは無く、マルタと似たり寄ったり。  

「もしかして俺の歓迎会?」

「主役は」

「じゃ他にも?」

「マラガ市民病院のドクター、すごい美人です。その方の誕生祝いと、三人目は、うふふ」

「なんだ、気持悪いな」

「ロシアの妖精の、里帰りを祝って」

 前者はガード相手だと直ぐに分かった。手間が省けラッキーだが、後者は見当もつかなかった。外へ出た。車道のリムジンからかの男が降り、挙手で迎えた。

「お待ちしてました」

「チコ。私服なんだ」

「制服はお屋敷と別荘だけです」

 贅沢の極致にカタリナと座った。ベンツ特別仕様車が、周囲を睥睨するかのように、地中海の風を切った。チコへ尋ねた。

「制服だけど、取りに行った?」

「マラガへ戻る際、マリーさんがお持ちに」

「さては身分証を見たな。てことは」

「ご要望で城内を案内しました。勿論あるじ、ルイーサ様の許可があっての事です」

「まさかインタビューなんて」

「断れなかったんです。コダカ様の母親代わりでは」

 思い出したのか、カタリナとチコ、顔を見合わせ笑った。しかしゲストは対照的。

「ルポ屋だもんね、そりゃ悪かった」と、渋い顔。

 軍艦、豪華客船、貨物船、ヨット、漁船と、港の多種多様な船に目を輝かせ、純白の帆船で釘付け。やがて車は止まった。

 岸壁に立ちジャッカスバーク《三本以上のマストを持つ帆船》を見上げた。オペラグラスと目がぶつかった。にっこりへ、ルイーサの絶叫が飛んだ。

「ジョー!ほんとに、ジョーなのよね・・・」

 半分は聞き取れず、かわりにおやじさんが渋声を張り上げた。

「待ってたぞ!せがれ!」

 いつからせがれになったかと、嬉し恥ずかしが、タラップを駆け上がった。制服からマドロスにイメチェンした親衛隊が、横に並び敬礼、王様然が大照れで通り抜けた。そしてセレモニー《式典》、バンクェット《祝宴》、ディナー《晩餐》と、混ぜ混ぜの船尾デッキに迷い込めば、ご両人がしっかと手を握り、ひと息つくと、ドッグの言ったなるほどミスユニバース級を紹介した。英語だ。

「こちらはお医者様のミス・・・」

「ミランダ・ボニージャ」

 ルイーサ、当人と、お口あんぐり。変わってニコニコのおやじさんが。 

「どうして彼女の名を」

「情報屋はなんでも知ってるからね。ガードが必要だってさ。出航は?」

「よしっ。あとでじっくり聞こう」

 おやじさんが操舵室へ指でサインを送った。マドロス親衛隊が持ち場へ散った。ドラが鳴った。命令と知ったか、マー・デ・ハダス号が、静かに埠頭を離れていった。

 西日を追ってアルボラン海へ出た。ベリンダ侍従長が挨拶と料理のチエック、宴が始まった。健啖家にとって、よだれの出そうな料理の数々。しかし今ある危機が胃袋を拒否した。

「ちょっと落ち着かなくてね」

「また恐いことが起きるの?」

「帝国が丸ごと乗ってんだ、万全を尽くさなきゃ」

 ??の視線の中、メインマストへ上った。見張り台から周囲を注視した。後方、遠く近くの漁船が勘に触った。マストを降り、ルイーサのオペラグラスを手にした。再度上った。倍率はそれほどでもないが、漁船の乗組員は、なんとなく分かった。

(色白の漁師・・・)

 ひとり言が縄梯子を降りた。近くのマドロスへ問うた。

「漁師からプレゼントは無かったか」

「マグロ、タイ、エビなどトロ箱二杯を」

「それだ!キッチンは!」

 事態を察したマドロス、血相が変わった。

「あ、あんないします」 

 隊長フェデリコが、ジョーの腕を掴み、ダミ声を発した。

「また死に神か!」 

「そうだ、放せ!」

 操縦室手前の階下出入口へ飛び込んだ。磨き抜かれた階段を、案内の後を、転がるように降りていった。第二デッキ奥の調理室へなだれ込んだ。何事かとシェフ三名がたじろいだ。

「こ、これです!」

 空の隣りの箱へ抱きついた。説明の余裕はない。中には目もくれず、両手で抱え飛び出した。一目散が、飛ぶように階段を駆け上がり、外へ出た。向かい風もなんのその、鬼神の如く爆走した。

「どいて!」

 バンクェットデッキに集まった帝国主従が、驚きを飲み込み、二、三歩退いた。船尾の階段をひとっ飛び、大海原へ叫んだ。

「フォックス、間に合ったぜ!!」

 トロ箱が空を飛んだ。数秒後、轟音とともに水柱が上がった。ここにきてそれぞれが狂気の意味を知った。

「また助けてもらったな」と青ざめたおやじさん。

「ジョー、もうなんて言ったら」と、震えの止まらぬルイーサ。

「まだ終っちゃいない」

「えっ?」

「隊長、ライフルを」

「怪しい船などおらんが」 

「いいから、いいから」

 手に取った。

「倍率は?」

「二十倍。なんなら五十倍もあるが」

「いやこれでけっこう」

 船尾手摺に銃を乗せ構えた。スコープに漁船が入った。倍率を最大にした。仁王立ちの漁師が映った。三人いる。うち真ん中のパナマハットが、双眼鏡を右隣りへ渡した。女だと、直ぐに分かった。左隣のライフルを取った。スレンダーボディーの胸に、ピタリとライフルを当てた。小首を傾げ何事か言った。不敵な笑みで悟った。決闘だと。

「受けて立つぜ」

 腰を上げた。左足が前に出た。自然体が、構えた。異様な気配は周囲にも伝わった。帝王が声を張り上げた。

「せがれ!相手はスーパー魔女か?」

「そう!おやじさん!みなを座らせて!」

「負けないで!絶対!」

 場が読めたルイーサ、膝をついた帝王の胸に、顔を埋めた。

 華やかな音楽が消えた。聴こえるのは水しぶきのみ。スコープのライバルへ口走った。自己へ言い聞かせるように。

『勝負は時の運』

 彼我の距離、ゆうに三百メートルはあろうか。ガードが退いた。波の静止点、山から谷へ移る瞬間、トリガー、弾いた。

『ドン!』

 頭を狙った銃弾が、わずかに反れ、パナマハットが吹っ飛んだ。決闘に二発目は無し。フォックスの番だ。ガッチリした男が、台座の代わりだと、肩を差し出した。断られたか、スナイパーに会釈し下がった。銃口がスコープを威嚇した。ライバル同様銃を胸に当てた。逃げも隠れもせずが、目を閉じ開き、一瞬の結果を待った。 

『死んで本望』

『パン!』

 首、左頬、左耳に、熱波を浴びせ。銃弾がかすめ去った。振り返ればミズンマスト《最後尾の帆柱》 から煙が出ていた。

 一方漁船では、男たちがバケツ、刷毛と、女へ渡した。青ペンキが滴り落ち、操舵室の白壁に落書きを始めた。終った、読んだ。

「やるねえ、好きになりそう。アディユー、モナムール」

 投げキッスをみやげに、漁船は東へ去って行った。

『神が神に祈るなど、ほっほっほ!』

『アテナ・・・まさか手を貸したなんて』

『あなたの自尊心を、わたくしが傷つけるとでも』

『悪かった』

『コダカ。十七年後へ行く用意を』

『ええ〜と、今から?』

『敵の女はどうするのですか?』

『ケリをつけたい』

『では夫の準備が整えば』

『夫・・・なの?』

『ほっほっほ!』

  

 マラゲタ闘牛場、マラガ港、そしてジブラルタル海峡まで望める丘でリディアは唇を咬んでいた。帆船の無事に、勇姿に。

「またあいつだ。どうすればいい、どうすれば」

 着信音。耳に当てた。

『楽しいねえ』

『こっちは悲しい』

『相手はプロのまたプロ。ジタバタしない』

『ニーナは間違って女に生まれた』

『十八までただの娘だったわ』

『ごめんね。死ぬ思いで訓練したのに』

『いいって。女医だけど、さて、どう出るか』

『奇策が福音をもたらす、きっと』

 

  23 海の白鳥  

 

 200X年8月27日月曜日スペイン、マラガ

 恐怖、スリルと堪能し、四人がテーブルへついた。天性の気遣いが、開口一番ボケに出た。

「ライバルはさ、どこか甘い、いや優しいのよねえ」

「ライバル?あれがライバルかね?」と、怪訝なおやじさん。

「うん。そうとしか言いようがなくってね。さっきがいい例。リモコンにすりゃ俺はあの世でゴチになってた」

「じゃ他にもあったの?」と、頭のくすぶるルイーサ。

「あった。やはり手加減してくれた」

「分からない」

「俺も」

 大笑い。硬さが取れ、祝宴らしくなってきた。

「ここじゃなんだし、ありあまる話は、戻ってからね」

 ワインの最初の一杯はルイーサ、二杯目はミランダが注いだ。美女二人を見比べた。所感は軽いノリで。

「ルイーサとミランダ。なんだろうね、このオーラは。そうだ。あるご仁の逸話から借りるか。やせた土地で、寒さに耐えた花は、美しく、そして気高い。ご両人ともまさにそれ」

 賞賛された二人、頬は紅く染めるも、言い得て妙だと、心の内で敬服した。次はカタリナ。手招き、そして、その耳元へ小声で、

「妖精は」と、気になることを。

「まもなくいらっしゃいます」

 チュチュをまとったロシアの妖精が、マー・デ・ハダス号、訳して『海の妖精』のふところから現れた。向かいに座った。おやじさんが重い口を開いた。

「極秘なんだが、実は、娘でね・・・」

「だと思った。パパとママのいいとこどりって顔だもんね。じゃ話は帰ってから」

 父親、娘と、いたわるような口調だった。

「うむっ、そうだな」

「名前を聞かせて」とロシア語で。

「ミロン・・・アンドレーエフ、いえガルシアです。ロシア語、お上手」

「語学が命でね。いくつかな?」

「二十一です」

「ボリショイ、だよね」

「はい。まだヒヨコですが」

 ルイーサが口を挟んだ。

「ジョー、謙遜よ」

「その通りだ。見りゃ分かる」

 白鳥が小さくなった。

「踊ってよ。そうだねえ、チャイコフスキーだとやっぱりオーケストラだし、ルイーサ、船にチェロは?」

「弾けるの?」

「なんとか」

 まさか船に隠してるとはで、チコがケースから一級品を出し、子分が椅子をセット。二、三度弦をこすりスタンバイ。

「分かりやすく、サンサーンスはいかが?」

「白鳥ですか?」

「ピッタリだもん」

 雪にも負けぬ白い肌が、ピンクに輝き、ジョーの前に立った。出だしのポーズをとった。海のざわめきが、チェロの旋律に乗り、やがて踊り出した。チュチュ《バレリーナの衣装》が逆光に透け、純白のセールに映えた。曲調から激しい動きは要せず、優雅、優美はほぼ上半身で伝えた。三分の短い演技には、ロシアの魂がこもっていた。拍手の後、父親がチェリストへ言った。

「娘は、まっ放っといて、何か聴かせてくれ」

「じゃバッハの無伴奏組曲一番を。ミロン、やっぱり踊る?」

 迷わず長い首をタテに振った。気遣いが周囲へ言った。

「舵を取る人には気の毒だけど、みんなこっちへおいでよ。ただで未来のスターを拝めるんだからさ」

 船上のあちこちから人が集まり、輪になった。波乱の人生を、ただ弦に託すだけの演奏に、バレリーナは、いくらもせず優雅さを捨てた。静から動へ。荒々しい演技が見る者にイマジネーションを求め、雑念を呪縛した。ときおり目を開き、ジョーは確信した。

「ミロンは、間違いなく、プリンシパル《主役のバレリーナ》になれると」


  24 王宮


 200X年8月27日月曜日スペイン、マラガ

 夕闇が迫るころだった。ベンツのデモンストレーションとも呼べそうなパレードが、マラガ港、市街地、郊外と抜けた。そして山の頂きを目指し登り詰めると、国境にも似た鉄柵を伝い、帝国のシンボル、出城の前で止まった。衛兵数名が挙手、巨大ゲートが開いた。隊列がまるでゴルフ場へと入った。石畳の道に灯りが点り静々と進んだ。道は途中で枝分かれ、二台のリムジンから前後のベンツが離れた。それを機に客が隣りへ言った。

「ヴァレッタが城塞の町なら、ここは城塞の・・・」

「屋敷か。まっ・・・察してくれ」

 抗争の果てを、言わずもながだと、帝王は苦々しく応えた。 

「田舎でのんびりしたら?ルイーサと」

「頼めるか?」

「俺が?ふっふっふっ、いるじゃない、娘が」

「バカな」

「女だから?じゃ俺に預けてくれる?」

「仕込んでくれるか」

「いいが、今大事なのはミロンと女医の命を守ること、違う?」

「なにもかも承知・・・か」

 今では影の観光地となったロココ風屋敷の、きらびやかなエントランスへ滑り込んだ。制服の親衛隊が壁を作り、中を帝王以下が歩き進んだ。ベルサイユ宮殿に負けず劣らずが、客の好奇心をくすぐった。前を行く女王にも似たルイーサへ言った。

「おのぼりさんが見学したいとさ」

「ほっほっほ!カタリナ、案内してあげて」

 先ず帝国を知る、そのスタートだった。雅びかつ厳粛ホールの左右対称の片側へ入った。人影はまばらだが、だだっ広い部屋は、活気の名残りをとどめていた。

「ここが総務部、会社で言えば。向かいは食堂、喫茶室です」

「夏なのにみんなちゃんとしてる、えらい。正式の名称は?」

「Gent en el bossque《森の人》」 

「いいねえ、個人商店らしい」

「ですね。うふふ」

「でもさ、普通は別棟にするよね」

「一心同体って、ことだと思います」

「おやじさんらしい。ええ〜と一、二階で何人くらい?」

「百五十名、少し切るかな。あれ以来なんて言うか・・・」

「雲の上の人が身近になった?」

 微笑み、そして階段を上った。燦然と輝くシャンデリアに沿って廊下を少しだけ歩いた。 

「二階半分は財務、経理部。あとは設計部、情報部、宣伝部、図書室他いろいろですね。総称una persona vacia《空の人》」

「ピッタリだ」

 白い歯がこぼれた。そして三階では。

「元老室、執事室、以下スペシャルダイニング、他大小会議室」

「カタリナの部屋は?」

「端っこに」

「ルイーサに言う、隣りにしろと」

 転けた。

「上は王様スペースだろ。娯楽施設とかは?」

「B1に。他にB2もあるんですよ」

「もしかして王様の秘密の部屋」

「狭い部屋だったら分かるけど、あれはちょっと」

「広過ぎるか〜、ん?そうだ、ミニルーブル」

「ピンポ〜ン、です」

「当然、本物」

「あるじは気にしてませんね」

「あのお人が?」

「贋作も芸術だとおっしゃってますから」

「なるほど、一理ある」

「絵画もそうだけど、春と秋の演奏会も素晴らしいです。著名音楽家の熱演は、お屋敷ならではですから」

 修羅の歴史がなければ、B2は無かっただろうと、そう思った。

「グループ会社は?」

「独立採算制ですから、お屋敷とは」

「関係無い。するとおやじさんは」

「株主に過ぎません」

「ふ〜ん。執事たちは?」

「出張が多いので、今日は三名しか」

「えらい人は?」

「アレセス執事長ですか?いらっしゃいますが」

 会うことにした。書記室で待つこと数秒。育ちの良さを顔、服で表した三十男が、律儀さを挨拶に変えた。

「別荘、マルタ、そして今日。言葉では礼は尽くせないほど。どうぞ今後ともあるじ、ルイーサ様を宜しくお願いします」

 首謀者が一人減ったとニヤリ、四階へ向った。その途中だった。カタリナが急に立ち止まった。表情がにわかに曇り、

「別れました」と言ってうな垂れた。

「すれ違いが原因?」

「そればかりでは・・・そうですね」

「エスキモーの夫婦は一生添い遂げる。どうしてか。助け合わなければ生きていけないから。じゃ行こう」

 暗示が胸に突き刺さったか、目頭を押さえ、更に付け足した。

「どうしても比較しちゃって」

「気楽な一人もんと?もう一度話し合え」

 分かったか?きびきびと歩き出した。

『SALON』と彫られた金ピカプレートの前で足を止めた。親衛隊二名が敬礼、カタリナが観音扉を開き、去った。

 王侯もここまでは、の中へ入った。ベリンダ侍従長が腰を折り、姿勢を正すと、ため息のみの円形テーブルへ誘った。左から順にミランダ、ルイーサ、王様、ミロンと見て、ご機嫌おやじさんの向かいに座った。奥にいたあの日の宮仕えが、飲物を持って来た。ニッコリがさり気なく尋ねた。

「ご同僚は何人?」

「えっ?は、はい、五名です」

「君の名前は?」

「クララ・ロサリオです」

「クララ、ありがとう」

 ドキドキが下がった。これにルイーサが疑問を投げた。

「宮仕えも関係あるの?」

「首謀者プラス、密偵がいる、そう思えばさ」

 憂鬱が顔から読み取れた。主役がその憂鬱を手招き、曰く付きを渡した。おやじさんが顔をしかめ見た。会議の幕が開いた。

「日本のことわざに同床異夢ってのがある」

 流暢なスペイン語だった。 

「平たく言えば、三つの指紋の主は、同じ場所にいながら、目的は違うって事。つまり元老はマイソルの親分、他はおやじさんの命。で、元老は殺された。仲間割れだろうが、こっちにとっては朗報。外出を控えりゃいい訳だからね」

 帝王がらしさを見せた。

「争いに怨恨は覚悟の上。聞かせてくれ。知ってる事を」

「まだ憶測の段階。そんなのをいくらしゃべってもね」

「それじゃマルタの話を聴かせて」 

 ミシェルはぼかし、騎士の部屋は省いた。

「ベルタまで殺さなくても・・・」

「アンヘルの嫁だよね。仲は良かったの?」

「尻に敷かれてたから、なんとも」

「それで読めた。夫の様子がおかしい。問いつめた。謀略を吐いた。激怒。結果、いち抜けた。しかし同じベッドだ。他は枕を高くして眠れない。魔女登場」

「筋が通ってる」 

 現実的推理論者が、ルイーサとあるじの間に立った。曰く付き紙幣の血判の一つを差し断言した。

「友と意見が合った。これは女だと」

 やりきれなさが確かめた。小さく頷いた。 

「おやじさん、心当たり・・・ないよね」

 バカバカしいと顔、態度が示した。ルイーサがその訳を語った。

「お屋敷に勤めるのは、マラガ市民にとって名誉なことなの。収入もそうだけど、それ以上に、家庭、経歴に、お墨付きを貰ったようなものだもん」

 納得も、庶務官が気になった。 

「カタリナは?」と、耳元へ小声で。

 含み笑いが、顔を寄せささやいた。

「私が保証人」

 ニッコリが、一転、質問攻勢に出た。

「書記官は何名?」

「十五名。全員非の打ち所がないわ」

「宮仕えは自信持ってる?」

「あるじとの距離、考えて」

「じゃ血判の女は何処に?」

 横が凄んだ。

「よしっ!指紋だ、全員指紋を取る!」

「鑑定は?」

「警察に任せる」

「手っ取り早いけど、お墨付きに傷がつく」

 むっつりが、せがれに押し切られた。

「しばらく我慢して」

 話題を変えた。

「次はミランダ。賊が侵入しただろ?」

「どうしてそれを・・・」

「病院は難かしいから自宅に」

「千里眼ね」と、ルイーサも呆れ顔。 

「自負してる。話して」

「セベのカルテは特別。だから院内には置かず自宅で保管してた。それが昨夜、婦人警官が尋ねてきて、ドアを開けた途端・・・」

「銃を突きつけ脅された」

「軽率だった」 

「相手が相手。気にしない」  

「検診が近い。毒を飲ませる方がと、そう思うがね」

 追い討ちにも等しい発言。義憤が返した。

「医者だよ。訂正して。暴言だと」

 子に叱られた親であり、素直に謝った。

「とにかく賢い、ほんと。で渡した。内容は?」

「山野草ゾーンで起きたアクシデント。大事だから付箋してたの。まずかった」

「ちょい待って。おやじさん、ここで育つの?」

「地中海性気候、涼しい海風、丘の上と、条件はまずまずだからね」

「じゃ、体験談」  

「崩れた山の一部は、わたしの楽しみだった。今月十八日のことだ。見た事も無い花が二輪咲いてた。色は紫、感じは西洋オキナグサ。しかし葉が図鑑とは違った。写真だ。標準レンズだから近寄った。息を吸いパチリ。するとだ、花がぼやけ、気が付けば、ミランダが」

 後半は女医。

「空白は約二十分。どこにも異常は無くただ眠ってるだけ。どうすれば目覚めるのか、あらゆる手を尽くした。そしてあとはもう神頼みと観念したとき、セベの目が・・・開いた。先輩の意見を聴いた。内的要因は別として、ある特定の花だけが引き起こす、一種の神経調節性失神反射性失神だろうと。でも症状は似てるけど、過去に例が無いし、花が原因だなんて」 

「特定の花・・・キンポウゲ科の植物かもね。毒草が多いからさ」

「じゃその毒草の花粉が鼻孔へ・・・」

「涼しい海風がさ。OK、調べてみる」

「植物までとは恐れ入ったな」

「ドンパチだけじゃ客は守れん」

 用心棒の奥深さには、皆一様に舌を巻いた。

「ミロンの話も聴きたいが、これは明日おやじさんと二人だけで。さて、これからどうするかだが。ねえ、飲みにいかない」

「えっ!ほんとに?賛成、賛成よ!」

 右手二本がいっせいに。そしてちょい間を置き、左手が上がった。 

「何処へ?」と、苦笑いのあるじ。

 おとぼけの手の平が、うやうやしくルイーサを差した。しかし、いちばんの歓喜女は下界を知らず、女医が助け船。

「マイナーだけど、知る人ぞ知るギターマンのお店なんて」

「ミランダのおすすめなら想像つく。行きましょ、そこへ」

「それじゃわたしが電話しょう、店をカラにするように」

「もう、横暴なんだから」

「マスター、びびらなきゃいいけど」

 気もそぞろのミランダ。カルテを渡した時、机に置いていた表題幻の山野草たち、著者ラモン・ミラージェスと、記された本には言及しなかった。  

 

『もしもし。ミラージェス先生ですか?』

『ああ、そうだが、君は?』

『先生のフアンの一人だと』

『ぼくの・・・それで』

『幻の毒草の話が伺いたくて』

『フェイラスだね。じゃ明日来るがいい。同じことを二度しゃべるのもなんだろ』

『明日はちょっと・・・またお電話させて頂きます』

『出来ればもっと早い時間にね』

『失礼しました。次の作品、楽しみにしてます』

 フオックスのケイタイが、あるベストセラーの上で跳ねた。


  25 マラガの夜


 200X年8月27日月曜日スペイン、マラガ

「なにがなんでも護衛」に、本職がいるで断り、ミランダの車にて、地味で目立たぬ飲屋の客になった。しかしまさかまさかで、熱気の残る中は空っぽ。思わず店主のブルーノ・イバルラへ。

「カジノで遊べる」

「だったらいいんですが」

「ん?」

「母親がお世話になってるもんで・・・」

「職場は?」

「三階、ダイニングです」

「そうなんだ。長いの?」

「二十年・・・ですか」

「大したもんだ。それじゃ窓ぎわでね」

 と言う訳でやや遠慮気味に席に着いた。港の灯り、行き交う車、人、路肩のミランダの車と見て、 

「ミロンと話しがしたい、待ってて」と言って、ブラウスに幅広ワンピースの、ロシア民族衣装の背を押し、隣りへ移った。 

 聞いて、作って、運んで、演奏の一人四役が、とりあえずでシェリーを持って来た。乾杯、ミロンの背景には触れず、 

「ボリショイへは?」と、本音に迫った。

「帰りたくても・・・」

 怯えた表情にピンときた。

「恐い目に遇った、それも今日」

「はい、絶体絶命でした。車掌のナイフ、うそっ!なぜ?こわい!だめ!死ぬ!パ〜ン、どうなったの、です」 

 リアルに伝わった。

「パ〜ンは誰?」

「内務省の人でした」

「そうか、おやじさんが手を回したんだ。よかった、よかった。ええ〜と、ママは?」

「殺されました、冬の夜に。十三年前のことです」

「ミロンが八才の時か。パパは・・・OK、もういいよ」

 聞き耳の元へ戻った。

「次はミランダね」

 クスッと笑った女医。イッセイ・ミヤケの渋いパンツルックが、颯爽と移動した。その横に座った。

「敵は弱点を掴んだ。必ずこれで攻めてくる。じゃ花に近寄るな、気の毒だよね。どうしたらいい?」

「迷子に道を尋ねるようなものね。とにかく分からない事だらけ、正直言って」

「名医がサジを投げたんじゃね。まっ臭いをかいで死んだ、なんて話は聞かんから安心はしてるが、しかしさ〜、敵は悪知恵の天才だからねえ。さて・・・」

「花粉で失神する。医者にはとても魅力あるテーマ。自然と人間の、そうミステリアス。弱いのよねえ〜、こんなのに」

「ん?どうするの?」

「変人の話を聞く、毒草に詳しいラモン・ミラージェスから」

「変人?いいねえ。家はどこ?」

「北西へ四十キロ、貯水池の町、ビニュエラ。どう?お手軽でしょ」

「うんお手軽だ。あとはあいつか・・・よしっ、俺も行く」

 心許せばロマンスは数え切れない三十五才が、乙女のようなときめきを覚え、ミステリアスなのは女心だと笑った。そしてお終いは、目立たぬ方がと、地味なドレスのルイーサ。

「元老だけど、デメトリオともう一人は?」

「末席のファルケ・クレメンテ。でも長期療養中よ」

「じゃ頭目は執事の誰か」

「事実なら調査会社を変える」

「訳があっても?」

「例えば?」

「アンヘルの逆バージョン。要するに、嫁が主役で夫は脇役」

「血判は夫婦なの?」

「そう。執事Xは、復讐に燃える妻に、仕方なく従った」

「それじゃ執事の妻を呼ぶ」

「ちょい待ち。これは俺の勝手な推理。よって調べは友に頼む」

「ごめんなさい。なにもかも背負わせて」

「おやじさんとルイーサを守るためにはね。ん?ちょっとキザか」

 潤んだ目を促し飲み会の席へ戻った。時計は二十三時前。四人にはまだまだ宵の口へブルーノの逸品がズラリ並んだ。それを遠慮無しが、次々に食べ、お宝ワイン大出血で、飲めや歌えやと盛り上がった。そしてラスト。名手のギター演奏でミロン、ミランダペアが、異色のフラメンコを披露。やがてお祭男、ルイーサと飛び入り、マラガの夜を堪能した。

「お三方ともヘロヘロですが」

「よほど楽しかったか、またはストレスが溜まってたか、だね」

「どちらもありですね」

「違いない。じゃさ、一人ずつ抱っこして運ぶから、ついてきて」

 先ずはミランダ。例によって子ども扱いで通りをかっぽ、日本製ワゴン車の三列シート最後部へ寝かせた。

「見張り頼める?」

「はい、もうマラガの宝ですから」

 次はミロン。赤ちゃん同様を真ん中シートへ。そして最後。横にして抱え上げれば、タヌキか、首へ腕を回し、幸せそうに、

「ジョー、ず〜っといて」と、怪しい寝言を助手席で。

「うらやましいです」

「ブルーノ、お互いサービス業、客は大事にしないとね」

 札入れからありったけを渡した。

「いいんですか、こんなに」

「感謝はカネがいちばん、ありがとう」

「もてるはずだ」

 店主が引っ込んだ。辺りへ目を配った。どこかに人の目を感じた。薄く笑いワゴン車を一周、リヤバンパーを見て路上へ座り込んだ。右、左と手を差し込んだ。ニヤリが小さな突起物を引き剥がした。車道の向こうは海、時限爆弾を、思いっきり遠くへ放り投げた。

「やる気があるのかよ、ったく」

 フォックスのちょい技を、子どもの悪戯のように思えば、ケイタイが鳴った。ミシェルからだった。ここではまずいと車を走らせ、ビルの隙間へ乗り入れた。外へ出た。再び着信音へ心配が。

『どうだった?』

『ごめんね、おそくなって。まだこれからだけど、相手も悪いことだし、弁護士は里親に預けることで進めてる』

『上司は?』

『かえって邪魔』

『ますます好きになる。質問』

『うれしい、なに?』

『兄妹。ずいぶん離れてるけど』

『あっそうか。父親の闘病生活十一年、うふふ、分かった?』

『ウイッ』

『続きね。わたしがみれば拘禁は必要ないから、しばらくこっちにいる。で来月中旬までには復帰したい』

『外相について行きたいもんね』 

『うん。それにアミーンにも会いたい。ジョー・・・浮気してもいいよ』

 言葉に詰まった。

『ライバルはみんなすごい人だと、そう思うもん』

 泣かせた。

『メラニーさん、ステキだった。あんなふうに年を取りたい』

『喜ぶな、きっと』

『その日まで電話しない。相当な覚悟がいるけど・・・ジョー、約束して。フオックスに絶対負けないって』

『アテナに頼むか』

 涙声が笑った。切れた。


  26  王宮の温室


 200X年8月28日火曜日スペイン、マラガ

 なんだかんだあっての爆眠も、やはりと言うか、頭も体も前夜のつけが。しかしそれも、一周四百メートルの屋敷を十回回ってクリア。カウントを数えていたチコが冷やかした。

「深夜にご帰還、三女を四階まで運び、同僚と雑談、ついでに軽くストレッチ、コーヒー、そして朝トレ。ほんと尊敬します」

「慣れ。それだけ。山野草ゾーンは何処かな?」

「案内します」

 雲間から朝陽が差してきた。マラガ市内、アルボラン海、アフリカ大陸、そして振り返れば、緑濃い山々と、ぐるり見回した。まさに絶景だ。従妹香織の悔しそうな顔が目に浮かんだ。また、この地を根城にした帝王にも尊敬の念を抱いた。

 山野草ゾーンは小山の影にあった。しかし結構遠い。

「自転車にすべきだ」

「あるじがですか?」

 想像、吹き出した。そしてのんびり歩き到着。  

「これだけのものを一人で?」

「気がつけば、で」

「熱心と言うか」

「ヒマと言うか、ですね。あっ、オフレコにして下さい」

 目が合い、喉の奥で笑った。

「おやじさんが倒れたとき、チコはついてたの?」

「ええっ、非番でない限り」

「どのへん?」

 ガレ場の片隅を差した。歩き寄った。膝丈ほどの高さで、悪夢が風に揺れていた。花は散っており、葉っぱを頭に入れた。そこへ早起きあるじが、伴二人を連れやって来た。

「世話になったな」

「まだお眠?」

「らしいな」

「美女三人が一つベッド。王宮に相応しかったよ」

「世辞も一流だ」

 引き返した。広大な花畑で足を止めた。

「春だと花園だね」

「モネだったらどんな絵を描くか」

 その中にガーデンカフェが。早番だろうか、宮仕えが紅茶、水と持ってきた。

「北側にフェンスは見えないけど」

「山の裏手にある」

「ゴルフだと名門コースになるが」 

「どう思う?」

「いらない」

「それでこそ我が息子だ」

「ミロンの母親だけど、聞かせて?」

「二十三年前。ボリショイのマドリード公演が、わたしとの出会いだった。名はレイラ・アンドレーエフ。遠距離恋愛だな、が始まった。モスクワへは行けないから、レイラが二ヶ月に一度マラガに来た。妊娠、ミロンが生まれた。そして八年後」


  27  風変わりな異動


 199X年2月スペイン、マラガ

 冬のある日。情報部のエミリオ・ルシエンテスを呼んだ。

「モスクワへ行ってくれるか」

「仕事ですか?」

「ちょっと変わった仕事だがね」

「僕向きです。それで」

「隠し子、ミロンの親代わりだ」

「子どもは好きですが・・・」

「昨日、母親レイラの姉から手紙が届いた。妹がアパートの前で不幸にあった、ついては早急に誰かよこして欲しいと」

「お察しします。ですが、お屋敷に呼ばれた方が」

「レイラはボリショイのスターの一人だった。血を引いたか、ミロンもまた才能があるらしい」

「分かりました」

「うむっ。手はずは整えた。飛んでくれるか?」

「はい。他には?」

「ホテル進出の足掛かり。それと・・・警察は当てに出来んだろ」

「犯人探しですか。身分は?」

「対外的にはわたしの養子だ。つまり三男」

「もったいない」

「毎月、レポートを頼む」

 責任感の強い男が、悲壮な覚悟で旅立った。


  28  モスクワにて


 199X年2月ロシア、モスクワ

 ミロンから悲しみが薄れ出した頃だった。ロシアンマフィアの幹部から会いたいと電話が。あるじとは知己であり、指定されたカフェへ出向いた。とてもギャングとは思えぬ風体が、先ずビジネスから切り出した。そしてホテル建設に難色を示すと、

「レイラ殺しの犯人を探してるようだな」と、エミリオの心中を見透かしたように、薄く笑い言った。

「どうしてそれを」

「街中、見張りが五万といる」

「これからは背中にも目を付けるよ」

「長生きするためにもね。で、代わりと言っちゃなんだが、特別任務機動隊の一人が、レイラ・アンドレーエフの熱心なフアンだった。異常なほどのね。しかも、殺害はライフル。裏返せば、自己の狂気におさらばし、マドンナの苦痛も見れずに済む。違うか?」 

「名前は?」 

「ゲオルギー・レオノフ。ついでにサービスするか。キタイゴーラド《モスクワ中心地 》の人気バー、カザーネフは奴の溜まり場だ。面は見りゃわかる」

 その夜、ミロンをレッスン場へ送った後、言われた店へ。しかしそれらしき者の姿は無く、店主に尋ねてみた。

「常連さんが一人いないと思うけど」

「いや三人だ」

「レオノフは?」

「うち一人だが、あんたは?」

「昔の連れでね。ここに来れば会えると思ってさ」

「ウオッカと縁を切ったか・・・教えてくれ、奴の職業を」

「内務省の、そうだな警察ってとこか」

 にわかに押し黙った。

「ドラッグか?だったらとうにガサ入れしてる」

 機嫌が直った。

「来るのは火曜、金曜」

「何時頃?」

「おおむね遅いな」

 出直しも、会ってどうするか。いろいろ考え、やはりあるじが決めるべき、そうまとまった時、ミロンの姿が目に入った。旧ソ連製の無骨者『ラーダ』が止まった。

「よほどいいことがあったようだね」

「アンドゥ・オール《バレエで股関節を外旋させて脚全体を外に回すこと》が、自然だってほめられたの」

「ママも喜んでるよ、きっと。でもちょっと怒ってるかもしれない。外で待つのは危険だろ」

「ごめんね・・・パパ」 

 ミロンが初めて口にした、パパだった。エミリオ・ルシエンテス、三十二才、身命を賭し、親代わりをと、スペインへ誓った。


 今一番は確証。その思いが叶った。金曜の夜だった。ミロンを早めに寝かせ、人気バー、カザーネフへ。時計は二十三時過ぎ。客になった。酒と人熱れは、凍てつく外気の反動か、鼻をつまんだ。いち早く店主が気付いた。目配せした。欧米と変わらぬ店内の隅っこに奴はいた。運良く隣の席はカラだ。はしご酒のフリをした。よろけながら座った。苦手なウォッカは、悟られぬようアイスペールに捨て、チャンスを待った。来ない。白鳥の湖「情景」を口ずさんだ。

「ボリショイのファンか?」

 乗って来た。でかい声で返した。

「ああっ!狂のつくね!」 

「おれもそうだった」

「そうだった?てことは」

「レイラが死んで・・・冷めてしまった」

 テーブル越しに酒をすすめた。ひといきで飲み干した。また酌。これもいっき飲み。見ればボトルにはウオッカのひと滴も無い。

「レイラ・アンドレーフか?踊りに色気があったな」

「極上・の・ね・・・」

 呂律が怪しくなって来た。

「殺した奴の気がしれん・・・ん?キミ!キミ!」

 テーブルに突っ伏した。そして、思わぬ言葉が。

「ゆ・ゆるして・く・れ・・・」

 沈没した。拳を握りしめ、開き、外へ飛び出た。その後、ミロンの寝顔で怒りを鎮め、五度目のレポートで、怒りを叩きつけた。そして八日経た、土曜朝のテレビニュースだった。

「氷結したモスクワ川で男性の銃殺体が発見されました。警察によりますと、被害者は、ゲオルギー・レオノフさん、二十九才と判明、数発の弾痕から・・・」

 

  29  妄想老人


 200X年8月28日火曜日スペイン、マラガ

「まっ、レイラほ喜んでくれただろうが、その代わり、新ホテルはモスクワからサンクドペテルグで落ち着いた」 

「じゃ親代わりは誰に?」

「皆目見当もつかん」

「すると魔女か・・・」

「仮にしろ公にした三男だ。否定は出来んな」

「事件で分かってる事は?」

「ミロンを送っての帰り、アパートの駐車場で背中に二発。待ち伏せだな、車の陰に隠れて」

「目撃者は?」

「おった。アラブ系の三十前後の女だと証言した」

「内務省はよっぽどおやじさんが好きらしい」 

 アラブ系、女、が気になった。しかし貫禄の帝王同様、とぼけた。

「プロの推理は?」

「魔女?いや違うな。血判の女が出張った。モスクワへ」

 重い空気。話題を変えた。

「ナポリの事件に非はなかったの?」

「カジノホテルは、地元自治体の要望、合意で進めてきた。が、ナポリはそれだけでは足りなかった。シシリーへの配慮がいった。長男ベルナルドはその使者としてやった。しかし・・・、私の人生で一番後悔した日だよ」

 滲んだ瞳を寂しい笑顔が取り繕った。

「俺は明後日、いったんマラガを離れる」

 やぶから棒だ。笑顔が更に寂しくなった。

「何処へ行く?」

「ニューギニア。革命家の亡命を助けるためにね」

「若ければわたしもついて行くだろうな、緑美しい国へ」

「隣りは平和だから、そのうち一緒にね」

「そうか、長生きするぞ。でいつ戻る?」

「遅くても一週間後には」

 表情が急に真面目臭くなり、水、紅茶と空け、身を乗り出し、爆弾発言に至った。

「養子は・・・無理か?」

「ちょっとね」

「じゃミロンを嫁にしてくれ」

 含んだ紅茶が勝手に喉を通った。その場しのぎは、生き方に無く、許嫁がいてる、であきらめさせた。しかし落胆振りは気の毒なほど。それが反撃に出た。

「第二夫人では?」

「かわいそうだよ」

 と応えたものの、かたやアメリカの超富豪、こなた欧州の負けず劣らず。あってもいいかだが、ブルブルと頭を振り、追い払った。

「言って聞かす」

「おやじさん、頭を冷やそうね」

「それじゃこれは。タネをくれ」

 老人の妄想へ苦笑あるのみ。しかし気持を察すれば、

「昨日も言ったが、俺がルイーサ級に仕込む」と、多少の希望は持たせ、別世界へ戻った。


 パリコレを装った先輩に、あくまでもロシア民族衣装にこだわる後輩が、これが朝食かのテーブルで主役を待っていた。ベリンダ侍従長が椅子を引き、おやじさん、ジョーの順で座った。おはようもそこそこに、ルイーサが笑いをこらえ言った。

「目覚めたらフラメンコポーズ。クスッと笑い両隣を見た。同じ格好なのよね。もう大笑い。ジョーありがとう、大変だったでしょ」

「痒いところまで手が届く。分かっただろ?」

 異論なく、以後は昨夜同様、大盛り上がり。あるじがしみじみと寂しさの裏側を言葉にした。

「人間一人で、空気が、人が、これほど変わるものなのか。この年になって始めて気が付いたよ」

 談笑は更に続き、名工の手になるだろうホールクロックが、十時の貫禄を鳴らすと、いっせいに立ち上がった。だが、その先の一歩をジョーが止めた。六感、直感がルイーサに飛んだ。

「バイクで通ってる人、いないかな?」

「いてる、クレメンテが。でもどうしてバイクなの?」

「好天、微風、マトが小さい」

「最後のでいくと、作戦よね」

「ズバリだ」

 しかしいかに作戦と言えど、二輪は生身。やはり心配だ。

「車じゃダメなの?」

「バイクで行けとさ、用心棒の経験が」 

「ミランダ、恐くない?」

「医者よ」

 ドクターの資質に度胸がいるとはだ。

「呼んでくる、待ってて」

 ヤングイケメンを連れてきた。交渉。二つ返事で出て行った。あとはそれっぽい出で立ちで、ちょい考え、

「アウトローに変身しない?」が通じたか、ニッコリ笑い、

「イージーライダーね、OKよ」と、やる気で返した。

 エントランスへ出た。クレメンテがカワサキのバイクから降り、指でマル、ヘルメット、ゴーグル各二つを渡した。そしてチコが拳銃、弾倉を、ミロンが水筒、サンドイッチ他の入ったリュックを、最後にルイーサが、分厚い札入れを忍ばせ、ポシェットを腰に巻いた。

 主、娘、従が見守る中、要塞宮殿を出た。ビニュエラへの道は逆で、いったん坂を下り、ミランダのマンションに立ち寄った。

 しゃれたインテリアにテーブルのバラ、窓ぎわのルドベキア、ヒマワリ。そして窓へ歩み寄り見下ろせば、地中海沿岸の街並が、印象派の絵の如く望めた。必然、横に愛する人がいる情景であり、何故独身かと思った。しかしこれも彼女の言うミステリアスだと笑い、写真だらけの片方の壁へ歩き寄った。スナップショットの羅列を順に追った。どれもこれもアフリカの日常的光景だった。戦乱の国々で飯を食らう者が、従妹へ、声にならない声で言った。

「香織、負けてるぜ」 

 中ほどではっとした。研修生の腕章をつけた若きミランダの診察シーンだが、横たわる少女のその傍には、なんと、多少は若いが、紛れもなくコンゴの雄シリル・ボランバが、不安を表情で告げ、少女を見守っていたのだ。

 垢抜けイージーライダーが出てきた。

「デニムの上下にTシャツ、良く似合ってる。意外だけど」

「実は、うふふ、やんちゃ時代の遺物なの」

 そんなときがあったのかと、改めて全身を眺め、手招きした。そしてかの老雄を差し、ある含みを持たせ言った。

「つい最近の話。この人とさ、ジャングル巡り。雷、稲妻にドキドキしながらね」

「コンゴの希望の星と・・・仕事?」

 小さく首を振り、間を空け、ミランダを直視。そして、ある含みを言葉に添えた。

「従者が落雷で犠牲になった、シリルのために。言わばガードと同じ。しかしシリルも逃げ遅れていたら、その死に意味は無かった」

「私は行くなってこと?」

「マラガ市民のためにね」

 視線がぶつかり、ガードが押された。

「考えて。言い出しっぺが誰か」

「聞かなきゃミランダが行ってた。分かる。分かるが・・・」

「セベがどれだけマラガに尽くしてると思う?これが私の答え」

 しばし黙考。やがて二度頷き、折れた。マンションを出た。バイクに股がった。

「リスク軽減。これ着て」

 厚手の麻のジャケットを脱ぎ、渡した。

「正直言っていい?」

 スタート、音は軽快だ。当然うしろもご機嫌で、

「私は今、別のミステリアスを楽しんでる」と声を張り上げ、前の腰を思いっきり抱きしめた。

「ん?まあいいか。行くぜ」

 スピードを上げた。神の国の初っぱなが目に浮かんだ。命がけのあのときとはまるで違うが、それでもどこか似ているような気がした。ただ、行く手に待つ悪魔が、キツネの魔女へ変わっただけに過ぎないと。

 意味じくも当たっていた。高層ビルの屋上から双眼鏡の男が、ケイタイを取った。市街を抜けて行くライダーを追い、通話。

『奴は北へ向った』

『北ね、ありがと』

 しばらくして、別の男からも。

『カサベルメハで東へ向きを変えた。A356に乗るつもりだ』

『思った通りね。いいわ、引き返して』

『準備はできてます』

『久しぶりね、空を飛ぶのは』

『ぶっつけ本番。大丈夫ですか?』

『さあ、どうだか』

『楽しんでら』

『そう。ゲームは楽しんでなんぼ』

『あねさんらしい』

 レーサー服で決めた小気味いい女が、尻のポケットへケイタイをねじ込んだ。マラガから東へ三十キロ。ペレスマラガで待機していたBMWバイクが、うなりを上げ、北へ吹っ飛んでいった。


  30 変人先生


 200X年8月28日火曜日スペイン、ビニュエラ

 田舎町ビニュエラは、メセタ《高原大地》の南の果て、ペティコ山系のふところでのんびり眠っていた。

「ここに住めば長生きする」

「私がそばにいたら、もっと長生きする」

 ありきたりの感想へ、ミランダの思わせ振り。常人であれば、例えジョークでも、三日は眠れないだろう。しかしこの男は別。 

「マラガ市民から袋叩きにされる」 

「四十キロ彼方から?」

 軽くいなしたつもりが、遠回しに食い下がられ、

「何しにきたの?」で吹き出し、ピリッとした。

 大地をトレースする道の上から貯水池の南端に見え隠れする家並を見て、中央に突き出た丘の上へと、私道を駆け上った。途中、『変人ラモン・ミラージェスの家』と彫り込んだ標識に大笑い、赤茶けた灌木地を抜け、庭先へ乗り入れた。のんびりはニワトリ犬も変わらず、おっとり道を開け、玄関前で止めた。文句なしの眺望にミランダが変人を羨み、開けっ放しの入口から名を呼んだ。しかし返事は背後の野菜畑からだった。

「なんぞ用か!」

 ビックリ麗人が、声の方へ歩き、下を覗き、野良着へ返した。

「昨日、お電話したマラガの医者です」

「おおっ、あんたか。待っとれ」

 トマトをカゴに詰め、畦道を上って来た。異名通りの風采が、顔を合わすや、いきなり異名振りをみせつけた。

「ただじゃないぞ」

 呆れた。が、隣りは平然。

「ごもっとも」 

 ポシェットから札入れを出し、中身をチラリ見せた。

「知恵を貸してよ」 

「いいだろ」

 話しが届いたか、家の中から妻らしき女が出てきて、茶を二つ置き、ニヤッ。間違いなく夫婦だと、下を向き笑った。

 外見は仙人風ミラージェスが、更に眺めの良いベンチに誘い、自身は二人の足元であぐらを組んだ。その上へ、千ユーロの束を乗せ、横から目線で誘った。 

「知識が役立てば、もう一つ進呈する。いかが?」

「いかがもくそもない。話してくれ」

 ミランダが変人のベストセラーを出し、ページを繰った。そして指が止まると、赤ペンのアンダーラインを読んだ。 

「フェイラスは清楚な花だ。しかし騙されてはいけない。何故なら内に悪夢を秘めてるからだ・・・どう言う意味でしょう?」

「花粉が尋常じゃないって事だ」

「恐いですね」

「しかし、生きて永遠の眠りを望む者には、素晴らしい花だ」

「分からない」

「聴いた話だと前置きするが、ある夫人は、半年眠り続け、またある若者は三年後に目覚めたと言う。そして後者は、なんと年を取って無かったとか」

「まあ!死に至る事は?」

「聴かんな。同じキンポウゲ科でもトリカブトとは毒性が違うようだ」

「ただ眠るだけ・・・」

「家内は不眠症だが、標本を作るのでさえ嫌がった」

 あの人がと思い出し、内心で笑った。

「幻の花、ナンバーワンに推されてるけど」

「わしが見つけたのは、ただ一輪、ピレネー山中のみ」

「シェラネバダの高山では?」

「さんざん探したが気も無かった」

 あの日の出来事をかいつまんで話した。

「マラガで・・・奇跡中の奇跡だな。でどうする?引っこ抜くか?」

 横が口を挟んだ。

「宿根草だよね」

「ああっ」

「じゃ、家宝にする」

 変人がニヤリとしミランダへ言った。

「遺伝子工学の分野では、ちと名の知られた友人が、フェイラスの毒性を研究しとる。そりゃそうだろ。皮膚、細胞の劣化の無い眠りであればな」

 あるじの人形のような寝顔が、リアルに迫った。

「紹介して頂けます」

 もう一つは、と咳払いした。応じた。

「バレンシア・ポリテクニク工科大学教授、セブリアン・サンタクルス。あれなら興味深い話が聴けるはずだ」


  31 青い怪鳥


 200X年8月28日火曜日スペイン、ビニュエラ

 ペアがバイクに股がった。エンジンON。

「トマトはいらんか?うまいぞ」

「じゃ二個ね。で俺の感想。変人はフリをしてるだけだった」

「ミラージェス先生は策士だった」

「人生、目立つ事が肝要。わっはっは!」

 ミランダが、ポケットにトマトをねじ入れスタート。うねうねと下り続く丘の途中で停車した。 

「やんちゃなころに戻る?」

「いいわよ。でもどうして?」

「ここまでは平和だった。それが気になってね」

「何か起きるの?」

「必ず。おっかない?」

「医者よ」

「そうだった」

 ミランダがハンドルを握り、ヘルメットを小突くと、苦笑いが拳銃を手に後ろへ回った。

「いいかい、俺が乗っかれるくらい、姿勢は低く。しばらくは」

「楯になるんだ」

「ガードだからね。さあ行こう」 

 それは突然だった。向かいの丘の上空から、青いハンググライダーが姿を現したのだ。ジョーはひとひらの雲に感謝した。上目の先で容易に捉えられた事を。

「来たぞ!」

「ええっ!何処から?」

「空から。ハンググライダーだ」

「信じられない!」

 高低差、五十メートル、いやもっとあるだろうか、真っ直ぐゆっくりと、バイクへ向って来た。タカの目が左手の拳銃を捉えた。

「よくやるぜ、ったく」と後ろが呆れ、迎撃態勢を。

「絵空事が本当だなんて」と前が、ガソリンタンクへ。

 だらだら坂にスピードもままならず、体勢も不利。

「これでどこまで」

 ヤマカンが、ハンググライダーのど真ん中を狙った。 

『パン!パン!パン!パン!パン!』

 五発連射も度外れ。次に返しが。

『パン!パン!パン!パン!パン!』

 先制攻撃に合わせたか、計五発の銃声が、メセタに、大地のうねりに、こだました。残響は数秒で静寂へと変わり、銃弾の土埃だけが、一瞬の出来事を語った。

「引き分けかよ」

 では無かった。車体が、バランスを失えばだ。ジグザグに下リ落ちるバイクに、ヘルメットの摩擦臭に、血が逆流した。

「ミランダ!」

 叫べども応え無し。車道からはみ出た。灌木の間をすり抜け、オリーブ畑が迫った。手を伸ばし、ミランダの両手を上から握り締めた。急ブレーキでは前のめり、転倒は明らか。慌てず騒がずが、ゆっくりと体勢を立て直し、左へ左へと車体を導いた。今度は斜面を上り始めた。少しずつ右手に力を加えた。前輪ブレーキが、やがてノロノロバイクに変え、そして止まった。 

 直ぐ様ミランダを抱え上げた。草地に寝かせヘルメットを見た。銃弾の跡が、衝撃の凄さを物語るも、頭部の出血は無かった。幸運であり、頬を軽くしばいた。二度目で気付いた。

「どうなったの?」

「答えはヘルメットで」

 脱ぎ、見た。首の皮一枚が声を奪い、恐怖が、医者の理性を剥ぎ取った。猛烈なキス。慌てた。場は決して油断出来ないから。上目で去り行く怪鳥を見た。貯水池の真上にいた。方向は対岸の丘。どうやらターンすることは無さそうだ。償いがキスを受け入れた。

 猛烈が穏やかになり、ミランダが唇を離した。

「ジョー・・・愛して」

 麻の上着、トマト入り上着と脱ぎ、そしてTシャツまで捲ろうとした。その手を押さえた。

「もっと俺を知らなきゃ」

「十分知ったわ」

「それでもね」

 体を放し隣りへ寝そべった。麗人が感に堪えぬ気持を表した。

「海、帆船、怒号、勇姿、子宮が熱くなった」

「胸じゃないの?」

「荒ぶる神は、子宮なの」

「じゃさっきのは?」

「なったの、荒ぶる神に」

 腹を抱え笑うも、飾らないミランダが好きになった。

「ほら、魔女が引き上げるよ」

 ハンググライダーが、丘の彼方へ、消え去ろうとしていた。

「凄い人。でも、何か優しさを感じる」

「誰かと同じコメントだ」

「誰かって?」

「同じ目にあった人」

「追求しょうかな」

 苦笑いがミランダを、引っ張り上げた。色っぽい流し目が、衣服を整えながら、トマトを渡し、かじり、渋とく食い下がった。

「駄目?」

「荒ぶる、女の神はね」

「冗談。そうねえ、次は女医で迫るかな。乗って。私が転がす」 

 ジョーがミランダの腰を抱いた。

「思惑通りになった」

「俺もね」

「えっ?」

 スタート。カワサキ二輪が、丘を下り、南へと突っ走った。そして変人は、敷地内のとんだ活劇に腰を抜かし、警察へ通報。しかし一笑に付され、ご機嫌斜めへ、しばらくして訪問者が。

「銃弾とカネ、どっちが欲しい?」と脅され、迷わずカネで、毒草の一切をしゃべってしまった。

  

 32 思わぬ来訪者


 200X年8月28日火曜日スペイン、マラガ 

 帰りは追撃を考慮、山間のワインディングロードを選び南下、マラガへ出た。そしてミランダ宅へ立ち寄り、ライダーがレディーに変身するやUターン、宮殿ゲートをくぐった。シェパード二頭が並足で誘導、途中でバイクを降り、とんでもない広さを実感しながら、エントランスへと歩いた。いくらもせず樹木の無い退屈な風景が、抗争の歴史の名残りだと、思い知った。

「きれいだけど、どこか影がある」

「暴力の虚しさ。それを後世に伝えよって事ね」

「一般に開放するの?」

「そのためには?」 

「やっぱり平和だよねえ。よしっ、力になる!」

「女医も!」

「そこそこで」

 ミランダが軽く睨み、腕を絡ませ、スペイン民謡を口ずさんだ。サビの部分で、ルイーサ、ミロン、カタリナが、手を振り駆けつけた。

「心配したわよ、連絡なしだもの。で、どうだった?」

「奇襲よ、空から」

「ええっ!ヘリ?セスナ?」

「戦闘機なんかも」

 口を挟んだミロン、ひんしゅくを買った。

「ハンググライダー。で、ドライバーの私に乗っかって、ジョーがパンパン。結果は、あのヘルメットで」

 バイクを指し、ミロンガ飛んで行き、結果を冠り戻ると、ルイーサが愛嬌で笑い、弾痕で口を閉じた。それからは変人の話題で盛り上がり、エントランスへ。しかしまさかの客が・・・。

「ア・ニ・キ、相変わらずね」

「やっぱり我が子よねえ」

「香織!ママ!なんで?」

「アニキ、それはこっちのセリフ」

 何がなんだかで、ホール、四階談話室へと流れ込んだ。あるじに侍従長も含め総勢九人がテーブルを囲んだ。

「二人ともさ、取材が目的?」

「カモメ姉さんはそうだけど、わたしはある事が背中を押したの。でも、宮殿が目に入った途端、逆に背中を押されちゃった」

 失笑が洩れ、ルイーサが補足した。

「マリーさんはともかく、香織さんは初耳でしょ、もうビックリ」

「そりゃ悪かった。しかし同じ日に来るとはね」

「バルセロナからケイタイ。マラガへ行かない?」

「以後は想像通り」

「油断もスキも無い。である事とは?」

「バレリーナから聞いて」

 ミロンが香織からのまた聞きを、亡き母に重ね、涙ぐみ語った。

「ビクトール・ボンダレフか。そんな骨のある記者が、ロシアにいたとはね。そしてこの後は?」  

「もちろんミロンちゃん。天国のママが喜んでくれるような写真を撮る。そしてヨーロッパの大実業家も」

「ママは?」

「最初はルポ屋の好奇心」

「変わったの?」

「聞いて。医療DCは完成した。あとは工場よね。ヨセフがため息ついてるとか。ハンドメイドが、その原因」

「あれはそうだよね。優秀な技術者、強いては人件費か」

「パートナーが必要なの、今、ヨセフには」 

「それじゃさ、十年前のドリームクラウンの話をしたら」

「信じてもらえるかな」

「えせジャーナリストとは一線引く」

 談話室が水を打ったように静かになった。一人一人と目を会わせ、興味津々へ、四時間のドラマを語り始めた。SF話に息子の活躍を絡ませ、淡々と真実を伝えた。そして終った。宮仕えたちが茶を注ぎ、出て行くと、ミランダが質問した。

「アニー・オルコットのその後は?」

「完全とは。やはり先天的な障害は限界があるみたい」

「それでも幸せよね」

「ええっ、電話がその例。なんとか話しが出来たもの」

「すご〜い!それでドリームクラウンは、今何処に?」

「スイス銀行、地下金庫に」

「バッヘム博士とお会いしたいけど、どうかしら?」

「美人のドクターなら二つ返事ね。でもどうして?」

「人間、先ず能ありき、では?」

「いつでもいらっしゃって」

 変わりおやじさんが。

「我々にとってこれほどの福音は無い、協力しょう」

「工場は人類の夢を叶える。ライフイノベーションCEO、ヨセフ・ フォークナーの口癖ですが。きっと喜ぶと思います」

「じゃCEOにはわたしから電話する。ひとつよろしく頼むよ」

 商売で無い事が口調にあった。続きミロンが、瞳を輝かせ、

「わたしの大の友だち、ジーナ・バベンコが、練習中に頭を強く打って、それ以来・・・」と語尾が詰まれば、

「記憶が戻らないの?」で、気を取り直した。

「はい。なんて言ってよいか・・・だんだんひどくなって、今では自分の名前すら思い出せません」

「いつごろの話?」

「三年前」 

「全生活史健忘ね」

「治りますか?」  

「多くは心が原因だけど、頭部銃創でもアニーは記憶を取り戻した。でもねえ、三年の空白がどうかな」 

 ジョーが、『思い入れ』で、横槍を入れた。

「人間を蘇らせるために誕生したんだ、大丈夫、復活する」

「分かった。博士に言う」

「決まればジエットを飛ばそう」

 ジエットより話の方が飛び過ぎている。

「いやこの件はフオックスが片付いてからだ。なにしろ千里眼に、千里耳だからね」

 千里耳?そんなのあったかだが、

「ミロン、もうちょっと我慢だ」と期待を持たせれば、締めはベリンダ侍従長が、生真面目さは崩さず、  

「ついでに夫の健忘症も直して頂けたら」と、言ってのけた。

「最近?」

「いえ昔からです」

「あのさあ〜」

 大笑い。以後は和気あいあい、そして解散。香織がバレリーナのミロンを宮殿内外で激写すれば、ママはおやじさんに案内され、B2へ。コレクションと趣味の部屋で、帝王のエピソードを再確認、ご満悦のペンは留まることはなかった。そしてジョーは、ルイーサ、カタリナとともに、執事長の部屋の前にいた。

「アレセスは出張だけど」

「彼がもし主犯だったら、俺は引退するよ」

「エステバンも買われたものね」

「それほどの人ってこと。で疑問その一。なんで出張が多いの?」

「十五のホテルはみな地元あってこそ。分かるでしょ」

「根まわし、パイプ役」

「その上、経営、企画、苦情、トラブル、もう大変なのよ」

「そんなのを一人で。ふ〜ん、じゃ執事首謀説はあきらめるか」

「まっ、ほっほっほ!冗談って、顔に描いてあるわよ」

 おとぼけも出来る女には猿芝居か。

「次なる偉い人も、やっぱり?」

「パラーダね。いてるわ」

 ノックの手をジョーが止めた。

「今、用事があるのは留守の人」

「分からない、どう言うこと?」

 ヒソヒソ話、揚句、三人の部屋を尋ねることに。

「執事は内部から登用しない。その原則を曲げたのが第三の執事、パシリオ・エスコパル。入りましょ」

 直立不動の女性書記官二名に戸惑いがあった。 

「俺のことはもう知ってるよね」

 頷いた。がどことなくぎこちない。そして更に、 

「屋敷の秘密が外に漏れてる」で、いっきに緊張が走った。

「お言葉ですが、私たち、いえ書記官十五名は信じて下さい。狭き門を血の滲む思いでこじ開けたのですから」

「名前を聞かせて」

「アルバ・サンタマリアです」

「アルバ、信じるに値する言葉だった。いいかな、隣りへ入って」

「案内します、どうぞ」

 宮殿の執務室に相応しかった。キャリアの視線が、机、書棚、壁のルノワールと注がれ、空気を嗅いだ。ニッコリが書記官をねぎらい、外へ出た。 

「意外。あっさりだもの」

「やけにおとなしいカタリナは?」

 教室の目立たぬ子に、いきなり質問が飛んだような。

「直感を信じておられるのだと」

 笑みがその通りだと伝え、第四執事ベネディクト・アバロスで、笑みが消えた。机の隅の写真で。嘆きの壁の光景で。

 フォトフレームを手に取った。書記官に尋ねた。 

「これは昔から?」

「いえ最近です。それまでは奥さんでした」 

 ウラ蓋を取った。しかし目につくものは無かった。

「アバロスはユダヤ教徒?」

「はい。大変だったようです」

「ユダヤ人になるのは容易じゃ無いもんね」 

 クロに近いグレーも、とりあえずは収穫とし、気を取り直した。末席、第七執事は論外で、ルイーサの執務室へ。そして紅茶。ほっとひと息つけばケイタイが。

『ドッグだ』

『ちょうど良かった。悩んでてね』

『易者に聴け。今何処だ?』

『宮殿。易者ねえ、考えるか』

『何を呑気な。直ぐにサンセバティアンへ飛べ』

『デボラがピンチ?』

『フランスのご同業がデボラの匂いを嗅いでるらしい。エタのメンバーが気をつけろとさ。テロの世界じゃうるさい奴だからな』

『おくれをとったら』

『ザ・エンド。とにかく急げ。じゃ』

 ドッグの声が去り、思案顔へまたしてもケイタイ。

『マイアミへはいつ戻る』

『キース!見つかったの?』

『考えろ。神父の布教先を』

『ハイアリアー、しか無いな』

『それも二ヶ月で有名人』

『子どもの宿題だった。それで?』

『ベラスケス神父が横にいる。ケイタイじゃなんだから、ビデオチャットにする。パソコンは?』

『最新の凄いのがね。ちょい待って』

 耳を澄ませていた主従、テキパキと動いた。準備完了。ベラスケス神父が現れた。背景から教会であることは直ぐに分かった。女が茶を渡し画面から消えた。人間観察に秀でた男が、温かい笑みの裏に、何か覚悟のようなものを見て取った。

『レネ・ベラスケスです。パソコンは苦手なのでまごついてます。どうぞご容赦を』

「謝るのはこちらだ。神父の居所が知りたくて友人のフラナガンに頼ったのだが、突然でもあり、非礼を詫びたい。ちなみに俺はジョー・コダカ」

『コダカさん。僕の命は、いつ果てるとも知れません』

 語り口は穏やかだが、話は正反対。しかものっけから。

「ご病気?」

『そうであれば嬉しいのですが、何分にも相手はギャングでして。ギャンブル好きの信徒が行いを正せば、ブッカーたちは困るでしょ。殺されても仕方ないですね』 

 言葉が無かった。ガードしたいと、心が苛立った。

『それでは遺言だと思って、僕の話を聞いて下さい。先ずニーナ・ピアッツイから』

 ドキッ。胸が締め付けられ、鼓膜が突っ張った。

『もし僕が平穏な一神父でしたら、フラナガンさんとはお会いしなかった。我が子と思うニーナのためです。コダカさん、宜しければご職業を教えて頂けますか?』

『要人警護』

『なるほど。それで?』

「なにしろ手強い人でねえ、これ以上はさ」

『動機はご存知かな?』

「ある程度」

『嘆きの壁でニーナと巡り会わなければ、コダカさんとこうして話する事も無かった。何故なら、彼女の望みを受け入れ、お膳立てをしたのはこの僕ですから』

「神父が・・・」

『神の教えを説いた訳でもないのに、僕をファーザーと慕い、僕のためなら死んでもいいと言ってくれた。目には目を、歯には歯を、の始まりです。幸いな事に信徒にかっこうの女性がいました。動機、目的とも変わらぬ、その人の名前は・・・』

 ルイーサの頬がくっついた。胸の鼓動も聴こえた。

『リディア・アバロス』 

 左手が悲鳴を抑えた。

『リディアは、パレスチナ難民です』

「パレスチナ、難民・・・」

 左手が緩んだ。

『隣りの女性はどなたかな?』

「あるじの側近、ルイーサ・ブリオネスです」

『ブリオネスさん、リディアの真実を知れば、彼女の罪は、多少とも許して貰えるかと。続けましょう。シシリーマフィアの一部は、その難民ビジネスで潤っています。密入国者の手助けですね。しかし実際は貧しき民から血肉を喰らうハゲタカ同然、リディア一家もそうです。なけなしの金をはたき、明日を船に託せば、嵐で沈没、彼女だけが助かりました。シシリーの漁師に。しかし生活に余裕が無かったのでしょう。迷った揚句孤児院に預けました。十一才の時です。僕はこの孤児院へ月二度説教に来てましたから、ここまではリディアの話と僕の乏しい想像力で申し上げました』

 茶を二口、深く息を吸い、また始めた。

『そして五年が過ぎ、あるユダヤ教徒が、慰問に訪れました。マイソルのホテルが建設中の頃です。もし敬虔なユダヤ教徒が、熱心に神の教えを説かなければ、リディアが、神の教えに耳を貸さなければ、彼女は別の人生を歩んでいた。と申すのも、翌々年結婚したからです、その方と。しかし僕は胸の内は分かってました。前年の事件、罪無き恩人の投獄、急死、まことしやかに囁かれる、ガルシア氏が国を動かした、これらを勘案すれば、内に秘めた意志は伝わりますよね。事実十七才が二十八才になってもそれは変わらなかったのですから。冒頭申し上げたお膳立てですが、もう語る必要がありませんね。その後僕はマイアミに渡り、ニーナとも音信が途絶えました』

 ジョーは後の回顧録でこう記した。人間の愚かさ、切なさを、この時ほど感じた事は無いと。神父が最後を短く括った。

『実の娘以上、哀しいですね、コダカさん』

 フオックスが傍にいれば、そんな思いが滲み出ていた。

『ケイタイを』 

 神父が誰かに言った。メキシコ人らしき男が渡した。イニシャルステッカー、N・Pが生唾を飲ませた。短縮だろうか、待つ間もなく通話が始まった。

『ニーナかね、僕だ、レネだよ。うん、うん元気だよ。大丈夫、心配いらん。まっ聴いてくれ。今、さる人と、ええ〜と、そうそう、ビデオ会話、チャットか、していてね。待ってくれ』

 通話面が映った。戸惑った。何をしゃべるかと。がやはりである。

『ジョー・コダカだ。もう戦争はよそう』

『よく見つけたね。褒めてあげるよ』

『神父は先ずこう言った。いつ命が果てるかもと、地のヤクザ、闇ブッカーだな、が原因だ。信者が増えるほど、危険は更に増す。復讐など今は論外だ、マイアミへ行け、レネを守るんだ』

『ファーザー、ほんと?』

『うん、事実だよ。さて、どうするかね?』

『あらいざらい話したの?』

『目には目を、やめさせるためにはね』

『リディアのことも?』

『話す以外、道は無かった。許してくれ』

 短く、長い、沈黙。

『リディアの罪を問わなければ、直ぐにでもマイアミへ飛ぶ』

 ルイーサが首を横に振った。しかし無視した。

『ケンカ両成敗。ただし、リディアのプライドは尊重する』

どう言う意味?』

『数時間後にはその答えが出るだろう』

『自殺・・・』

『逃げるかもしれん』

『そんな子じゃ無い!死ぬわ、きっと』

『俺は静かに待つ、彼女の結論を。と言っても、おっつけサンセバスティアンへ発つが』

 もう隠す必要は無いと思った。

『追っ手が嗅ぎ付けたわ。デボラ危うしね』

『聞くが、キャラック、ベルタンをやったのはニーナ?』

『ニーナ・・・ふん。あいつが勝手にやったこと。大嫌いさ』

『良かった。俺のニーナ像が正しかったからね』

『それはありがと。じゃお礼にデボラはあたしが助ける』

 何がなんだか分からなくなってきた。

『ちょい待って。敵?味方?』

『どちらとも』

 肩の荷が少し楽になった。  

『俺も行く。多分すご腕だと思うからね』

『ファーザー』

 レネがケイタイを耳に押し付けた。何度もうなずき切れた。ジョーは思った。次はマイアミが舞台だと。


 ルイーサがアバロス宅へ電話した。リディアはいた。

『お屋敷へ来て』

 それだけで電話を切った。謀反を分からせるのに十分な、冷ややかな口調だった。続き出張先の夫、ベネディクトへ。

『仕事は結構。自宅で謹慎して。無期限よ』

 旅立ち前の裁きが、まだ残っていた。

「カタリナ、宮仕えだけど、勤務時間と人数は?」

「六時から十四時、十四時から二十二時、二十二から六時と三交代。人員はサポートも含め五人です」

「すると遅番であれば、船に乗ってなくて当然か」

「クララ・ロサリオですか?」

「うん」

「イサベル・エンリケと交替を願い出ましたから」

「・・・家庭はどんな?」

「父親は観光船のパーサー、母親は信託会社の営業、子どもはクララと妹が一人」

「母親が株で穴を空け、アバロス夫婦が援助した。ルイーサ、ベネディクトの実家は?」

「ワイナリー。アンダルシアではちょっとしたものよ」

「当然裕福だから、まっ当たってるだろ、どうする?」 

「今日は疲れたから、明日決着付ける」

「俺はクララより、親を責めたいよ」

「参考にする。ジョー、ありがとう、ありがとう」

 思いあまったか、世話焼きの胸で泣き出した。カタリナも目頭を抑えた。


  33 愛とは


 200X年8月28日火曜日スペイン、サンセバティアン

 フランス国境が目と鼻の先にあるサンセバティアン。これはスペイン語で、通称ドノスティア《バスク語》に、マラガと並ぶ一大観光地に、フオックス、いやニーナ・ピアッツイはいた。

 街の真ん中を大きく蛇行し、海へ流れ出るウルメア川。その橋の一つに彼女の姿が。追って見よう。橋を渡り、河川公園、大通りと抜け、商業施設の中の、とある美容室の前で足が止まった。時刻は二十一時過ぎ。店のドアが開いた。女が顔を覗かせニーナへお辞儀、お愛想、そして辺りを伺い、店仕舞いを始めた。海岸通りと違い、人影はまばら。その一つが早足になった。ニーナがいち早く気付いた。見かけは会社勤めのパンツルックが、何気なさを装いすれ違った。ドスのきいた声だった。

「久しぶりだねえ、ビリー」

「フオックス・・・」

「どうだい、シロクロつけるかい?」

 元SAS退役将校が、殺し屋が、足元をすくわれ、応えた。

「若ければな」

 そう言ってきびすを返した。その背へほざいた。

「年、退屈、刺激が欲しい、でも命は惜しい、手に負えな・・・」

 嘲りが忍び寄るヘッドライトに、語尾が消えた。入口まで五、六歩。風のように、影のように、店の女の背後へ。そして声を掛けた。

「デボラ。敵よ。中へ。早く」

「あなたは?」

「早く!」

 小さく鋭い声。デボラが気圧され従った。ドアが閉まった。と同時に、怪しい車も止まった。紳士風二名が、左右のバックドアを開け、周囲を見計らい、車道へ降り立った。舗道を横切り、美容室の前まで来た。 

「どけっ!」

 邪魔者の腕を払いのけた。

「乱暴だねえ」

「うるせえ!さっさと消えろ」

 紳士が荒くれの馬脚を現し、ドアの取っ手を掴んだ。そこへ電撃の左膝頭が、脇腹へ食い込んだ。間髪入れず、前のめりの首の付け根に、右空手。突っ伏す顔面を、右足甲が蹴り上げた。驚異の三連発だ。あらくれが路上で転げ回った。女のまさかの早技。後ろが目を剥き、ホルスターへ手がいった。しかし左回し蹴り、顔面直撃一発で、車道へ吹っ飛び、大の字になった。

「だらしないねえ」

 薄笑いも、歩き寄る松葉杖の老人には、さすがに油断した。舗道をこする音が、三歩先で立ち止った。

「この人たちは?」

「強盗」

「で、あなたが?」

「ほっとけないもん」

「向こう見ずと言うか、はっはっは!」

 取って付けた笑い声。気付いた。が遅かった。右手の松葉杖が、ニーナの胸を指すとは。

「ピカ一の殺し屋が騙されるとはな」

「おまえはチェコの・・・」

「ボウザルさ。これまでの苦水ともおさらば、地獄へ行きやがれ」

 杖は銃であり、持ち手の先に引金があった。観念した、もはやこれまでと。しかし思いがけないことが。夜陰に紛れ、自転車が突っ込んで来たのだ。不意をつき不意をつかれた刺客が転倒。飛びのいたニーナの空手一発で、あえなく沈没した。

「自転車のコダカ、びっくりだね」

「目立たん方がと、レンタカー屋で借りたんだがね」

「ありがと、命の恩人」

「まあまあ、とにかく間に合ってよかった。はいいが、どうするの?この人たち」

「警察ね」

 ケイタイ。いくらもせずパトカー二台が駆けつけた。

「君がやったのかね」

「女を襲うなどもってのほか、違うかい」

「しかしこの人は年寄り、しかも松葉杖。おかしい」

「なら顔を拭ってみな。別人になるからさ」

 ごしごしやりだした。中年に若返った。ここにきて納得、救急車へ計三人を放り込み、やがて、店の前が静かになった。


 三十分あまりの密談盗聴は完璧だった。

「命がけ?」

「それはもう」

 デボラが盗聴ボールペンを手に取った。

「これをバッグに差して、キャラックの横に座ったの」

「密談によく入れたね」

「キャラックは半信半疑だった、バンジャマンに。だから最悪の保険が、あたしと、このボールペン」

「お陰で奴は一巻の終わり。で礼と言ってはなんだが、これを」

 額面百万ユーロのチエックに、デボラが目を輝かせた。そして、振出人セベリアーノ・ガルシアで息を呑んだ。

 

 敵は必死。長居は無用と車に乗った。リヤシートの証人デボラ、助手席のニーナと見て、素朴な疑問が口から出た。

「空港からさ、どうやって来たの?」

「ウインクで相乗り。もちろんデートは断ったけど」

「どっちもあつかましい」

 明るい笑い声。人も、表情も、言葉遣いも変わった。まるで別人であり、これが素のニーナだと確信。やれやれがケイタイを取った。

『もしもし、ルイーサ。バンジャマンは終ったよ。うんうん。明朝パリへ飛ぶ。いつ戻るかって?予定は・・・分からん。はっはっは!』

 そしてDGSEの友へは。

『有罪の決め手がクリストフの手に入る。迎えに来てくれ。オルリー空港、九時、よろしくな』

 感謝、感謝の声が切れた。やがてビルバオの街、空港近くのホテルと進み、例によって、ゴージャスな部屋の客となった。

「明日は頑張らなきゃ。じゃおやすみ」

 やる気のデボラがさっさと寝室へ、ニーナはバスへと向えば、ガードは入口に腰を下し、ドアへもたれ瞑想。怒濤の八日間が睡魔を誘い、ハスキーな声で我に返った。

「お疲れね」

 一糸まとわぬ美形が目の前に立っていた。完璧、目が覚めた。

「背中を見て欲しいの。わけを話したいから」

 振り向き膝をついた。右肩から左腰へ、二つの傷が走っていた。

「首から下はぼろぼろ。整形。でもこの傷だけは残した。生き返った記念に」

 バスローブを引っ掛け、並び座った。

「それじゃシャワーで目を覚ますか、待ってて」

 数分後、同じ格好が、ニーナの話に聴き入った。

「アサドの知恵袋、ムハンマド・アフマド暗殺は、あたしのシナリオ通りだった。トルコ要人との会議を終え、ハタイ《南部の空港》へ向う途中のトンネル、長さは百メートルほど、その出口付近に発煙手榴弾を仕掛けた。風向きは出口から、峠でチャンスを待った。二台の車がトンネルに入った。煙幕ON。急ブレーキ、クラッシュ、容易に想像できた。ライフルを構えた。スコープが咳き込む警護四人を捉えた。しかしアフマドの姿はない。もしやと、出口から入口へ目を移した。バック、ターン、そしてヨロヨロと走り去る車が、シナリオを嘲笑った。しくじったツケは爆音で分かった。戦闘機だった。夢中で逃げた。ミサイルが飛んで来た。前方カーブで爆発、道は吹っ飛び、車は崖下へ転落。気が付けば、ダマスカスの・・・病院のベッドだった」

 光景が目に浮かんだ。が、それには触れなかった。

「アンヘルの妻だけど、どうして?」

「独り身は・・・さびしい」

「ターゲットは調べたの?」

「商売の原則。とうぜんワルだけ」

「地下世界が君を知ったのは?」 

「キオンのメンバー情報はダイヤモンド並み、分かる?」

「するとクライアントは・・・」

「あたしのギャラが払える、想像して」

 大ギャング、即ち、と思った。

「ニーナ、衛星が追ってる。摘出しろ」

「やっぱり・・・」

「マイアミへは?」

「明日ローマへ帰ってから」

「ローマに住んでたんだ」

「武器屋のいそうろうだけど」 

 いそうろうで笑い、次なる告白で黙った。

「愛って、人間の数ほどあると思うの。でもあたしは、その中に入ってなかった。哀しいよね・・・」

 肩を抱いた。ニーナがヘンデルの歌曲を口ずさんだ。

「オー〜ブラ、マイ、フウ〜」

 ソプラノで聴く名曲が、アルトで聴くとは。しかし胸に迫った。ただただ腕をなぜ、歌に聴き入った。そしてエンディングは、ふわりと身を起こし、背中で語った。「世の中にこんな人がいたなんて・・・やさしい、ほんとに」

 少し歩き振り返った。きっぱりした口調だった。

「マイアミが片付けばいつ死んでもいい。おやすみ」

 弾むような歩みが別室へ去り、しばしもの思い。これほど人は変われるものかと。


  34 アイルランドロマン 1


 200X年8月29日水曜日アイルランド

 ダブリン行きの機中で、せわしない朝を辿った。

 ビルバオで名残惜し気なニーナと別れ、ドゴール空港では、部下を率いたクリストフへデボラを託し、局長が礼を言いたいは、丁重に断り、揚句ついでだと、よせばいいのにミシェルへケイタイ。寝てる子を起こしたと、大後悔すれば、思わぬ伏兵が。

『ジョー、ジュリアよ。今どこ?』

『パリ。ん?そっちは夜明け前だが』

『うふふ、実はアイルランドにいてるの』

『なにっ!またどうして?』

『アイルランドの風景が、ある物語を書かせようとしてるの。そのためにはまず現地へ行かなきゃで」

『来た。小説家になるの?』

『いや?』

『ママは建築家で娘は小説家。うう〜ん、まっ頑張れ、と言いたいが、不穏な日々、よく許してくれたもんだ』

『王子様が必ず来るからって、押し切っちゃった』

 強引も子どもなら可愛い。 

『ガードは?』

『ビリーとマーク』

『マーク?コーパイ《副操縦士》だな、気の毒に。よしっ、いいわけ通り王子が行く。場所は?』

『シャノン空港の近くよ。ええ〜と』

『リムリック』

『そう、それ!ホテルはアトランティック』

 帝国が落ち着き、次はニューギニアだとギアチェンジすれば、まさかのアイルランド。やむなくセカンドギアで、走りに走りダブリン行きへ搭乗。正午には一面緑の大地。そして息つく間もなくレンタカー、結果、パリから三時間でご対面となった。

「ジョー・・・」

 いくら子どもとは言え、愛は普遍。しっかり抱き締め、しばらくはそのまま。そして腕を放せば、

「迷惑・・・だった?」と、否定を望む愛らしい瞳。

「例え火の中水の中、それが夫の責任だ」

 こんな力がどこからと、今度は、子ども大人らしく抱擁。

「そうか、夏休みを利用したんだ」

「学校は休まない、勉強しろ。約束守ってるわよ」

 保護者然がニッコリすれば、離れて見守るキャプテンが、なにくわぬ顔で、

「もう大船に乗ったようなもんだ」と、通りのパブ《大衆酒場》へ目をやれば、

「アイリッシュスコッチ、忘れないで」と、ジョーがお節介。

 すると、

「バーボンは?」の返しへ、

「店主、客にケンカ売る気があれば」で、得心。

 明朝のフライト時間を告げ、どこか影のある新顔に目配せ、パブ探しに出掛けた。

「さて我が妻よ、どちらへ?」

「くわしいの?」

「でもないけど、知り合いがいてね」

「どんな人?」

「昔、脚本家、今はディスティラリー《ウイスキー蒸留所 》の親方」

「参考になりそう、連れてって」

 質素とも殺風景とも言える部屋を出た。

「ここに泊まるの?」

「いちおう」

「岬の外れに、おすすめがあるけど」

 フロントへ飛んで行った。そして然る後、感無量が言った。

「五年前のジュリアが、そのまま大きくなってる」

「不満?」 

「大満足。その服もね」

「かの地には、バッキンガム宮殿、衛兵服がピッタリよね、ってママが選んだの。パパは笑いをこらえてたけど」

「さすが建築家だ」

「関係ある?」

「少し」

 笑って助手席ドアを開けた。すると学生妻が咎めた。

「だんな様はやっぱり威厳があって欲しい」

「うむっ!やっぱり成長した」

 目を細めスタート。シャノン川に沿ってレンタカー、ランドローバー社製スポーツワゴンがのんびり走れば、やがて目に染む草原に数頭の馬と羊の群れが見え、その向こうの愛らしい家が、隣のディスティラリーの煙が、童心に返らせ、ストップ。外へ出た。興味がいったか、草を食む白馬が首を上げ、口笛で寄って来た。柵越しに鼻面をなぜ、愛しみ、声を掛けた。 

「アン、覚えてるかい」

『ヒヒ〜ン』と、ひと際高くいなないた。

「覚えてるって。かしこ〜い」

「犬と同じ。人に近いからね。じゃ十才の夢を叶えるかな」

「草原が銀河よね」

 柵の中へ。妻は肩車で、夫は柵の上から乗り移った。王女を抱いた。ポール・ケーシーの昔懐かしい家へと、のんびり歩かせた。

「もう、口では言えないほどしあわせ」

「もっと幸せにする、もっとね」

 風になびくブロンドへ、心から、そう誓った。

 ポールの案内で工場見学、一押しウィスキーを舌先でよばれ、メルヘンチックな家に戻れば、庭のテーブルにアイリッシュシチューとホットクロスパンが。 

「ジャガイモ文化だよね、ここはさ」 

「やせた土地だもの、感謝してるのよ」

 ポールの妻ステラの裏話に、過酷な風土を感じたジュリア、

「アメリカ人は分かっていません。大地の豊かな恵みを」と語れば、

「未来の小説家に尋ねる」と、ポールが才能テストに出た。

「むずしいのはちょっと」

「いや簡単だ。夢をどう思う?」

「わたしにとって大切なもの。いい夢もわるい夢も、忘れないうちにメモします」

「うそつき、かな?」

「ほんとうはそうかも知れませんね」

「最後だ。自分は普通だと、思うかね?」

「今現在のわたし、では答えになりませんか?」

 口元がゆるみ、二、三度頷いた。

「ジュリアちゃん。小説家の才能、感じたみたいよ」

「ありがとうございます。でも、思ったことを、飾らずに素直に書きたい、ただそれだけなんです」

「エッセーでも、日記でもいい。あれば気に入ったのを見せてくれないか」

 ランドセルバッグからノートが出た。数ページめくり、しおりを挟むとポール爺さんへ。そしてざっと目を通すや妻へ渡した。

「読んでくれ」

「昼日中にこの字が読めないなんて、いい?それじゃ」

 どこからかアイリッシュ・ウルフハウンドが現れた。でかい!しかし巨体に似合わぬ温厚さは、ステラを見つめる瞳が実証。灰色の小山をなぜ、ジュリアの日記、いや雑文を読んだ。

「題、おじいちゃんから。十四才夏。ときどきおじいちゃんにカメレオンが重なる。表情がコロコロ、顔色も微妙にコロコロ。カメレオンは体色の変化だけだから、おじいちゃんの方が上かも。そう思い、ある日、注意深く観察した。お客さんは三人。それぞれお仕事関係だけど終始にこやか。しかしそれは見せかけ。言葉でなく表情で分かってくれ、と暗に語ってる。けど分かる人なんているのかしら。やっぱりと言うか、三人とも肩を落とし帰った。なにかとても気の毒でかわいそう。カメレオンの心を読み、知る。わたしにはとてもとても。で素朴な少女の結論、カメレオンに生まれなくて、ほんとよかった』 

 評価は無言で表し、手帳を追う目がランドセルで終ると、口元を拭い、少女の祖父の、疑問に迫った。

「昔から謎解きが好きでな。アメリカ人、マイアミ、名字はアントニオーニ、ジュリアの話、カメレオン・・・分かったぞ、ロベルトだ、ロベルト・アントニオーニだ」

「アガサ・クリスティーもビックリですね」

 悦に入ったか、表情はゆるみっ放し。だがめまぐるしく天気が変わるこの地。西から押し寄せる雲で、ガードは浮かぬ顔。 

「そろそろだな」 

 席を立った。アンへ股がり、後ろが手を回せば、ステラへカメラが渡り、ハッピーショット。ついでに老夫婦、デカ犬と収まり、セルフタイマーでもう一枚。そして締めは意地悪爺さんが。

「引退、困った要人が泣きついた。さあどうする?」

「腹が出てなきゃ、言うまでも無い」

「ジュリアはどうする?」

「スーパーマンでしょ、言うまでもない、です」

「わっはっは!奇遇の縁は長続きするな。また来てくれ」

 アンがおっとり歩き出した。ディスティラリーを振り返った。煙突の煙が真西から南西へとたなびき、何やら波乱含みの、旅路の行方を暗示した。

  

 M69道路をグリン、トラリー、アナスコールと辿り、ディングルから更に六キロ先のベントリーの町へ着いた時は、アイルランドの長い長い夕暮れが、始まろうとしていた。 

「見て!断崖の上に畑があるのよ」

「この島じゃ海っぺりはこんな感じ」

「フェンスもないし恐くないのかな」

「慣れてんだろ、行ってみる?」

「その前に内陸ね。地形が複雑で、物語がどんどん広がってく」

 沈まぬ夕陽が、小高い山々や傾斜地の牧場、田畑をドラマチックに描く。ジュリアがそれらを次々にカメラへ収め、時にじっと考え、ペンを走らせる。物書きの資質の一端を垣間見た未来の夫が、手を繋ぎ海岸部へ誘った。きれいに区画された農地を褒め、野菜の種類などこまごまとメモを取った。ラストは恐いもの見たさで、寝転び、二百メートルはあろうか、断崖から身を乗り出した。ガードは足首を掴み見守った。打ち寄せる波のせいか、注意が前へいき、後ろが留守になった。忍び寄る者が、そっと両手を伸ばし、いっきに首を絞め上げた。渾身の力がジョーの首へめり込んだ。足は放せずが、呻き苦しみながら、反撃の手立て、ワンチャンスを待った。腕の肘が曲がり、熱い息がかかり、顔面が最接近した時だった。赤鬼の後頭部が、歯ぎしりの鼻っ柱へめり込んだ。たまらずひっくり返った者へ、一瞥をくれ、ジュリアに

は、後ろを振り向かせないアドリブを。

「ほら遠くの島が幻想的」 

「ほんとだ。ラストの背景ね」

 厳しい視線が、鼻血、ハンカチと刺した。そして妻のかかとは持ったままで尋問に及んだ。低く重い声で。

「尾行はプロも真っ青。マーク、訳は?」 

「闇ブッカーに、なけなしのカネを賭けた。十万ドル。長男の手術代に当てるためだ。馬券が外れ、キングが二度そそのかした。やけくそが乗った。計二十万ドルの・・・借金だけが残った」

「息子の病名は?」

「小児ガン、手術しなけりゃ・・・ひと月で死ぬ」

「かわいそうに。キングと言ったな。ギル・モーガンの手先だよ。狙いはロベルト。あるビジネスから手を引かせるためにね。で君はそのために利用された。ジュリアを脅すか、傷付けるか、もしくは、殺すためにね。OK!非合法のノミ屋とは言え、負けは負け。俺が払ってやる」

「えっ?いいのか、ほんとにいいのか」

「困った時はお互い様。カネは小切手だが、明日、ジエットでね」

 泣きそうになった。

「ジュリアが不審に思う、行け」

 コーパイ、マーク。頭を何度も下げ、下げながら、血染めのハンカチを握り締め、よろよろと歩き去った。

 起伏を繰り返す道の影から、白い弧を描く砂浜が見え隠れしてきた。その果ては又また断崖で、微かに一軒家が望めた。車は弧に沿って畑の中の道を突き進み、一軒家の草地で走り終えた。

 ゲストハウスC&Cの看板、茅葺きの三階建て、野草の中の小道、と見て歩き、二階入口の階段を上ろうとすれば、ドアが開いた。素朴さがいかにもアイルランドの男女が降りて来た。アポ無し東洋人に見覚えがあったか、

「コダカさん・・・コダカさんですよね」と二歩下り、でかい声が。

「クラーク。一度泊まっただけで俺の名を。感激だ」

「こっちこそ感激です。ボクの名前を覚えておられたなんて」

「俺はさておき、東洋人は珍しい?」

「もありますが、他のお客さんとは、印象がまるで違いますから」

「喜んでいいの?」

 階段の上下で女子の笑い声が。

「それはもう。望んでも得られない、才能だと思って下さい」

 ジュリアも大いに納得。 

「才能ねえ・・・泊まれる?」 

「歓迎します。夕食は?」

「遅くても構わないかな?」

「夜は長いですからね、九時まででしたら」

「助かるよ。じゃ二人ね」

「ありがとうございます。それじゃ何か食べたいものがあれば。買い物に行くところなんで」

「サケ、タラ、エビ、カキはないか、じゃカニ、あと海藻も足してよ」

「あのときもおおむねそうでした」

「ヒマそうだったもんね、ついつい。ん?いつもヒマなの?」

 頭をかき困ったクラーク。

「実を申せば」

「正直は商売の基本、そのうち流行る」

「流行らなくても、ボチボチ、ほどほどで。それじゃ妻のキャロルになんなりと」

 クラークが出掛け、シックなリビングの片隅へ。ライティングデスクに古めかしい灯りが点り、宿泊リストに必要事項を埋めた。中から夫婦の二文字に、キャロルが小首を傾げた。

「あの〜少々お尋ねしてよろしいですか」

「妻、十五才?」

「はい。未成年ですから」

「フィアンセ、俺の。で今日は保護者。野山、断崖とハラハラさせるからさ」

 笑みに硬さがとれ、失礼を世辞にした。

「アメリカからもいろんなご夫婦がいらっしゃいますが、始めてです。こんなに可愛い奥様を見たのは」

「奥様?三年後だけど、まっいいか」

 記された年令に、三年加え、不思議な夫婦と比較した。

「主人は四十一才、私は二十三才、上には上がありますね」

「励みにするか」

 おとぼけが笑いを取った。そして三階の客室へ向う途中だった。上には上となった学生妻が、瞳を輝かせつぶやいた。

(あと三年、三年よ)と。

 入室の意味が、今イチ解せぬ夫へ目をつぶらせた。旅行カバンから昔の衣装を引っ張り出し、素早く着替え、大変身。

「あのさ〜、そこまで凝らなくても」

「イメージを大切にしたいの」

「なるほど。しかしよく見つけたね」

「パパが映画会社に電話したの」

「親バカと言うか」

 なにはともあれスタンバイ、ディングル半島突端の村、カミーノールへと再び車を走らせた。

「あらすじ、聴かせてよ」

「簡単。都会に住む平凡な女性の、平凡でない物語」

「それがこことどう関係あるの?」

「平凡なのに平凡が大嫌い。結婚してもそれは同じ。子どもが生まれても同じ。これって幸せなことだし、本人もそう思ってるの。でもストレスはたまるばかり。ある日夫に我がままを相談した。こうなれば環境を変えるしかないって。夫は理解し笑って送り出した。三年の期限付きで」

 あのゆりかご話の片鱗が伺えた。

「それがアイルランド。ふう〜ん」

「名前、決めてなかったな〜。そうだ、アンにする」

 白馬がよほど気にいったか。

「アン。決まった、で?」

「職探し。ディングルの農家がアンを拾った。厳しい自然と孤独な労働、平凡の尊さを二年目に知った。三年目、心身の疲れをいやしてくれる独身の次男と愛し合うようになった。約束の期限が近づいてるのに。アイルランドか、アメリカか、アンは優しさの本質、裏側を、真剣に考えた。絶壁のわずかな砂浜を歩きながら」

 そんな感じの渚が迫って来た。

「ラストが楽しみだ」

「アンの我がままを許した夫のやさしさこそ、究極の愛ではないかと、苦悩の出口に至った。そして平凡とは、退屈ではなく、人間のかけがえのない喜びであることにも気付いた。はずかしいな」

「ほんとに十五才?」

「疑問は文豪たちのせいね。片っ端から読みあさってるもん」

「動画は十五才だったけど」

「本からえた知識で感動を語るの?」

「一本取られたな」

 それにしてもである。ジュリアがここまで成長、進化したかで、驚き、衝撃は、ご要望の断崖の切れ目まで続いた。

 カンカン帽子、ベージュのブラウス、赤茶色のロングスカートが、日傘を手に車から降りた。モネの『日傘をさす女』に較べれば、かなり地味だが、物語を思えばなるほどで、ジュリアの意図に感心、遊歩道から覗き見える渚へと向った。

「お話の情景を写して欲しいの」

「従妹を連れて来るべきだった」

「カメラマン?」

「そう。ご希望の写真なんかオハコだからね」

「紹介して」

「喜ぶよ、きっとね」

 ちょいウラを感じるも、ヒロインは別に気にもせず、絶壁の隙間へ足を踏み入れた。カメラマンジョーが後を追い、適当にパチリ、パチリ。そして中ほどで、思わぬ事態が・・・。

 岩肌を伝い落ちる小石の音に足が止まった。頭上ヘ目がいった。それはまさに神技だった。カメラが宙を飛ぶのも、ジュリアの足が宙に浮いたのも同時であり、岩盤の欠片が歩道で砕け散ったのも、ほぼ、同じであった。

「髪の毛一本の差・・・」

「ケガは?」

「砂地だもの。ジョー、このまま抱いてて」

 カンカン帽子へ目がいった。波打ち際でダンスをしていた。

「助かった礼にしない?」

「する。アイデアのお返しとしても」

「そりゃ楽しみだ」

 カメラも見た。ぺしゃんこだった。

「データ、だめかな?」

 手にした。 

「おっ、なんとかいけそう」

 想い出は財産と、慎重にメモリーを抜き取った。

「この先は心のカメラね」

「物語が更にリアルに伝わる」

「うふふ・・・キスして」

「関係ある?物語と」

「子どもが愛を描く、分かって」

 もっともである。

「今のわたしは知ること。知って書くこと」

 困った。

「ジョー・・・」

 やむなく許嫁フィアンセはもう大人だと言い聞かせた。唇を重ねた。が、甘酸っぱい香りに慌てて唇を放した。

「やっぱりさ〜」

「学生はいやなんだ」

「そう言うことにして」

 大照れの学者面にうっとり見とれ、

「夫は世界でいちばんステキ。じゃ気を取り直して、浜辺を歩き、それからメモをとって、終りにスケッチ」と、危難はいずこへ。

「絵も描けるの?」

「失礼ね!」

 ほっぺが膨らんだのも道理で、波涛、漁船、群れ飛ぶカモメと、ゴッホばりの素描で活写、あまりの見事さに、

「画家の方が・・・」と、いらぬお節介。

「ママのお仕事手伝うの?」

「それもいいな」

 どやされた。以後は天気の急変にもめげず、あちこちに点在するグロット《マリア像》、廃墟の教会、丘を彩る畑、絵になる民家、と見てまわり、小説の舞台を堪能、暮れなずむ岬へ別れを告げた。

 

 窓越しの夜の夕景にクラーク自慢のレシピ、そのうえ愛らしい妻の酌とくれば、ワイン一本など見る間。しかしガードは天の声。冷たい水で場を盛り上げ、海が闇に閉ざされる頃、夕餉の幸せなひと時を終えた。

「今日は得しちゃった、十一時から夜だもん」 

「帰りも十一時だけど」

「半日をどうするかよね」

「ディングル半島横断、山あり谷あり畑あり、楽しいよ〜」

「イメージがさらに、さらに広がりそう」

「じゃ、バスでリフレッシュだ」

「いっしょに・・・ダメ?」

「答えるまでも無い」

 分かり切った返事に舌を出し、子ども大人が奥へ行けば着信音。母親からだった。

『忙しいのにごめんなさい』

『たまたまパリにいたからね、まっ良かったよ』

『びっくりしたでしょ』

『あまりの進化にね』 

『ほっほっほ!』

『小説家はいつごろから?』

『今年になって。運動は苦手だから、文学でカバーする。で次の日から図書館で借りてきた本を片っ端。速読にも驚いたけど』

『元脚本家が、十四才のときの雑文を奥さんに読んでもらった。言葉が無かったよ』『励みになるわね』

『物語のあらましにもね。シンプルかつリアル。十五才は天才かも知れん。それと絵もうまいし、凄い嫁だよ、ほんと』

『才能は別にして、未来に夢を持った、親としてそれが何より。ジョー・・・コーパイだけど』

『マーク、だったな』

『ええっ、前歴は空軍のパイロット。三十五才。フラナガンさんの調査でも全てで満点。そして今回が二度目のフライト。でも、なにか元気がなくて、心配だったの』

 奇襲は伏せた。

『長男小児ガン、余命一ヶ月、高額手術代、これじゃね』 

『まあ!』

『なんとかして上げてよ』

『天の声ね。任せて。それと・・・忙しい?』

『帰りかい?どうだろ。俺はいないけど、アテネじゃ』

『メラニーさん、ほっほっほ!で、いつまでお世話になるの?』

『予定は五日。学校は休むが、その分収穫も多いと思う。それにあの人はさ、教育にはうるさいからねえ』

『小説家のタマゴが、また変わりそう』

『次回作は、エーゲ海の真珠、いや婆さんか』

 吹き出した。

『ジュリアは?』

『バス。鼻歌が聞こえない?』

 笑い声で切れた。キャプテンへはアテネ行きを伝え、テラスでストレッチと思えば、ルイーサから。

『リディアが自殺した』

 ニーナが心配し、ジョーが望んだ事であった。

『何処で?』

『自宅。銃で胸を撃って。分かってはいたけど、何か・・・虚しい』

『旦那は?』

『行方不明』

『逃げた?違うな。妻の死に様を見てどう思ったかだ。性格は?』

『生真面目』

『そいつはまずいな。OK、とりあえず警戒は緩めないで。ママ、香織は?』

『お昼前に帰った。伝言よ。パプアで待ってる』

『呑気なんだから、ったく』

『紛争国でしょ、時々ケイタイする』

『ジャングルへ?』

 笑った。しかし、愛おしさは隠さなかった。

『ミロンとミランダ、どうしたらいい?』

『油断禁物・・・そうだ!アテネへ行こう』

『ビックリにはもう慣れたけど』

『俺のアジトが一番安心』

『でもジョーはいないのよ』

『代わりに、頼りになる婆さんがいる、犬もね』

『楽しそう・・・私も行きたいな』

『そのうちね』

『信じることにして、あるじも反対しないだろうから、さっそく明日にでも』

『ミランダは休めるのかな?』

『あるじあっての病院よ』

 苦笑いがケイタイを切った。そして一日の終わりが。

「明日からアテネ。カメラ買わなくちゃ」

「絵の方が」

「まだ言ってる」

「ペンも筆も立つ。俺の理想」

「そっちへいきたい」

「まっいいか」

「きゃあ!しあわせ」

 学生妻がくっついた。

「あったか〜い。パジャマ脱ぐ」 

「もどって」

「ママが言った。ないだろうけど、もし赤ちゃんが授かったら、私がみるって」

「俺を信用しとらん」

「ママの希望、願いだと思う」

「三年後にね」

「思いっきり、抱いて」

 かくして微笑えましく夜は過ぎていった。


  35 アイルランドロマン 2  

 

 200X年8月30日木曜日アイルランド〜アテネ

 パブの片隅。崖っぷちの身にケイタイが震えた。地の客と釣り話に花が咲くキャプテン。それを尻目に通りへ出た。

『首尾は?』

『もうちょっとで・・・』

『ふん。期限は三十一日午前零時。一秒でも過ぎりゃ、マーク、てめえは終りだ』

『キング、返す目星がついた、安心してくれ』

『二十万ドルをか?そりゃ楽しみだ。昔、日本に神風なんやらがあったな。どうだ、目星がつかなきゃ、いっそのことジエットも』

『バカな』

『いいか、明日午前零時だ』

 コーパイ、マーク。余命幾ばくもない子へ愚痴った。

「どうしておまえが、骨髄腫なんかに・・・」

 

 一千ユーロのキャッシュ。宿泊代のおよそ五倍である。クラーク、キャロルのオーナー夫妻、謝意をコーヒー入りサーモス(魔法瓶)、サンドイッチに込め、思い出に残る夫婦を見送った。

「いったいいくらお小遣いくれたの?」

「知らない。必要なお金は先にこれで払うのよ。ジョーは気前がいいからって、ママがこれに」

 ヴィトンのポーチを覗いた。ドル札、ユーロ札がひしめきあっていた。苦笑いが冷やかした。

「世界一周する?」

「ジョークでなかったら、それこそ空を飛ぶ思い」

 北へ、北へと車を走らせた。やがてディングルの町が遠ざかり、標高四百メートルほどの峠へ差し掛かった。絶好のビューポイントであり、道端、駐車場とけっこうな車だ。しかし資料集めの旅、大パノラマが望める場所へと乗り入れた。感動は、先ず、海へ落ちる切り立った山、緑織りなす盆地、のどかな羊の群れ、大西洋と続き、藍を流したような入り江で、ピークに達した。

「きれい。ビスケーン湾と似てるけど、ちょっと違う」

「ヨーロッパの歴史の色、模様では?」

「手伝ってくれる?」

「体育会系に?」

 晴れ、曇り、雨、また晴れの、気紛れな青空が笑った。

「歩きたい」

「餞別も一緒にね」

 サーモスを手にした。その手を、緑のジャケットから伸びた若々しい手が引っ張り、赤のタータンチエックのスカートが、風にゆらめく方へと誘った。そしてケルト音楽を口ずさみ、アイルランドロマンに浸り、時を忘れると、眼下の小さな湖で、時は戻った。

「成功したら、ここに別荘ね」 

「別に成功しなくても」

「うふふ。あの木の下がいいな」

 岩陰から突き出た数本の木が、この地の冬の厳しさを教えると、海、雲、山と首を振り、湾曲が美しい一枚岩に腰を下ろした。

「ボトルごとでいいか」

「ここもワイルドだし」

 しかし、ラッパ飲みもホットコーヒーだ。

「あつい〜っ!」

「大丈夫?」

 慌てて正面から、愛苦しい顔を覗き込んだ。真剣な瞳が返った。

「赤ちゃんが・・・欲しい」

 子に恵まれぬ巨大企業のオーナー一家。分からなくも無かった。しかしいくらなんでもである。だが次なる攻め手は。

「ジョー、聞いて。笑うかも知れないけど・・・おでこにキス、日課へ出かける後姿、カギがロックされる音、まどろみ。そして夢にしてはあまりにもリアルな、人の声とは思えない美しい声が・・・」

(アテナだ。アテナがジュリアに・・・)

『わたくしは女神アテナ。異次元αではコダカの妻、四次元では、コダカはあなたの夫。そして、一方はわたくしの戦士。他方はわたくしの化身』

 夫は呆然とし、ただただ、耳を傾けるのみ。

『けれど、それも真の夫婦であってこそ。銀河系の小惑星の一つが、群れを離れ、長い時を越え、太陽系地球へと。もっと早く気を放てば・・・愚痴になりますね。狙いは地球へ衝突、人類を滅ぼす事。しかも四十五日先に』

「笑う?」

 笑えるはずが無かった。

『宇宙ではゴミにも満たぬ黒い氷の塊。そのうえ尾を引かぬ彗星。故に天文学者が気付くのは、太陽の光で明るくなった時。また知ったとしても、打つ手無し。従ってこの厄災、退けるのは戦士と化身、そしてMの頭文字を抱く七人の女たち』

「信じる?」

 険しい眼差しが、首をタテに振り、疑問を返した。

「Mの頭文字。ほんと?」

「Nかも知れない」

 考えた。関わる女たちを。

(ミシェル、マリー、ミランダ、ミロン・・まさかメラニーも。Mだ、Mに違いない。しかしまだ他にもいるとは)

「変。ぶつぶつ言って」

「ジュリア、聞いてくれ」

 大人の妻として、『シータ』にまつわる事実だけを語った。

「信じる!」

「ちょい待って」

 心へ問うた。

『アテナ。氷のかたまりの上でさ、シータの種は成長したの?』

『そうです。環境さえ整えば、地球のような奇跡は起こります』

『地球が奇跡・・・そうだよねえ。地球はよほど好かれてんだ』

『数え切れない種が、生を宿すのは、ごくわずか』

『なるほど。でもさ、妻は子どもだよ』

『人類がどうなっても、ですか?』

 ここにきて覚悟。

「ジュリア、仕方ない」

「しかた・・・ないの?」

 夫の心が痛いほど分かる妻へ、にわかに黒雲が押し寄せてきた。

「悪かった」

「あやまらなくても・・・ジョー・・・ごめんね」 

 大人半歩前のみずみずしい裸体が、岩のしとねに横たわった。悩める戦士が、神の情景、神の分身へと目を落し、裸になった。

「神話ロマンだ」と語りかけ、親鳥がヒナを温めるが如く抱いた。  

「儀式じゃなく、愛として」

「頭ではね」

 しかし、まるで腫れ物に触るであり、そしてついには。

「ジュリア、済まん、駄目だ」

「うふふ・・・今、自分をほめてる。十才で好きになり、愛したこと、まちがってなかったって。ジョー、さっきみたいに神へささげて」

「ついでに頼むか。俺たちこそ、真の夫婦だと」

 ポツポツの雨が、勢いを増してきた。

「寒い・・」

「温めてやる」

 岩の凹みに身を寄せ、膝の上で抱きしめた。

「五年前と同じ。ジョー・・・キスだけでも。おとなの・・・」

 舌が絡み、あらぬ妄想まで絡んできた。しかしこの夫、一筋縄ではいかない。唇を放し、横に抱き上げ、天に叫んだ。

「分身は処女であるべき!三年は!アテナ!まちがってるか!」

 突然、背後の黒雲が裂け、陽光が差し、空から海へと、虹が架かった。そしてそれが合図か、足元に霧が流れ、立ち昇り、消え去ると、白いキトンをまとったギリシャ古代人が現れた。

『ほっほっほ!似合ってますよ。キトンは神の力を与えた証し』

「神の力?」と声を合わせた夫婦、御託宣へ意気込んだ。

『すなわち、気の力。あのイータと同じ力が備わったのです。試しにジュリア、虹を睨みなさい』

 睨んだ。目が点になった。虹がねじれ、歪んだことに。 

「イータなど敵じゃない。アテナ、これで宇宙と戦える」

『故に、気は、地球を護るときのみ』

 キトンが、衣擦れの音もなく消え、名残り惜しいか、ジュリアが二の腕を触った。 

 十二時ジャスト。中型ジエットがシャノン空港から離陸、高度一万二千メートルで水平飛行、しばらくしてコクピットドアが開いた。鼻に絆創膏の、神妙な面持ちが、オーナーソファーの前で足を止めた。深々と頭を下げ、声を震わせ言った。

「今、社長から電話がありました。心配するなと。なにからなにまで・・・本当に、もう・・・」

 言葉を詰まらせたマークへ、 

「余裕が出来たら返して」と、チエックを渡した。

 直立不動の男泣き。しかし蚊屋の外は何の事やら。説明した。 

「これ、使って」と、ポシエット丸ごとのカンパになった。


 夕刻、アテネ国際空港VIPラウンジから、ジョーとジュリアが出て来た。ポンコツロールスが待っていた。召使いがドアを開け、第一声は。

「ご主人様はわたくしめを驚かせてばっかり、寿命が三年、いえ十年は縮みました。ジュリア様、メラニーでございます。ようこそギリシャへ」

「おうわさはママから。想像どおりよ」

「良い噂だと、お取りしてもよろしゅうございますか?」

「フィルター付き地獄耳だろ」

 芸人主従、周りを退屈させない。

「オーラがピカピカに輝いてるわ」

「バレエだったらプリンシパルね」

 ミロン同様、家は超金持ちと知るも、それ以外の何かがあった。その何かとは、薄暮の一家団らんのひととき、明らかにされた。

「妻の、ジュリア・アントニオーニだ、よろしくな」

「えええ〜っ!!」

 これ以上の驚きはあろうかと、ミランダ、ミロン、声を揃え、絶句した。しかし、また別の何かが、平常心へと戻した。二人の女が期せずしてつぶやいた、その何かを、心の奥底へ。

(私たちはどこかで繋がってる、どこかで。だからジョーは、誰のものでもない、誰のものでも・・・)と。


 そして、いざニューギニアへ。

「ご主人様、ご武運を」と、毅然とした態度、声音は、いつも通り。 

「メラニー、みんなを頼んだぜ」 

 律儀婆さん、しっかり頷いた。我が子を案じるように、しかし顔には出さず。

「仕事が息抜きだなんて」と、意味ありげに、肩をすくめた女医。

「貧乏町医者オデッセウス。彼を知れば納得出来る」  

「ジュリアとパルテノン神殿へ行って、エーゲ海クルーズ、それで、トマト料理いっぱい食べて、ショッピング、、そして、そして・・・」

「ミロン。適当にね」

 爆笑。戦地へ向う重苦しさなど微塵もない。

「ギリギリセーフだった。マークの長男は」

「さすがパパだ。ジュリア、次回作はギリシャで決まり」

 ニッコリの妻が抱擁、最後に耳元へ。

「アテナさんと化身が、戦士を守る。必ず。ジョー、大好き。いえ、愛してる、愛してる・・・」

 二十二時、ジャカルタ行きジャンボ機が、東へ飛び立った。

 同じ赤道直下でも、アフリカとはまるで違う、謎めいた熱帯雨林へ。

                             第二章へ



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TWO LOVE @satoyan4819

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