第2話

その日の就業後、私は早速パソコン教室に向かった。

休憩時間に電話をすると、夜の体験レッスンが受けられることになったのだ。

これはラッキー。

体験レッスンと称して今日再提出を命じられた書類のつくり方を教えてもらうのだ。

そうしたら、明日は鹿頭係長に褒められるだろう。

パソコン教室は駅から十分程歩いた場所にあった。

教室内はそれほど広くなく、入り口にカウンターがあり、奥には壁に向かって九台のパソコンがコの字型に並べられていた。

「こんばんは、犬養佳乃さんですね」

薄いオレンジのタイトスカートと同じ色のベストを着た女性が笑顔で声を掛けてきた。

「インストラクターの牛倉(うしくら)ひつじです。今日はよろしくお願いします」

牛倉先生は、鹿頭係長とはまたがった母性を感じさせる女性だった。主にバストからそれを感じる。タイトスカートのヒップラインもなかなかのものだ。

やはり、今日はパソコン教室に来てよかった。

だが、残念ながら、私は入会するつもりはない。

高くない新卒給料をパソコン教室に費やす余裕なんてない。

とはいえ、牛倉先生とお近づきになれるのなら、ハーレム計画予算をパソコン教室に当てるのもいいかもしれない。

悩ましいところだ。

私は、アンケート用紙を記入して簡単なカウンセリングを受けた。そして、教室の仕組みを一通り聞くと、いよいよ体験レッスンだ。

「特にエクセルの操作が知りたいということでしたよね」

「はい。実は、会社でこんな表を作ったんですが、計算ミスがあるといわれまして」

私は、書類を牛倉先生に見せた。

ちなみに、この書類は社外秘ではない。というか、作る必要すらないのではないかと思うようなものだ。

端的にいえば、私があまりにもできないため、必要もない書類作りをさせるしかない、ということなのだが。

牛倉先生は書類を見ながら「フムフム」とつぶやき、白紙のコピー用紙に手書きで表を書いた。

「それでは、犬養さんがどれくらいできるのか見たいので、まずはこの表を作ってみてもらえますか?」

一から五の数字が縦に並んだ列が五列ある。表は六×六で、最下部と右端に縦計と横計、その交点に総計を入れるとの指示が書かれていた。

「わかりました」

私は言われるままに、エクセルで表をつくりはじめた。

さすがの私でも、これくらいの表は作れる。

文字入力はめちゃくちゃ遅いが、今回の表は数字だけなのでそれも問題ない。

数字を入力して枠線を引く。あとは計算をするだけだ。

これくらいの数字ならば暗算でできる。

縦の合計は一から五の合計だから十五。五列ともすべて十五を入力する。

そして横の合計。一番上は一が五個だから五、次は二が五個で十。順番に入力していく。

総計は、十五が五個で、七十五。

私が入力を終えると、牛倉先生はニコニコ笑いながら、手元のスマートフォンを見せた。

二分四十八秒二四。

「約三分ですね」

なかなかの好成績ではないだろうか。

「それでは、私が同じものを作ってみますね。これでタイムを計ってください」

そう言って、私にストップウォッチ画面になったスマートフォンを差し出す。

「それでは、犬養さんがスタートの合図をしてください」

「はい。じゃあ、スタート」

私の合図で牛倉先生がエクセルの操作をはじめた。

まず、数字の一を入力する。すると、マウスを操作して、瞬きをする間に数字の入力を終えてしまう。

さらに、六×六マスを囲むと、ボタンを一つ押し合計を出し、さらに枠を引いて表が完成してしまった。

時間はたったの十五秒!

「え、なんですか、マジックですか!」

私は思わず叫んでしまう。

牛倉先生は、「マジックじゃありませんよ、エクセルです」と笑顔を浮かべた。

「つまり、こういうことなんです」

どういうことですか?という私の顔色を読み取ったのか、牛倉先生が続ける。

「印刷してしまえば、私の表も犬養さんの表も同じです。でも、作るのにかかった時間は、犬養さんが約三分、私は十五秒。これが、エクセルを知っているか知らないかの差なんです」

私は、思わずうなってしまう。

「それに」

そう言うと、牛倉先生は最初の一の数字を六に打ち換える。すると、合計の数字も自動で変更されてしまった。

「エクセルには計算の機能が付いているんです。犬養さんの表だと、中の数字が変更されたら、もう一度計算しなくてはいけないですよね」

エクセルがこんなにすごいヤツだとは思わなかった。

定規を使わずに表が作れる程度にしか思っていなかった私を許してほしい。

私は心の中でエクセルに謝罪する。

「えっと、それで、どうすれば、今のができるんですか?」

おずおずと私が聞くと、牛倉先生は本日一番の笑顔を浮かべて「入会していただけたらお教えします」と言った。

「えっ」

思わず声を上げた私に、牛倉先生はケラケラと笑い声をあげる。

なんだよ、かわいい人だな。

「冗談ですよ。ちゃんとお教えします。これは、オートSUMという機能を使ったんです」

そう言って、私に操作方法を教えてくれた。

「サム、すごいな」

私は簡単の声を上げる。

ボタン一つで合計を出してくれるなんてすごすぎる。どんなに長い計算もボタン一つなのだ。計算間違いもない。

「今、犬養さんにお教えしたのは、普通のオートSUMです。だから、この機能を知っている人はたくさんいます」

こんな便利な機能があるなら猿渡さんも「教えようか」なんてもったいぶらずに、最初から教えてくれればいいものを。

「私がやった操作を覚えていますか?一度で縦計も横罫も総計も出しましたよね。これを知っている人はグッと少なくなります」

「そうなんですか?」

「エクセルにはたくさんの機能があります。エクセルの全機能を百とすると、私が使いこなせるのはせいぜい五十くらいだと思いますよ」

「たった半分ですか」

「そうです。今の犬養さんは一くらいですね。これが、十になればそこそこ、十五になれば他の社員の方たちと同じくらい、三十になれば、かなりできる人です」

そこまで言って、牛倉先生は「あっ」と言う。

「今日、オートSUMを覚えたので、一ではなくて、二になりましたね!」

なんだよ、かわいい人だな。

そんな感じで牛倉先生の話を聞き、エクセルの操作を教わって体験レッスンが終了した。

エクセルのレッスンは想像していたよりもずっと楽しかった。

それは、牛倉先生の人柄も影響しているのかもしれない。

そして、私は、いつの間にか入会書類の記入まで終えていた。

予定とは違うが、これは無駄な投資にならないと確信できた。

鹿頭係長に褒められ、猿渡さんにぎゃふんと言わせ、牛倉先生とお近づきになる。こんな効率的なお金の使い方があるだろうか。

ちなみに、体験レッスン中に聞き出したところによると、牛倉先生は私より四つ年上の二十六歳。

年上の包容力と豊満なバストに包まれる日も近いはずだ!

がぜんやる気が出てきた。

私は、牛倉先生が担当する二日後の夜に最初のレッスンを予約した。そうして帰ろうとしたとき、入り口から「やっほー」という軽い挨拶が聞こえた。

猿渡さんだ。

「お、ちゃんと来てるね!」

猿渡さんは満足そうな笑みを浮かべる。

「何をしに来たの?からかいに来たわけ?それとも猿渡さんも入会するの?」

「私は入会しないよ。彼女を迎えに来ただけ。ひつじ、もう上がりでしょう?」

「うん。着替えるから待ってて」

猿渡さんにそう言うと、牛倉先生はバックヤードに下がった。

「か、かの?彼女?」

「そう、かわいいでしょう?」

私の目の前が真っ暗になっていく。

「私に自慢したくてここを紹介したな」

「いやいや、ひつじからいいカモを紹介してくれって言われてたからさ」

「カモだとっ」

そこに、牛倉先生が私服に着替えて戻ってきた。私服の牛倉先生もいい。

薄手のニットはバストラインがより強調されている。でも、このバストを猿渡さんが、と思うと血の気が引いていく。

「ちょっと雫(しずく)、人聞きの悪いこと言わないでくれる?パソコンで困っている人がいたら紹介してって言っただけでしょう」

雫って誰だ?と思ったが、猿渡さんの名前だったと思い出す。

私は歯ぎしりをしながら二人を見る。

「もしかして猿渡さんがパソコンを使えるのは、牛倉先生に教わったから?」

私が聞くと、猿渡さんは牛倉先生の手を取りながら答えた。

「いや、私は学生時代からパソコン使ってたから。まぁ、もしも分からないことがあったらひつじに教えてもらおうかな」

「いやよ、私、無料ではクリックひとつも教えないから」

「それは、体で払うのでもいい?」

なんていうイチャイチャを目の前で見せられた後、私たちは解散した。

退会届ってどうすればいいんだっけ?

と、考えていたのはいうまでもない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る