ch.1
ヒロムとつき合い始めてから、そろそろ一年になる。
世の恋人同士の感覚からすると、さほど長いつき合いではないのかもしれない。でも、私は正直、ヒロム以外の男とは長続きした試しがなかった。
魔の三ヶ月目。
そう、呼んでいた。いつもその辺りで別れ話を切り出された。
他に好きな子ができた…なら、まだ仕方ないとあきらめもつく。
問題は「しんどいんだよ」と言われたとき。
最初の数回はわからなかったが、だんだんと自覚するようになった。
私は恋をすると、溺れてしまうのだ。
毎日、メールでも電話でもとにかく連絡をくれないと不安だった。
休みの日には必ず会いたかった。
そのうち彼氏の休みに合わせて、仕事をサボったりもした。
突発的な不安に襲われて―― たとえばいきなり彼氏が事故に遭うとか ―― 仕事中にも関わらず、しつこく電話をかけまくる…なんてこともあった。
最終的には嫌われて無視されるようになって、会社の前で待ち伏せしていると「ストーカーかよ」と軽蔑された。
友達でいるぶんにはいいのだ。あるいは上司として、同僚として、部下としてなら。
私はざっくりした、姐御肌の、竹を割ったような性格だと思われている。それは間違いじゃない。ただし、あくまでも仕事上、あくまでも友人関係において…だ。
恋愛関係にもつれこむと、どうにも自分が制御できなかった。
相談した友達には「恋愛下手」と、あっさり斬られた。
そうだ。私はきっと恋愛体質でない。
私は恋に負けるのだ。
結論は出た。
だから仕事上で知り合って、私に好意を寄せてくれた相手は黙殺した。
彼らは恋愛モードの私を知らない。
ざっくりしたセーターを着て、スキニージーンズを履いて、さっそうと歩く私が好きなのだ。テキパキと昼食の店を決め、弾けるような冗談を言って周囲を笑わせたり、唸らせたりする、才気あふれる私が好きなのだ。
ヒロムも、そうした男達の一人だった。
ヤツに出会ったのは、友達のやっている劇団の公演で、ちょっとした手伝いを頼まれ、そこに客演で来ていたのがヒロムだった。
私は知らなかったが、彼は最近、業界ではちょっと有名になりつつある舞台役者らしかった。時にはお笑い芸人めいたコントもするらしい。
紹介され、軽く挨拶はしたものの、痩せぎすな男は私のタイプでなかったので、すぐに記憶から消された。
私はあまり稽古に立ち会うことはなかったのだけれども、演出家である友人との打ち合わせなんかは頻繁にあって、その席に他のスタッフに混じって彼の姿を何度か見かけた。
少しずつ話すようになって、案外と家が近いことや、案外と昨今の流行りモノより昔のレトロなものが好きなこと、案外と映画の趣味が合ったりするなんてことがわかるようになってきた。
だからといってそれ以上の関係になるなんてことは、まったく考えもしてなかった。あくまで私にとっての彼は、友人の劇団にやってきた客演の役者という、初対面の挨拶からは何ら進歩のない印象でしかなかったのだから。
いきなりそーゆー関係になってしまったのは、初日を翌日に控えた、真夜中のこと。
その日、私は舞台の最終チェックやら、ギリギリになって発注していた材料が届かなかったりで、非常に忙しかった。ようやく一段落ついた頃には夜中の二時を回っていた。
――――― あちゃー、終電もないなー。タクシーかぁ…今月金欠なのになー。
なんて思いながら帰り支度をしていると、ふと後ろから声をかけられた。
「送ろうか?」
振り返ったらヤツがいた。
私は一瞬、混乱した。
役者の稽古はとうの昔に終わっている。
どうして、ここにヒロムがいる?
「え? え? どしたの? なんで?」
「帰るんでしょ?」
「え、まぁ。そうだけどさ」
「送ってく」
呆然としている間に、なぜだか手をひっぱられて、ついて歩いていた。
スタッフの何人かがニヤニヤ笑ってみていたようだけども、その時の私は頭の芯が疲れまくっていたのか、正常な思考回路が働かなかった。
ヒロムにとって思い入れのあるらしい、ボロい車に乗り込みつつ、チラリと私はヤツを盗み見た。
上下とも黒のジャージ。さすがにスーパーで安く売ってるようなものでなく、ブランドモノらしくはあったが、どう考えても部屋着だ。サンダル履きだし、髪も洗ってそのまま自然乾燥したみたいに、くしゃくしゃ。
ムサい。かなり。
一応、そこそこは芸能人であるはずなのに、なんだろうか、このオーラのなさは。
「ヒロムさん、あの……まさか、待ってた、とかじゃないよね?」
私が尋ねると、ヒロムはうん、と頷いて、車を発進させた。
「稽古終わって、後輩達と食べに行って、そのあと家でボーっとしてた」
「ではなぜに、今ここに?」
「そりゃ、ユーキチっつあんを迎えにきたからだよ」
ちなみに私の名前は
お陰で初対面ではたいてい驚かれる。そりゃそうだろう。むさ苦しいオッサンをイメージしてきたら、出てくるのは妙齢のやや彫りの深い美女なんだから。(自分で言ってやるのさ、フン)
「いやいやいやいや」
普通みたく言ってるが、別に迎えにきて送ってもらうような間柄ではないと思うぞ。
そりゃ最近は、家が近いからという理由で、打ち合わせ後に二回ほど送ってもらったことはあったが。
「ヒロムさん、意味が不明だよ。なに? 明日の初日前にちょっと舞台の感触でも確かめにきたとか?」
私が尋ねると、ヒロムはムッとした表情を浮かべた。
「バカにすんなよ。ゲネプロも終わってんのに、今更舞台の確認なんてしに行くかよ。明日の準備で忙しいってのに、俺なんかノコノコ行ったらかえって迷惑だろ」
「バカにはしてないけど……」
「ユーキチっつあんの家に行ったけど、全然応答がないから、もしやと思って行ったんだ」
「へ? なんか用だった?」
「…………」
別に私は天然ブリっ子していた訳じゃない。本当に、まったく、想像力が働かなかっただけなのだ。
ヒロムは渋い顔になり、私のアパートに行くならこの道で曲がるはず…のところを直進していってしまい、私はかなり慌てた。
「おいおいおいおいおーいっ。まさか酔っ払ってないだろうな、ヒロムさん。ここで降ろしておくれよーっ」
私はあえてトボけたような口調で言ったが、ヒロムの返事はない。
車は速度を増した。
さすがにヤバイと思った。何を怒られているのかさっぱり不明だったのだが、ヤツはかなりご立腹らしい。
細い、一重瞼の瞳は、ときおり犯罪者的な光を放つ。今回の舞台でもヒロムの役は、表は刑事、裏の顔は連続殺人鬼というものだった。
まさか実地で試して、舞台に生かそうとか………?
ありえない妄想が脳裏をかすめた。
車はちょっと洒落た低層マンションの地下駐車場に入っていき、80の数字がかかれた四角の中に停まった。
停まると同時にロックを外して出ようと思っていた私を、ヒロムは普段からは想像できないくらい、素早い動きで阻んだ。
「じょ…冗談」
私の声は震えていた。殺されると思った。
「冗談じゃないです」
ヒロムはグイと私をシートに押し付け、上から覆いかぶさってきた。細い目がうるうるしてみえる。
――――― あ、大丈夫だ。
私はその目を見た途端、ホッとした。ヒロムの目は殺人鬼のそれでなく、子供の瞳に近かった。
この状態になって、ようやっと自分の立場が理解できた。それでもまさかという思いがあったけども。
「あの、もしかしてキスしようとか、してない?」
私は囁くように訊いた。うん、とヒロムが頷いた。
「駄目、駄目、駄目っ。今日の夜食、キッチンまつばのスタミナ定食だったんだから。ニンニク臭いって!」
「大丈夫、オレ、ミント噛んでたから」
クスリと笑って、フォローになってないことを言う。ツッコむ間もなく、ヒロムが唇を合わせてきた。蠢く舌が私の唇を押し開けようとする。
「……っヒロ……」
抵抗しようと声をあげると、スルリと舌が割り込んできた。
信じられないくらい、濃厚なキス。
自分がこんな官能的な情景の中にいることが信じられなくて、でも蕩けそうで、でもって急激に眠くなってきて、私はだんだん力が抜けてきた。
とりあえず、車から出たことは覚えている。
そこから翌朝、ヒロムの横でほぼ半裸状態で目を覚ますまでのことは、ほとんど記憶にございません。
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