代理結婚

傘立て

代理結婚

 結婚してほしいという申し出に、俺は少なからず動揺した。いや、沙耶香のことは大事に思っているし、決して遊びじゃないし、つきあいはじめて三年になるし、なんならそろそろ……という気持ちはあったのだ。嘘じゃない。本当だ。ただ、今はまだ転職したばかりで身辺がばたついていて、もう少しだけ落ち着いたら、俺から言おうと思っていたのだ。本当に。決して今考えたとかじゃない。断じて。信じてほしい。沙耶香に言わせてしまったのは申し訳ない。申し訳ないが、同じ気持ちでいてくれたと思うと嬉しい。心底嬉しいよ。ああどうしよう、泣けてきた。誤解しないでくれ、嬉し涙だ。これからずっと一緒なんだな俺たち。子供は二人は欲しいな。女の子でも男の子でも、どっちでもいい。沙耶香の子なら可愛いに決まってる。いやその前に新居だ。沙耶香と俺の職場は近くないから、物件選びは慎重にしないといけないな。それと保育園。保育園に入りづらいところはダメだ。できるだけ子育てがしやすくて、自然があって、大きい公園があるところ。いや、ごめん、先走りすぎた。まず結婚式だよな。教会と神社、どっちがいいかな。白いドレスの沙耶香、綺麗だろうなあ。でも親の前でキスするのはキツいな。ナシかな。じゃあ神社だ。白無垢の沙耶香もきっと神秘的だ。いや待て、その前にまず実家への挨拶だな。ああどうしよう緊張してきた。「お父さんなどと呼ぶな、お前に娘はやらん」って怒鳴られたらどうしよう。俺ちゃんとしたスーツ買うわ。待って、財布にいくら入ってたかな。見ておこう。

「なあ沙耶香、ご両親への挨拶、いつがいいかな?」

 財布を取り出して中身を確認し、これなら吊るしの一着ぐらいはなんとかなるだろうと安心して顔をあげると、目の前の恋人は思いっきり険しい顔をしていた。眉間の皺がすごい。あれ、間違えたかな。急に不安になる俺に、沙耶香は出来の悪い生徒に噛んで含めるようにゆっくりと言葉を紡いだ。

「話はちゃんと聞け、馬鹿。いい? リョウ君、もう一回だけ言うからね。私の、親友と、結婚してください」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。沙耶香の赤茶色の目がじっと俺を見つめていて、ああ綺麗だな、やっぱり沙耶香は世界一だよなと思ったところで混乱していた頭が言われたことの意味を分析し始め、念のためもう一度反芻して、ようやく俺はその一文を理解した。理解した瞬間に再び思考は停止して、取り落とした財布からは大量の小銭がこぼれ、床に落ちて派手な音を立てた。

 

 

 結論から言えば、俺は沙耶香の親友と結婚した。正直、何が起こっているのかさっぱり分からなかった。さっぱり分からないまま、全部が進んでいた。気がつけば俺は白無垢を着た沙耶香の親友と式を挙げ、お互いの仕事に通いやすく子育てもしやすそうな町のマンションに移り住んでいた。


 沙耶香は俺のことを「高校時代の同級生で、数年前にばったり再会し意気投合して交流するようになった友人」と偽って親友に紹介し、さりげなく親友が俺に好感を持つように誘導しながらふたりの間をとりもった。高校の同級生なのは本当だが、数年前にばったり再会したあとは交流どころか恋人関係にあった事実は伏せられた。まわりの友人経由でばれるんじゃないかと心配したが、俺同様に沙耶香も地元の友人たちとはほとんど連絡をとっていなかったらしく、当の俺たちさえ沈黙を守れば秘密が暴かれることはなかったようだ。

 沙耶香の段取りは完璧で、あれよあれよという間に俺と親友はおつきあいをすることになり、気がついたら結婚が決まっていた。そうなるように、沙耶香が仕向けた。手際が鮮やかすぎて、流されている間にそういうことになっていた。つくづく沙耶香には敵わないなと思った。親友は俺のことを会ってすぐに気に入ってくれたようで、俺も沙耶香とは違う面で彼女への好意を持つようになった。本当に意味が分からない。分からないが、沙耶香がそう望んだのであれば、きっとこの道に間違いはないのだと、なぜかそういう確信があった。だから、本当に自分でも不思議なのだが、俺は沙耶香を愛したまま、その親友との結婚をすんなり受け入れていたのだ。

 沙耶香は俺と親友の結婚式を見届けて、それからある日突然姿を消した。いや、正確にはいつ消えたのか分からない。しばらくお互いに忙しくて直接会えず連絡だけ取り合っていたのだが、それが急に途絶えた。おかしいと思ってマンションに行くとそこには既に別の住人が入っていて、慌てていろんなツテを頼って彼女の実家に連絡してみたところ、沙耶香はすでにこの世にはいなかった。残された俺たちは、わけがわからないまま、手を取りあって泣くことしかできなかった。結局最後まで俺たちは沙耶香の掌の上で転がされたままで、まったく太刀打ちができなかった。

 

 沙耶香の親友はミカという名前で、大学時代からのつきあいだったらしい。「親友というより、もはや半身」と沙耶香が言いきるほど、ふたりの関係は親密だった。ということを、沙耶香の死後にミカから聞いた。そんな友人がいるなんて、俺は何も知らなかった。沙耶香はひとつひとつの交友関係を完全に切り離していたようで、ミカのほうも沙耶香に恋人がいることは知っていても、それがどういう人物だとかいう話は聞いたことがなかったという。

「何人かとつきあっては別れて、ってしてたのは聞いてるんだけどね。最後の彼とは三年ぐらい続いてたから、きっとその人と結婚するんだろうなーなんて勝手に思ってたんだけど、結局別れちゃったみたい。あんなに綺麗で性格もよかったのに、うまくいかないもんだね」

 ミカは紅茶に牛乳を注ぎながら、急に思い出したように沙耶香の話をする。土曜日の朝は爽やかで明るい光に満ちていて、思い出話も湿っぽくならない。ああ、その最後の彼氏、俺だわ、とは言えないので、俺も頷きながら「いいやつだったのにな」と返す。ミカは紅茶が白くなるほどに牛乳を入れて、「冷たくなっちゃった」と呟いて電子レンジで温める。つきあっていた頃、沙耶香も同じ飲み方をしていた。以前ミカに訊いてみたところ、沙耶香から教えられた飲み方なのだと答えてくれた。

「もともとは沙耶香がこうやって飲んでたの。牛乳入れすぎで気持ち悪いって思ってたけど、やってみたら意外とおいしくて、真似するようになっちゃった」

 ミカはそう言って恥ずかしそうに笑った。

 紅茶の飲み方以外でも、生活の端々で、ミカには沙耶香からの影響が見てとれた。ハンカチはタオル地のものを好むこと。持ち歩く本にかける紺色のブックカバー。白米にクリームシチューをかけたりは絶対にしないこと。朝一番にカーテンを開けること。音がないと不安になるからとテレビや音楽をつけっぱなしにするところ。俺が何かをしていると、さりげなくコーヒーを出してくれること。俺のことをリョウ君と呼ぶこと。手のつなぎ方。甘えたいときの声の出し方。ソファに並んで座るときに、遠慮がちに肩に頭をのせてくる仕草。好きなペットボトルの緑茶の銘柄。味噌や醤油の好み。使う洗剤。料理の味つけ。ただの友人からの影響と言ってしまうにはあまりに濃厚に、ミカと過ごす日常には沙耶香の存在が感じとられた。見た目や性格は全然違うのに、視界の端にミカが映ると、俺はそれが沙耶香であるとしばしば錯覚を起こすほどだった。

 ミカによれば俺のほうにも沙耶香の影響はあるらしく、俺とミカはことあるごとに「それ、沙耶香がやってたね」と指摘して笑いあった。本人はいなくても、俺とミカとの間には、たしかに沙耶香が息づいていた。それは意外にも嫌なものではなく、不思議なことに、俺たちの関係の中に沙耶香がいると実感することには、強固な安心感があった。

 

 ミカに対しても沙耶香に対しても不誠実な発想だとは思うが、もしかしたら、というある可能性を、俺は拭い去ることができなくなった。もしかしたら、沙耶香は自分の死期を悟っていて、だから自分のかわりとして、遺される俺にミカを引き合わせたのではないか。俺とつがわせるためにミカを自分の色に染めたのではないか、と。思えば沙耶香は危なっかしい俺のことをいつも気にかけて、なにかと世話をやき、同い年なのにしっかりしたお姉さんのように甘えさせてくれてくれていた。きっと最後まで心配だったのだろう。やっぱり沙耶香には敵わないな、と思った。でも、もし本当にそうであるならば、沙耶香にはもう大丈夫だよと伝えなくてはならない。もう大丈夫。俺はミカを誰かの代理にするつもりはないし、もちろん沙耶香のことも忘れない。俺にとってはどちらも大切な人で、それはこれから先も変わることはない。夫婦としては奇妙な関係かもしれないが、俺とミカは、沙耶香の記憶を一緒に抱えながら、ともに生きていけるはずだ。

 

 暗い寝室で、ミカのふふ、と笑う声が肌をくすぐった。甘い声につられて俺も「どうかした?」と柔らかく問いかける。

 俺だけが知っている、沙耶香とミカのちょっとした違いがある。行為の最中、沙耶香は目を閉じていることが多かった。まれに目が合うとびっくりしたようにまじまじと見られて、なんだか照れくさかった。ミカは反対で、暗いなかでも目を開けて俺の顔を見たがる。

 ミカがまた小さく笑い声を漏らした。下から伸びてきた手が頬に触れる。

「ねえ、知ってる? リョウ君の瞳ね、薄暗いところですごく綺麗に見えるんだよ。虹彩の模様なのかなあ。沙耶香も同じような目だったな」

「へえ、沙耶香も?」

 そんな変わった目をしてたっけ、と記憶を辿るが、全然覚えていなかった。思い出すのは、明るいところで見た透けるような赤茶色の目だけだ。ミカは真剣な顔で大きく頷く。

「暗いところで下からこんなふうに覗きこむと、普段よりキラキラしてるの。そういう人ってたまにいるのかな。沙耶香に綺麗な目だねって言ったら不思議そうな顔をしてたから、鏡を見せて教えてあげたことがあって……」

 そこまで喋ったミカが、急にしまったという顔をして口ごもった。俺も、理解に時間がかかった数秒ぶん遅れて凍りついた。

 ミカが、どういう状況で薄暗いなか下から見上げるかたちで沙耶香の目を覗きこんだのか、なぜその特徴に気づくほどに互いに見つめあっていたのか、俺は咄嗟に追及を避けた。それを知ってしまったら、沙耶香にとって本当に大事なのは誰だったのか、俺とミカのどっちが沙耶香の代理だったのか、はっきりしてしまいそうな気がしたからだ。

 大丈夫、俺は何も聞いていない。沙耶香に「ちゃんと聞け、馬鹿」と怒られたぐらいだ。人の話を聞かないことには定評がある。オッケー。大丈夫。問題ない。俺の「へえー、沙耶香もかあ」という気の抜けた返事に、ミカもほっとしたように「そう、そうなの」と応じる。危機は切り抜けられたようだ。

 大丈夫。万事順調。ノープロブレムだ。多少のことには目をつぶって通りすぎてしまえ。どっちが代理だったかなんて、思い悩んでもしょうがない。どっちにしたって、地球が何回ひっくり返ったって、俺は沙耶香には敵わないのだ。

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