パーフェクトシャットゴーホーム!

蛾次郎

第1話



「お疲れ様でしたー!」


新米サラリーマンの坂波団悟は、仕事が終わり、そそくさと会社を出て行った。

帰りの駅に向かって早足で歩きながらビジネスバッグに入れていたワイヤレスイヤホンのケースを取り出そうとした……が、ケースの中にイヤホンが無い。 


「し、しまった!」


どうやら、会社のデスクにイヤホンを忘れて来てしまったようだ。

一旦会社に戻ろうと考えたが、駅の目の前まで来て、もう1度歩いて戻るのは億劫で仕方ないため諦めた。

周辺にあるコンビニやドラッグストアでイヤホンを購入すればいいと思ったが、遠目から覗く店内には、和気藹々と話している部活帰りの男子校生や、子沢山家族、スマホを見せ合う若いカップルなどで溢れていた。


「ダメだ…万が一の事がある…」


坂波はイヤホンの購入をやめて駅へ向かう。

構内にも多くの人々の会話やニュース映像が流れている。

坂波は唾をゴクリとのみ険しい表情に変わった。

自宅の最寄り駅に到着するまでの時間は約1時間ほど。


「帰宅するまで、情報を完全にシャットアウト出来るだろうか……」


坂波は今年最も楽しみにしていた「プロサッカークラブ世界一決定戦 FCドミンゴスvsロンドンユナイテッド」の生放送を自宅のHDDで予約録画していた。


現在、午後6時58分。

試合の開始時間は午後7時。


坂波は、周りの会話やモニタービジョンなどでサッカーの速報を見聞きしてしまうリスクを掻い潜り、情報を1ミリも知ること無く帰宅し、録画終了後に自分のペースでゆっくりとこの世界最高峰の試合を鑑賞したくてしょうがないのである。


しかしイヤホンを忘れた事で耳から入る情報遮断の道は断たれてしまった。


腕時計を見ると、試合開始の7時を過ぎたところだった。


「…仕方ない…」


坂波は出勤時、駅前で貰ったポケットティッシュをスーツのポケットから取り出してちぎり、小さく丸めて耳に詰めた。

他人から「耳にティッシュを詰めたサラリーマンが居る…」と怪しい目で見られる危険性は高いが、むしろその方が周りを寄せ付けず、情報遮断出来る可能性が高い。


ホームにいるサラリーマンやOL、学生のほとんどがスマホを見ていて会話などは無い。このまま静かな状態をキープしてくれと願っていると、目的の快速電車がやって来た。


坂波は乗車すると、出来るだけ人が少ない車両を探して移動した。

この移動中もドアの上にあるモニタービジョンなどをチラ見してはいけない。

試合の途中経過のニュースが流れる危険性があるからだ。


ひたすら前を向き、空いている車両を求め進んで行く。


最後尾の15号車はサラリーマンと思われる中年2人だけだった。


坂波は、誰も座っていない端っこにある優先席に腰を下ろした。これならば情報の完全遮断が可能だろうと思い、少し安渡した。

ついクセでポケットからスマホを取り出してしまったが、慌てて仕舞った。

スマホでSNSや知人との連絡に使うアプリを見てしまったら、そこに試合詳報がサラッと出ている可能性が高い。

耳にティッシュまで詰めておいて、そんなケアレスミスをしてる場合では無いのだ。


快速電車が出発を始めた。


坂波は、最寄り駅に着くまでの1時間、目を瞑り、腕を組んでじっとしているのが最善策だと判断し、実行に移した。



————————————————————



発車から3分ほど経った頃、15号車に70代くらいの高齢男性2人がやって来た。


色褪せた野球帽と穴の空いたジャンバーを着た耳毛が飛び出た爺さんと、毛玉だらけで襟がヨレヨレのスウェットを着て長い白ヒゲを蓄えた爺さんだった。


耳毛の方は、まだ酒が半分残ったワンカップを持ち、白ヒゲの方は缶チューハイを持っていた。


坂波は優先席から立ち、普通席へと移動した。


耳毛の方が白ヒゲに話す。

「あ!今日あれじゃねえか?ほら?」 


「え?…あ、そうだ!サッカーやってんだよな!」

白ヒゲが思い出したように手を叩くと缶チューハイから液体が飛び散った。


坂波は、まさかこんな所で思わぬ伏兵が現れるとは!と焦った。


耳毛の方が大きな声で白ヒゲに話す。

「おめえどっち懸けてたっけか?」


「俺は南米の方に500円だよ」


「え?南米は俺じゃなかったか?」


「ちげえよバカヤロー。おめえはイギリスだろイギリス。ロンドンなんたらだろ」


「そうだったか?もう試合始まってる頃じゃねえか?」


そう耳毛が言うと、穴だらけのジャンバーから最新のスマホを取り出して試合の途中経過を調べ始めた。


坂波から2人のデカい声は丸聞こえだった。

所詮ポケットティッシュを耳に詰めたくらいでは限界がある。


そう痛感した坂波は、手で耳を塞ぎながら、隣の14号車へと逃げ去った。


「なんだ?あのにいちゃんは?体調でも悪いんか?」

「まあ働き盛りは色々あんだよ」


耳毛と白ヒゲは、坂波が去って行く後ろ姿を見て呟いた。





————————————————————





14号車も5名ほどの若いサラリーマンやOLがまばらに座っているだけのガラ空き状態だった。


連結部分の近くにはトイレが設置されている。

この中に入っていれば、到着まで情報の遮断が出来ると思ったが、使用中だったため仕方なく空いている席に座った。


ふと上の網棚を見ると、有線イヤホンとアイマスクが置いてあった。

どうやら誰かが置き忘れたようだ。


「これは…天の恵み…なのか?」


坂波が呟く。

坂波のスマホは有線イヤホンも接続可能な仕様になっている。

この有線イヤホンを付けて、音楽でも聴きながらアイマスクをしていれば、到着まで完全に情報の遮断が可能だ。


しかし、これらを勝手に使うのは他人の物を盗んだという事になってはしまわないか?


坂波は脳内で様々な想定を巡らせていた。


例えば網棚にマンガ雑誌やスポーツ新聞などが置き忘れていた時、少し手に取ってパラパラと立ち読みする事がある。

読み終えたら、そしらぬ顔でまた網棚に置いておけばいい。


思い起こせば学生時代、古本屋でバイトをしていた時、網棚に置いてあるマンガ雑誌やゴミ箱に捨ててあったコンディションの良い週刊誌を持ち去って古本屋に格安で売るおじさんがいたくらいだ。


それでおじさんが捕まったなんて話は聞いた事が無い。

警察もそんなに暇ではない。

道に落ちているシケモクを吸ったおじさんが「盗難罪」で逮捕されるくらいあり得ない話ではないか?


「うん…大丈夫だな」


坂波は、己の都合が良いように拡大解釈し、網棚の有線イヤホンとアイマスクを手に取った。


何のやましさも無いぞとばかりに、そのまま網下の席から移動せず、耳に詰めたティッシュをバッグにしまい、堂々とスマホに有線イヤホンを差し込み、ダウンロードしたお気に入りの音楽を聴きながらアイマスクを装着して、夢の頂上決戦の攻防をシュミレーションしはじめた。



FCドミンゴスの"天才ミッドフィルダー"チャベスが華麗なドリブルでディフェンダーを切り裂きゴールラインギリギリで鋭いクロスを放ったところを"孤高のエースストライカー"カスティーヨが豪快なシュートを決めるのか?

ガチガチに守備を固めたロンドンユナイテッドがFCドミンゴスのパスミスを誘い、カウンターに出た所を"不世出のキッカー“バンディの正確なロングボールを"世界一のフィニッシャー“トーマスがボレーやヘディングで決めるのか?


そんなあらゆる妄想を張り巡らせているうちにウトウトと眠りについてしまった。




20分が経過した頃、すっかり熟睡していた坂波は、自分の肩をポンと叩く手の感触で目が覚めた。耳からイヤホンを外しアイマスクをゆっくり外すと目の前に若い男が立っていた。

ウェーブの掛かったロン毛にサングラス、坂波の肩に触れた右手の甲には蛇のタトゥーが入っている。

坂波は男の容姿を見て一気に眠気が吹き飛んだ。

「は、はい!な、何でしょうか?」


「それ…僕のなんすけど」


ロン毛がそう言って、坂波が持っている有線イヤホンを指差した。


「え!?そ、そうなんですか!?」 


「ええ」


「あ、あのーですね、そのー、誰かが網棚に置き忘れた物だと思ってですね、駅員さんに届けようと思ってたんですが、せっかくなんで、お、降りるまでは、しゃ、車内で少しお借りしてですね…」


「なるほど。僕、急に腹痛になったんで、慌ててイヤホンを棚に置いてトイレ行ってたんすよ。トイレでイヤホン持ってたら邪魔でしょ?下に着いちゃったら汚ないし」


こいつがトイレに入ってた奴だったのか。

随分長い事入ってたな。本当に用を足すために入ったのか?何か打ってたんじゃないのか?

坂波は、そんな偏見が脳裏を過ぎりながらも、見た目より話し方が優しいので、丁重な態度で接すれば怒らないタイプだろうと分析した。


「勝手に使ってしまいすいませんでした!」

坂波は、席から立つと、深々と頭を下げてイヤホンを男に差し出した。


しかし、男がイヤホンを手に取る気配は全く無い。

丁度、その時、電車が停車駅に停まった。


坂波がゆっくり顔を上げると、男は坂波の顔面に頭突きを1発見舞った。


「ブホッ!!!!」

坂波は吹っ飛び、窓に後頭部をぶつけた。


「そんな汚ねえもん要らねえよ!!バカヤロー!!」

男はドスの効いた声で捨てゼリフを吐き、開いたドアからそそくさと出て行った。


「い、痛い痛い痛い痛い…やっぱ見た目通りだったじゃん」

坂波の鼻から血が流れている。スーツからポケットティッシュを出して鼻に詰めたが、なかなか止まらない。ティッシュが足りない。

バッグから耳穴に詰めていたティッシュを取り出すも、鼻血を預言していたかのようにバッグの底でキャップの外れた赤いボールペンの液体に染まっていて、使いもんにならない。

坂波は別の意味で耳にティッシュを詰めた事を後悔した。

このティッシュを耳に詰めず、取っておけば、もう少しだけ出血は抑えられたはずだと。



それはそうとアイマスクは誰のだ?

坂波は再び惨劇が起こる前に網棚にアイマスクをそっと置いた。


あと2駅。約20分ほどで降りる駅に辿り着く。

ここは微動だにせず、只時が過ぎるのを待つのみだ。

坂波は座席にもたれながら上を向いて目を閉じた。

だが、その時、隣の15号車からあの男達がやって来たのだ。


耳毛と白ヒゲの爺さん2人である。

耳毛の方が、坂波に声を掛ける。


「おい、にいちゃん大丈夫だったか?」


「あ、どうも。大丈夫ですので、ご心配なく」


「さっき、ガラの悪いチンピラに因縁付けられてたろ?」


「ええ。大変でしたよ」


「そこの連結部分で様子見ててよお、何かあったら止めに入ってやろうと思ってたんだよ」


「いやいや、そんな。お気遣いありがとうございます」

坂波は、何かあったんだから助けに来いよ連結部分で見てるくらいならと思ったが、のみこんで軽く会釈した。


「鼻血止まんねえのか?」

耳毛が更に話し掛ける。


「ええ。だいぶ良くなって来ましたけど」


「ティッシュが真っ赤じゃねえか。おい、ティッシュ持ってねえか?にいちゃんにやってくれ」

耳毛が白ヒゲにティッシュを要求する。


「ちょっと待って。今、試合が良いとこなんだよ」

白ヒゲがスマホを見ながら言った。

坂波は、ドキッとした。


「サッカー観てねえで、にいちゃんにティッシュやれよ」


「おう」

白ヒゲはスマホを見ながら、パンツのポケットに手を入れティッシュを取り出そうとしていた。

耳毛が白ヒゲのスマホを覗き込む。

「今、試合どうなってんだ?」

「えーとね、ロンUの10番が…」

坂波は急いで耳を塞ぎ、その場からダッシュで逃げた。


「おい、どうした?にいちゃーん?…ったく、また行っちゃったよ」

耳毛が首を傾げて嘆く。


白ヒゲは、一旦スマホをしまうと、網棚にアイマスクが置いてある事に気付いた。


「あ、これ俺のアイマスクじゃねえか?」

「さっきあのチンピラが使ってたやつか?」

「そうそう。トイレから戻ったら勝手に使いやがってよ」

「ふざけた野郎だな、ったく」

「お前、隣に座ってたんだから注意してくれりゃ良かったじゃねえか」 

「そりゃ無理ってもんよ」

「何でだよ?」

「お前がトイレ行く時にアイマスク落として拾おうと思ったらよ、先にチンピラが拾ったんだよ」

「先に拾ったからって、何で「それはダチのもんだ」って言わねんだよ?」

「他人のアイマスクを迷わずグラサンの上から着けて寝る奴に注意出来るか?」

「……まあ、無理だな」




————————————————————




坂波は前方の車両へと走る。

まるで、落ち着きのない子どものように。


一つ前の駅でかなりの乗客が降りたため、どこの車両もほとんど人は居なくなっていた。

5号車に行けば、坂波が降りる駅改札の目の前へ出れる。

ジジイ2人も5号車までは来ないだろう。

そう思いながら夢中で走っていると、電車が次の駅に停車するため減速した事に気付かず、停車した際、坂波は「ドリブル突破を試みたらディフェンダーに足を削りに行かれたブラジルのフォワード」の如く前につんのめって転んでしまった。


「…アイタタタタタ…」


腰に手を当てながら、ゆっくり起き上がると、ドアから真っ赤なサッカーユニフォームを着た少年達が、ドドドドッと入って来た。

どうやらジュニアユースの少年達のようだ。

少年達はスマホを見ながら喋っている。

「やっぱペレイラうめえわ!」

「見て!このデヴィッドのパス!」

どうやら世界一決定戦のライブ配信を観ているようだ。

残り一駅で、最大の試練が来た!

そう思った坂波は、耳を塞ぎながら少年達の隙間を縫うように前方の車両へ突破しようと試みた…

しかし、ユースのキーパーと思われる大柄な少年が前に立ちはだかった。

少年は坂波に気付かずスマホを観ていて一向に退く気配が無い。

これを突破するにはファールしかないが、例えデカくとも子供に体をぶつけるワケにはいかない。

「ここまで来て…仕方ない。一旦戻ってポジションを立て直そう」

坂波は、再び少年達の隙間を縫うように後ろへ退がり、後方の車両へと移動した。


しかし、隣の車両もその隣もジュニアユースがスマホで放送を観ながら話している。

耳を塞ぎながら、「赤い悪魔」達のプレッシャーをクリアし突破した結果、ついぞ最終ラインの15号車へと戻ってしまった。

しかも走った勢いで、通路に転がっていた缶チューハイとワンカップの瓶が足に引っ掛かり再びすっ転んでしまった。

全身の激痛で床にもんどり打ちながら空き缶と瓶を睨みつける。


「あのジジイ達が捨てたやつだろ!」


坂波は抗議をしようと耳毛と白ヒゲを探したが、車内にはもう2人の姿は無かった……。



それから数分が経ち、やっと坂波が降りる駅に到着した。


所々試合状況が入って来る波乱はあったものの、尋常じゃない奮闘により、試合の点数や誰がゴールを決めたかなどの致命的なネタバレは免れる事が出来た。


坂波は改札を出て、トボトボと自宅までゆっくりと歩いた。


腕時計は午後9時10分を示していた。

延長戦が無いのでロスタイムを含めても試合は終了している時間だ。

丁度良い頃合いで、録画した試合をゆったりとマイペースで観れる!

坂波の胸の高鳴りは激しくなっていった。

歩いて10分ほどが経ち、ついに自宅のアパートが見えて来た。

周りにはもう誰も居ない。

坂波は、小さくガッツポーズをしながら、一旦落ち着こうと、アパートの前に置かれた自販機で缶コーヒーを買い、その場で飲み始めた。


その時、ふと自販機に目を向けると、今まで気付かなかったが、自販機の端の部分が電光掲示板になっていて最新のニュースが下から上へサーっと流れている事に気づいた。


|

F


坂波は自販機に向かって、豪快なヘディングを食らわせた。










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