しあわせの王子~ほどよい恋愛のススメ~

水奈川葵

Prologue

『やれやれ困ったもんだ。素直じゃないんだから…』


 王子があきれるように言って、笑った。

 私はチラとだけ振り返って、肩をすくめる。


『そうだね、素直じゃないね』



*****



 近くの公園にある、小さな男の子の銅像を、私は『王子』と呼んでいた。

 本当は彫刻家がつけた名前があるんだろうけど、見た瞬間に小さい頃に何度も読んだおとぎ話の挿絵に出てくる王子様の姿が思い浮かんだ。


 その王子様はいってみれば私の初恋だった。


 本の背から中の頁が剥がれてしまうくらい何度も読み返して、とうとう四度目の引っ越しの時に失くなってしまった。どうやら荷詰めを頼んだ母によって捨てられてしまったらしい。

 もうその頃になると読み返すこともなかったから、私は勝手に娘の持ち物を捨てた母に憤慨しつつも、最終的にはあきらめた。


 彼にしたのは偶然だったのか、必然だったのか。


 その日。

 私は彼氏に振られて意気消沈し、帰り道をノロノロと歩いていた。

 いつもはスルーしている公園に入ろうと思ったのは、落ち込んだ気分をちょっとばかり変えたかったのかもしれない。


 どんぐりのいっぱい落ちている並木道を抜けると、石畳の敷き詰められた開けた空間に出た。楕円形のその広場の中央には、沈みゆく太陽の強い斜光を一身に浴びて、少年の銅像が立っていた。


 夕日に照らされたその銅像に近づいていって、私は思わず「王子じゃん」と声に出してしまった。犬の散歩をしていたおばちゃんに妙な顔をされたけど、私は気付かないフリをして、銅像に近寄った。


 見れば見るほど、その少年像はあの本の『王子』だった。

 私は初恋の相手に久しぶりに会えたような気がした。

 彼氏にフラれたことなど、すっかり頭から飛んでいってしまった。(今となれば、むしろ感謝したいくらいだ。)


 それからはときどき、『王子』に会いに行った。

 

 特に何するわけでもない。

 彼を見ながら、勝手に頭の中でおしゃべりするだけ。

 もし、この時の私の心を読んでしまう人がいたら、私をちょっと頭のおかしい女だと思ったかもしれない。


 でも私はそうやって重くなった心を自分で少しずつ癒やしていたのだ。

『王子』と会話しながら。



 懐かしい思い出が目の前にあったら、ちょっとばかり感傷に浸ってしまうのは仕方ないじゃない?

 それくらい許してよ。 

 人間誰だって、心が弱くなるときはあるもんなんだからさ。

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