第1話 研究者 エリ・カン
その時が来ることはわかっていた。両親はエリをかばってくれたが、それも限界だ。天蓋に覆われた半地下都市、
エリは子供のころから、同年代の子供とどこか違うことに気付いていた。その違いは幼いうちはただちょっと背が高い程度にしか出ていなかったが、思春期になるともう隠しようがなくなった。普通より背が高く、体形はしゅっとしたものになった。
エリには兄と妹がいるが、二人とも
「少しの間、私たちが外に出ていた時期があったの」
それがどういう意味かは彼女も追放される頃には察していた。両親の仕事はマテリアルと呼ばれる魔法物質の研究である。
下層民のように外に出たことがあるが、両親の身分は決して低くはない。エリが十四になるまで
その間に、彼女は両親、親戚、それらの交友たる知識階級の大人たちより様々な知識といくつかの技術を習得していた。いずれ外に追放される彼女の生きる助けになればという願いのたまものだった。両親と異なり、軍人の道を歩んでいた兄からは護身のためのあれこれも学んでいる。兄とは仲が良かったが、妹とは最悪に近かった。エリのことは一家の恥だと思って十にみたない少女は残酷な言葉をエリにあびせた。
だから、ついにすべてが露見し追放となった時には彼女にも受け入れる気持ちが出来上がっていた。どうしても家族に迷惑をかけているという感情を消すことができなかったから。外には魔物がいて、他の
エリも最初はそのような仕事を割り当てられた。人事監督をやっている外育ちの
「クズにはお似合いの仕事だ。教育してやる」
実際のところ、彼は彼女がどんな教育を受けていたか知っていた。たくさんの公的認定も取っていることを知っている。それが彼の反感をつのらせた。
残酷な悪意に初めてふれたエリはおののいた。仕事は汚れて痛くて油断すると怪我をしかねない危険な場合もあった。
兄に鍛えてもらった体力がなければ何もかもぽっきり折れて、底意地の悪い監督の思うままになっていただろう。尊厳を守るため、訓練されたマテリアル操作で愚かな長身族の先輩たちを無力化することができなかったら、何人もいる目の死んだ長身族の女たちの仲間入りをしていただろう。
結果、彼女は恐れられ安全な集落から危険な辺境に移された。
住人のいない
核は核を取り込んでデータと処理能力をあげ、
エリもそんな荒くれの中に放り込まれたのかと悲観したが、調査隊の幹部の一人に母方の叔父の姿を見て、これはそうではないと知った。
「実のところ、姉さんに頼まれてね」
叔父はそういった。
エリの境遇を両親が知ったらしい。
「それに、君は賢い子だったからきっと力になってくれるだろう」
それは無言の脅しでもあった。役に立て、そういわれていると彼女は思った。
それから十年がすぎることになる。
「おはよう」
エリは「彼女」に挨拶して研究室に入った。
「彼女」はアラバスターの棺桶に封じられ、かろうじてシルエットと顔の一部が垣間見える古代の死者で、本当に女性なのかどうかはわからないが見えている顔の線が細く、女性的な気配があるのでとりあえずそう呼ばれ続けている。全身ははっきり見えないが、
もう長い間研究対象とされているせいで、研究室とよんでいるこの一室には机や椅子や食べ物をいれた箱、水甕、携帯コンロにお茶の道具とくつろぎながら記録を保管できるようになっていて、ここがどこかの人の住む町の一角じゃないかと錯覚してしまいそうになる。発見当時、この部屋には「彼女」の棺桶がぽつんとあるだけで他には何もなかった。今は、「彼女」にもマテリアルと呼ばれる魔法物質で作ったいわばセンサーがいくつもはりつけられ、エリが休んでいる間も記録を取り続けていた。
そのセンサーの上に指を這わせ、「カシコミカシコミモウシマセ」と呪文を唱えれば、彼女の中から一日の許容量から所定の魔力が吸い出され、センサーはウィンドウを一斉に開いて情報を開示した。エリの仕事はこれを記録すること。そして変化があれば所見を書くこと。できたものは三十日に一度、いくつかの
学会の関心は、しかし「彼女」にはあまり注がれていない。
どちらかというとこの遺跡の別のところで見つかった「知恵の魔神」の存在のほうが強い関心を持たれている。それは威厳ある半裸の男神像で、正しく質問すると正しく答えてくれるものだということがわかってきていた。問題は、質問するために言葉の理解をしなければならないという点。理解すべき言葉は知恵の魔神の使う言葉で、エリたちの言葉では答えてもらえない。彼女の属する
例えば「犬はあなたの言葉でなんといいますか」と聞くなら犬だけはエリたちの言葉であとは魔神の言葉で聞かなければならない。
魔神と「彼女」の発見からもう二世代近くが経過していた。エリも師匠であるコズミ師よりこの仕事を引き継いだ。はりつけられているマテリアルのいくつかは師匠のものを譲渡されたもので、その死後も問題なく彼女についてのデータを集めている。
一通り読みだしたエリは水甕から小さ目の土瓶に水をくんで携帯コンロにかけ、お湯がわくまでの時間、記録の転記にいそしんだ。湯がわくと、カウフェと呼ばれる粉末カフェイン飲料をマグに一さじいれて湯をそそいだ。これはほぼほぼインスタントコーヒーで彼女の属する都市、
一息つくと、さらに記録を続け、グラフなどの可視化表現に書き換えた上で先人、学会での見解に異を唱えたり理論補強を行ったり、いずれ自分なりの大発見をしたためる。それが彼女の仕事であり野心だった。実際、一定の評価は得ている。ただ、彼女が長身族であるという一点が叔父のように名誉を得ての都市帰還のような栄誉から彼女を遠ざけていた。
いつもはそれに没頭し、夕食の時間を過ぎたあたりであわてて切り上げて引き揚げるのがエリの日課だった。厨房は魔神の研究チームの人たちと共用で、調理担当も仕事があるので待ってくれない。食いっぱぐれたこともある。
その時間を何で知るかというと、研究室の外を通って厨房にいく研究員や警備担当の誰かがドアを叩いてくれる親切からだった。食いはぐれたエリがあんまりな様子だったもので、そういう習慣がついた。
そのドアが、時間よりずいぶん乱暴に叩かれたのはその時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます