第五章 アラベスク第一番

その日も暑い日だったが、少し暑さは和らいだようだ。日向へ出ればまだ暑いけれど、日陰に入るとちょっと涼しいなと言う感じがするようになった。それに空には、うろこ雲が出てきて、もう確実に夏は終わっているという気がした。そうなると、新しく秋が到来するという事になって行くのだろう。

その日も、杉ちゃんと、聡美さんは、いつもどおり、加藤誠くんと、武井宗男くんを連れて、製鉄所を訪れていた。水穂さんが、また加藤くんのレッスンを行っていた。

「それでは、アラベスク第一番、出来るところまででいいから、やってみてください。」

水穂さんが優しくそう言うと、

「わかりました。一応最後まで見てきたんですが。」

と、加藤くんはピアノの前にちょこんと座って、水穂さんが課した課題曲、ドビュッシーのアラベスク第一番を弾き始めた。確かにまだ一年生なので、ペダルに足が届かないが、とても指運びもよく、上手な演奏である。思わず、縁側で武井くんと一緒に縫い物をしていた杉ちゃんが、

「はあ、上手な演奏だなあ。」

と思わずでかい声で言ってしまうほどである。武井くんまで、縫い物の手を止めて、

「加藤くん、ピアノがとっても、上手になったね。」

なんて言ってしまうくらいだ。

「確かに、きれいな演奏ですし、三連付もちゃんと運んでいます。あとは、強弱を気をつけましょう。ゴツゴツと弾くのではなく、なめらかに弾くようにしてください。」

と、水穂さんが指導者らしく言った。

「この、ミファドミシドソシファというフレーズは、一つ一つしっかり弾くのではなくて、一つのフレーズが、まとまって流れているように、弾いてみてください。こういうふうにです。」

水穂さんが、手本を見せると、加藤くんもマネをした。武井くんも加藤くんも、マネをするというのが得意であるようだ。

「じゃあ、一緒にやってみましょうね。行きますよ。」

加藤くんは、一緒にミファドミシドソシファと最初のフレーズを弾き始めた。水穂さんのあとを追いかけていく加藤くんは、すぐにアラベスク第一番を弾けるようになってしまった。ドビュッシーを小さな子どもが弾くというのは、非常に難しいところがあるのだが、加藤くんは、直ぐに弾けるようになってしまった。ある意味それは、一種の超能力に近いような気がした。

「きっとこれでペダルの踏み方を覚えたら、もっとすごい演奏になるぞ。」

と、杉ちゃんが呟いたくらいだ。

「じゃあ、もう一回頭から、イ長調に変わる前まで、やってみてください。」

水穂さんがそう言うと、ハイと加藤くんは言って、アラベスク第一番を弾き始めた。水穂さんに言われた通りのことを、一生懸命やっていた。

「はい、上手になりましたね。じゃあ、イ長調のところをやってみましょうね。ここは今までの流れるようなところから抜けて、ちょっと状況が変わります。その違いは、キーが違うことで、示されています。お話の場面で言うんだったら、今までの優しい気持ちを、少し気分を変えた感じです。じゃあ、そのへんを考えてやってみてください。」

加藤くんは、ハイと言って、イ長調の部分を弾いた。そういう事が果たして、子供に伝わるかどうか不詳であるが、加藤くんはとても上手にそれをこなした。

「はい。雰囲気の違いはよく出ています。でも強いところだからと言って、乱暴に弾くのはやめて、あくまでも、優しい気持ちだと思って弾くのは全曲通して変えないでね。」

水穂さんがそう言うと加藤くんは、ハイと言って、もう一度イ長調の部分を弾いた。

「そして、三連付の連続の部分には、前と変わらず、優しい気持ちで弾くのを忘れないでください。この曲は、優しい風が吹いてくるような、そういう優しい気持ちで弾いてくださいね。」

「わかりました!」

加藤くんは真剣な顔をして、アラベスク第一番を弾いた。

「それにしても上手だなあ。ちゃんと場面の展開もわかりやすく弾けてるじゃないか。単に弾いてるだけとか、ゴツゴツ弾くような事がまったくない。こりゃ、大人にもなかなかできないことだぞ。うん、すごく上手だ。人前で弾いてもおかしくない演奏だ。」

加藤くんが弾き終わると、杉ちゃんが拍手した。

「杉ちゃんありがとう。」

照れくさそうに笑う加藤くんは、やはりそういうところは子供だった。

「ええ、良くできてます。あとは、もう少し速く、指定テンポで弾けるように頑張りましょう。」

水穂さんが優しくそう言うと、

「はい!ありがとうございます。先生。」

と、加藤くんは言った。

「そこいらにいるピアニストも顔負けだなあ。こりゃ、大物になりそうだ。なんか、人前で弾かないともったいないことだぞ。なにか無いの?発表会とか、そういうものは。」

杉ちゃんが、すぐに加藤くんの話に割って入る。杉ちゃんには、そうやって人の話の腰を折る悪癖があった。

「いや、何も無いです。」

加藤くんがそう言うと、

「そうか。じゃあ、いっその事、コンクールか何か出ちゃったらどう?なんか、人前で弾かないと、演奏がもったいないよ。それくらいこいつは、弾ける男だ。コンクールは、星の数ほどあるんだし、それに出たら、きっとこいつも、自信がつくと思うんだよ。」

と、杉ちゃんが言った。

「そうですねえ。人前で演奏して、自信がつけることも確かにあるんですが、でも大人のプロパガンダにされてしまうのがちょっとかわいそうな事にありますね。」

水穂さんが心配そうにそう言うと、

「そんな事あるわけ無いだろう。プロパガンダなんて、彼のことを悪用するやつは誰もいないさ。僕はね、ただ、この少年が音楽の才能があるから、人前で弾いて、自信を付けてくれたら、少し、変わるんじゃないかって思っただけだよ。別に、ショパコンみたいなそんな大掛かりなのじゃないんだよ。子供のための運試しのコンクールというべきじゃないのかな。それにでて、自信をつければいいんだよ。それでいいじゃないかよ。それで。」

杉ちゃんが急いで言った。

「ちょっとまってください!先程から、非現実なことばかり話して、何を言っているかと思いきや、コンクールという、砂上の楼閣のような場所に出させるんですか?そんな事、決してできませんよ。」

いきなり四畳半のふすまが開いて、富沢淳こと、フックがやってきた。杉ちゃんは、すぐ表情を変えて、

「あ、出たなおじゃま虫!」

と、どこかのTVアニメに登場しているようなセリフを口にしてしまった。

「おじゃま虫じゃありませんよ。僕は必要なことを言っているんです。自信がつくなんて、ほんの一部の子供だけしか体験できませんし、大概の子は、落ちて悔しい思いをされるだけです。そうなったら、何時間も拘束された時間が全部無駄になることになります。そのような体験を、彼にさせたくありません。」

「そんな事言うんだったら、甲子園で負けた高校生はどうなるの?一瞬で負けちまうこともあるだろう。それでも、高校生は、嫌な思いをするやつはいるのかな?甲子園に出られて嬉しいと言うはずだ。それと同じだよ。勝とうが負けようがそれはどうでもいいんだ。それよりも、コンクールに出て、自分は演奏ができたんだって、言う気持ちになれて、嬉しいはずだぜ。戦争は勝っても負けても高くつく。それは、どっちも同じ事!」

杉ちゃんは直ぐ言い返したのであるが、フックも負けてはいなかった。

「そうですが、僕は、水穂さんの意見と同じです。というか、大人がしてはいけないと思います。コンクールに出て、嬉しいと思うのは、本人ではなく、本人にまつわる大人の方で、当たって砕けろと言っておきながら、当たりも砕けもしない、大人たちなんです。それを、子供さん、それも、障害があって、不自由なところがある子供さんに体験させるのはいかがなものでしょうか?本当にコンクールに出て、喜ぶのは誰なのか、ちゃんと考えて見てくれませんか?」

「まあ、そうかも知れないけどさ。でも、子供さんには、子供さんしかできないこともあるよ。野球少年だって、周りの大人のことを考えずやっているじゃないか。その野球少年が、大人に一喜一憂されていると思う?それと同じだよ。不自由なところなんて、あろうがなかろうが関係ないの。お前さんは、車椅子の野球チームがあることも、知らないだろう?今は、歩けない子も野球ができる時代だよ。子供は、すごい勢いで、野球をしたり、ピアノを弾いたり出来るかもしれないんだ。僕はね、子供時代は夢を持ってたほうが楽しいと思うんだよ。ただでさえ、児童クラブに預けられて、自分の存在意義が希薄な奴らがだぞ、夢を持ったって、いいと思うけどねえ。」

「いいえそれは間違っています!あなたの言うことは、根本的な間違いだ!不幸な子どもたちに必要なものは夢ではなくて自立です!僕達は、児童クラブに預けられることは、それを学ぶための第一歩なのだと教えているからやってこれたんです!」

杉ちゃんがそう言うと、フックはそれを打ち消す様に言った。

「お前さんさ、くれぐれも公私混同はだめだよ。僕もそうなるかもしれないけど、お前さんだって左手が無いわけだから、色々つらい思いをしてると思うけど、でもね、それをさせたくないために、子供を冒険から遠ざけてしまうのは、愛情と言えるかなあ?僕は違うと思うよ。」

杉ちゃんがそういったため、フックも黙ってしまった。

「はは、図星か。まあ人間出来ることは事実は事実であるだけで、それをどうするのか、を考えるだけしか能力は無いってことは、確かなんだけどね。」

杉ちゃんだけ一人カラカラと笑った。

「そうですね。富沢さんの言うこともわからないわけでは無いですけど、でも、夢みずにいられないというのが人間だと思います。夢を持つのは子供だけではありません。誰だってこうだったらいいのになと思うことはありますよ。きっと、コンクールに出て、また別の学べるところがあるのではないですか?それはきっと、彼の人生に、無駄なことにはならないと思いますよ。」

水穂さんが優しく言った。

「そうそう。人生は、無駄なことは無いよ。ときに大きな絶望に遭遇するかもしれないけれど、でも、それだって、見方を変えれば、すごいことになることだってあるんだからよ。だから、出してみようよ。コンクールにさ。結果はどうだっていいじゃないか。甲子園で負けた高校生だって、堂々と帰ってくるんだ。それと一緒だと思ってさ。やってみようや。」

杉ちゃんは、にこやかに笑った。

「僕、やってみる。」

と、小さい声で加藤くんが言った。

「きっと、何も無いと思うけど、でも、頑張ってみる。」

加藤くんは、にこやかに笑った。

「よし。それなら、決定だ。水穂さんも体調崩したりしないで、加藤くんの指導をしっかりしてあげてねえ。」

と、杉ちゃんが言ったので、加藤くんはコンクールに出ることになった。

その間に。

歯科医の北條美子は、嫌な顔をして、自宅に戻ってきた。この頃、患者の数が減ってきてしまったようであったのだ。近くに腕のいい歯医者ができたということは、歯科医にはよくあることであるが、美子が嫌がっているのは、それだけでは無いような気がする。

美子が、自宅に帰ってくると、先に姉の北條多香子が帰ってきていてちょっと驚く。

「何だ。お姉さん、帰ってたの。」

美子が、ボソリというと、

「ええ。今日は、子どもたちも、早く帰ってくれたから、早めに帰ってきたの。」

と、多香子は答えた。それがとても楽しそうだったので、美子は、ちょっとむかっと来た。

「子どもたち?確かお姉さんの託児所、5人の子供がいたんだったわよね。」

美子はわざとらしく聞いた。

「託児所じゃなくて、放課後児童クラブと言ってちょうだい。それに、いくら問題のある子だって、ちゃんとやってるわ。きちんと、学校の宿題はやるし、最近、好きなものを見つけてくれたみたいなの。それをいい方向に持っていけば、あの子達も、学校に適応できるようになると思う。」

多香子に至っても、最近嬉しそうな顔をしているのは、子どもたちに変化があったからで、多香子も誰かに変化を話したい気持ちだったのだ。

「そうなのね。お姉さんの託児所へ来ている子は、みんな学校で適応できない、問題児ばかりだって聞いてたから、ちょっと変化が起きただけでは、何も変わらないんじゃないかしら?」

美子は、ちょっと意地悪そうに言った。

「ええでも、小さな変化から大きな変化に向かうこともあるって偉い先生が言ってたわ。それを大事にして、その変化をいい方向に持っていきたいと思う。あの、問題ばかり起こしていた、加藤くんがピアノのコンクールに出場することになったのよ。それに、人の言うことを聞かないで、何でも、嫌だ嫌だといっていた武井くんが、和裁に興味を持ち始めてるの。二人は、確実に、変わり始めて居るわ。人を動かすのは本当に難しいと思っていたのに。」

「はあ、あの二人が、そんなふうになったなんて、、、。子供って変わるものね。それに武井くんという子が、意外なものに興味を持ち始めたのも、気になるわ。あの子は、何をやらせてもだめだと思ってたのに。それに裁縫なんて女の仕事として、押し付けられていただけなのにね。全く、そんなものに興味持つなんて、武井くんという子も変な子ね。」

美子は、驚くより怒ってしまった。

「変な子というか、普通の子より、ちょっと興味の対象が変わっているだけなのかもしれないわよ。少なくともあたしは、そうおもってるわ。武井くんがもし発達障害とか、そういうものを持っていたとしても、ただ、興味の対象が、違うだけのことだって。」

嬉しそうに言う、多香子そのものも、また変なところで喜んでいると思った。

「姉さんも変わったよね。」

美子は嫌味を言うように言った。

「そんなにあの子達が好きなら、もういっそ、自分の子にでもしちゃったらいいと思うけど。あれほど悩んでいた、お姉さんが、そんなふうに明るい顔してるなんて、見たことなかった。」

確かに多香子は子供の時から暗かった。周りの人は彼女をお前は根暗だといった。そういうところから、美子は多香子より自分が優れていると思うようになった。

「あたしは、子どもたちが明るくなってくれて嬉しいと思ってるわ。さて、あたしは、明日読み聞かせする絵本の準備しなくちゃ。」

「へえ、赤ん坊に毛の生えた子供にそういう事させるのね。」

負け惜しみを忘れず、美子は言った。

「お姉さんの施設は、変なところだとこれ以上言われないようにね。」

多香子の答えはなかった。

次の日。美子の歯科医院は、だいぶ人が減っていた。でも、近隣にオープンした歯医者の評判が良くなかったら、またここへ戻ってくることもあるだろう。美子はそう考えていた。これまでもそうだった。歯医者という職業はライバルが多い。病院だと、内科とか外科とか細かく分かれるから、ライバルができにくいのであるが、歯医者というとどこか特徴的なことがなければ、やっていけない事が多い。ただ、虫歯というのが誰でもかかるごく普通の病気であって、本当に誰でもかかるということが、唯一の救いだった。

「佐藤さん。そちらのくまさんの部屋にお入りください。」

美子がそう呼ぶと、佐藤さんという小学校低学年の少年は、はいわかりましたと言って、診察室にやってきた。

「今日はどうされましたか?歯が痛いのですか?」

まず美子は、そう言ってみる。

「はい。最近冷たいものがしみるようになってきましたので、もしかしたら虫歯なのかなと思いまして。」

という佐藤さんに、美子は、

「じゃあ、ちょっと見てみましょうか。」

と、佐藤さんの口の中へミラーを入れて、歯の様子を観察した。

「ああ、奥歯に虫歯がありますね。ちょっとひどいかな。子供の歯は虫歯になってもあまり痛まないから、発見が遅れてしまうんです。佐藤さん、一人で歯医者に来られたのはいいけれど、ちょっと、ひどいから、抜かなければならないかもしれないわね。そのあたりお母さんと話し合いたいのだけど、お母さんには連絡が取れる?」

佐藤さんは、そうですねと少し考えるように言った。

「ママは仕事に行っていて、夜すぎないと、帰ってこないです。」

「そうなの。じゃあ、ママに相談して、虫歯の治療をしたいんだけどって、ちゃんと話してみて。子供さんの虫歯は、進行が早いのよ。だから、すぐ考えないといけないのよ。いずれ大人の歯が生えてくるけど、それが、変なふうに生えてきてしまう可能性もあるから。これは本当のことよ。すぐに相談してね。」

美子はできるだけ優しく言った。

「一人できてくれたことは、偉かった。だから、ちゃんと、ママに相談してね。」

佐藤さんは子供らしくハイと言った。

その日は、佐藤さんを診察室から出して、彼の治療は終了したのであるが、その翌日。一人の水商売風の女性が、北條歯科にやってきたから、美子はびっくりする。

「すみません。あの佐藤博の母親ですけど。北條美子先生を出してください。」

「はい。北條美子は私ですけど、どうしたんでしょうか?」

美子が、待合室へ出ると、お母さんはすぐに美子につんのめるように言った。

「あの、うちの博に、歯を抜くと言って脅かしたそうですね。なにか他に治療は無いのでしょうか?抜かなければならないほどうちの子はひどかったんでしょうか?」

「ええ、そうです。」

美子は事実を述べた。

「お母さんもご存知ないかもしれませんが、乳歯の虫歯は、広がり方が早くて、なおかつ、痛みが少ないので、発見されたときはもう手遅れというケースは珍しくないんです。博くんもそうでした。これ以上放置したら、顎骨も侵されます。そうなる前に歯を抜くしか無いんです。」

「先生、それ以外に、なにか治療法のようなものはなかったんでしょうか?歯を抜くとなると、博も怖がると思いますから、そういうことはさせたくないんですよ。」

お母さんは、そんな事を言い始めた。親というのは不思議なもので、子供には危険な目にあわせたくないという気持ちが湧いてしまうものらしい。「いいえ、それはありません。とにかく博くんの虫歯はひどいもので、歯を抜くしか治療ができないのはたしかです。」

美子がそう言うと佐藤さんのお母さんは、

「そうですか。それなら、いいわ。歯医者は他にもありますから。こんなひどいこという先生に、博を預けられないわ。」

と言って、待合室を出ていった。

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