第七章 蒸し暑い日

その日も大変暑くて、蒸し暑いという表現がピッタリの日であった。何でこんなに暑いんだろうといつも思うけど、やがてそれで当たり前だと堂々と言える日が来てしまうかもしれない。いずれにしても、今年の夏は暑い暑いという声が多く聞かれる。

その日、杉ちゃんと聡美さんは、加藤くんと武井くんを連れて、製鉄所と訪れていた。二人は、それぞれの持場、つまり加藤くんは、水穂さんのもとで、ピアノレッスンを受け。武井くんは杉ちゃんのもとで和裁を習うという、本領発揮する場所へ直ぐ跳ねていった。この行為に、フックは良い顔をしなかったが、武井くんたちの楽しそうな顔を見て、あと施設長の北條多香子も喜んで居ることもあり、仕方なく一緒に付いていくだった。

「随分、うまくなりましたね。もしかしたら、本当にコンクールに出られるかもしれない。」

水穂さんがそういう通り、加藤くんのピアノは上達していた。

「ウン。僕のママも、毎日毎日、僕がピアノを弾いているのを見て、すごいって言ってくれるんです。ママはいつも仕事が忙しくて、僕のことなんか全然見てくれなかったのに。」

そういう加藤くんの言葉は、ある意味真実なのだろうと思われた。ピアノを弾くことで、加藤くんにお母さんが関心を向けてくれていたら、それはいいことだろう。それほど、加藤くんのお母さんは、加藤くんにむとんちゃくだった。

「そうなんですね。じゃあ、もう一回頭から。、アラベスク第一番を弾いてみてください。」

水穂さんに言われて、加藤くんはハイと言ってピアノを弾き始めた。

「ちゃんとできているじゃないですか。家でもよく練習されているんですね。」

フックが思わずそう口にするが、水穂さんは返事をしなかった。代わりに返ってきたものは咳。どうしたんですか?と声をかけても答えはなく、激しく咳き込んだ。しまいには加藤くんの演奏も止まってしまった。

「水穂さんどうしたんです?大丈夫ですか?」

フックは、水穂さんの背中を擦った。周りを見渡すと、いつも飲んでいる薬の水のみがあったので、中身を確認してみる。中身は茶色の液体であるのだが、その内容を見て更にびっくりする。

「これは漢方薬ですね。咳止めとか、抗菌薬とか、そういうものはないのですか?」

答えの代わりに、水穂さんの口元から、どっと赤い液体が漏れてきた。フックは思わず、この建物が明治時代の旅籠とか遊郭ではないかと思ってしまいそうになった。でも、目の前で起きているのだから、本当のことであることは疑いなかった。

「大丈夫ですか?もし可能であれば、吸引とか、止血剤の投与とか、そうしなければ行けないのでは?」

水穂さんは、咳き込みながらも、水のみに手を伸ばした。

「これ、漢方薬ですよね。こんなもので、解決できるとでもお思いなんですか?」

「いいから、薬とにかく飲んで、落ちついてもらおう。」

それと同時に車椅子の音がして、杉ちゃんの来たことがわかった。急いで、咳き込んでいる水穂さんに、水のみを渡して中身を飲ませた。しばらくは咳き込んでいたけれど、水穂さんは、次第に、咳き込むのも内容物を出すのも小さくなっていった。

「どうもすみません。ご迷惑をおかけして、、、。」

と、水穂さんは、最後まで言う前の布団に倒れ込んだ。多分、薬の成分に眠気を催す成分があったのだろう。まあ、いつものことであるが、相変わらず、畳は派手に汚れてしまい、また張替えをしなければならないことになりそうであった。

「あーあ、また派手にやったな。こりゃあ、畳の張替えを申し込むにも畳屋さんは良い商売になりそうだ。商売繁盛ってことかな。ははは。」

そう言って、杉ちゃんは、水穂さんに布団をかけて上げた。

「僕、昔の映画でこうなった人見たことある。」

と、加藤くんがつぶやく。まあ確かに、加藤くんのような、小学生には、こういう派手な病気の人なんて、映画とか、テレビドラマあたりでしか見たこと無いかもしれない。最近のTVアニメでは、こういうシーンは削除される事が多いので。

「よし、畳屋に張替えのお願いをしよう。」

と杉ちゃんは、急いでスマートフォンを取ろうとしたが、

「ちょっとまってください。」

フックは杉ちゃんに詰め寄った。

「大事なのは、お医者さんにつれていくことでしょう?漢方で何でもかいけつということはできませんよ。それに、どうしてこんなに重度になるまで放置したんですか!周りの人は、誰も助けようと思わなかったんですか!」

「放置したわけじゃない。助けないとかそういうわけじゃない。ただ、僕らは、出来ることを一生懸命やっている。彼には、どうにもならないんだよ。本人も周りの人も、他の奴らも。」

杉ちゃんは大真面目な顔をしていった。

「しかし、そう言っても人の命の話ですよ!もし、本人が医療を拒否したとしても、それなら周りの人が、医療に持っていけるように、促すのが仕事なのではありませんか?」

「ま、まあ、まあそうだけどねえ。お前さんの言うことも間違いではないんだけど、でもね、世の中にはそういう事が届くやつと、届かないやつと居るんだよな。それは、銘仙の着物が動かぬ証拠だよ。銘仙といえば、貧しい人が着ていた着物として有名じゃないか。それを着ているやつは、人種差別の象徴のような、そういう人なんだよ。お前さんは、腕がないのに、同和問題のことは知らないのかよ。」

「ええ、そうかも知れませんが、もう一度いいますけれども人の命の話です。どんな人間だって、医療を受ける権利というものはあるので無いでしょうか?服装が何であろうが、そんなことはどうでもいいんです。それよりも、人の命というのを、軽く見ているのは、あなた達ではないのですか?」

二人は、いつまで立っても平行線のような話をしていた。こういうときは、相田みつをさんの言う通り、どちらかが柔らかくならなければいけない。

「人の命かあ。人の命ねえ。お前さんだって、誰でも平等に患者さんに接することは出来るのかなあ?きっと銘仙の着物を着た患者が現れたら、今回はなんて間が悪いんだって、平気で言うんじゃないか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「いえ、僕も医療者の端くれですから、そういうことはわかりますけど、医療関係者は、目に前に居る患者さんを救うことに、ただ全力を尽くすだけのことですよ!」

フックは杉ちゃんに言い返した。

「そのためには、周りの人も協力することは、言うまでもありません。患者さんが、大事にならないためには、周りの人も、一緒になって、患者さんに協力することが必要です。そのためには、ときに無理やり医者に見せたりすることもあるでしょう。こんな重度になるまで放置して置くというのは、彼のことを、皆馬鹿にしているか、邪険に扱っている様にしか思えませんね。それくらい、ひどい状態です。いや、可哀想と言ったほうがいのかもしれません。」

「お前さんも正義感強すぎるよ。そういうやつは、返って大損することもあるよ。それは、わかっておかないとさ。人生生きていくには、仕方ないことだってあるんだ。諦めなきゃならないことだってある。水穂さんも、そういうことだ。もう、水穂さんが、良くなることは無いだろうし、有名な医者であるほど、水穂さんのことを馬鹿にして、門前払いにするのが落ちだ。事実、何人も医者が水穂さんを病院に連れて行って、治療を断って、門前払いになったことは何回もある。だからさ、そんな思いを、水穂さんにさせたくないわけ。どうだ、これでも邪険に扱っているように見える?」

杉ちゃんは、フックに言った。

「もう何回も言われたよ。江戸時代に帰れとか、明治くらいから、タイムスリップしたとか、もううるさいくらい言われちゃった。正直、そんな態度しか取れないのかって、僕は怒りたくなったことがある。だけどさ、それで自殺を手伝うわけにはいかないでしょう。だから、黙って畳を張り替えてあげることが一番の愛情だと思うわけ。お前さんも、はやくおとなになって、そういうことを覚えて上げてね。」

「しかし、医療従事者は、患者さんを放置して置くこともできないのもまた事実ですよ。こんな重症な人を、放置していたら、医者として、重大な職務怠業になりますよね。職務怠業は、人間として、してはいけないのでは?黙って畳を張り替えることだけが、本当に愛情になるのでしょうか?」

杉ちゃんは、そういう彼に、大きなため息を着いた。それと同時に、

「こんにちは。」

と玄関先から老人の声がした。

「あ、柳沢先生。」

と、杉ちゃんが言った。

「どうぞ、入れ。」

「はい、お邪魔しますよ。」

柳沢裕美先生は、四畳半にやってきた。

「せっかく来てくれたのに、申し訳ないよ。水穂さん、先程ピアノレッスンしてたら疲れちまったみたいで、発作を起こして眠っちゃったよ。」

と、杉ちゃんはからからと笑った。柳沢先生は、畳の上に吐いた血痕を確認して、

「ハイ、わかりました。ひどいものですね。最近は暑いせいなのか、とくにひどいですな。また同じ薬出しておきますから、皆さんは、できるだけ早く、気がついてやってください。」

と、柳沢先生は、重箱を開けて、また茶色い粉薬を差し出した。

「はい、わかりました。水で溶かして飲めばいいんですね。」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。それで大丈夫です。それより、こんな蒸し暑い日ですから、皆さんも体に堪えるでしょう。無理はしないでくださいね。」

と、柳沢先生はにこやかに言った。

「どうもありがとうございます。いやあ、ごめんねえ。こんな暑い日に、わざわざ来てくれるなんてさ。ありがとうね。」

と、杉ちゃんに言われて、柳沢先生は

「例には及びませんよ。」

とだけ言った。

「ちょっとまってください。皆さん、畳を張り替えることが、愛情だと言っていますけれど、皆さんはなにか勘違いしているのでは無いでしょうか。皆さんは、ちゃんと医療従事者をつけてあげている。しかしその内容が間違っているんです。なぜ、呼吸器科の専門医とか、そういう人を連れてこないんですか?もし、本人ができないのであれば、周りの人がしてあげるということも、しなければいけないと思いませんか?」

フックは、杉ちゃんと、柳沢先生に言った。

「そうだけど。」

杉ちゃんが言った。

「そうだけどね。お前さんは、もうちょっと同和問題とか人種差別のこととか、そういうことを、勉強したほうがいいよ。それでもう一回、医療ってものが貧しいものの味方じゃないってことは、ちゃんと確認したほうがいいぜ。だからこそ、医療漫画が流行るんだ。漫画なんて、ありえないことも平気で書くからさ、いくらでも、嘘がつけるさ。」

「今回は、杉ちゃんのほうに軍配ですな。僕もそうだと思いますよ。医療関係者は、誰のためにあるのか。ミャンマーにいたとき、よく、自問自答しましたよ。」

柳沢先生が耳の痛い話を始めた。

「若いときに、ミャンマーで医者をしていましたが、本当にひどい人ばかりでした。道端で倒れていたロヒンギャを病院に連れて行こうと思ったら、どこの病院でもロヒンギャはお断りと言って、診察してくれませんでした。また別のときは、水穂さんとよくにた症状を呈したロヒンギャをなんとかして、病院につれて行きたかったけど、そこに行くには何日も歩かなければならないこともありました。僕は病院に連れて行こうとしましたが、二週間山道を歩き続けて、結局彼はなくなってしまいました。その時は、彼の家族に、なんてひどいことをしたと散々叱られましてね。僕は、医療者として何も役に立たないということを実感しましたよ。こういう例は、ロヒンギャだけではありません。日本でも、水穂さんのような人がいますし、アメリカにいけば肌の色で差別されます。人間はどうしてもそうなってしまうようですな。だから、水穂さんに関しても、そうなってしまうんではないでしょうか?」

「ほら、先生が言うとおりだよ。全部の患者さんを医療関係者が治せるわけじゃないんだよ。医療関係者は、何でも治療費を払えるやつじゃないと動けないのさ。」

杉ちゃんは、腕組みをしていった。

「お前さんもそのうち分かるから。そうやって、医療者が何でもできるわけじゃないってことをな。」

「しかし、水穂さんだって救われなければならないのではないでしょうか。」

フックは改めてそう言うが、

「まあ、そういうことだ。無理なものは無理だから、諦めてくれ。」

杉ちゃんは、そういったのであった。

それから、また数日がたったときのことである。

北條家では、多香子と、美子が、おかしなことを話し合っていた。

「ネバーランドの取り壊しを考えているのだけど。」

美子は多香子に言った。

「取り壊し?ちょっと待ってよ。子供たちも居るの。急に取り壊しなんて言わないでよ!それに、あの施設は私の生きがいなのよ!」

多香子は急いでそう言い返すが、

「でも私が、北條家の頂点。あんたは従業員。」

美子は勝ち誇っていった。

「もう、少子化とかそういうことで、子供が少なくなってきているし、もう5人しか子供が通っていないんでしょ。だったら、他の学童保育に預けレれば?あの建物を取り壊して、私の歯医者をもっと大きくさせてよ。いつまでも診察室をくまさんの部屋と言って、子供だましのような歯医者、もうやりたくないから。」

ちなみに、北條歯科医院と児童クラブネバーランドは、同じ敷地内で隣同士の建物であった。北條家の家族、つまり、多香子と美子は、今現在所有している建物の、二階に住んでいる。その一階は、現在北條歯科医院になっている。そして、ネバーランドは、もとは、なくなった多香子と美子の両親が使っていた部屋を改造して作った施設だった。

「大丈夫、お姉ちゃんのことは、ちゃんと役立たさせてあげるから。お姉ちゃんは、歯科助手みたいな事やってればいいのよ。その仕事であれば、簡単な仕事だし、資格だってすぐに取れるわよ。あたしが、主治医として、いろんな患者さんを見るから、お姉ちゃんは、それで、患者さんと向き合えばいいわ。」

「ちょっとまって美子!あの子達はどうなるの?武井くんも、加藤くんもやっと自分の居場所を見つけてくれて、目標に向かって一生懸命やりはじめてくれたのに。そのような場所を、武井くんたちから取ってしまうなんて!」

そういう美子に多香子は急いで言った。

「いいじゃないの、それに、ここでは福祉は充実しているんだし、そういう子供を預かる場所なんて、いくらでもあるわよ。親御さんたちだって、こんな歯医者がやっている法人よりも、ちゃんとしたところがやっている、例えば市営とかそういうほうが、安心できると思うのよね。だから、児童クラブ潰してさ。それで新しく歯医者を作りましょうよ。お姉ちゃんのポジションだってちゃんと用意できるわよ。」

美子は、馬鹿笑いするように言った。

「そういうことじゃないわ。私のことよりも、武井くんや、加藤くんのことを考えてよ。あの子達は学校にもどこにも居場所がなかったの。」

「そんなことはさっきも聞いたわ。それより、私の言うことを聞けばいいのよ。」

多香子は、そんな馬鹿なという顔をする。

「お姉ちゃん、ちゃんと考えてね。お姉ちゃんは、人生失敗したの。だから、なくなった私たちの両親が、お姉ちゃんの居場所として、児童クラブをやるようにといったんでしょ。お姉ちゃんはうまくそれに乗った。でも、肝心な生活のすべてを担っていた私のことは、何も言われなかったわ。私に与えられたのは、歯科医の称号だけ。それに、お姉ちゃんは、一生懸命子供の面倒を見ているように見えるけど、それは私の恩恵でやっているだけのこと。それよりも、私が何も与えられないのはおかしいわ。だったら、これからは私の言うことを聞いてもらう。お姉ちゃん、そのとおりにしてちょうだいね。」

美子は、やっと自分の主張をするように言った。

「お姉ちゃんは、不幸な子供を幸福にさせて、嬉しいんだと思うけど、でもそのための資金や建物を作ったのは、私だってことは忘れないでね。そしてお姉ちゃんは、私のことを何も見ないで、出世できると思ったら、大間違いなのよ!」

「そんな、私は、武井くんや、加藤くんたちのために、今の施設は必要だと思うから、やってきたのに!」

多香子がそう言うと、

「その子達だって、どうせ大した才能があるわけでも無いし。傍から見たらただの発達障害を抱えた、周りに迷惑を掛ける、ただの問題児でしょ。そんな子が、何になるのかしら。そんな子達のために、なんで私達が、わざわざ施設を作って、面倒見てやってやらなくちゃいけないのかしら。よく、日本の福祉は、日本の全体で考えなければならないといいますけど、そんな事、果たして本当なのかしら。あたしは、そうは思わないなあ?」

と、美子は、大きなことを言った。

「そういう考えだからこそ、考えなければいけないんじゃないかしら?武井くんや、加藤くんのような子どもたちは、これからもずっとここで生きていかなければならないことも確かだし。彼らがここで生きていくためにはどうしたらいいか。まるであたしたちは、彼らと関わらないのが一番だみたいな顔してるけど、それが、必要というか、日頃から、加藤くんのような人になれておくことも必要なのでは?」

多香子は直ぐ妹に言い返した。確かにそういうことは、子供の道徳の授業でもよく取り上げられる問題だが、もし、それが本当に健康な子どもたちに届いていたら、もう少し世の中は優しくなれるかもしれない。武井くんや、加藤くんのような子供が、もう少し、楽しく生きていくために、なにか工夫をしなければいけないのだろうか。二人のことを、考えると、多香子は、辛かった。そういうふうに簡単に、壊されてしまうのも悔しかった。




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