第六章 慎重にやろう

その日は日本から遥か遠くらしいが、台風が通過しているということで、大変蒸し暑い日であった。なんだかちょっと動いただけでも汗が出て、大変だなと思われる日だった。

そんな暑い日でも、みんな生活のために動いているのであるが、まあ、それは誰でも同じだと思うけど、でも、人によって、それが嬉しいと感じる人と、苦しいと感じる人がいる。何故か同じ行為でも、人間は人によって、感じ方に落差があるようなのだ。それは、どうしてそうなってしまうのかは、誰にもわからないことなんだと思う。

「おはよう。」

今日も、北條美子が部屋から出てきて、食堂に行くと、すでに姉の北條多香子が、朝ごはんを作っていた。いつもなら朝食は、パンと牛乳で済ましていたが、今日は、目玉焼きにケールのサラダに、コーンスープ、更にはデザートで梨まで出て、何という豪華な朝食だと思った。

「これ皆お姉ちゃんが作ったの?」

美子が思わずそう言うと、

「そうよ。まあ、ありあわせで作っちゃったけど、それでもよかったらたべて。」

多香子は、ちょっと照れくさそうに言った。

「だけど、お姉ちゃんが、こんな一生懸命作ったのなんて、何年ぶりかしら。なにかきっかけでもあったの?」

美子は理由がわからなくて思わず多香子に聞いてしまった。

「ええ、ただ、子どもたちが元気にしてくれるように、料理を勉強したくなったの。あたしに出来ることといえば、それしか無いわけだしね。」

多香子は、そう答えた。確かに、姉多香子に出来ることといえば、家の掃除とか料理とか、そういうものしかなかった。家の家計的なものは、妹の美子が歯科医をしているから、十分に食べていける余裕があったのであるが、多香子は働くことができないので、家の掃除や料理などを任されていたのだ。それも体調が良くなければできない。良くなってもすぐにちょっとしたことで落ち込んでしまい、すぐにできなくなって長続きしないのが当たり前のような生活になっていた。別に多香子が料理を作れなくても、不自由はしなかった。近くにスーパーマーケットやコンビニもあるから、そこで出来合いを買ってくればいいだけのこと。それに、もっと栄養があるものを食べたくなったら、ご飯を食べなくてもカロリーメイトのような物がある。だからべつに手料理を味わなくても、問題はない。それに、この家の家族と言ったら、多香子と美子だけであるから、美子は食べ物のことで不自由したことはなかった。だから、今回も、多香子の手料理は長続きしないだろうなと思った。

「ねえ美子。」

と、美子がテーブルに座ると、多香子は言った。

「本当に色々不自由させてごめんね。私、どうかしてた。今度こそ、頑張って料理するから。子どもたちもやっと元気になってきてくれてるし、これから私も泣き言を言ってはいけないって、そう思い始めてきた。だから、これからは、ちょっとのことでも、くよくよしないで、ちゃんとやるわ。」

「そう。わかってるわよ。お姉ちゃんのその決断は、長く持って3日しか続かないってこと。」

美子は現実的な意見を言った。

「これからは、お姉ちゃんも頑張るから。ただの名前だけの経営者にはなりたくないのよ。これからは、お姉ちゃんも子どもたちと一緒に成長していくからね。」

そういう多香子に、

「そうね。ネバーランドなんて、お姉ちゃんらしいネーミングだわ。お姉ちゃんも、過去のことが解決しないで、いつまでも病んでいるもんね。」

と美子は言ってやった。

「そうかも知れないわね。お姉ちゃん、何やってもだめだったもんね。よく成績のことでよく叱られたもん。まあ、お姉ちゃんは頭が悪いから、しょうがないんだけど。美子みたいに、聡明でしっかりした子じゃなかったし。お姉ちゃんはいつまでも妹が優秀なのを羨ましく思って過ごしてたわ。」

多香子のこの話が始まると長い。確かに、姉多香子はそういう気持ちだったのだろう。それが偉く傷ついているということはわかる。でも、それをいつまでも引きずってはいけないと言われているのに、いつまでも同じところに居るというのも問題だと思う。

「辞めてよそういう事言うの。お姉ちゃんは、そうやって悲劇のヒロイン演じてるだけの時間と暇があるのかもしれないけど、あたしは、仕事が忙しくてとても過去のことを語る余裕なんか無いわよ。」

美子はそう言って、目の前にある目玉焼きにかぶりついた。姉多香子の作った目玉焼きは、しっかり焼かれていて、美味しかった。全くお姉ちゃんらしい話だわと美子は思った。なんでも学校の宿題と同じ様に完璧にやらなければと思っているのだろう。お姉ちゃんは、学校の宿題も、手を抜かないでちゃんとやっていたから。それの正解率はとても低かったけど。

「ごめんなさいね。私の悪い癖だわ。過去なんてもう終わった話なのにね。なんでいつまでもそのままで、居るんだろう。」

多香子が申し訳無さそうに言うと、

「もう謝んなくていいわ。それより、お姉ちゃんも、なにか仕事見つけたら?家政婦さんとかやるのもいいかもよ。まあ、そうなると、車が無いとどこへも行けないか。」

美子は多香子を少し馬鹿にするように言った。まあ確かに現実はそうだった。仕事をしたくても車の運転免許がない多香子は、どこにも行くことができなかった。電車やバスもあるのかもしれないが、それはこの地域では年寄りのものになっていて、多香子くらいの年代が乗ると変な目で見られることがある。なので、多香子はそれを嫌ってバスに乗ろうとはしなかった。

「ううん、そうかも知れないけど、今度は、お姉ちゃんも変わらなきゃいけないと思う。だって、子どもたちが変わり始めてきてるわ。あの、加藤くんがピアノを習い始めたのよ。あれほど大人を怖がっていた子が、そうなったのよ。だから、私もね、負けないで前向きにならなくちゃ。」

多香子は意外な答えを言った。

「はあ、そんなことが重大なことになるとは思わないけど?あたしからしてみれば、当たり前のことも当たり前にできない、ただの甘えっ子しか見えないな。」

美子がそう言うと、

「そうかしら。確かにそう見えるかもしれないけど、当たり前の事が当たり前にできないってことは、本人にしてみれば、ものすごい辛いことよ。それが出来るようになったら、あの子達はどんなに喜ぶか。それは、大人では感じられないわよ。」

と、多香子は答えた。

「そうなのね。じゃあ、せいぜい、それを楽しむといいわ。」

美子はそう言ったが、明るい顔をしていう姉に、何が起きたかはそれ以上聞かなかった。それに、聞きたくもなかった。

その日の午後、また児童クラブネバーランドが開所して、加藤くんたちが施設にやってきた。その日は、訪問は無いけれど施設長さんが来るということは、子どもたちも知っていた。多香子の体調次第になってしまうが、施設長は、時々訪問してくる時があった。実際にクラブで子供の相手をするのは、指導員の役目で施設長のすることではないが、それでも定期的に来なければならないときがある。

多香子が、ネバーランドの玄関から部屋に入ると、三人の女の子たちは、一生懸命学校の宿題をやっていた。一人の女の子が多香子に気が付き、

「あ、施設長さんだ。こんにちは。」

と、彼女に言った。他の二人の女の子も、彼女に気がついてそれぞれこんにちはと挨拶する。一方別のテーブルには、二人の一年生の男の子が座っていた。多香子はあれと思った。その二人が、椅子に座ってなにかやっていること自体、めったに見たことのない光景だった。

「どうしたのふたりとも。なにかおもしろいことでもあった?」

多香子が聞くと、二人の男の子は、それぞれの手を休めて、

「施設長さんこんにちは。」

と、にこやかに挨拶した。

「一体ふたりとも何をやっているの?」

多香子が驚いてそう言うと、

「はい。宿題ならすでに済ませました。先に宿題をやれと、施設長さんはいつも言っていましたよね。」

と、武井くんがにこやかに笑った。

「そういうことじゃなくて、武井くん、針なんか持って何をしているの?」

思わず多香子はそう聞いてしまう。

「はい。半幅帯を仕立ててみたいのですが、なかなか布が分厚くて針が通らなくて困ってしまいまして。」

大真面目な顔をしていう武井くんに、多香子はびっくりして、

「半幅帯?」

と言ってしまった。

「はい。帯を仕立ててるんです。いちばん簡単な半幅帯を仕立ててみたくなって。」

そういう武井くんは針が手に刺さることもなく、しっかりと半幅帯を縫っていた。

「ママが、半幅帯を欲しがってたので、作ってあげようって思ったんです。」

「ちょっと待ちなさい、武井くん。その帯の作り方は誰に教えてもらって覚えたの?」

多香子が聞くと、

「杉ちゃんです。もう運指も覚えました。僕は将来、振袖を作れるようになりたいです。」

武井くんは即答した。

「武井くん、、、。」

思わず多香子はそう言ってしまった。それと同時に、向かい側のせきにすわっていた、加藤くんが、

「できた!」

と言って鉛筆を置いた。多香子は思わず、

「加藤くん、何ができたのかな?」

と、聞いてみる。すると加藤くんは、五線紙を彼女に見せて、

「ピアノのための組曲です。」

と言った。多香子は加藤くんからそれを受け取って、内容を見てみたのであるが、たしかにピアノ組曲と描いてあって、十六部音符の連続のような音形がずっと続いている。キーは、ドファソにシャープが付いているので、多分イ長調が嬰ヘ短調であることはわかる。

「第一曲、イ長調が完成しました。次は、同主調でイ短調を書きたいです。なんか僕にとっては短調が自分の気持ちを表現するには向いているようです。」

そう説明する加藤くんに、

「そうか。でも、加藤くん、短調は人の気持を悲しくさせるかもしれないから、出来る限り長調を使って描いたほうがいいわよ。先生も、ピアノ習っていた時期があるからわかるんだけどね、短調は、ちょっと悲しい気持ちになるから。」

と、多香子は大人らしい説明を加えた。

「そうなんですか。でも表現するときは、短調のほうが書きやすいなと思うんですが?」

加藤くんはそういったのであるが、短調のすきな子供というのはちょっと変な子だと言われても仕方ないのだった。

「そうか、加藤くんも作曲ができるようになってよかったね。できれば、先生は加藤くんに長調で書いてもらいたいな。」

多香子がそう言うと、

「そうなんですよ先生。加藤くんときたら、短調の曲ばっかり歌ったりするから、あたしたちも暗くなっちゃいます。」

先程の女の子が、そうせつめいしたので、加藤くんの現状が少しわかってきた気がした。

「加藤くんは、いつも暗い曲ばっかり書くから、たまには、違うキーで書いてもらいたいです。」

「ほら、彼女もそう言ってるじゃないの、加藤くん。これからは長調の明るい曲を書こうね。」

そう言いながら、多香子は一年生の子供がなんで調性音楽の話ができるのが、不思議な気持ちを持った。なぜ、一年生のこどもが短調のことを知っているのだろうか。それに、なぜ、加藤くんが自分を表現する手段として、作曲を始めたのか。

「はい、わかりました。先生がそう言うならそうしますけど、、、。ちょっとやりにくいな。」

そういう加藤くんを見て、モーツァルトが子供の頃はこうだったのだろうかと多香子は思った。

「加藤くんそんな事言わないの。加藤くんにきかせてもらう曲は、いつも暗いから、あたしたち嫌な気持ちになるわ。」

と、別の女の子がそういった。

「加藤くん、作曲をするのはいいけど、誰かに教えてもらったの?」

多香子が聞くと、

「ええ、杉ちゃんのお友達の水穂さんです。」

加藤くんは即答した。

「その人が、曲の作り方とか、ピアノの弾き方とか教えてくれたの?」

「はい。僕も、ピアノを弾けるようになって嬉しいです。」

はあ、なるほど。子供の覚え方は大人とは違うというが、加藤くんたちはまたというか、全然違うんだなと言うことがわかった。多分、普通の人とは違うやり方で、和裁の運指や調性などを覚えてしまったのだろう。多香子は、二人がせっかく獲得した技術を、取り逃がしては行けないのではないかと思った。

「そうなんだね。二人は、すごいなあ。やっぱり覚え方が違うわよ。先生は、そういう事できないもの。ふたりとも、それを生かして、いきいきと暮らしていけるといいね。」

多香子は、加藤くんと、武井くんに向かってそういった。

「でも、水穂さんが学校では絶対見せちゃいけないって言ってました。だから僕達だけで楽しむようにって。」

加藤くんがそう言うと、

「そうねえ。でも、先生は是非、二人には、それを生かして生きてもらいたいなあ。そんな事ができるなんて、すごいことよ。誰かが真似しようにもできないことだもの。それは、あなた達の特権よ。」

多香子は大人として、そんな事を言ってしまったのである。

「あなた達、短期間でそんなふうに変われるなんて、すごいことよ。それくらい変われる能力があるってことだもの。ぜひ、頑張って、いいところまで行けるといいわね。」

武井くんと、加藤くんは顔を見合わせた。多分、彼らが抱えていた問題を解決させる大事なアイテムを手に入れたということになるのだろうが、まだ根本的な解決には至っていないのかなという印象だった。でも、二人はそうやって自分の抱えきれない感情を処理する手段を身に着けたことは、武井くんも加藤くんも大きな進歩を遂げているということだと思う。

ちょうどこのとき、隣の部屋にいた、富沢淳が戻ってきた。多香子は、彼にもいつもありがとうございますと丁寧に礼を言った。

「こうしてこの二人が、自分の居場所を見つけてくれただけでも私は嬉しいです。」

「いえ、僕はただ、ここにいるだけです。本当に技術的なことは、何も教えてはいないですよ。」

多香子がそう言うと、富沢は静かに言った。

「いいえ、この子達はちゃんと成長しているじゃないですか。居場所を見つけてくたのは、それは大きな第一歩になると思いますわ。」

「はい。でも、こういうところに閉じ込めて置くだけでは、何も意味がないことを、僕も教えてもらったんですよ。だから、これからは、それに基づいてなにかしてあげたいと思います。」

「そうねえ。やっぱり、狭い世界だけじゃ、子供は育たないわね。」

多香子は、富沢さんも、成長したんだなと思って、そういったのだった。それと同時に、この富沢さんという男性に、なにか別の勘定が湧いた気がした。それは何なのかよくわからないけれど。

一方その頃、北條歯科医院では。先日、乳歯を取らなければならないと言われた佐藤博くんが、再度来訪していた。

「それでは、お母様。歯を抜くことに同意していただけますか?」

美子がそう言うと、博くんの隣にいたお母さんは、また嫌そうな顔をした。

「でも、この子にとって歯を抜くことは、相当な痛手になると思いますが?せめて、歯を抜かないで別の治療を考えていただけないでしょうか?」

お母さんは、またそういうのである。

「そんな事は絶対にありません、先日もいいましたとおり、子供の虫歯というのは、痛みを感じ始めたら手遅れであることが多いんです。佐藤博くんもその一人です。だから、抜いてしまう例はいっぱいあります。それに、先日もいいましたが、虫歯をなんとかしないと顎骨も侵されるといいましたよね?」

美子は、直ぐ答えるが、

「でも、この子にとって歯がないという体験はさせたくありません。なんでそう年寄りみたいなことを、共用しなければならないんでしょう。乳歯であっても、歯を抜かないでなんとかすることはできないんですか。例えば、詰め物をするとか。」

とお母さんは言うのだった。

「そんな無茶をするのは辞めてください。子供さんだからといって、治療に手を抜くわけには行かないんです。」

美子はすぐにそういったのであるが、お母さんには通じないようである。何度言っても糠に釘の状態で、治療は今日も最後まで進まなかった。それでは、一番可哀想なのは誰なのかと美子はいいたかったが、それはお母さんには通じなかったようである。時々、子供への愛情は変なところに向いてしまうものがある。それが正常に働いてくれればいいのだが、たまに異常が現れてしまう子も居る。

とりあえず、その日は、博くん親子には帰ってもらったが、その説得をどうしたらいいか、美子は悩むところだった。そして、美子が今日も診察を終えて家に帰ってくると、

「おかえりなさい。」

と言って、多香子がなんだかうれしそうな顔をして、料理を作っていた。

「今日は、麻婆茄子よ。ナスが安売りしていたので、買ってきたのよ。」

そういう多香子に、

「ナスをどこで買ったの?」

と思わず美子は聞いてしまった。

「ええ、近所にスーパーマーケットができたでしょ?そこよ。」

そう答える多香子に、美子は驚いてしまう。スーパーマーケットは確かにある。だけど、そこは車でいけばほんの数分なのだが、歩いていけば、20分くらい歩くことになる。

「それでは、お姉ちゃん、買ってきたの?そこへ行って。」

美子がそうきくと、

「ええ。なんか私も前向きにならなくちゃだめかなと思って。今日の子供達見たら、そんな気がしちゃった。」

多香子は嬉しそうに答えた。彼女にしてみればなにか話したいという感じだった。

「今日ね、問題が多いと言われている男の子たちが、一生懸命縫い物をやったり、曲を作ったりして、自分の居場所を見つけてくれたのよ。それで私は、とても嬉しかった。あの子達が成長してくれたんだなって。」

それで、多香子もなにかしたいと思ったのか。美子は、それがなんとなく嫌だと言うか憎らしかった。

「そうなのね。でもどっちも実生活では何も役に立たないことじゃないの。縫い物は女の子がすることだし、曲を作っても何もならないわ。」

意地悪な口調でそう言ってみた。いつもの多香子なら、そこで怯んでしまうはずだったが、今日はそうではなかった。多香子は、にこやかに笑って、

「そうかしら?」

と言ったのだった。


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