第二章 最悪
聡美さんが強制的にインプラントを押し付けられた翌日のこと。製鉄所の玄関前に女性がひとり立っていた。ちょっとあのときの歯医者によくにているところがあるが、それにしては、自信がなさそうな悲しい感じの女性だった。その女性に、ごみ捨てから戻ってきた杉ちゃんが、
「お前さん誰だ。ここで何をしている?」
と、彼女に声をかけると、彼女はすぐに、
「ああごめんなさい、勝手にはいってはいけないですよね。あの、失礼ですがこちらに植松聡美さんという女性はいますか?ご家族に聞いてみましたが、こちらへ行っていると言われたものですから、こさせてもらいました。」
と、杉ちゃんに言った。
「植松聡美?彼女なら確かにここにいるけど、お前さんは何者だ?」
杉ちゃんがそうきくと、
「私は、昨日植松聡美さんが来訪した、北條歯科医院のものです。あの、これを聡美さんにお渡ししたくて。」
と、女性は、折りたたみ傘を一つ、杉ちゃんに差し出した。そこにはちゃんと植松聡美と書いてあった。
「こんな大事なものを忘れていくのでは、やっぱり、不便ではないかと思いまして。」
「ああそうか。昨日は確かに雨が降りそうだったけど、結局降らなかったからな。忘れても仕方ない。じゃあ聡美さんに渡しておくから、お前さんの名前を教えてくれるか?」
杉ちゃんがそう言うと、
「あの、できれば直接植松聡美さんにあって、話をさせていただけないでしょうか?」
と女性がそんなことを言うので、杉ちゃんはびっくりする。
「そんな直接会うなんて、お前さん誰だよ?」
「ごめんなさい。最初に名前を言うべきでしたよね。私は、昨日植松聡美さんを診察した、歯科医師の北條美子の姉で、北條多香子と申します。」
と、その女性は言った。
「北條多香子さん。あの聡美さんの話で、おかしな歯医者だったことは聞いたけど、随分聡美さんにひどいこと言ったそうじゃないか。あれから、ずっと泣いてたぞ、彼女。」
杉ちゃんは笑うように言った。
「ええ、そうなんです。妹はそういうひどいことを、平気で言ってしまうことはよく知っています。それで私が、代わりに植松聡美さんに謝りたいわけでして。」
「ははあ、なるほどね。じゃあ、そういうことなら。ちゃんと聡美さんに謝ってもらうぜ。いいよ。入れ。」
杉ちゃんに言われて多香子さんは、ありがとうございますと言って、製鉄所の中へ入った。そして杉ちゃんに言われる通り、中庭で草むしりをしていた、聡美さんに会った。
「本当にすみませんでした。妹が本当にひどいことを言ってしまいまして。決して悪い人ではないんですけど、本当にひどいことを言ってすみません。」
植松聡美さんは、こんなに丁寧に謝られたのは初めてのようで、びっくりしているようだった。
「い、い、いえ。そんな、そんな、私は、そんなふうに謝られても。」
「本当にごめんなさい。この傘、お忘れになっていましたから、それも届けに来ました。」
多香子さんはそう言って、聡美さんに傘を渡した。
「いえ、こんなボロ傘、捨てても良かったのに!」
と聡美さんがそう言うと、
「いえ、ものは大事にしなければいけませんよ。そんなことくらい、なんて言わないでください。あたしは、この傘だって大事にしなければいけないと思ってます。それは、どんな時代でもそうだと思います。」
と、多香子さんは答えた。
「はあなるほどねえ。それは確かにそうだよな。ものは大事にしなければならない。それは偉いと思うぞ。」
と、杉ちゃんが言った。
「あ、ありがとうございます。でも、それは大事なことです。だから褒められることではありません。」
「いやあ、今は何でも簡単に手放してしまえるし、そういう、ものを大事にする姿勢はもっと評価されてもいいと思うよ。」
杉ちゃんに言われて、北條多香子さんは、嬉しそうに笑った。
「何だ、笑顔の無いやつだと思ってたから、笑ってくれてよかった。笑ってくれると、こっちも楽になる。なんでも女は顔だと言うけどさ、笑顔でなくちゃ可愛くないよ。」
杉ちゃんがそう言うと多香子さんは、
「ありがとうございます。」
とまた笑ってくれた。
「ああ良かった。お前さんが笑顔になってくれて良かったよ。すごい緊張していたみたいだったから、話しかけるにも困っちゃった。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「こちらこそ、本当にありがとうございます。わざわざ傘を持ってきてくださってありがとうございました。」
と聡美さんもにこやかに笑った。
「お前さんも、妹さんと同じ、歯医者なの?」
杉ちゃんがそうきくと、多香子さんは、
「いえそれは違うんです。」
と小さな声で答えた。
「妹は、歯医者になりましたけど、私は、高校で体調を崩してしまって大学もいけないくて、今は親戚が経営している、児童クラブで働かせてもらっています。」
「はあ、なるほどね。つまるところの、学童保育か。そういう事務所は星の数ほどあるが、一体何ていう児童クラブかな?」
多香子さんの話に杉ちゃんは直ぐ言った。
「ええ、あまり名前は知られていませんが、ネバーランドというところですが、ご存知でしょうか?」
「ネバーランド。」
杉ちゃんはすぐにそれを繰り返した。
「変な名前の施設だな。」
「そう言われるんですが、私は大事な仕事だと思っています。もちろんまだまだフロンティアみたいなところはあるんですけど、子供が、人間を信じてもらうように、大事なところだなと思って。」
「確かに、保育園と一緒で需要は多いけれど、やってる人間の質が悪いことで有名な事業だな。」
杉ちゃんの言う通り、有能な人材は非常に少なく、離職がとても多いという分野だった。それにまだ日本では、発展途上国並に遅れている分野でもある。
「だからあたしたちは、子どもたちと一緒に、なにかしてくれる人たちを切実に求めています。年齢や、境遇は何でもいいから、子どもたちの話し相手になったり、本を読んだり、一緒にお弾きして遊んでくれる人です。ボランティアと言う形になってしまいますけど、あたしたちは、いつも人が足りなくて、困ってるんです。」
多香子さんは、やっと本音を話し始めた。
「それなら、私がお手伝いしましょうか?なにか役に立てるかどうかわからないですけど、子どもたちの話を聞くことくらいなら出来るわ。」
不意に聡美さんが言った。
「それに私も、今仕事をしていなくて生きがいがないので、ボランティアでも、楽しく働ければそれでいいので。」
「本当ですか?来てくださいます?」
多香子さんが更に嬉しそうな顔になる。
「誰か、有名な政治家が、子供は国の宝だといったことがある。教育者とか政治家ってあまり好きじゃないけど、でも手伝わなきゃいけないことはわかる。それにやっぱり、子供がはしゃいでいるような世の中でないと面白くないよね。それなら、僕も手伝うよ。」
いつもならこういう分野は好きではない杉ちゃんも、何故か多香子さんの話に賛成してくれたようだ。そんなわけでホイホイと話は決まり、杉ちゃんと聡美さんが、ネバーランドと呼ばれている、児童館を訪問することになった。
訪問する日、杉ちゃんと聡美さんは、多香子さんが用意してくれた車で、その建物へ向かった。しかし、その建物は、空想上の大きな島でも無ければ、有名人の豪邸でもなく、ただ、やや大きなだけの家で、全く施設という感じはない、ただの個人の家であった。玄関先に小さな木の看板で、「ネバーランド」という看板を掲げているだけである。
「この施設は誰が何をするかとかそんな決まりは無いんです。ただ、子どもたちは、好きなことをしていい。学校の宿題をしてもいいし、自主勉強をしてもいいし。ただ、テレビゲームと漫画はだめですけれど、好きなことをして、遊んでもいいことになっています。」
多香子さんがそう言って、ネバーランドと呼ばれる施設の入り口のドアを開けた。すると、いきなりドドドっと、一人の小さな男の子が、多香子さんのもとに駆け寄ってきた。
「おばさんおかえりなさい!」
というその男の子は、ちょっと落ち着きがなく、早口であるところから、なにか障害のようなものがあるのかもしれなかった。
部屋の中には、中央に丸いテーブルがあって、そこに三人の女の子たちが、勉強したり絵を描いたり、本を読んでいるなど、思い思いに好きなことをしている。テレビゲームとか、スマートフォンをいじったり、漫画を読んでいる子は全くいない。本箱の近くに一人でぽつんと座り込んで、本を読んでいる小さな男の子が気になった。一人ぼっちにならないように配慮しているのだろうか、職員と思われる男性が、一人書物をしながら、そばに着いていた。何故かその人は、端正な顔立ちをしていて、上品な感じの人であったけど、左手がなかった。
「今日は、みんなとお話をしてくれるおじさんと、おばさんが来てくれたのよ。えーとお名前は。」
多香子さんがそう言うと、
「名前は影山杉三で、杉ちゃんって呼んでね。こっちは、親友の、植松聡美さん。よろしくな。」
杉ちゃんがそう自己紹介をした。するとさっきの積極的というか。落ち着きのない少年が、
「僕は武井宗男だよ。よろしくね。」
と名乗ったため、この少年が武井宗男という名前であることがわかった。
「はい、よろしくね。宗男くん。」
と、杉ちゃんが言うと、早くも武井くんは、杉ちゃんに興味を持ってくれたらしい。
「おじさんをどうして蜘蛛の巣みたいな格好をしているの?」
いきなりそう聞いてくるのである。
「おじさんは、着物を作るのが仕事だから、いつも着物を着ているんだよ。それにこれは、麻の葉という柄で、蜘蛛の巣じゃないよ。」
杉ちゃんが答えると、武井くんは、とてもにこやかなかおをして、
「本当?じゃあ、僕にも着物を作ってくれる?僕も着物が着られるの?」
なんて聞くのだった。
「おう、布さえあれば、着物は作れるよ。僕、和裁屋だからね。」
杉ちゃんがにこやかに言うと、武井くんはとてもうれしそうな顔をした。
「じゃあ、僕にも一枚着物を作ってください。」
「わかりました。じゃあ、寸法を測らせてもらうか。お前さんの身長だと、四つ身がいいな。よし、お前さんは今何歳だ?」
杉ちゃんが武井くんに尋ねると、武井くんは、六歳と答えた。
「よし。わかったわかった。次に訪問するときは、お前さんに着物を作ってあげるからな。楽しみに待ってろ。」
と、杉ちゃんが言うと、武井くんはやったと言いながら跳ね回った。多香子さんが、
「武井くん落ち着きなさい。」
と言っても、効果なしだったところを見ると、やっぱり、多動というかそんなものがある気がする。一方、植松聡美さんの方は、三人の女の子たちに、話を聞かせてくれとせがまれて、仕方なく、本箱に置いてあった、絵本を朗読してあげていた。どうやらここの子どもたちは、お客さんがとても好きらしい。
「おじさん、きもの着て暑くないの?」
武井くんに言われて杉ちゃんは、
「ああ、暑くないよ。着物はね、体に触れるところが意外に少ないから、暑いように見えるけど、涼しいんだよ。」
と、答えた。更に武井くんは、
「麻の葉ってなあに?」
と聞いてくるので、
「麻の葉というのは、日本で代表的な吉祥文様で、縁起のいい柄と言われているんだ。意味は、無限の可能性という意味があるんだよ。だから、子供や若い人が、健やかに成長するようにっていう意味で若い人に使うんだよ。」
と説明をしていた。
「そうなんだね。じゃあ、僕も麻の葉の着物を着られるの?」
「ウン。お前さんはまだ六歳だからぴったりだよ。」
すぐに質問をしてくる武井くんは、杉ちゃんの着ている着物と言うものを初めて見たのかもしれなかった。小さな子どもなので、親が着物を着て言る姿も見たこともないのかもしれなかった。
「おじさん、ぜひ麻の葉の着物を作って!よろしくね!」
犬みたいに、杉ちゃんに飛びつく武井くんのそばに、あの片腕の職員がやってきて、
「武井くん、もうそれまでにしなさい。」
と優しく言った。確かに、言い方は優しいのだが、ちょっとここで止めてしまうのは、可哀想な気がする。
「ああ、止めなくていいんだよ。着物というものを初めてみたんだったら、気持ちがそっちへ行くのは当たり前だよ。だから、何でも聞いてくれていいよ。」
杉ちゃんはそういったが、
「いえ、そういうことも教えていかないと、武井くんは覚えてくれませんから。」
と、彼は言った。武井くんは、その顔に、嫌そうな顔をして、
「聞きたいことはまだいっぱいあるのに。」
と、小さい声で言った。
「ほら、本人も、まだ聞きたいことがあるという。それでは、気が済むまで、話させてやれや。」
杉ちゃんがそういうと、
「いえ、いくら発達障害があると言ってもそれが、特権意識を生じさせるようなことになってしまってはいけません。武井くんにも、ちゃんと節度を保って、人に接することを覚えてもらわなくちゃ。それはこういうところから覚えさせなければ。」
「お前さんは何者だ?」
彼がそう言うので、杉ちゃんはすぐに言った。
「何者だって、、、。何もありませんけど。」
「そんなことはわかってるよ。でも、そういういい顔してさ、いかにも紳士的にやってるけどさ。なんかやってることは、武井くんがせっかく質問したいのをぶっ壊しているような気がするんだけど?そういう意味でお前さんは何者かと聞いている。ここの職員か?それとも外部からきたのか?」
杉ちゃんに言われて、片腕の男性は、
「ええ、僕は富沢と言います。名前は富沢淳。職業は医師で、ここで子供さんたちの健康を管理するのが仕事です。」
と答えた。
「はあ、医者にしては、左手がないんだね。両手がなくて、医者の業務が勤まるか?」
杉ちゃんが言うと、
「はい。正確には、児童精神科の医師です。」
と、富沢と名乗った片腕の男性は答えた。
「へええ、そうか。なんかそれにしては貫禄がなくて、頼りなさそうに見えるけど?上辺では一流の大学出て、でも、本当は、何一つ頼りない男の様に見える。どっかのファンタジーの悪役にそっくり。よし、これからはお前さんのことをフックと呼ぼう。」
杉ちゃんにそう言われて、富沢という男性は、嫌そうな顔もしないで、こう答えるのである。
「ええ、何でも好きなあだ名を着けてくださって結構です。細かいことは一切気にしないので。色々、おかしなあだ名を付けられてきましたが、そういう、ファンタジー映画のキャラクターならまだいいほうです。」
「はあ、ますます強そうで、実は弱そうに見える男だな。残念ながら、ここにはお前さんの最大の敵である、チクタクワニはいないよ。だから、心ゆくまで、お前さんと仲良くさせてもらう。僕のことは、杉ちゃんとよんでね。よろしくな、フック。」
「はい、わかりました。」
フックと呼ばれた男性は、杉ちゃんに頭を下げるのであった。
「こちらこそよろしくね。」
「まあ、富沢さんが、そんなあだ名を付けられるとは思わなかったわ。」
不意に多香子さんが、二人に向かってそういった。それと同時に武井くんが、
「杉ちゃん、本当に僕の着物を作ってくれる?」
という。つまり先程の雰囲気を読めなかったのだろう。
「おう、わかったよ。和裁屋だもん、ちゃんと作りますよ。楽しみに待ってな。」
杉ちゃんが、にこやかに笑って武井くんにそう言うと、
「杉三さんっていいましたよね?あの、失礼ですが、大人の冗談というか、社交辞令は辞めていただけますか?彼は、そういう事が通じる子供ではありません。」
フックが杉ちゃんの話に割ってはいった。杉ちゃんはカラカラと笑って、
「わかってるよ。もう、和裁屋だもん、子供さんの着物なんて直ぐ作れますよ!」
と言って対抗した。
「そうはいっても。」
「馬鹿野郎。着物は消滅してません。この着物も、僕が作りました。そうだ、手始めにお前さんにアドバイスしてやる。着物に紐を縫い付けて、ガウンみたいに着れば、片腕でも着られます!お前さんは、片腕だから、着物のことなんてわからないなんて言うかもしれないけどさ、意外に、着物はきやすいもんだぜ。ぜひ、トライしてみてくれ。」
「馬鹿野郎はどっちですか。大人の悪い冗談で、子供がどれだけ傷ついてるか、わかるものなんですか?そんな古き良き時代の文化にしがみついて生きているような大人は、好きではありません。生花も、邦楽も茶道も、障害のある人には何一つ楽しめません。あなた、歩けないようですけど、それで、よく日本の伝統にまつわる仕事ができますね。僕は到底無理だと思いますね。ですから、悪い冗談はよしてくれと言っているんです!」
「なんか本当に、主人公と悪役がガチンコバトルしている様に見えますね。」
杉ちゃんとフックがそう言い合っていると、植松聡美さんがそういうことを言った。
「先生、もう怒らないでください。」
本箱のそばで、本を読んでいた小さな少年が涙をこぼして泣き出してしまった。慌てて多香子さんが、大丈夫よ、誠くん、二人は怖い人じゃないわ、と優しく慰めてやっているのを見ると、なんだか多香子さんは、童話のヒロインのような儚さもあった。
「ああ、大丈夫だよ。それより、男は泣いちゃいかん。もっと強くならなきゃだめだよ。まあ、瀬戸物と瀬戸物とぶつかりっこしてしまうと、すぐ壊れちまう。どっちかが柔らかければ大丈夫。という相田みつをさんの詩もある。まあ、今回は、僕が瀬戸物でいないようにしよう。そのうち、お前さんにもわかるときが来るからな。それまで待ってるよ。はははは。」
杉ちゃんはカラカラと笑ったが、誰も、他に笑う人はいなかった。二人が話しているのを怖がって泣いてる加藤誠くん、空気を読めなくてぽかんとしている、武井宗男くん。そして、怖がって泣きそうになっている三人の女の子。それを慰めている聡美さん。今回の訪問は、正しく最悪だった。
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