第3話

それでも私はパソコン教室に通い続けた。

体験レッスンの翌日、覚えたてのオートSUMを使って作った書類を提出したら、鹿頭係長が感涙する勢いで喜んでくれたからだ。

とにかく、鹿頭係長のために通い続けることにした。

実際、少しずつパソコンの操作を覚えるのも、牛倉先生と話すのも楽しかった。

そんなこんなで一カ月。

まだまだ同期のレベルにも及ばないが、多少のパソコン操作ができるようになった。鹿頭係長のこめかみの青筋の頻度もかなり下がったと思う。

私は、私を褒めてあげたい。

もう少し頑張れば、鹿頭係長に頭をなでてもらえるようになるかもしれない。

いつものように、牛倉先生のレッスンを終えて帰ろうとしたとき、牛倉先生に呼び止められた。

「実は、退職することになったんです」

「え?そうなんですか」

ということは、レッスンに来ても牛倉先生と会えないということだ。

だが、もう一人の兎澤(うさわ)先生もかわいいことが分かっているので、そこまで大きな落胆はない。

「転職ですか?」

私が何気なく聞くと、牛倉先生は少し言いにくそうに口ごもった。

「実は……結婚するんです」

「は?」

確か、牛倉先生は猿渡さんと付き合っていたのではないだろうか。

私の記憶が確かならば、日本では同性同士の婚姻はまだ認められていないはずだ。

つまり、これは猿渡さんがフラれたということか。

いかん、顔がニヤけてしまう。人の不幸を笑うなんて、そんな小さな人間になってはいけない。

だが、何だろう、この気持ちは。

「雫には内緒にしてくださいね。先週別れたんですけど、結婚のことは言ってないので」

牛倉先生、かわいい顔をしてなかなかやるな。

猿渡さんと別れて一週間で結婚相手が見つかるはずもない。

猿渡さんは、牛倉先生にもてあそばれていたというわけだ。

さて、かわいそうな猿渡さんをどうやって慰めてあげようか。


思い返してみても、牛倉先生と別れたという一週間前から猿渡さんの様子に変化はなかった。

猿渡さんは、社内でも私が欲しかったハーレム席を欲しいままにしている。

だから、牛倉先生と別れたことも、さして影響がないのかもしれない。

それでは、からかい甲斐がないではないか。

まあ、憔悴しきっていたらからかうどころではないのだろうが。

私は、昼休憩に向かう猿渡さんを廊下で呼び止めた。

まずは様子見だ。

「最近、牛倉先生とは仲良くやってるの?」

猿渡さんは眉をひそめる。そして、小さくため息をついた。

「ひつじから聞いたんでしょ。別れたよ、先週」

「へー、じゃあ、私が狙ってもいいんだよね」

敢えてそんな切り返しをしてみる。

「無理でしょう。ひつじ、結婚するんだから」

猿渡さんはさらりと言ってのけた。

「何で知ってるの」

思わず私は口にしてしまう。

「やっぱり、そこまで知ってたんだ。それで、どうするつもり?慰めてくれるつもりだった?」

「まさか!ちょっと凹んだ顔を見てやろうと思っただけよ」

牙を剥く私に、猿渡さんは高圧的な視線で私を見下ろす。

「子ザルちゃんはさ、誰とも付き合ったことないんでしょう?」

「な、何を根拠にっ。私はずっとモテモテだったんだから」

「かわいいってチヤホヤされてたけど、誰も好きになったことがないんでしょう?」

そう言いながら猿渡さんが、ジワジワと歩み寄り、私を壁際に追い詰めていく。

「なんでそんなことが言える」

「そんなの、見てれば分かるでしょう」

見ているだけで分かるものなのか?

「だから、人の気持ちにも鈍感なんだね」

さらに猿渡さんがジワジワと詰め寄る。

猿渡さんを本当に見誤っていたようだ。これは賢い犬ではない。狂犬だ!

「ちょ、ちょっと……」

私は両手を突き出してけん制するが、猿渡さんは止まらない。

私はついに壁際まで追い込まれてしまった。

「き、傷をえぐるような真似をしたことは謝るけど、そんなに怒ることないでしょ」

「ひつじのことは別にいいよ。なんとなく分かってたし、私も他に本命がいるし」

「本命がいるのに、牛倉先生と付き合ってたの?」

「本命がなかなかなびきそうになかったしね」

ハーレムを欲しいままにしている猿渡さんを袖にする本命さんに、心の中で拍手を送る。

「じゃあ、なんでそんなに怒ってるの」

話している間に、なぜか私は猿渡さんに『壁ドン』をされてしまっていた。

コワイ、コワイ、コワイ。

この体勢、恐怖しかないんですけど。

これでトキメクなんてあるはずがない。少女漫画はとんでもない誤報を発信していると拡散しなくては。

「なんで怒ってるか、本当に分からないの?」

「分かるわけないでしょう」

「子ザルちゃんは、身も心も本当に真っ新な処女なんだね」

「そんなっ……」

言い返そうとしたとき、猿渡さんに口をふさがれてしまった。

『壁ドン』の体勢から、左手で私のアゴを上げるいわゆる『アゴクイ』をして、自分の口で私の口をふさいだのだ。

ちょっと待て、どんな状況だよ。

どうしてこうなるの?

猿渡さんは少女漫画の読み過ぎなのではないのか?

私はなおも口をふさぎ続ける猿渡さんを押しのけようと抵抗するが、なにせ体格に差がある。

がっちりホールドされて身動きができない。

しかも、舌、舌は入ってる!

私は、渾身の力で猿渡さんを押した。そして、わずかにできた隙をついて、右手の拳を猿渡さんの左脇腹に叩き込む。

「ウゲっ」

この攻撃に、さすがの猿渡さんも身を引いた。

そして「これでもオチないか」とつぶやく。

私は肩で息をしながら猿渡さんを睨んだ。

「な、なにしやがる」

「キス」

「だから、なんでそんなことをするっ」

「ムカついたから?」

「お前は、ムカついたら誰にでも無理やりキスするのかっ」

猿渡さんは、脇腹を押えながら、それでも自信満々の笑みを浮かべた。

「いや、誰にでもはしないよ。子ザルちゃん用の指導方法かな」

「なんだそれっ」

怒りで頭に血が上る。

「子ザルちゃんは、人の気持ちにも鈍いけど、きっと自分の気持ちにも鈍いんだね」

猿渡さんが何を言いたいのか分からない。

だが、ひとり納得した様子でウンウンと頷いている。

「まあ、今日はここまでにしておきましょう。子ザルちゃんのファーストキスもいただいたことですし」

そう言って、猿渡さんは歩き去ろうとした。

「ち、ちょっと待て、ファーストキスって、決めつけるな。私は経験豊富なんだからな」

「はいはい」

猿渡さんは、私の言葉を聞き流し、手を軽く振って行ってしまった。

本当にムカつく。

私のファーストキスが、こんな形で失われるなんて。

しかもファーストキスで舌まで……。

ロマンの欠片もないじゃないか。

私は、入社式ではじめて会ったときから本能的に感じていたのだ。

猿渡さんはキケン人物であると。

これから先も猿渡さんとは、きっと、おそらく、絶対に、仲良くなれないような気がする。


     了

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