ch.3
二週間ほど前―――――
私はふと、今月の生理がきてない事実に気がついた。
昔は過重労働のせいで生理不順になったこともあったけれども、ヒロムとつき合うようになってからは、周期が狂うこともなく順調にきていたのに。
まさかな、と思った。
やるときはいつもコンドームしている。一度だけ、なんだか盛り上がってしまって、つけ忘れて始めて、私が気がついて慌ててつけさせる、なんてことはあったけども。
………あのときか?
ヒヤリと背筋に悪寒がはしった。一気に何かがズンと肩にのってきた。
考え始めると、どんどん悪い方向に突っ走ってしまう。気になって仕方がない。
仕事を早めに切り上げると、私はあまり馴染みのない町の、きっと二度と来ないであろうドラッグストアに入り、妊娠検査薬を買った。
結果 ―――― います。
検査窓に青い線がくっきり浮かび上がるのを見て、私の頭は真っ白になった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう?
泣きそうだった。
泣いた。
馬鹿野郎と怒鳴った。自分にも、ヒロムにも。
脳味噌が沸騰したまま、ヒロムの携帯に電話した。でも出ない。当然だった。その時間、ヤツはドラマの収録中。
それでも夜中まで待ってたけど、とうとう着信音は鳴らないまま。
私は眠れなくて、睡眠薬を
産むとか産まないとかじゃなく、私には薬はもう服めなかった。
*****
次の日の朝になって、ようやくヒロムとは連絡がとれたのだけども、ヤツはウツ状態進行中で、いつものごとく、
「一人の時間が欲しい」
と、きたので、私はもうなんだか脱力してしまい、そのまま電話を切った。
念のため、産婦人科に行くことにした。
もしかしたら買った妊娠検査薬が不良品で、たまたま陽性になっただけかもしれない。そんな期待もあった。
しかし事実は厳然と存在していた。
エコー検査され、ばっちり子宮内のわが子を指差された。
「六週目ってとこかな? ホラ、これ心臓ね。動いてるでしょ?」
「………」
言われた私の顔は引き攣っていた。
「ウチでは不妊治療もやってるんだ。だから正直、堕胎は勧めない。よほどの事情があるなら仕方ないかもしれないけどね」
あまり嬉しそうでない私を見て事情を察したのか、先生は言った。
受付で母子手帳をもらうための手続きなんたらとか、ベテランらしいおばさんが話してくれていたが、私はただただ呆然としていた。よくわからない用紙をいっぱいもらって、私は病院を出た。
どうしたものか……。
五月晴れの青空を憂鬱な気分で眺める。私は歩き出したものの、おばさんに言われたように役所に向かうこともできなかった。今は頭を整理したい。トボトボと帰路につく。
途中、公園の前を通りかかって、私はフラフラと招かれるように中に入っていった。
中央広場の真ん中で、『王子』は私を待っていた。
『どーするよ、できちゃったよ』
私はどんよりした目で王子に相談する。
(私の心の中で)王子は首をかしげる。
『産みたくないの?』
『そーゆーんじゃなくてさ』
『じゃ、なんなの?』
『なんなのって……』
『当面の問題は産むか、産まないかじゃないの? 産まないなら、堕ろすしかない。早めにしないと、それもできなくなっちゃうんだよ』
『それは、そう。だけど』
『言っておくけど、行為の結果なんだからね。原因はキミらにあるの。赤ちゃんには、なんの罪もないんだよ』
ハァ…。辛辣だな、王子。
黙りこくる私に王子は畳み掛けてくる。
『キミはいったい何に悩んでるの?』
『…ヒロムに、どう言ったもんかと』
『正直に言うしかないんじゃないの?』
『面倒臭いって言うかもしれない』
『それなら、それでいいじゃない。彼がいなくても、キミは産めるんだよ』
『………』
王子の前から立ち去りながら、私は考えた。
―――― ヒロムに話して、責任とって結婚してもらう?
それはなんだか違う気がした。
だって私はヒロムにそんなこと望んでない。そんなふうに結婚したくない。
じゃあ、一人で産んで育てるか?
母子家庭か。助成金とか、あったっけ? 今は少子化傾向で、どこの自治体も子供の福祉にはけっこう力いれてるみたいだし。
家に戻ってから、私はインターネットでシングルマザーたちのコミュニティを覗いたり、自分の住んでる自治体のホームページを見たりして、少しずつ少しずつ、自分の気持ちを整理していった。
一週間後、私は産むと決めた。
*****
――――― で、それから五日ほど経って、現在。
「じゃ、いってらっしゃい」
カフェを出て、私がバイバイと手を振ると、ヒロムはなんだか泣きそうな顔になった。
「どしたの?」
「なんか、今日、ユーキチが冷たい」
「そんなことはないと思うけど」
「今日って仕事? 違うよね?」
「うーん、まぁ…」
「じゃあ、なんでバイバイなの?」
「うーん……準備とかあるかと思って」
「部屋、来ないの?」
「なんだ? また掃除させる気?」
「散らかってないから。いいから、きてよ」
正直、困った。
ヤツはヤル気だ。
そりゃ、わからんではない。ここのところご無沙汰だったわけだし。一人エッチだけでは報われないものもあるんだろう。
でも妊娠中にやっていいものなのか?
迷っているうちに、グイグイひっぱられて、車におしこめられて。
気がついたらヒロムのマンションの部屋にいた。
私、押しに弱いのか? ………弱いかも。
ヒロムは私の好きなヘーゼルナッツフレーバーのコーヒーを淹れてくれたけど、妊娠してからはコーヒー・紅茶の類は飲まないようにしていた。
落ち着かない気分でソファに座っていると、横にいたヒロムがグイと肩を掴んでくる。だんだんムードが高まってきそうで、私はヒロムをドンと押した。
「ごめん、今日……生理」
「………」
「やっぱ帰る。いろいろ、やらないといけないことがあるから」
鞄を持って出ようとしたら、後ろからヒロムが抱きついてきた。
「生理って、毎月五日頃って言ってたよ?」
「……ちょっと、遅れてるから」
「なんでそんな嘘つくの?」
「…………」
私は黙り込んでしまった。
どうしてこんな簡単な嘘がつけないんだろう。
「誰?」
ヒロムが剣呑とした声で訊いてくる。
「は? 誰って?」
「誰が待ってるの? 家で」
「違う。そういうんじゃなくて…」
私はどう言えばいいのか、わからなかった。とにかく今はしたくない。でも、理由を言えない。
言葉を継げずにまた沈黙してしまった私に、抱きしめるヒロムの力が強くなる。
「ちょっとっ、苦しっ! なにすんのっ」
「シタイ」
「ヤダってば!」
ものすごい力だ。ガリガリに痩せているのに、どこにこんな力があるんだろうか。腰に回された腕の力が強くなってきて、私はお腹の中の赤ちゃんが心配になった。
「やめてよっ!」
だんだん怖くなってきて、私は悲鳴を上げた。本気で泣き叫んだ。
さすがにヒロムはびっくりしたのか、瞬間、ふっと圧力がなくなった。
私は振り返ると、思い切りヒロムの急所を蹴り上げた。
悶絶した表情を浮かべて、ピョンピョン跳ね回るヒロムの尻をまた蹴飛ばして、部屋を出た。
涙がボロボロこぼれてくる。
勿体ないとは思ったけども、私はタクシーを拾って、アパートに戻った。
ヒロムはそのまま中国に旅立ち、私は見送らなかった。
二週間ほどした頃、絵葉書が届いた。
果てしない平原の夕焼け。
裏返すと、私の住所と名前の下に、一言だけあった。
『ごめん』
笑ってしまう。
あの不精で面倒臭がりな男が、旅先からこうして絵葉書一枚送ってくるなんて。
きっと何を書こうかとさんざ迷ったんだろう。六枚つづりの絵葉書の最後の一枚だったりして。
で、出てきたのが『ごめん』ってかい。
本当におバカで可愛いヤツ。
私はその絵葉書をコルクボードにピンで留めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます