第20話 向くべきは
『クラエ、ノマレロ、シネ、キエロ』
私がいるのは人の内側、精神の内海と呼ばれる深い場所。何かあるようで何もない、景色がはっきりとしない海のような空間だ。
そんな場所ではずっと怨嗟の声が常に耳に流れ込んできていた。これはおそらく深淵の力から流れ出ている声だ。気にしたところでどうしようもない。私はそれらを無視して歩いた。いや、精神の内海と呼ばれるだけあって感覚的には、泳いでいる、の方がしっくりくる。不思議な感覚だ。
「……あそこ、かな」
私は今深淵の力の全体像を把握しようとしていた。引っ張り出すという行為をする際に大きさが知りたい。ここでいう大きさとは端的にどこから始まってどこまで届いているのかというものだ。それが分かればおそらく深淵の力を兄さんから引き剥がせる。既に開始地点は見つけた。次は現時点での終着点を探しているわけだけど、ちょうどそれらしいところを発見できた。
「壁……。違う。膜?」
進んでいると変なものに当たった。進行を妨げるように存在している膜のようなものだ。少し考えてこれがなんなのかわかった。精神の抵抗力だ。
「通れそう」
壁と言えるほど硬くはない。私は先に進むために膜を無理やり通り抜けた。
「おっとと」
通り抜けた瞬間、今までの海の中で浮いているような感覚から解放されて、地面に足がついた。精神世界で足がつくなんておかしな話だけど、それ以外で表現のしようがない。
その変化と同時に景色が構成された。
「……心象風景」
現れたのは激しい雨の降っている森だ。
──ごめん、ね
「え?」
周囲を見渡していたところで、ここに来るまでに聞いていた怨嗟の声とは全く違う声が耳に入ってきた。気のせいか、そう思った瞬間、再び同じ言葉が聞こえた。
──ごめん、ね
気のせいじゃない。それからも何度も何度もその一言は繰り返され続けた。
「お母さん……?」
聞き覚えのある声だとは思っていた。けど、何度も聞くうちに確信に変わった。これはお母さんの声だ。しかも最後……あの日、お母さんが発した最後の言葉だ。
何故そんなものが継続的にこんな場所で流れてるのか。そんなのは疑問にすらならなかった。ここは膜が守っていたことから考えてここは精神の中枢だと思っていい。景色が変わったのがその証拠。ということはこの声も、この森の景色も、兄さんの精神の中枢に刻まれたもの、刻まれてしまったものだ。
一度落ち着くために深呼吸をして、私は歩き出す。
しばらく歩いて、外から伸びる黒いウネウネを発見した。明らかにこの風景に合っていないのでこれが深淵の力の終着点と考えてよさそうだ。
膜から思いの外離れたところにあった。予想以上に侵食が進んでいたみたいだ。でもこれで大きさは把握できた。あとはこれを兄さんから引き剥がすだけだ。
──ごめん、ね
声が大きくなっている気がした。
あまりいい気はしない。私もこの声は鮮明に覚えてる。
「…………」
引き剥がしはもう今からできる。今すぐやるべきなんだろう。けど、
「兄さん」
深淵の力が向かう先、そこには3つの姿があった。
血塗れで両腕のない女性と、それを倒れないように支える少年、そしてそのそばで泣いている少女。
あれが兄さんの精神の中核。あるいはそこに近しい場所。人の内側に入り込んだのなんて初めてなので、はっきりとはわからない。けどどちらにせよ触れる必要はない。あれは深淵の力に関係がない。
「…………」
私の足は動いていた。
やがて足は止まり、3人の前で止まった。
少年が顔を上げて私を見る。そして口を開いた。
「ごめん、て。言った」
そう、あの時、お母さんは謝った。死ぬ寸前で涙を流して謝った。私たちに謝罪をした。私たちは謝罪をされた。もっと他に言いたいことはあっただろう。でも最後にお母さんが選んで絞り出した言葉は謝罪だった。
「謝るべきなのは、俺なのに」
「どうして?」
「母さんは俺を庇って死んだ。俺のせいで、死んだ」
起きたことだけを見れば事実だ。お母さんは兄さんを庇って槍に穿たれた。
「目の前で死んだ。庇って死んだ。何もできなかった。助けられなかった。死ぬはずだったのは俺だ。ーーなのに、なのに謝られた。なんで謝った? 母さんが悪かったから? いやそんなわけない。母さんは何一つ悪いことをしていなかった。なのに、なのに、なのに!! なんで……?」
吐き出している。これが、兄さんの心の叫び。刻まれているもの。
「……こびりついてるんだ。この景色が。ずっと耳元で聞こえるんだ。あの言葉が」
私は膝を折って少年の目を見た。
「私もあの時のことは覚えてます。はっきりと」
無意味なことだ。ここは無意識の空間。そもそも目の前の少年は兄ではないし、何を言ったところで残るものはない。何にも影響しない。わかっている。わかっていて尚、私は言わなければならない。私も、明確に区切りをつける必要がある。
「けど、それでも、向くべきは前なんです」
死にたくなかったはずだ。あの涙がそれを物語っている。
まだ生きたかったはずだ。あの言葉がそれを証明している。
それでも、お母さんは望んでいない。断言できる。禁忌を犯してまで自分を生き返らせてほしいなんて思っていない。
「またここを出たら話しましょう。昔みたいに」
言いたいことは言った。これで区切りだ。早く戻ろう。
「──ありがとう」
背を向けて歩き出したところで、優しい声が聞こえた。
誰のものか、振り返ればわかるかもしれない。けど、振り返らなかった。
きっとそれは私を振り返らせるための言葉ではなかったから。
私は、前へと進んだ。
誰かが微笑んだ気がした。
******
「兄さん!」
何度目か呼び声でようやく瞼が開かれる。
「ルイ……?」
「そうです。よかった、目覚めてくれて」
肌の黒くなっていた部分は元に戻っていた。とりあえず問題はなさそうだ。
「どうなった? なんで生きてる?」
「私の精神干渉で深淵の力を兄さんから無理やり取り除きました」
「! それじゃルイが……」
「そこは大丈夫です。みなさんが協力してくれたのでなんとかなりました」
難しい話はわからないけど、結果的にドロシー先生とフィアさんの協力のおかげでなんとかなった。一応聞いたところによると、切り離した深淵の力をフィアさんの開いた亜空間に放り投げて隔離したらしい。
簡単に説明すると兄さんは体を起こして、部屋を見回した。
「……エイデン」
「あの時ギアス結ばなかった自分に感謝するんだな。俺がいなかったら死んでたぞ」
「……そうか。結局死ななかったのか」
兄さんは短く息を吐き出し視線を床に落とし、しばらくしてから横を見た。
「生き残って、結局生き返らせられなかった」
視線の先にはたまにビクッとするぐらいでほぼ動かなくなったお母さんの器がいた。
「ごめんな、ルイ。母さんに会わせられなかった」
「…………兄さん。お母さんの言葉、覚えてますか? あの日、お母さんにとって最後の日に言われた言葉です」
他にも人はいるけどもういい。ここで話をする。なんというか、ちょっとむかついた。
「覚えてるよ。ごめんね、母さんは涙を流してそう言ってた」
「ええ。そうですね。確かにそう言ってました。私も覚えてます。そして、兄さんがその言葉に縛られているのも私は精神世界に入ったので知ってます。けど、お母さんの言葉はそれだけでしたか? 死の寸前に口にしたのは謝罪でしたが、もっと別の言葉も言っていました。私は謝罪よりもそっちの方が記憶に残ってます」
「…………」
「あの女性を殺した後、私たちの姿を見ると笑って、よかったって言ったんですよ」
間も無く死ぬ、そんな時でも私たちの身の安全を確認できて笑っていた。
「お母さんは苦しかったはずです。後悔があったはずです。死にたくなかったはずです。でも、望んでいるのは生き返ることじゃない。そこじゃないんです」
「俺が……、俺が望んでる! 母さんがあそこで死ぬべきじゃ──」
「私たちが!! ……私たちが見るべきなのは後ろじゃなくて前なんですよ、兄さん。私は、あの最後に見せてくれた笑顔を裏切りたくありません」
「俺は……」
それでも、か。強情だ。言いたいことは言ったが、この調子だと納得してくれそうにない。このままだと兄さんはこれまでと同じように、ずっとあの声に苦しむことになるんだろうか。それは、嫌だな。過去に縛られて、苦しみ続ける兄さんなんて見たくない。
「──なぁ、寮長さんよ。俺はテメェらの過去の話なんて知らねぇし興味ねぇけど、ちょっと聞きたいことがある」
研究室を埋め尽くしていた沈黙を切り裂くように、副寮長さんが呆れた口調で話を切り出した。
「死んだ奴は帰ってこない。ガキでも知ってることだ。お前に言われせば可能なのかもしれねぇけど、今回は無理だった。でも今回は、だ。生きてるならまだ続きはできる。お前、まだその死んだ母親ってのを生き返らせるために研究してくつもりか?」
「……ああ。俺は母さんを生き返らせたい」
「あっそ。ならもう一つ追加で質問だ。お前の家族は、大切な人は全員死んだのか?」
「…………」
その問いを聞いて、兄さんは私を見た。そして、目が合った。何年振りだろう。そういえばお母さんが死んだ日から一回も目が合ったことがなかった気がする。
「別に死者を蘇らせようとするのが悪だなんて思わねぇけどな、お前にはまだ生きてる奴がいるんだ。目を向けるならそっちだろ」
副寮長の話を聞き終えて見た兄さんの顔は、目は、さっきまでのものと違うものになった。そんな気がした。
「……ちっ、柄にもねぇな。やめだ。帰る」
そう言って部屋を出ていく副寮長のの背中に、兄さんは「ありがとう」と感謝の言葉を投げかけた。返ってきたのは短く「くたばれ」だけだった。
「で、そろそろそれの処分の話をするぞ」
副寮長の姿が完全に消えた後、ティアさんが話を切り出した。
「それはもう黒化した生命体、アトルムだ。私たちが殺す。いいな?」
「いや、俺に殺させてくれ」
「あ?」
「俺が身勝手に母さんを呼び出した結果だ。ケジメをつけたい」
それが兄さんにとっての区切りなんだろう。私から止める理由はなかった。けど、それを許さず「却下だ」と言った人がいた。それは意外なことにドロシー先生だ。
「ケジメなら別の方法でつけろ」
「何故?」
「ケジメをつけるなんて理由で親を殺すことを納得できるか。あれが人間でなくとも、どれだけ醜くとも、お前たちの母親の魂が入ってるんだろ。なら親殺しはさせない」
「……わかりました」
ドロシー先生の言葉には重みと力があった。とても悪魔に怯えていた人と同一人物のようには見えなかった。
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